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オテロ 1  作者: 裏表逆
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出会い

 「オテロ」

                                

 

 

男は恐怖していた。

 マフィアという組織に足を踏み入れた時点でこういう場面は覚悟していたはずだ。だが、想像上の危機と目の前で広がる窮地には絶望的な差異がある。

 頭の中の自分は速やかにボスと共にこの場を逃げおおせ、あわよくば敵を全滅していたはずだ。数年間、軍にいた経験からそれらを実現できる可能性はあったはずだ。だが、現実の戦況は一向に好転する気配を見せない。

「相手はたったの三人だぞ。まだ殺せねえのかッ!?」

男は理想と現実の齟齬が苛立たしい余り、四人にまで減ってしまった部下達に一喝する。

それを受けて、部下の一人が廊下の曲がり角から上半身だけ出し、向こうの曲がり角に隠れている者に軽機関銃を向けた。

だが、ようやく発砲できたのはその部下の額と心臓がそれぞれ撃ち抜かれた後だった。部下は前のめりに倒れ、無意味に壁を撃ち続ける部下の銃は持ち主がついぞ出せなかった断末魔を代弁している様にも見える。

「くそ、くそぉッ。畜生ッ」



廊下の向こうから聞こえてきた、後悔とも怒りともつかぬ男の怒声を聞いた彼は冷静に敵の情勢を読み取る。

「奴ら、もう後が無いみたいだね」

 女の様にしゃがれがない、透明感のある声が響く。

 銃弾飛び交う長い廊下。男達が弾を撃ち込んでいるT字になっている廊下の角に、たった今サプレッサーを装着したM八四で敵の一人を黙らせたその声の持ち主はいた。中肉中背の青年で、背広の上に茶色のロングコートを着ている。

「そうだろうさ。ボディーガードは、後はあの四人だけだもんな」

 廊下を挟んでもう片方の角にいる体格の大きい男が怠そうに応じた。こちらも青年とほぼ同じ出で立ちで、違いは緩んだネクタイに灰色のロングコート位。床に腰を降しているその姿は大きな岩の様にも見える。それ程に声や外見に巖の様な印象があるのだ。

「もう私が行って手早く済ませましょうか?」

 その岩の様な大男とは対象的に、声も外見も柔らかい印象のある長身の女が片手を挙げて言った。場違いとも言えるスリットの入った緑のチャイナ服を着ているのだが、彼女の発する冷え冴えた気配故か、違和感なくこの場に溶け込んでいる。

 この三人こそ、小さな島の町外れに建っている邸宅に、真正面から入り込んできた殺し屋達だった。

彼らは、顔がばれないように仮面を被っている。青年と女は、カーニバルで用いられる人の顔を模した白い仮面を着けているのだが、大男のそれは何故か日本のひょっとこの面だった。

「お前がやったらこいつの訓練にならんだろうが。……おい、あれ位なら始末できるだろ?」

 だが、大男は首を横に振って女の案を否定した後、青年の方に振り返る。

 それに対して、青年は挑戦的な笑い声を漏らしながら、コートの内側から発煙筒を取り出すと、手馴れた手付きで着火し男達の方へ放り投げた。

 スプリンクラーの様に回転しながら煙を吐き出すそれは、廊下を一瞬で白く塗りつぶす。

「野郎ッ、スモーク張りやがった!」

 煙にむせながらも悪態をつけるのは流石ヤクザ者と言える。しかし、そんな些細な発言さえ死を呼ぶ事を知らないということは、その部下はこちら側に来て日が浅かったようだ。

「ぐッ」

 罵声に導かれるように煙を裂いて飛来したナイフが、その部下の喉に突き刺さる。それが合図となったのか、残る二人の部下達は恐怖に絞り出された雄叫びと共に銃を乱射する。

「撃ちまくれぇッ。ここを破られ……た…ら」

 廊下の角に隠れていた男が銃のリロードを済ませて顔を上げると、そこには白い仮面を被った青年が立っており、硝煙立ち上る拳銃を男の額につきつけていた。

 気づけば、他の音は全て止み、残るは男だけになっていた。

 煙が覆い始めてからこの状態になるまで数秒しか経ってない。廊下を全力で走ってここまで来るだけでその時間を使うはずだが、この青年は大の男三人を殺した上で、自分を追い詰めていた。

 それを成しうる理屈を考えようとした男は唐突に散っていく思考に狼狽えたが、それは幸運でもあった。青年の技量を信じられないあまり、既に頭に風穴が空いていることにすら気づかなかったのだから。

 青年は目の前で倒れた男を踏み越え、彼らが守っていたこの邸宅の主の部屋、その扉の前で止まった。

 乱暴に両開きの扉が蹴破られる。と同時に部屋の中から数発の銃声が響いた。それは無遠慮な侵入者に対する主人からの怒りの鉄槌だった。

「なにっ!?」

だが、してやったはずの主人が部屋の中から漏らしたのは、痛恨の声。

開け放たれた扉の先にいるであろう敵を狙ったのだが、そこには誰も立っていなかった。あの侵入者には主人が待ち構えていることすら先読みされていたらしい。

驚愕した主人の隙をついた青年が扉の向こうから現れると、銃を向けて主人の持っていた拳銃を一瞬で撃ち飛ばした。

 青年は部屋に入りながら、男に銃口を向けた。

「ボスの差し金か……」

 青年に銃を向けられた男は、意外にも怯えていなかった。それがアメリカン・マフィアで高い地位にいた者の器量なのだろう。少なくとも、自分のボスの暗殺を企てる程の男ならば、この様にボスの怒りを買って、殺し屋を送り込まれることも想定していただろうから。

 ふと、青年は部屋の中をゆっくり見回すと、大人が三人は寝られそうな広いベッドに目を止めた。

 常人ならば気づかなかったろうが、熟練の殺し屋たる彼はベッドの影に隠れた人間二人分の気配を感じ取った。殺気は感じないため護衛ではない。おそらく男の妻と子供だろう。

 青年の視線に気づいたらしく、男の顔から血の気が失せていく。

 彼はその蒼い顔から男の内心を読み取った。マフィアの重鎮なれど、自らの窮地にも関わらず家族を気遣う表情をしたことに敬意を表した。

「心配するな。お前の妻と子は標的じゃあない」

 それだけ伝えると、男の反応も待たずに引き金を引いた。

 もはや手慣れた作業なのだろう。男が力無く倒れる音が聞こえたのは、青年が銃をホルスターにしまい、部屋から出た後だった。

「お疲れ様です。ピエトロ君」

 そう言って労ってくれたのは、チャイナ服を着た長身の女性だった。

「侵入から標的殺害まで二分半か。十二人の護衛を相手だから、まあまあの結果だな」

 大男も腕時計で時間を見つつ、彼を褒めてくれる。

「だが、君らがいたからこその完遂でもある。ありがとう」

 謙虚な事を言いながらも、仮面を外した青年の顔は綻んでいた。もしかすると、自らの仕事振りをこの二人から褒められるのは稀有な事なのかもしれない。

三人は廊下の先に繋がっているバルコニーに出て、そこから数人の護衛の死体が転がっている外の庭に飛び降りた。

青年は、意気揚々とコートから携帯を取り出すと、電話の相手に依頼の完了を報告した。

「さて、今回の報酬はなかなかの額だから、久々に僕が奢ろうか」

その言葉に歓声をあげる女と大男。

「マジかよ!? あれぇ? おい美鈴メイリン。遠慮ってどういう意味だっけ?」

「朝までタダ飲みするって事ですよ。伊東さん」

「が~っはっはっは。そうだったそうだった。安心しろピエトロ。今日の俺等は遠慮気味でいくから」

「『店の酒全部持ってこい』って、一度言ってみたかったんですよ」

伊東と呼ばれた大男はピエトロの背中をバンバンと叩き、美鈴と呼ばれた女性は至福の表情でうっとりと空を仰いでいる。

歯止めが効かなくなった二人を見て早々に軽率な発言を後悔するピエトロだった。

「ま、まぁ、ほどほどに頼むよ。じゃ、移動しよ……」

「ああああああああああああ、父さああああぁぁぁぁん!」

苦笑いする青年がそこまで言いかけたところで、背後の館から破裂した様な嘆き声が聞こえてきた。声からして十歳前後の少年。いかに犯罪者の父とはいえ、目の前で父親が殺されたのだ。その絶望は計りしれない。

「……俺等を許さなくていいぞ。少年」

「悲しいけど、そういう世界ですから」

少年の悲痛な声に心揺らぐことがない大男と女は、仕事人として筋金が入っている。

心から善意を取り除ける者。自らの意志とは関係なく引き金を引ける者。仲間の首を切り落とす覚悟のある者。彼らがいる世界はそういった人間の集まりだ。

それ以外の者がいたとしたら、それは近い内に死神に見入られることになる。だから、二人は少年の泣き声にその足を縫い止められた青年を渋い顔で見た。

「どうした?」

大男が、青年の肩に手を乗せながら聞く。触れられてようやく我に帰ったのか、青年はびくりと体を震わせる。

「……ああ、いや、なんでもない」

そう言うものの、青年は無意識に胸元を抑える。それは胸が苦しいのか、胃からこみ上げるものを抑えようとしてるのか。

「まあ、気分がいいものではないさ。だがその内慣れるもんだ。俺もそうだった」

バンバンと肩を叩き、大笑しながら大男は言った。

「……リュウイチ、メイリンさん。君らからはこの業界の仕事は、殺しは社会に必要であると言われてきたが、……本当に、本当にそうなのか?」

「…………ああ、そうだとも」

若干の沈黙を挟んで伊東がそう断じ、それに反論しかけたピエトロを、伊東は続く言葉で遮った。

「今回のターゲットが死んだ事で、またクソッタレの極悪人が世から消えた。それが不必要だと思えるのか? マフィア幹部のあいつが生きてたら、今後どれだけの人間が不幸になったと思う?」

「それは……そうだが」

 納得できない。

その思いがピエトロの胸中を埋め尽くしていた。

家族を想うことのできたあのターゲットは、どこにでもいる父親となんら変わりはなかった。悪事を働くから悪人というのは確かではあるが、だからといってこの世から廃絶していいものなのか? その人間を想う無実な家族もいるというのに。

「まだ、仕事を始めて一ヶ月も経ってないんですから、悩むのも仕方ないですよ」

俯いて黙り込むピエトロに、美鈴は殺し屋の肩書きを持っているとは思えない程に柔らかい笑みを浮かべながら言う。

「慣れ、ですか?」

「そうです。私達からすれば、その疑問は懐かしいものがありますよ」

 美鈴の言い分に、うんうんと頷く伊東。

 それはつまり、この胸を痛める問いを二人は克服したということか? それとも放棄したのだろうか?

「とりあえず、食事にしましょうか」

 美鈴は言うが、それは提案というよりも命令に近かった。彼女から見えない圧力を感じた青年は胸から手を降し、頭を振って悩みを払うと屋敷の駐車場まで歩き始めた。

 再び笑顔で二人と談笑を始める彼だったが、それでも先ほどまでの爽快感は得られない。

 肌の上に見えない膜を貼られた様で、自身とこの世界との間に大きなズレを感じた。噛み合っていた歯車が空回りを始めたような、曰く形容しがたい感覚が襲う。

「人殺し、か……」

 一人呟く青年は、駐車場に置いてあった赤のフェラーリ四五八を拝借すると、仲間と共に島の玄関にあたる港町へ向かった。

 

 

 晴天に恵まれた昼下がりに、ピエトロはイタリア中部の都市フィレンツェの中心に来て、憂鬱な面持ちで目の前の建物を見上げている。周囲の石造りの建物と比べると明らかに歴史の浅いビルを。

ほぼ全面をガラスに覆われた円柱型の高層ビルは四十五の階層がある。最先端の技術が取り入れられた建物だが、生き急ぐことをせず、仕事への執着があまりないこの国の国民性は彼にも根付いているらしく、とりわけその利便性と近代化に魅力を感じない。

ピエトロはあくまでもビル前の歩道を歩く通行人を装いながら、鋭い目でビル内部を観察する。エントランスから見えるフロントの状況、ボディーガードの配置、人数とその戦闘技量まで詳細を見る。

近々ここで大きな仕事があるのだ。単独で依頼をこなすのが基本の業界としては、珍しく仲間と手を組む仕事。それだけでも今回の依頼の難易度が読み取れる。

ビル内部の資料は受け取っているが、現地の下調べは欠かせない。準備の不徹底が協力者の足を引っ張ることにも繋がるし、油断して命を失うことになっては堪らない。

ビルを一周して、裏口の位置や地下駐車場の場所も確認した。ここから警察署は車で十分以上かかり、周囲にはこのビルに比肩する高さの建物は無い。そして都合の良いことに、このビルの周囲は商店街や大通りがあり、人混みにこと欠かない。

攻めるに易く、逃げるも易いビルであるとピエトロは判断し、歩を我が家へと向けた。後は夜にもう一度寄り、夜間の護衛の配置と人数に変化がないか確認すればいい。

「ふぅ……」

 見た限り、仕事の難易度はそこまで高く感じなくなったが、それでも沈鬱な気分は拭えなかった。

 昨夜、花代を自分の懐に入れて逃走した、とある犯罪組織の男を捕獲する仕事をした。捕まえるのはそれ程難しくはなかったが、問題は男が金を盗んだ理由にあった。

曰く「死にかけた恋人の治療費欲しさ」であったそうだ。あの焦り切った口調と表情は偽りではなかった。

 ピエトロは強く唇を噛む。別にそうしたところで、容赦なく男を組織に引き渡した記憶が消えるわけではないが。

 間違えている。その考えが頭から消えない。

一ヶ月前、伊東、美鈴と共にあの孤島の邸宅で暗殺依頼をこなした時、何かが狂った。

あれから、伊東と美鈴の指示で二日に一つ以上の仕事をこなしてきた。二人には、自分をこの業界に慣れさせる意図があったのだろうが、皮肉にも、それはより強い嫌悪を積み重ねるだけだった。

やはりあの時、業界で生きる上で気づいてはいけない何かに気づいてしまったのかもしれない。感じる必要のない何かを感じてしまったのかもしれない。あの二人はすぐ慣れると言ったが、到底それが真実とは思えなくなった。

ふと周囲を見回すと、自分の家をとうに通り過ぎていることに気づき、ピエトロは苦笑した。

――全く情けない――

心中でそう呟きながら、踵を返し、足が止まった。

振り向いたと同時に目に入ったそれは、彼の体を殴りつけるような衝撃を与えたのだ。

自分とは縁遠いその建物。この十八年間で一度も訪れなかった場所。

だと言うのに、ここは今の自分に最も必要であると自らの心は訴えている。

気づけば、ピエトロは歩を帰路から大きく外し、その建物に進めていた。



石の階段を登った上にあるのは厚く重々しいものながら、拒絶の色は全くない扉。

それを開けて中に入ると、途端に外の世界とは隔絶され荘厳な印象を受けてしまうのは、やはりそこが神の御家たる所以だろう。

礼拝堂の奥から祈りを捧げる信徒達を見下ろしている主を仰ぎ、神父の説法を聞くために整然と並べられた長い信徒席は右と左に二十四脚あり、列を成している。この教会の外見はアテナイのヘーファイストス神殿に似て地味な印象なのだが、中は寒気がするほど壮大で、壁に施されたゴシック調の彫刻が厳格な雰囲気で見る者を包み、丸天井に描かれている天へと昇る人間達を見守る神々や、天使達が戯れている絵が温かい抱擁感を与えてくれる。

彼は、教会に入って一番手前の右側にある長椅子に腰かけた。

 堂中には、修道女や神父と楽しそうに話す人々もいれば、ただただ祈る者達もいる。

彼は宗教とは縁遠いので、とりわけ教義には関心がないし、細かい作法も知らない。だから彼は後者に倣って両手を組み、目を瞑った。

そして、半ば無意識に昨夜自分が犯した罪を懺悔し始めた。

あの男がどうなったのかは想像に難くない。となれば、その恋人とやらも助かることはないだろう。

 組織を裏切ったあの男が悪いのか、他者を救おうとした男を死に追いやった自分が悪いのか。

 答えは出ないが、一つだけ分かったことがある。

業界の血塗られた仕事が、伊東が言った様に不可欠なものではないということだ。是非が生まれる時点で、その命題は複数の解釈を生む。完全とは程遠いということではないか。

 ならば、あの男は自分の解釈に従い、死ぬべき人間ではなかったとも取れる。

 もっとも、とうに手遅れだ。既にあの男は裏社会の解釈によって命を断たれただろう。

それに、自分がそう思ったところでどうだというのか? 一個人の解釈などこの巨大な業界の前には塵芥も同然だ。踏み潰される以前に、足を上げた風圧で死に至る程矮小なものでしかない。

結局は、今後も自分の解釈を押し殺して業界に従うしかないのか。

「何かお悩みでも?」

ゆっくり近づいてくる足音と、自分の中の穢れを吸い出してくれるような美しい声に反応して目を開ける。と、ピエトロはそこで初めて、祈りのために組んでいた両手がいつの間にか頭を抱えていることに気づいた。おそらく、そんな姿を見かねられたのだろう。

「…………」

顔を上げると、目の前には漆黒の修道服に黒いベールをかぶり、手首から金色の十字架をさげた典型的な修道女が立っていた。

芸術家によって生み出された美を結集した石像がそのまま肉を持ったような、完成された美貌を持つ女性。

年はおそらく自分と同じ十八歳だろう。髪の色はベールで隠れ不明。見る者を深く受け入れるような蒼い瞳。自分より他者を優先するタイプで、快活だが感受性は強い性格。

その美しい表情は優しい母性を湛え、物静かな佇まいからは全てを受け入れる寛容さが見て取れ、両手の指を絡めた祈りの姿勢は清澄な空気を纏っている。

「あ、その、辛そうなお姿をされていましたので、気になりまして」

彼が心を見透かす様な鋭い目で彼女を貫いたせいだ。シスターが気押されたように、慌てて付け加えてくる。

彼の悪い癖だ。殺し屋稼業という、命を奪い、奪われる過酷な世界に身を浸しているため、職業柄、初対面の相手を即座に分析する癖がついており、どうしても睨みの効いた顔をしてしまうのだ。

「いえ、特に悩みはありませんよ」

ニコリと、うってかわった笑みを作った。

だが、シスターは膝をつき、彼の手を自らの両手で優しく包みながら言った。

「いいえ、それは嘘です。あなたは救いを求めている。だからこそ、、ここにいるのでしょう? 出過ぎたことを致しますが、私で良ければ相談に乗りますよ?」

打ち明けたい。そう思わせる程にシスターの言葉には慈悲の念が籠っていた。

逃げられない。そう感じさせる程にその声には秘め物を引っ張り出されるような強い引力があった。

 ピエトロは項垂れる形で彼女から視線を外した。

「……実は、今の仕事が嫌いなんですよ」

彼女の包容力に負けた。

「お仕事? どんなお仕事をされているのですか?」

「それは言えません」

流石に真実を言う訳にもいかず、かといって嘘をつくのも憚れたため率直に言うと、何やら思案を始めるシスター。

「失敗が多いのですか?」

 首を横に振るピエトロ。

「……では、そんな仕事は辞めてしまうべきです。仕事上の失敗に対する負い目が負担なのでしたらまだしも、その仕事自体に嫌悪を抱くのでは、心に毒ですよ」

きっぱりと言った。

心に毒とはなかなか的を射ている。

「その仕事を辞められないとしたらどうします?」

一気に難題となったその問いに、流石の彼女も答えに詰まった。

「……自分を変えるしかないですね」

「自分を?」

「ええ。仕事を辞められないなら、今の自分を辞めるしかないです。お仕事を嫌うのではなく、好いて自分の一部とするのです。そうすれば、毒も栄養に変わります」

確かにその通りではある。対立しているものが調和するにはどちらかが折れるか妥協するしかない。しかし、この巨大な業界に妥協はありえず、折れもしない。だから自分を変える。それも一つの手段だろう。

だが――

「残念ながら、それはダメなんですよ。その仕事を認める訳にはいかないんです。それだけは決して」

例え、その仕事で得た金で生活しているとしても。

「…………」

シスターは八方塞がりになって、とうとう何も言えなくなった。

「すみません。色々無理を言ってしまって。心配してくれてありがとうございます」

彼はそう言ってゆらりと立ちあがり、教会を出ようとする。思った以上に親身になってくれたのが却って辛かった。これ以上自分のために余計な心労をかけさせたくはない。

「あの、待って下さい。……また、いらして頂けますか?」

「え、ええ。次の仕事が終わったら、おそらく」

今度はシスターの突然の言葉に少し気押されながら振り返る。ここに来て初めて知ったが、懺悔は自分の心の内に溜まった罪悪感を和らげてくれるらしい。

間違いなく、心はこの場所を求める。

「あなたの心、必ずお救いします。ですので絶対にいらして下さい」

その声に見えない圧力を乗せて宣言するシスター。幾度となくこうして人々を救ってきたのだろう。その声と柔らかな笑みには、自信と自らの労働に対する誇りが感じられる。

この迷いを打開できない自分が一人で悩んでいても、負のスパイラルに陥るだけだろう。ならば、他者の助言を受けて解決策を見出す方が賢明だ。

「分かりました。必ず来ましょう」

「ありがとうございます。あの、お名前をお聞きしても?」

 自分の名を一般人に教えるのは危険とも思ったが、教会は閉鎖的な空間だし、ここには業界の人間も来るまいと判断した。

「ピエトロ=べレッサさんですね。私はマリアです。マリア=フォルトゥナーテ」

その名と彼女の性格から、途端に聖母マリアが頭に浮かんだ。

なるほど、確かに慈悲深い彼女にピッタリの名前である。自分の名もかの聖ペテロの名が崩れたものと聞くが、それにしてはずいぶんと道を外している。

そんなことを考えていたピエトロの体は、唐突にぴくりと反応した。

「ど、どうか、なさいましたか?」

シスターマリアがおずおずと聞いてくる。

彼が一転して射すくめる様な視線になって、礼拝堂内を見回し始めたからだ。

「……いえ、何でもありません」

そう言いながらも、ピエトロは僅かな変化すら見逃さぬ様に堂内を見回す。

――今、確かに――

何故、本来ここでは感じるはずのないそれが発生したのか? 生憎今は人が多く、いくつもの声が響いている上、それはすぐに消えてしまったため、発生源の特定はできなかった。

 いずれにせよ、長いは無用だろう。

 ピエトロは緊張を解くと、今度こそ扉を開けながら言った。

「さようなら、シスターマリア。またいずれ」

「はい。あなたに神の御加護がありますように」

そう言って両手の指を絡ませて祈る修道女に対して、ピエトロは瑞瑞しい笑顔を送って教会を出た。

 


彼は、金髪の青年が礼拝堂から出て行ったのを確認してから、石柱の影から姿を現した。

――あいつだ。間違いない――

何故、奴だと分かった時にしかけなかったのかと自分を責めたが、やはり彼への恐れがあったからだろう。

もっとも、それで正解だったと言える。自分の殺意に敏感に反応したあの鋭さを考えると、下手な接近ではむしろ返り討ちにあっていたはずだ。

――そもそも奴はこんな所に何しに来た?――

そう思い立ったら、彼が尋ねるべき人物は決まっている。

「オイ、聞きタイんダが……」

「? ……は、はい、何でしょう?」

彼に話しかけられた修道女は、一瞬遅れて返事をし、あいつにも見せていた天使の様な笑みをしてきた。

――どうせこの国の言葉はまだ上手く話せない。たどたどしくて悪かったな――

「さっき、キンパツの男ト、ナニ話してタ?」

 強気な口調で言ったが、気弱そうな見かけによらず答えは返ってこなかった。人のプライバシーに関わるから話せないときた。

――おしゃべりなくして生きてけないワップスの分際で気取りやがって――

あいつが最初ボソボソとこの修道女に話していた事を知りたかったのだが。

 これ以上の質問は無意味と判断した彼は礼拝堂を出た。唐突に話しかけられ、唐突に去ったものだから気になったのだろう。修道女が何やら言ってくるが、無視して乱暴に扉を閉めた。

 奴の後を追いたいところだが、先のように気配を察知されては困る。幸いにもこちらの顔はまだ割れてないし、あいつの尾行は部下に任せれば良い。

 それに、重要な情報はあの時本人の口からこの耳に届いた。

「ピエトロ=べレッサか」

そう呟くと、彼は狂気じみた笑みを浮かべながら去っていった。



片側を広大なネサリッタ庭園に、反対を住宅の列に挟まれた小さな通りに彼の家はある。

サイコロの四の目を通りに対して向け、その上に茶色の屋根を乗せただけと言っていい単純な外見の家だ。四の目の左下に当たる点の部分に玄関の扉があり、残り三つの点部分には、窓が設置されている。

この型の家屋は珍しくなく、人の目を引く面白さも華やかさもない。だが、だからこそ、そこに裏社会の人間が住んでいるなど誰も思わない。

ピエトロは、我が家が見えてくると、コートのポケットから鍵を取り出しながら玄関の前に立つ。

「んッ!?」

だが、そこで彼は驚愕する。鍵穴に目を向けると、扉は僅かに空いていた。しかもその隙間からは何やら焦げくさい臭いも滲み出ている。

――火事? 侵入者による放火か?――

業界の仕事というのは、ほとんどが殺しの代行業であるため、恨みを買うことは往々にしてありうるし、今までにも四回暗殺されかけたことがある。おそらく、これもその類だ。

いつもは、ふいを突いてくるから犯人の特定はできないが、この侵入者には心当たりがある。

先ほど教会の中から小さな殺気を感じたのだ。熟練の殺し屋のものではないものの、威嚇でも脅す意味合いでもない、純粋に殺したいという欲望を自分に向けられた。

おそらくは、その者が先回りして自宅に踏み入ったのだろう。もしくはそいつの仲間が。

ピエトロは、気配を押し殺し、左脇に隠してある拳銃のグリップを握りながら、ゆっくりと扉を空け――

「ぬああああああああああッ」

 家の中から響いてきた野太い声を聞いて、長く息を吐いた。それは安堵故なのか、単に呆れているのか。

 緊張を一気に解いて家に入り、鍵を閉めてから臭いの発生源であるリビングに向かった。

 この家のリビングは、美食家だったピエトロの父の嗜好が反映されているため、キッチンは部屋の四分の一近くを占めており、曲線を描くキッチンカウンターに囲まれている。

他にはワインのボトルが整然と置かれた棚、座ると首よりも背もたれが高いソファが四脚置かれており、そのソファに囲まれる様に楕円形のテーブルがある。奥には電子ピアノ、液晶テレビや雑多な物が置かれた背の高い棚がある。飾り気の無い部屋だが、それ故に暖炉の上に置かれている、やたらと大きな幽霊船の模型が目立つ。

 そして、その自慢のキッチンの中で都会に出てきた熊の様にあわてふためく、大男の姿があった。

「ぬっく、うおお……ん? おお、帰ってきたか。ようこそ」

「ようこそじゃないだろ、リュウイチッ。勝手に人ん家に入って何してる?」

「いやなに、散歩ついでにお前の好物でも作ってやろうかと思い立った訳なんだ」

 不法侵入が散歩の内とは恐れ入る。

彼は見かけによらず、キーピックという繊細な技術を持っており、時たまこうして侵入している。しかも、これで元国際警察官だったというんだからもうどうしようもない。

 そして、料理と彼は言ったが何をどうすればそうなるのか、伊東が握るフライパンの中は爆心地と言っても差し支えない。加熱に加熱を重ね、具材はただの炭と成り果てている。ピエトロの好物と言えば、中華とイタリアンだが、どちらを作っていたのやら。

 そして、部屋の中を見回したピエトロはキッチンの広さを呪った。このリビングは、料理の心得の無い者が使うと、途端に部屋の大半がスペインのトマト祭りに近い、叩き潰された具材が床を覆う惨状となってしまうようだ。まあ、伊東に限った話かもしれないが。

「が~っはっはっはっは。うむ、やはり料理は運だな。……久しぶりだな、ピエトロ。早一ヶ月ぶりになるかな?」

 伊東が大笑しながらフライパンにこびりついた元食材をゴミ箱に落とす。

 前半のとんでもない解釈は深く考えないようにしながら、ピエトロは応じた。

「正確には三五日ぶりだよ。ずいぶんと長く出ていたようだが、どこに行っていたんだ?」

キッチンから出て、ソファにどっかりと座りながら、子供の様に笑う伊東に、ピエトロも明るく笑い返す。

「……あ~、まあ、ちょっとな」

 曖昧な返事だ。それだけでピエトロは伊東が詮索を嫌がっている事が読み取れたので、それ以上の言及はしない。

「お前はどこに行ってたんだ? 真昼間に外に出るなんざ珍しいじゃねえか。……あっ、お前まさか、夜まで待ちきれない余り白昼堂々女の尻を追い回しそれに手を触れあまつさえ人気の無いところまで行って押し倒……」

「妄想を止めろッ。変態扱いしないでくれ」

 全力で否定するが、伊東は豪快に笑うだけだ。

殺し屋業界でも名が売れていたピエトロの父の友人ということもあり、幼少期から伊東とは頻繁に会っていたため、彼の冗談には慣れているのだが、どうしても反応してしまう。父の死後、美鈴と共に世話してくれた人だから、無碍にしたくないという思いも多分にある。

ちなみに、伊東の年齢が四十代で、その道の先輩であるにも関わらず、ピエトロが彼を呼び捨てにしているのは、伊東自身が『お前の親父に似た顔が、俺に敬語使うのが不気味だ』という理由から来ている。

そういえば、彼の言い分もあながち間違いではなかった。

「近々そこのアンティーカ・ビルでマフィアの掃討作戦があって、それの下見だ。後、尻は触ってないが、確かに美人を一人見つけた」

「馬鹿だな、会ったら早々に触るもんなんだよ。それで?……」

 その意見には頷けないが、彼は得意気に語った。

「さっき、サン・カンチアーナ教会に行ってきてね。そこの修道女だよ。お前でも唸る程の美人だったぞ? それに、教会ってのはなかなか良い気晴らしになる。今度一緒に行かない……か? ……?」

ピエトロは、教会で出会ったシスターマリアの事を自慢気に話した。内容的にも女好きの伊東が喜ぶ要素もある良い土産話だったはずだ。だが、伊東の表情はだんだんと消えていき、その予期せぬ反応にピエトロの声も次第に小さくなっていった。

「教会ね。良い事とは言えねえな。俺らを救うのは金と銃だ。神でも修道女でもない。奴らはただ俺等を餌にするだけだぞ?」

先とはうって変わって鋼鉄の様に硬い表情をする伊東。しかし、伊東が喫煙のために、取り出したジッポーライターには十字架のレリーフが入っているあたり、説得力に欠ける。

「それに、気晴らしってのはなんだ? まさか、お前は今の生活が不満なのか?」

 全否定された。何より、ピエトロはあの心優しい修道女を侮辱されたのは流石に腹が立った。

「……ああ、不満だ。リュウイチ、僕はお前達が言う様に、この業界が必要なものだとは思えない」

「ピエトロ。それは……」

「僕が業界で仕事を始めた時に、非道な行いに迷いを抱かない様に君らは業界が正しいものであると僕に言い聞かせ続けてきた。違うか? それは業界が悪であると認めているようなものだよな?」

 ピエトロは、伊東の言葉を遮って続けた。

 もちろん、それはピエトロを思いやったが故の行為だ。その事を恨むつもりはないが、彼が迷いを持ってしまった原因がそこにあるのも確かだ。

 伊東と美鈴と、そして彼の父は幼いピエトロに過酷に過ぎる戦闘訓練をさせてきた。業界の常識、裏社会での心得、非情な思考を叩き込んできた。だが、悪人の道理を教え込むにしては、この教育者達はあまりにも人道的過ぎた。日々の生活で虐待等をされたことは一度もなかったし、訓練は厳しかったが全ては将来業界で生き抜くためのものだ。ならばそこにあったのは紛れもない愛だろう。

善の心を持つ教育者達に教わった冷酷な判断と訓練は、愛を知る心と、他を顧みない肉体という二面性を作り出してしまっていた。

「……業界が悪であると分かったところで、お前はどうするつもりだ?」

 伊東が紫煙と共にその言葉を吐き出した。

「それは……」

 どうしようもない。

もはや自分はこうなってしまった。十五年もの間刷り込まれた常識が、簡単に修正できるはずもない。そして、業界を否定しても無駄であるのは、先ほど教会で悟った。

「お前が業界の一員として登録されて二ヶ月。……まだ裏社会には慣れねえか?」

「いや、逆だよ。最初は違和感はなかったんだ。覚えているか? 一ヶ月前にメイリンさんとお前と一緒にやったアメリカン・マフィアの幹部暗殺の依頼。あれからだよ、嫌になったのは。最初は悪人共を殺すことに罪悪感はなかったんだ。でも、あの仕事以来……殺そうとする度に気持ちに整理が必要になってきた」

「…………」

伊東はその告白をどう感じたのか。煙草の煙を天井に向けて吹きかける。

「……リュウイチ。僕はあっち側で生きたい。この業界から抜けられないかな?」

「無理だな。お前はこっちの業界で親父同様にかなりの有名人になっちまってんだ。もう表社会には戻れないさ」

凄腕の殺し屋だった父の子供だったために、ピエトロの名は二ヶ月前に業界に入ったと同時にあらゆる関係者の耳に知れ渡った。そのせいで、業界に入って間もない頃から難度の高い依頼を多く頼まれたものだ。それは誘拐、殺人、護衛、爆破工作等と多岐にわたる。

「……父さんは、何で僕をこんな風に育てたのかな?」

「たぶん、それしかお前に残せなかったからだろ。あいつも、あいつの親父さんからこっち側のことしか教わらなかったって聞いたことがあるしな」

「あ、後、女の悦ばせ方もだった」と伊東は、手をぽんと叩いて余計な付け足しをする。

つまり、彼は伝統ある殺し屋一家の三代目ということだ。よくもこんな稼業で何十年も生きてこれたものだと、感心する以前にピエトロは呆れてしまう。

「……それとな。これ以上教会に行ったり、表の人間に会うのはやめとけ」

「な、何故ッ!?」

伊東の落ちついた発言に対して、彼は思ったより大きな声で応じてしまう。

「お前は、表社会に触れれば触れる程、それへの憧れを強くするようだからな。お前みたいに切替えが下手くそな奴が中途半端な生き方をするのは危険なんだよ」

それこそが、伊東達がピエトロを業界に馴染ませたがる最大の理由なのだろう。

「…………僕は、大丈夫だ」

「馬鹿野郎。業界の決まりを忘れたか? 裏切り者は即ぶち殺しだ。教会のシスターと親しくしてたなんて話が出てみろ。怪しまれてお仲間共に撃ち殺されるかもしれんぞ?」

今まで業界から抜けるなどとは考えたこともなかったから忘れていた。

裏切り者には死。

これが業界の唯一にして最大の決まりだった。

元々、第二次大戦終結後、戦闘を好む気性の荒い兵達が、自らの闘争欲を満たすために地下に潜ってできた集まりがこの業界の始まりだった。元兵隊や訳ありの傭兵達が殺しの代行をし始めたのを前身にして、徐々に闇医者、薬の売人、密輸をする運び屋などの、表の社会には顔を出せないような人間が集まって形になっていった。

そのため、戦闘を求めている者同士の繋がりは希薄であるが、利益を求めてこの業界にいる者同士は互いに協力関係であることが多く、警察機関に自分達の隠れ家や商売の闇ルートが芋づる式に発見されることのないよう、秘匿が第一とされ、業界内で怪しい行動をした者には監視がつき、裏切りを画策していると判断されたら殺される。

ちなみに、情報が流れるルートを最小限にする為、二十年程前から裏社会たる業界と、表社会で暮らす一般人とを繋ぐ仲介人があちこちで現れたため、今ではその仲介人を経由するのが主流となっており、表の人間からの犯罪依頼が爆発的に増えている。

「……こんな世界だからな。裏でも表でも親しい仲の人間は少ない方がお前のためだ」

どこか遠くを見るような目をしながら、珍しく厳かに忠告する伊東。

「…………そうか」

ピエトロは視線を落とした。

伊東は、徹底して自分の事を考えて言ってくれている。しかし、それでも伊東の提案は彼にとっては残酷すぎた。

「おいおい、ダチなら俺がいるだろうが。全てにおいてお前に勝り、最強の殺し屋の俺様がよ。……あ~、よし、分かった。今日の晩飯は俺が奢ってやるよ。だから、そんな顔をするな。これじゃあまるで俺が悪人みてぇじゃねぇか」

ピエトロの絶望を察したらしく、ずかずかと彼に歩み寄って、泣いてしまった子供を必死にあやす様な慌て方をする伊東。

「ふ、ふふ」

大柄な伊東がそんな態度を取るのを見ていると、熊が涙目の兎を前にあたふたとしている様で面白い。こんな外見の人間に癒されるというのはかなり珍しいのではなかろうか。

「分かった。教会に行くのは控えるよ」

その言葉を出すために震えた喉が、針千本飲んだ様に痛む。

「ああ、それがいい。裏で生きる人間には、表は眩しすぎるんだよ」

「……そう言えば、ここに来たのは何も炭を食べさせるためだけじゃないんだろう?」

「当たりだ。実はちょっと依頼を頼みたい。俺に任された仕事だが、忙しいんでお前にやってもらいてえんだ。

最近、そこらのチンピラを使ってわざと事件を起こしては、自分で解決して手柄をあげてる汚ねえ刑事がいるんだが、そいつが気にいらねえって奴からの依頼だ。標的の名前はエンリコ・モンタナリ。

後、嫌味を言うなよ。俺は専ら食う方が専門なんだから」

「…………」

この手の依頼は多い。巨大な犯罪組織が裏で支配する国ではよくあることだ。

大きな組織程、政府関係者、警察組織や特定の企業の重鎮に賄賂を送っては犯罪を黙認させ、監視の目を逸す。そのため真っ当に職務を行うよりも、犯罪組織と関係を持って賄賂を受け取った方が特をするのが現状なのだ。

そして、裏で多額の賄賂を受け取っている者を妬み、その不正を憎むあまりに、殺し屋に殺害を求めてくる一般人は思いの外多い。殺害の依頼をした時点で自らも立派な犯罪者になるのだが、自らの手を血で染めない依頼者達にはその自覚がないことが大半だ。

そして、犯罪に抵抗の無いチンピラは、ほぼ犯罪組織の末端だ。おそらくその刑事も、裏で犯罪組織に何かしらの助力をしているのだろう。その見返りに地位を求めた結果が、犯罪組織からのマッチポンプによる協力という訳だ。

「そこまで調べたのなら、自分で決定的な証拠まで見つければいいのにな」

そうすれば、真っ当に仕事をしてきたキャリアに傷がつくことはなかっただろうに。

「それが掴めねえから、俺等に頼んだんだろ。ここに標的の住所と写真、行動パターン、それとクライアントの連絡先を置いとくぞ。見て覚えたらすぐ処分しろ」

伊東はテーブルにポケットから取り出した紙切れと写真を置く。

「分かった。正直、やりたくはないけどね」

「……『慣れ』。何度も言うが、この言葉が全てを解決してくれる。俺もこっち側に来た時はだいぶまいったもんだが、今ではこの通りさ。お前だって躊躇なく殺せるぜ?」

お決まりの無邪気な笑いさえ続かなければ、それなりに恐怖を感じたかもしれない。伊東もこちらの業界では、確かな実力を持っているからだ。

「おいおい、そんなに簡単には殺されないぞ、僕は。お前から教わったカラテとジュウドウで返り討ちにしてやるさ」

挑むような顔を作って、そう応じるピエトロ。

「ふん。……おっと、いかんいかん。俺もこれから仕事の準備があるんだ。晩飯を奢ってやるのは今度になっちまうが、許せ」

伊東はにやりと笑った後でそう告げると、テーブルに置いてあった灰皿に煙草を押し付けてから、のそのそと玄関に向かい始める。ピエトロは彼を見送るべく後を追った。

「じゃあな。また、近い内に来るぞ。が~っはっはっは」

何が面白いのか伊東は大笑しながら帰って行った。

しかし、彼の豪快さに触れた後でも、心にこびりついた影が消える事はない。

「………すまない、リュウイチ」

伊東の気持ちを踏みにじるのは胸を痛めるが、それでもピエトロは教会での懺悔も、シスターマリアがしてくれるであろう救済もなしに己を保てる自信がなかった。

沈鬱な気分なまま、リビングに戻る。

「……せめて、片付けていって欲しかったな」

具材の切れ端やら油やらで汚れに汚れたキッチンを見ながら彼はそう思った。


 

今日の空は粘りつくような灰色で満ちていた。そのためか、街全体もどことなく活気がない。

ピエトロは今街の大通りを歩いているが、通り過ぎる人々は、ほとんどが空模様と同じ顔をしている。笑って話しているカップルも心から楽しんでいるようには見えず、出勤途中のサラリーマンは、眠たげな顔を更に緩ませながら必死に歩を進めている。

ピエトロは、表の人々の暗い雰囲気も曇りも好きではないが、今日に限り、そのことに感謝している。太陽が顔を見せていると、彼が今左手に持っているコウモリ傘が日常風景にくっきりと浮かびあがってしまうからだ。

だが、午後から雨が降るという予報のおかげで、皆一様に傘を持ってくれている。

彼の持っている傘は、現在閉じてまとめてある状態だが、これが開かれることはない。何故なら、これは傘の形をした特殊な空気銃なのだ。先端には直径二ミリ程の小さな銃口があり、極小さな毒弾を撃ち出すことができる。この毒は速効性がなく、撃たれた者の体に異常が出て、死に至るのは一日以上経過した後であるから、犯行時刻も毒を撃たれた時間も極めて特定されにくいという長所がある。

故に、今回の依頼で注意をする点としては、ターゲットを手にかける現場が、業界からすれば最も警戒すべきであり、また巨大な組織である警察署前だということだろう。

伊東の情報と昨日丸一日エンリコを観察した結果、彼は朝八時に署に出勤してくる事が分かった。しかし、その後の動きはランダムで、確実に接触できる時間は朝しかないため、ピエトロはそこを狙うつもりだった。

男が署に入るタイミングで手をかけることで、犯行時刻を可能な限り不鮮明にする。まさか、署の目の前で遅効性の殺人が行われるとは誰も思うまい。

しかし、実際、他の殺し屋達はこんなにまで念を押すことはない。

よっぽど、仕事終わりにほろ酔い気分でいるところを、後ろから刺し殺した方が簡単で手間が無い。ここまでの用心深い行動はピエトロ固有のものだ。彼は可能な限り足跡を残さない方法を好む癖があった。

(そろそろだな)

四角いコロッセオのような外観をした石造りの警察署が左手に見え始めた。腕時計を見て、時間も現在八時であると確認した。タイミングとしてはこの上なく丁度いい。後はこの人混みの中からターゲットを探し出すだけ。男は必ず警察署のエントランスに来るから、発見するのは容易い。

しかし、次の瞬間、探索に集中していたピエトロの後ろから、異質な色をしたものが通り過ぎていった。

「……ん?」

目を向けたピエトロは少々思考が停止した。

茶色のツインテールに、色とりどりの造花の花冠が乗った黒いハットを被り、りんごが描かれた黒いロングワンピースの上に、背と肩を赤い薔薇の様なラッフルが覆う真紅のバイカージャケット着て、厚底の黒ブーツを履いた小さな女の子が、左手に紫の生地にピンクの水玉が入った傘を、右手には首から提げたデジタルカメラを持ちながら、ガラガラと音を立てて滑っていた。

あの黒ブーツは、靴底にローラーが仕込まれているのだろう。それで石畳を滑るからあんな音が鳴るのだ。

この灰色の空間には強すぎる配色に、ピエトロは驚きを通り越して何故か感動を覚えた。

(流石は色の魔術師と名高い……)

ミッソーニは、独特の色使いが特徴のイタリアのファッションブランドだ。一見滅茶苦茶な配色に見えるが、見れば見るほど色彩の世界に引き込まれる様な錯覚を覚えさせる。

自分にはああいう派手な格好は一生涯できまいと苦笑しながら、再びターゲットを探す。もう少し面白い彼女を眺めていたいと思うが、今は仕事を優先しなければならない。

「わわわ、わあっ」

ローラー靴に慣れていないのだろうか。その女の子が、減速できずに彼女の前を歩いていた者にぶつかり、尻もちをついた。おかげで彼の集中はまた切れる。

「あ~あ~、全く」

ピエトロは、ぼやきながら女の子の方に向かった。殺し屋には似合わない性格がつい彼女の身を心配してしまう。体は、仕事が優先と主張しているのだが、他者への気遣いこそが第一とする心は、体の反対を押し切って彼女の元に歩みよる。

女の子に手が差し伸べられる。

「大丈夫かな、お嬢ちゃん?」

しかし、手を出したのも、そう言ったのもピエトロではなく、女の子がぶつかってしまった男性の方だった。

黒髪黒瞳で引き締まった体躯をしていて、外見年齢三十代半ばのその男は、それなりの速度でぶつかられたにも関わらず、微笑を浮かべながら、手を取って女の子を立たせてあげた。

「ご、ごめんなさ~い」

「いやいや、気をつけなよ」

彼女は、頬を少し赤らめながら謝っていた。対して、男は微笑みながらそれだけ言って、警察署のエントランスに向かい始めた。

目の前で展開されたその微笑ましい光景を、しかし、ピエトロは僅かに驚愕の色を浮かべた顔で見ていた。

(見つけた)

こんなこともあるのだなと思った。丁度目に止まった女の子がぶつかった男が、今回のターゲットだったというのはどんな偶然なのか。

(……しかし)

ともあれ、後は不自然にならぬように、さりげなくターゲットに傘の銃身を向け、引き金である傘の開閉ボタンを押し込むだけだ。

今回の仕事は時間との勝負。署内に入られる前に毒を撃ち込まねばならない。男は軽い足取りでエントランスに続く階段を上がり始めた。

だが、彼は引き金が、引けない。

(くそ、躊躇うな。たかが、女の子に親切にした位で善人というわけではないんだから)

ピエトロは、男が例え裏で悪事を行っていようと、殺す程の悪人ではないと考え始めてしまっていた。先ほど男が行ったあんな小さなものでも、善行であるが故に。

善を行う悪人を殺すことの是非を、ピエトロはまたしても断じることができなかった。

――仮にも警察署で働く人間なのだから日頃は秩序を維持しているだろう。根が汚くとも、女の子にしたように、家族や同僚には優しいのかもしれない。もしかしたら、過去殺めた者達だって、彼の知りえぬところで善行を行っていたかもしれない。――

(ダメだ。馬鹿が、馬鹿がッ。変なことは考えるなっていうのにッ)

どうあがいても頭は彼の考えたくない方向に回転し、引き金はどんどん重くなる。

男は入口の目の前にまでさしかかった。

(くそ、撃たないとッ)

撃たないと後にも響く。きっと今後も引き金が引けなくなる。ここで殺しておかないと出世のためだけに、無用な犯罪が起こり続ける。自分も業界から役立たずの烙印を押されてしまう。だから、ここで殺しておかないと――

体では分かっているのだが、そこだけ神経が断絶しているかのように、親指はピクリとも動かない。

焦った彼は両の親指で以て押し込むのだが、結果は変わらない。むしろ指は余計に動かされるのを嫌がっているようにも感じる。冗談じゃない。殺らなきゃならないというのに、肝心の引き金が――

「え?」

――彼自身拍子抜けするくらい簡単に押せた。

手元を見ると、細い可憐な指がピエトロの親指ごと引き金を押し込んでいた。

「あれ~? 簡単に押せるけど、どうしてこの傘開かないの~?」

その指は先ほどの女の子のものだった。彼女は、彼が傘を開こうと奮闘しているようにでも見えたのか、怪訝そうに彼を見てくる。

ピエトロもつられて彼女を見返す。

外見は七歳前後。綺麗に整った顔立ちは人形の様。背丈は平均以下で小さく、身長百七十五の彼の腰にも届かない。弛んだゴムのような口調ながらも、その茶色の瞳は落ち着きと知性を感じさせる。子供だと思って油断してはいけないタイプ。しかし、この顔を見ていると誰かと被る気がする。誰だろうか?

「……はっ」

初対面の相手だったので、つい分析を行ってしまった。

彼は慌ててターゲットの方を振り返る。

エンリコが背中の脇腹を手でまさぐりながら署内に入っていったのが見えて、ピエトロはほっと胸を撫で降ろす。あの特殊な弾で撃たれた者は、針で刺されたような痛みを感じるため、大抵は当たったところを気にする仕草をする。

危うかったが、かろうじて依頼はこなせたようだ。

「ねえねえ、雨降ってきてるよ~? 傘使わないの~?」

女の子は、彼のコートをちょいちょいと引っ張って気をこちらに向けようとしていて、同時に、自分の傘を開いて彼に被せようとしてくれているのだが、如何せん背が足りない。

「え? ああ、気にしてくれてありがとう。でも、この傘壊れちゃってて開かないみたいだ」

腰を落としてから、適当なことを言う。

「ふ~ん」

納得したのかどうかは不明だが、とにかく、女の子は傘を被せようとするのを止めた。

ピエトロはコートのポケットから携帯を取り出し、仕事の完了を伊東に伝えた。

ターゲットを通り過ぎざまに撃つという当初の予定からは大幅にズレてしまっている。とりあえず、ここから急いで離れるべきだろう。

しかし――

「……え~と? どうしたのかな?」

先ほどから自分を見つめ続けている女の子を捨て置くことができなかった。意図的ではないにせよ、仕事を完了させてくれた彼女を無碍に扱いたくなかったのだ。

「ん~~~? うん」

彼女は首を右に左に傾げて、何やら思案している、というより、ピエトロの反応を確認しているようだったが、次第に合点がいったのかスッキリした顔をして勝手に納得した。

「僕の顔に何かついてるかな?」

対応に困っていたピエトロは言う。

しかし、彼女は答えることはなく、ニコっと無垢な笑みを見せるなり、踵を返して再びガラガラと音を立てて去っていってしまった。

「それにしても……」

ピエトロは一人呟く。

あの女の子は存在感が妙に希薄だった。思えば、あれだけ目立つ格好をしているというのに、周囲の人は誰一人として少女を見なかったし、気配に敏感な自分でさえ、気を抜いていると見落としかねない程だった。あの子には幽霊にも似た、虚実の境界を彷徨っているイメージがあった。

「……何だったんだ、あの子は?」

そう言ってからピエトロは、雨が本格的に降り始めて、自分の茶色のコートが焦げ茶色になっていることにようやく気づいた。



荘厳にして重厚な扉を開ける。

それと共に中から吹き出てくる神の息吹は、自分の体を透過し、汚れを全て洗い流してくれる。そんな気さえしてくる。

とりわけ今日のピエトロはそれを強く感じた。

結局、彼はあの後、警察署から直接教会に向かった。傘は使えないので歩いている間はずっと雨に打たれることになってしまったが。

それというのも、雨が予報よりもかなり早く降り始めたためにある。昼から降るという話だったので、朝に依頼を済ませ、教会に行ってから昼までには帰宅する予定だったのが、見事に裏切られてしまった。

コートの端から水滴を垂らしながら、この前と同じ右列の一番手前にある長椅子に座り込んだ。祈りを済ませた人々は彼を横目でちらちら見ながら教会を後にする。大の男が全身びしょ濡れでは気になろうというものだ。

修道女達は今ここにはいない。礼拝堂の裏手から微かに歌が聴こえてくることから賛美歌の練習でもしているのだろう。

ピエトロはそんな視線も旋律にも気にすることなく両手を組んで懺悔を始めた。いや、今日に限ってはただ苦痛に耐えるためだけとも取れる。

今日、再び安易に標的を殺した事が、軽薄にすぎる行動であったと自身に糾弾する。罪悪感によって全身に痒みが走る。肌を虫に這われる方が生ぬるく感じる程のおぞましさ。

先ほどの男が脳裏に浮かぶ。邪気の無い笑み、弱き者を思いやった行為、柔らかな物腰。それら全ては、本来彼が尊び、人々にそうあれかしと願っていたことではなかったのか。

あの男が、むしろぶつかった少女を冷たく見やり、舌打ちの音を高らかに鳴らし、そのまま立ち去ってくれれば良かったのだ。そうすれば、こんなにも心が痛むことはなかったろうに。

人として正しいのに殺し屋として間違った善意。裏の人間として正しいが善人として誤りである悪行。全てを貫く矛と全てを防ぐ盾はこの世に両立できない。必ずどちらかは消えて失せるのが物の道理。

(だとすれば、僕は体が心のどちらかを失うしかない)

悪の道を選ぶのなら、自らの善なる心は捨てるしかない。残った悪徳に塗れた体は心無き人形と成り、殺し屋としての技術を遺憾なく発揮する優秀な殺戮機械となることだろう。

善の道を選ぶのなら、堕ちた体を殺すしかない。善良な魂は肉体という枷から解き放たれ、その霊魂の向かう先は天国か地獄か、はたまた――

「ダメだ。それはできない」

彼は泣き濡れた子供のように小さく呻く。

死は何よりも恐ろしい。

表の人間はきっと死んでも寂しくない。家族や友人が己の最期を看取ってくれる。死を悼んでくれる。例えこの世からいなくなってもその者がいたという事実は、生きている者の心に残り続ける。

だが、裏の人間はそうはいかない。どんな相手にも思いやりも愛も一切ない。あるのは徹底した利益追求のみ。金と保身のためなら例え古くからの友人の首でさえ、何の感慨もなく切り裂き、その頭に風穴を穿つ。

しかも、裏社会の人間の死体は基本的に残らない。警察機関はどんな死体からでも豊富な情報を得る。その死体の生まれ、使用している武器、携帯の通話記録等をこと細かに調べあげ、関連する同業者や依頼主を絞り出す。

それを防ぐために、業界には掃除を専門に動く人間がいる。戦闘能力や裏の仕事をする上での知識やコネの無い落ちこぼれが主にこの仕事をやる。

この仕事は、しくじった業界の人間の死体処理だけでなく、殺し屋達のターゲットの死体を処理するのが主な仕事だ。また、運よく死にかけの人間を見つけたら、闇医者の元まで連れて行って内臓を売買したり、人質にして身代金を得る内職でも利益を得ている。

ハイエナという蔑称をつけられる仕事だが、これが、業界の人間を動きやすくしたのも確かだ。弱者としての本能なのか、より効率良く仕事をこなすために、この業界では珍しく、大きな組織を形成してチームで動いている。

証拠を残すことを極端に嫌うピエトロも彼らには大いに感謝しているが、彼をその点で神経質にしてしまったのも、また彼らに端を発している。

ピエトロは死体がどこに運ばれて、どう処理されるのかは知らないが、死者が誰に看取られることもなく、この世からなくなることだけは知っている。

彼の父もハイエナに消された者の一人だった。

当時、まだ幼かった彼が、父がいつまでも仕事から帰って来ない理由をようやく耳にしたのは、数日後に訪れた伊東と美鈴の口からだった。あの日、二人は「親父が死んだのはアホだったからだ」と、十歳の少年に対してはあまりにも冷酷な発言をした。

子供の頃は二人のその発言を酷く罵った彼だったが、おそらく過酷な業界の現実に早くから慣れさせる意図があったのだろうと、今はそう解釈している。

その後、父の代わりに伊東達の仕事に連れられて、ターゲットへの近づき方や殺し方を学びながら、相手が一瞬で物言わぬ死体になるのを見続けてきた。

あまりにも呆気無い最期。たかが指の先程の鉛を体に撃ち込まれ、急所を拳で突かれただけで、いとも簡単に生命活動を停止する人間の脆さ。

いずれ業界に身を置くということは、目の前で死んでいったターゲットのように、いつか自分も呆気なくただの肉の塊に成り下がるのではないかと怯えた。伊東達に殺され、倒れ伏す標的の死体が未来の自分の姿に見え始めるのに、さほど時間はかからなかった。

この業界にいる限り、死んだ後は他の同業者達が生き延びる参考になるだけで、個人の人生も存在も何もかもが記憶されず、消えていくのだ。他ならぬ父がそうされたように。

(彼らは悲しんでくれるだろうか?)

ピエトロはふとそう思う。

父の死後、伊東達は自分を良く世話してくれた。しかし、死んで物言わぬ体になった自分に憐れみを感じてくれるだろうか? それとも父が死んだ時同様に、自分の死も淡々と受け入れるのだろうか?

もしそうだとしたら――

「ああ、主よ。この方をお救い下さい」

突然、横から聞こえてきた悲痛な声に驚いたピエトロは、条件反射的に左の脇の下に隠してある銃を引き抜きそうになり……なんとか抑えた。

声のした方向に目をやると、そこにはこの前の修道女が膝をついて祈っていた。

拳銃のグリップから慌てて手を離すピエトロ。幸いにも彼女は祈りに際し、目を閉じていたため、あからさまに怪しい今の行動を見られることはなかった。

「シ、シスターマリア。いつからそこに?」

「少し前からですが? すみません、驚かせてしまいましたね」

気づけば、周りには幾人かの修道女がいて、信徒達と笑いを混じえながら楽しそうにしゃべっているので、先ほどまでの静寂が嘘のような活気がある。

それにしても、このシスターマリアが接近する気配を全く感じ取れなかったとは情けないにも程がある。葛藤に苦しんでいたでは言い訳にもならない。

「だいぶ長く瞑想されていたようでしたが、あまりに悲痛なお顔をされるものですから、つい……」

つい、神に祈ってしまったらしい。

救済の祈りを無意識の内に口に出させてしまう顔とは一体どんなものなのか。

「いえ、気にしないで下さい。むしろ気が散って助かりました。よくない考えに陥ってたものですから」

彼は爽やかな笑顔を作ってからそう言った。

「そうですか? 良かった。って、びしょ濡れじゃないですか。拭くものを持ってきます」

「あ、いいんです。これで上手く風邪を引けば、嫌いな仕事に行かない口実になるでしょう?」

ピエトロは慌てるシスターを止めてからそう言った。実際彼は幼少期からの訓練のためか、体は内外問わず頑丈で風邪を引いたことはないし、この程度は問題の内に入らない。

ピエトロは悪戯好きの少年を思わせる顔をし、それにつられたのかシスターもクスクスと笑い出す。

しかし、開花した向日葵の様に笑みを浮かべたシスターだったが、それはすぐに日陰に咲く花の様に落ち込んだものになる。

「……ですが、この前のお悩みは少しも解消されてないようですね?」

「……え、ええ」

むしろ、彼の悩みは本日付けでより複雑なものへと昇華してしまったのだが、そんなことはおくびにも出さない。

「私、あれから色々と考えてみました。辞められないお仕事を続けたくはないということでしたが、あなた自身が昇格して社風を変えるなどはできないのですか? または、上司からの理不尽な命令で辞められないのでしたら、訴訟などを起こして解決するのはどうでしょう? 他にも……」

シスターは宣告通り、彼の悩みを解決するための手段を考えてくれていたようだが、当然の事ながらこれと言って有効な策は無い。彼女の知る社会の法と彼を縛る業界の掟は、彼方まで平行線のままなのだから。

ピエトロは心が痛むものの彼女の提案を全否定した。仮に策のどれかを受け入れて実行し、無事解決したと嘘をついても、毎回表情から心境を読み取られるようではすぐにばれてしまうだろう。

「……お仕事は何ですか? 教えて下さい。それさえ分かれば、私も的確な助言ができるはずです」

ピエトロはしばし呆気に取られてしまった。

「……何故あなたは、ここまで僕を気遣ってくれるんです?」

ピエトロは問いに答えずに、率直な疑問を口にした。

「誰かの幸福が、私の幸福ですから」

シスターはきっぱりと言い切った。

「それに気になるのです。見ていて心配なのです。……あなたは、まるで崖の上を綱渡りしている様。子供みたいに危なっかしくて、その上ちょっと触れただけで雲散霧消してしまいそうな脆い印象が……あっ」

そこまで言ってシスターは両手で口を押さえた。次第に、彼の心を抉るような言葉が漏れ出ていることに気づいたらしい。

「も、申し訳ありません。私、なんてことを……」

立ち上がって、深々と礼をしてくるシスター。

「あはは。気にしないで下さい。自覚していますから」

ここまで丁寧にダメ出しされるとは思わなかったが、それが却って笑いのツボに入った。修道女にあるまじき毒の効いた発言というギャップが、彼の笑点をつついたらしい。

それに、ピエトロはまだ出会って間もない、このシスターに強い好感を抱いていた。

恋ではない。が、単に人として好きであるという程度の好意でもない。言葉では上手く言い表せないが、彼女の在り方が好きなのだろう。

彼女の労働には物質的な見返りは一切ない。いや、そもそも金銭や損得感情などは元より計算に入ってない。

しかし、彼女はそれでも笑みを絶やさない。自分の労働が他者の救いに繋がると知っているから。他者を尊重する考えが先行するあまり、自分の事が二の次になっている感があるのは考えものだが、いき過ぎているからこそ、その姿を美しく感じるのだろう。

だから、ピエトロはこのシスターに好感が持てるのだ。その救済は労働だからではなく、彼女の意志そのものであるから。

「あれ、その人に何か迷惑でもかけたの? 珍しいね」

静寂な雰囲気を主とする教会内故、抑えた笑いを余儀なくされるピエトロと、顔を真っ赤にして謝り続けるシスターの謝罪に第三の声が混じる。

「あ、あら、カルロ。今日は学校じゃないの?」

第三者の声に応じたのはシスターだった。

「今日は休みさ。暇だから買い物ついでに寄ったんだよ」

ピエトロもその者を見やる。

外見年齢十三、四歳の茶髪で黒い瞳の少年がそこに立っていた、小川のせせらぎの様な透明感の中にハスキーな渋みを持つという独特な声質をしていて、先のように突然声をかけられると鼓膜に軽い電流が走った様に感じてしまう。白いポロシャツに青のジーパンというラフな格好をしており、買い物袋を提げている。

「弟さんですか?」

ピエトロは、今の二人の会話や雰囲気からそう判断する。

「はい」

シスターが応じる。

「へえ、羨ましい。僕も弟や妹が欲しかったなあ。…………」

そう言いながら、ピエトロはカルロと呼ばれた少年をより細かく分析すべく目をやった。すると――

「そんなに怯えないで下さい。僕はただの子供ですよ」

「え?」

少年は、うすら笑いを浮かべながらピエトロに言った。

「あれ? お兄さん、今僕の事めちゃくちゃ怖がってませんでしたか? 毒蛇を見るような目をしていましたよ」

――怯える、か――

自らの観察をそう言われたのは初めてだが、的を射ている。元々観察術を身につけたのは、相手の信用度や利用価値の有無を調べ、背中を任せられる人間かを見定めるためのものだ。ならばその根底にあるものは間違いなく他者への恐怖だろう。

まさか、こんな子供にそこまで深く読まれるとは思わなかったが。

「……いやぁごめんね。何せ人見知りなものだから。だが、良く分かったね」

「相手の考えを推理するのが好きなんですよ」

少年はにやりと笑って得意気に言ったが、ピエトロから見ればその態度や声音には若干の緊張が見られる。おそらく推理の確信は五分だったのだろう。

「ところで、お兄さんも姉さんにモーションかけにきたんですか?」

「え?」

 先と違って的外れな推理だった。

「あれ、違う? いやぁ、そういう人が多いんで、てっきりそっち狙いの人かと。ま、お兄さんみたくカッコイイ人が姉さん程度を狙う訳もないですね」

 少年がわざとらしく肩をすくめて言う。推理が当たったせいなのか、気を良くして饒舌になっているようだ。そのせいか、膨れっ面で自身を見る姉の視線には気づいていない。

「カ、カルロ? いつからそんな、ませたことを言うようになったのかしら?」

満面の笑みをするシスターだが、表情と内心は全く連動してないようだ。

「反対に姉さんはまだまだ幼い印象があるよ? そろそろ化粧をする年頃じゃないの?」

道化のように戯けりながらカルロが言う。どうやらこの少年は、姉に対して挑発にも似た発言をする癖があるらしい。もっとも、ピエトロには少年がそうする理由が読み取れているため、口元が自然と綻ぶ。

「こらッ。最近あなた生意気よ。まさか、お母さんまで困らせたりしてないでしょうね?」

「大丈夫さ。家ではいい子にしてるからね~」

ピエトロはそんなカルロを見ていてあることを思いつく。

「カルロ君。さっき、君がしたように僕も君のことを読んでみせようか?」

微笑ましく言い争っていた二人は、突然の提案にきょとんとして彼を見た。だが、カルロはにやりと口を歪める。「やってみろ」という意志表示とピエトロは受け取った。

「そうだな。君は……皮肉屋を気取っているが根は優しく、本質を見抜くのに長けたタイプ。そのため学校ではクラスメイトや先生からも人気があり、色んなことで頼られる。家事全般が得意で、とりわけ料理が上手。得意なスポーツはサッカー。コナン・ドイルの推理小説が好き。そして、君が今最も憧れている人物は、お姉さんだね?」

「? ええ!?」

「なっ!? …………い、いや、違うよ。僕は別に姉さんに憧れてなんかいないよ」

何故か赤面しておろおろし始めるシスター。

そして、図星を突かれたらしいカルロは、しばらく未知の生物を見るような目でピエトロを凝視した後、思い出したように、彼ではなく実の姉に向かって必死に弁解を始めるのだが、顔が真っ赤では説得力も何もあったものではない。

「……カルロ。意外と可愛いところもあったのねえ」

「だから、違うってのに。ドジな姉さんのどこに誰が憧れるってのさ」

「もっと、素直になってもいいのよ?」

「ああ、もうッ。姉さんなんか、嫌いだよッ」

手で口元を覆うシスターがからかい混じりに言う。

それに対して、先ほどのシニカルなキャラをどこぞに追いやり、子供らしい慌てっぷりを見せ始める少年。

(失敗したかな?)

押され気味のシスターマリアと、甘えたがりを隠すためにひねくれた態度を取らざるを得なかった少年の双方を救うために暴露したのだが、まさかこういう展開になるとは。

人の傷つけ方しか知らぬ彼には、手の込んだ救済は高度な技術だったようだ。

「でも、どうして分かったんですか? 弟をご存知のはずはないですし……」

彼女が聞いてくる。驚き半分興味半分と言った表情だ。カルロも暴露されたことに対してなのか若干彼への目つきがきつくなっているが、答えを欲している様子。

「ええ、彼とは初対面です。ただの人間観察ですよ。昔から得意でして」

カルロが選んで使う言葉や口調や歩き方、発達した下半身の筋肉などからそう判断した。これが実は業界で生き延びるために幼少時から訓練して得た分析力などとは言えまい。

しかし――

「例のお仕事で得た技術なのですか?」

「ええ……あっ、いえ、違います。言ったでしょう。生まれつき得意なだけです」

慌てて訂正したが手遅れだった。

わずかな隙間から手を忍びこませるようにシスターが彼の秘密を聞いてきた。表の生活の明るい会話が続いたために心の護りが緩くなっていたようだ。

「どんなお仕事ですか? そこまでの観察力が必要な職とはどんなものなんでしょう?」

「なに? 何の話?」

ピエトロの訂正を無視して、新たな手がかりを見つけたシスターは質問を重ねてくる。カルロは話についてこれず、二人の顔を交互に見る。

今になってピエトロは彼女に悩みを明かしたことを後悔した。

このままでは彼の心の殻を剥がされかねない。全てを話そうものなら、この善良なシスターとて彼を警察につき出すことになるだろう。その後は、大量殺人犯として死刑台行きか、業界によって処分され、ハイエナの手にかかる可能性はほぼ確実と言えた。

「……あの、なるべく、考えないようにしていたのですが……」

シスターは少し悲しげな顔をしながら、しかし、彼の内心の怯えに気づくことなく問いを続ける。

「もしや、あなたの職業というのは……」

ピエトロは息を呑んだ。

シスターの表情から、この先に続く言葉は容易に想像できる。自分の職業が犯罪組織なのではなどと疑われようものなら、どう弁明すればよいか。ピエトロが思いつく限りの言い訳を用意するべく、脳を最大稼働させようとした、その時だった。

「マ~リアー、お昼だよーん」

核心を突きかけたシスターの発言は、教会の奥から現れた人物の間の抜けた口調によって中断となった。

「アンジェリカ。え? もうお昼? 配膳とかの準備は?」

アンジェリカと呼ばれた修道女は、されど修道女らしからぬ軽い口調と気怠い表情でもって、彼女に詰め寄る。

「もう済んだわよん。後は、あ・ん・た・待・ち・よ。院長先生まで待ってんだかんね」

アンジェリカは彼女の額を人差し指でガスガスつつきながら叱る。凄く気の抜ける口調で言っているが、ふざけているわけではないようだ。そして、彼女の言う通り、先ほどまで談笑していた他の修道女達は、いつの間にか姿を消していた。

「こぉんないい男と喋ってる暇があったら食堂に来いっての。ってことでカルロ。金髪のお兄さんもごきげんよ~」

「いけない、急がなきゃ。ピエトロさん、またいらして下さいね。カルロ、気をつけて帰りなさいよ」

そう言って、赤くなった額をさすりながら素早く一礼すると、マイペースなアンジェリカと共に教会の奥に走っていった。

走る際に、ダンダンとけたたましく床を踏み鳴らすアンジェリカと、それに反してカツカツと小気味よい靴音を立てるシスターマリアを見比べると、修道女は全員が全員、貞淑な訳ではないことを知るピエトロだった。

「ん?」

シスターマリアの軽快な走り方――いや足運びだろうか?――を見たら何かが脳裏を掠めた。一瞬彼女と誰かが被って見えた気がする。根拠はないが昔の事の様にも思える。

その既視感とも言えるしこりは、彼の頭に残った。

「……僕、たまにあの人と話すんだけど、アンジェリカさんって修道女らしくないよね? 良い人ではあるんだけどさ」

しばらく沈黙していたカルロが口を開いた。

「ああ、初対面だが、面白そうな人だった。今度会えたら話をしてみたいね」

そう言って、半ば背中を押される気持ちで彼は立ち上がる。

正体がばれかけたことが恐ろしかった。彼女はまた来るようにと言っていたが、正直来たくない。次会った時、あの話の続きをされることが分かり切っているからだ。だが、来ないと、彼女の推測に花マルを与えることになるだろう。

「あ、あんた、びしょ濡れじゃないかっ!」

コートから滴る水滴を見て、カルロが驚く。

「全く、それじゃ確実に風邪引くぞ?」

そう言って持っていた袋をごそごそとあさり出す。

今気づいたが、カルロの口調が敬語ではなくなっている。人称もあんたに格下げだ。

「あ~、さっきはごめんね。少し喋りすぎぶ……」

暴露のことを根に持たれたと思ったピエトロは謝るのだが、その顔に叩きつけられたタオルによって中断される。普段なら無意識にでも避けられるというのに、殺気がないというのは恐ろしい。

「そのことはもう言わないでよ。最後の一言以外気にしてないし」

再び頬をわずかに赤くしながらカルロは言う。

「分かった。しかし……これ、いいのかい?」

叩きつけられたタオルにはまだ値札がついていたのだ。

「いいよ。本当はサッカーで汗かいた時に使いたかったんだけど、あんたにあげるよ」

人に物を恵んでおきながら、それを惜しむ事を言うあたり、なるほど皮肉屋らしい言動である。だが、この年頃の子供で、憎々しいであろう相手に物を恵む精神を持つというのは、なかなか望むべくもない。ピエトロは彼の好意と懐の大きさに甘えることにした。

「……でも、これどこに売ってたんだ?」

このタオルは通常の二倍は長い。というのも、おそらくはサッカーチームの応援のためのグッズだったのだろう。タオルには「勝利」という文字が、長々と書き連ねられていた。

「商店街の中古店に格安で売ってた。それだけ大きければ一枚で多く使えるから良いと思ってね。最悪、切って雑巾十枚分にするのも手だし」

とりあえず髪に染み込んだ水だけタオルに吸わせた後、二人で教会を出た。

「見事にはずれたな。これじゃ、信用ガタ落ちだ」

「全くだね」

空を見上げながら二人は言う。昼過ぎの空は快晴で青い空がどこまでも続き、午前中に出番を奪われた太陽は、持て余した分まで照らしているようなはりきり様だった。分厚かった雨雲も一体どこに隠れたのやら。

「今度は天気も観察できるようになれば? その壊れた傘も持たなくて済むよ?」

カルロがからかい混じりに言う。傘を持っているのにびしょ濡れだから、開かない壊れたものと判断したようだ。当たりではないが観察力は良い。

「帰るんでしょ? どっちに行くの?」

カルロが聞いてくる。ピエトロは素直に答えると、思いがけない言葉が返ってきた。

「じゃあ、僕の家もこっちだから、途中まで一緒に行こうよ」

ピエトロは自分の分析が誤っていたことを悟った。完全に嫌われたものと思っていたのだが。表の人間の心は、策謀持たずして生きられない裏社会の住民のそれと違い、丸見えなのに底が知れず、真実が見えているのに、見通し切れない。

なんという器の大きさか。

これは新しい発見と言えるだろう。

「……いいよ。タオルの借りもあるからね」

しばし、自分の様な人間と無垢な子供が連れ立って歩いていいものかと思考したが、ピエトロは了承する。この素晴らしい少年のささやかな望みぐらいは果たさせてやりたくなった。それに、どうせ教会から自宅までは十分程度の行程だ。

ピエトロの了解を得たカルロは明るく、されどにやりと笑った。

そして、二人の後に教会から出てきた、派手な色彩が特徴のミッソーニブランドを着込んだ、気配なき少女が、二人の後ろを歩きながらカメラ片手にクスリと笑っていた。



サン・カンチアーナ教会の宿舎では、何事もなく祈りと奉仕という労働をし、人々を癒した修道女達が、一日の終わりに僅かに与えられた消灯前の自由時間を満喫していた。

 修道女達の寝室は一部屋につき二人用のベッドと机、クローゼット、タンスが用意されているだけの質素な内装となっている。

遊びに関しては縁の無い場所であるため、修道女達はどこからか持ち込んだトランプやボードゲームを楽しむ。

他の部屋では彼女達の笑い声や生活の物音が絶えないが、真面目に勉強をしているシスターマリアと、ルームメイトのアンジェリカがベッドに寝そべりながら小説を読んでいるだけのこの部屋は、他に比して静かなものだった。

彼女の一言が出るまでは。

「ねえ、アンジェリカ。あなたってどうしていつも能天気なの?」

 唐突に、全ての不幸を飲み込んでくれるような声が、アンジェリカにぶつけられ、彼女はシスターマリアの方へじとっとした目を向けた。

アンジェリカは、年や背格好はマリアと同じだが、その顔は怠惰が張り付いたとも言える程にぼんやりとしたもので、瞼が鉄でできているのか、常に目は眠たそうな半眼だった。

彼女はシスターマリアとは真逆で、修道女にあるまじきずぼらな印象があるが、この教会に来てから常に一緒に行動する彼女の友人だった。

「は…はは、能天気? あんたって、たまにどストレートなことを、いきなり言ってくるわよねん」

 体を起こしたアンジェリカは、気の抜けた口調でそう言い、じとっとした半眼が余計にじっととしたものとなる。つまり半眼が四分の一眼になったのだ。

「あ、ち、違うの。あなたはなんと言うか、いつも何の悩みもなくのんびり生きてるように見えるから、どうしたらそんなにぼんやりできるのかなって思ったのよ」

「フォローのつもりだろうけど、全部追撃だからね、それ」

 アンジェリカは溜息をついて再び仰向けになり。そして、僅かな思考すらせずに答えた。

「ん~、ぼんやり生きるのにやり方なんかないでしょ。ただ何も考えずやりたい事りゃいいじゃん。『求めよ。さらば与えられん』ってやつよん」

実に素朴な考えだ。その単純さにシスターは無意識にも笑みを浮かべる。

全くもって単純明快な答えだ。そして、それは誰にでも送れるはずの人生でもある。

「もし、拘束されていたらどうする? 誰かのせいでやりたいことができなかったら? やりたくないことを強制させられたら?」

礼拝堂の端に座る青年を思いながらシスターマリアは言う。

「んん~? だったら、ストックホルム症候群にしてやるわ。そんな奴はあたし色に染め上げて、無血、無論争で解放されてやるわよん」

 欠伸で伸び切った声で彼女は言った。

「それって、その相手を友達にしちゃうってことかしら?」

小首を傾げながら聞く彼女に、アンジェリカは身を起こして祈りながら言う。

「汝、隣人を自身の様に愛せ。汝の敵を愛せ」

聖書の一節が音となって部屋に響く。

それが彼女の言わんとするところなのだろう。軽い口調に乗って出た言葉だが、そこに秘められた意味は重く、並の精神力を持つ人間には実行しがたいもの。その発言はそのまま彼女の信仰心と忍耐の強さを物語っている。

「でも、左の頬を叩かれたら、相手の右の頬を叩き返すけどねん」

「ちょっ!」

 台無しである。

彼女は、白と黒の境界線の上を歩く灰色の心を持つ人間だ。善にも悪にも厳しく、そして優しい。真の意味での救済者だとシスターマリアは思う。

それは、規則と主の御言葉に忠実に従う事で、完璧な修道女たらんとする自分には考えられない柔軟性だった。

「と言っても、痛みを知らない人に対してだけよ? 心が傷ついてる人にはしないわよん。さぁて、さっきの質問の答えはこれでいい?」

 アンジェリカはベッドから立ち上がって小説を自分の机の上に置きながら言った。

「ええ、ありがとう。アンジェリカって意外と色々考えて生きてたのね」

礼の様なものを言うシスターマリアだが、正直、欲しかった答えは得られなかった。縛られた人生からの脱却に対するアンジェリカの答えは、彼女も既に考えたものだったし、それはあの青年の人生を大きく変えることはなかった。彼と正反対に自由奔放な彼女ならば、良いヒントがもらえると思ったのだが。

「?」

 気配を感じて、思考に際し下げていた頭を上げると、そこには人差し指をシスターマリアに向けるアンジェリカの姿があった。

「あっわわッ!」 

 シスターマリアは、慌てて両手で額を覆う。その行動から察するに覚悟はできているようだ。

 アンジェリカは人差し指でガスガスとシスターマリアの額を、いや盾と化した両手の甲をつつく。どうやら、シスターがドジをして、アンジェリカが叱責するのは日常行事であるらしい。

「だぁから、フォローになってないって言ってんでしょうがぁ。あんた、その変に抜けてるとこ治しなさいよ。ドジっ娘なんてもうウケる時代じゃないのよん」

「あいたたたたたたっ」

 なんであれ、誰に憚ることなく歩くアンジェリカの生き様は、彼の悩みに自分の説得とは違った影響を及ぼすかもしれない。後日、それを彼に伝えてみよう。

キツツキもかくやという速度で突くアンジェリカの制裁を甘んじて受けるシスターマリアは、目元に涙を浮かべながらそんな事を思っていた。



金髪青眼の少年は、眼前に迫りくる手刀を、首を捻って躱す。しかし、完全に回避することは叶わず、手刀は僅かに少年の左頬を擦る。

続いて、相手は回し蹴りを少年の脇腹目がけて放ってくる。自分の肉体を両断しかねないその蹴りを防ぐために、手刀に対するカウンターのナイフを中断し、両手で受けとめた。

「ぅあっ」

両腕にかかる強烈な衝撃に小さく呻く。

腕が痺れる。痛みで手が弾けそうだ。それだけならまだいいのだが、骨が軋み筋肉が感電したように震えるのはどういうことなのか。打撃による表面的な痛みともう一つ別の力が彼の腕を内側から苦しめている。

しかも、蹴り飛ばされるのを防ぐため、両足に体力の半分以上の力を費やしてしまった。四肢は自らの状態を教えるため、神経を通して鈍痛と怖気のする疲労感を送ってくる。

ナイフが手から滑り落ち、同時に痛みに悶える腕はこれ以上動かされるのを放棄したかのようにだらりと垂れる。

少年の相手がその隙を見逃すはずもなく、がら空きになった彼の腹部に手を伸ばして、ゆっくりと彼の体に掌を密着させる。

「っッッくッ!」

次の瞬間、少年はしゃっくりの様な声を出して地から足が浮いた。体が宙を舞ったのだ。

場違いな程心地よい浮遊感。嫌に緩やかに流れる風景、遠ざかる相手。しかし、それに対して少年の心は素早く敗北を悟る。が、彼には一つ理解できないことがある。

自分は何故飛んでいるのか?

相手は腕力で突き飛ばした訳ではない。むしろ自身に密着させた腕は伸ばしきっていたし、その状態からほとんど体を動かしてない。では、どうやって子供とはいえ人の体を吹き飛ばしたのか?

その思考が長続きすることはなく、つかの間の無重力感は岩のような筋肉が、彼を柔らかく、だが粗雑に受け止める事で終わりを迎えた。

「がーっはっはっは。これで何回負けた? もう天文学的な数値になるんじゃねえのか?」

声も体もでかいその日本人は豪快に笑いながら、受け止めた少年を地面に降してやる。

「っッッはあ。あ、ぐ、ぐうう」

しかし、当の少年には男の様に笑う余裕も敗北回数を数える暇もない。あるのは、思い出したように沸き上がる嘔吐感と、痙攣を続ける腹部の筋肉と内臓からの被害届だけだ。

「まだまだですね。受けてはダメと言ったでしょう? 攻撃は基本的に避けるか受け流して下さい。そうすれば、後三、四手は攻防が続いた上で負けたでしょう」

 それでも結局負けるらしい。

まろやかで優しい響きなのに質素、しかも色気も可愛げもないという、まるで甘くないクリームのような声の持ち主が、蹲る少年に先ほどのミスを指摘する。言うまでもなく、少年を吹き飛ばした人物だ。

「そ、そんなこと、言っても、難しい、よ。げは、かは」

呼吸もままならない少年はその相手に文句を垂れる。

しかし――

「ZZZ……ZZZ……」

「……起きてよ。メイリンさん」

「……へっ? ……あ、またやっちゃった。ごめんねー、ピエトロ君」

会話の途中にいきなり眠り出したその女性に嘆息するピエトロ。

この女性は時々、この様にいきなり眠りこむ事がある。どこに寄りかかることもなく、腕と首をだらんと垂らし、立ったまま器用に寝る。

彼女曰く、疲れている時は良くこうなるそうなのだが、気絶も同然なそれは、命を奪い合うこの業界では相当なデメリットではないのだろうか。

そんなおかしな人物は十代後半の年齢、腰まで伸びた長い茶髪をしていて、両の耳元からはリボンで留めた三つ編みを二本垂らし、頭には中国語で「龍」と書かれた星の形をしたアクセサリーをつけた帽子を被っている。服は全体的に緑色で半袖の上着、腰から足首までの長さのスリットの入ったスカートを身に纏う中国人女性だった。

場を和ませる優しい顔が美しい容姿でもって成っているので、男女問わず目を引く外見なのだが、先のおかしな生態のせいで知り合いからは残念美人と見なされている。

「が~はっはっはっは。ほんと珍妙な奴だな~お前は~」

「伊東さん。からかわないで下さいよ」

腰に手をやって困ったように眉を寄せる美鈴。そして、大男の伊東は真っ昼間から酒を引っ掛けているせいか、テンションが高く、誰彼構わずよく絡む。

「父さん。僕にはやっぱり中国拳法は無理だよ。全然コツが掴めないんだもん」

どうやらピエトロは父から言われて、ここで美鈴に中国拳法の特訓を受けていたらしい。

ここは、都会から隅に追いやられたスラム街の五階建てビルの三階にある部屋であり、取り壊しのために閉鎖されていたが、その工事も途中で断念されたのか、長らく放置されているため、無断で使用している。後々、ここには、椅子や折りたたみ可能のベッド、小さなテーブルや、数は少ないが酒瓶が入った棚などの生活用品を持ちこんだため、簡易的な生活空間になっていた。

「さっきから変な痛みまで感じるしさ」

ピエトロは、美鈴をからかう伊東と、伊東に何かしら反論する美鈴に挟まれながら、腕を揉みつつ、離れたところで椅子に座っていた男に文句を言う。

その男は、少年が二十歳程成長したらかなり似た外見になると思われる。格好は伊東に似て、着崩したスーツ姿に茶色のコートを着たもので、ハリの無くなったボサボサの薄い金髪、堀の深い顔つきに不精髭を生やし、幾つもの死線を越えてきた隙のない雰囲気を持っている。

「そりゃ、ハッケイとか言う技術だ。私も上手く説明できないが、……メイリン」

熟成された酒を思わせる、渋みのある声で男は言う。

「……発勁は、説明しても理解し辛いでしょうが、……ええと、足、腰、肩や各筋肉、更には呼吸までを一切の無駄なく動かして、体の任意の部位にエネルギーを集めることを言うんです。上手く扱えば、力を集めた手で小突くだけで、相手は吹き飛びますし、大柄な相手に組みつかれても難なく拘束を解けます。体が地についてないと使い辛いのが弱点ですけど……やっぱり、分かんないですよね」

男は、美鈴に説明を任せるのだが、それを聞く少年の顔は、理解に苦しむというよりも、むしろ、死を決意したような諦観したものになっていく。

「……まあいい、ハッケイはもとより、中国拳法は最悪できなくてもいい。それよりも、自分より格上の相手に一発入れる方が大事だ。

動きを良く観察しろ。どんなに無駄の無いメイリンの動きにも必ず隙がある。攻撃をするということは、どうしても他のどこかがおざなりになるということだ。だから、さっきのように無理にカウンターを返すよりも、躱しまくって敵の隙や癖を見抜くのも手だ。……例えばな――」

そう言って男性は立ち上がると、少年が落としたナイフを拾い上げ、部屋の中央に立つと、彼女に対して人差し指をくいくいと動かして合図する。

美鈴は満面の笑みで頷く。

彼女は自らの武術を試すために、強者や危機的状況を求めてこの業界に来た。だから実力者と闘えるのが嬉しいのだろう。

彼女は足を閉じて立ち、右手は拳に、左手は開いた状態で手を合わせて一礼する。中国で、手合わせ前に行う抱拳礼というもので、試合の相手を敬うために行う。

「今度こそ、勝ちますよ」

礼を終えた美鈴は、相手に対して真半身に構え、足を広げて、やや腰を落とし、磔られた様に両腕を一杯に伸ばす構えを取る。腕をしならせることで、まるで鞭の様に敵を打つ劈掛拳ヒカケンという武術の構えである。

それに対して特に構えることなく、気怠そうに棒立ちになる男。

美鈴は男に向かって勢い良く襲いかかり、右の手刀を振り下ろす。

全身の体重を乗せたその手刀は、先ほどピエトロに放たれた突きよりも数倍速い。しかし、真に驚嘆すべきは、空気を裂く様な攻撃を放つ美鈴よりも、幽霊のように体を逸らし、薄皮一枚という無駄の無さで手刀を避けた男の方だろう。しかも、男は反撃しやすく、且つ敵の追撃を受け辛い彼女の右側面に入り込んだ。

「ふっ」

しかし、彼女はその動きを予測済みだった。と言うより、相手が自分の右側面に入り込み易い様に初撃を繰り出していた。

予定通りに動いた男に彼女は予定通りの右膝蹴りを打ち込む。体勢の問題で視線を男の方に向けられないが、ナイフを持つ男の行動は接近戦に限定されるため、自分から離れることはなく、ほぼ密着する距離でもって避けると判断していた。

彼女が狙うは、後頭部へ二発の手刀を叩き込む「倒発鳥雷撃後脳」。組手故、殺傷させる威力は出すつもりはないが、喰らって無事で済む技でもない。

この男には今までで一度たりとも攻撃を当てられたことがない。これぐらいの攻めでないと、汗一滴かかせることもままなるまい。それに、この攻め方は一度も彼に見せてないもの。絶対に彼は動揺するはずだ。少しでも焦らせれば、業界でも接近戦で敵なしの自分に敵う訳がない。

「うぇっ!?」

だが、相手の腹目がけて放った必中確実の膝蹴りは空を切るのみとなる。

膝蹴りを当てる反動で体勢を立て直し、そのまま追撃に持ち込む予定だった美鈴は、大きくバランスを崩す。

彼女の相手がその巨大なる隙を見逃すはずもなく、男は防御ががら空きになっていた左手首を掴んで捻り上げ、彼女の背中に回して拘束し――

「これで、終わりだな」

冷たいナイフの切っ先を彼女の首にピタリと当てた。

「……はぁあ、どうしてダルダーノさんには勝てないんですかねぇ?」

彼女は大きく息を吐き出す。ブツブツと文句を言う彼女だが、その顔はどこか満足気だ。

「大人げないぞ~、ダルちゃん」

「やかましい。ちゃんづけもやめろ。大男に言われても鳥肌が立つだけだわ」

あの大男、余程退屈しているらしい。

「最初の構えで後の動きは分かっちまったよ、メイリン。それに、生粋の武術家のお前さんには私みたいに型のない奴の動きは読み難いんだろう。……分かったか、ピエトロ?」

「え?」

いきなり話を振られた少年は、しかし何も理解できていない。そもそも何を理解させるつもりだったのかもよく分からない。強いて言えば、まだまだ本気を出していなかった美鈴には敵うはずもなく、それに勝った父は怪物なのだと言うことは理解した。

知らない言語で話しかけられた様な顔をしているピエトロを見て、ダルダーノは大きく肩を落とす。

「……相手の動きや構えは、そのまま次の行動を教えているようなもんだってことだ。こいつがさっきの構えをとったからこそ、私はあの膝蹴りを避けられたんだ。こいつの右に避ければ膝蹴り、それ以外なら足を払われるのが、構えから分かっていたからな」

いつの間にか拘束されたまま眠り始めた美鈴を指しながら彼は言う。

「……相手を良く見ろ。観察しろ。そうすりゃ、体の動きだけじゃなく心まで読めるようになるぞ」

「心まで?」

それはすごいと感じたようで、ピエトロはやや興奮しながら聞く。

「ああ、それができるようになりゃ、相手の趣味、好きな食べ物、考えとかまで分かるようになる。仕草や言動の端々にな、相手の特徴が臭ってくるようになるんだよ。そして、それが裏社会で生きる秘訣にも繋がってくる。ま、こいつらみたいに外人相手だと、文化や考え方が違うから、ちと難しいがな」

ダルダーノは伊東と美鈴を指さしながら言った。

「できる野郎は言うことが違いますね~」

どうやら彼には他人の観察ができないらしく、伊東が拗ねたようにぼやく。だが、その顔は何故か楽しそうに笑っていて、言葉と表情が一致してない。完全に酔っているようだ。

「めんどくせえとか言って練習しねえからできねんだろうがお前は。せっかく教えてやってんのによ」

ダルダーノは呆れ顔で伊東に言うが、すぐにピエトロに向き直って話を続ける。

「……そんで、相手の考えが分かるようになれば、さっきの様に戦いを有利に進められるし、相手の動きを誘導することもできる。そうすりゃ、後はこっちのもんだ」

「あのぉ、先に離して下さい」

ダルダーノの講釈が続いている間、拘束され、首にナイフを突きつけられたまま呑気に眠っていた美鈴だったが、流石の彼女もいつ話が終わるとも分からない今の状態に我慢できなくなったようだ。

「おお、すまんな。……あ」

そう言って、拘束を解くダルダーノだったが、何を思ったか腹部に手を回して再び彼女を拘束する。

「へ? な、何ですか?」

「ま、要するにだ、息子よ。メイリンに勝てれば、こんなご褒美がもらえるということだあああああ」

ピエトロへの手ほどきよりも格段に気合の入った口調で言うと、ダルダーノはナイフを放りなげ、彼女の豊かな胸を鷲掴みにした。

「きゃああああああああ」

「ぬあああああああああ」

「むははははははははは」

当然の如く悲鳴をあげる美鈴。そして、何故か雄叫びをあげる伊東。

しゃがみこんで胸を抑える美鈴は、嬉しそうに笑うダルダーノを睨みつける……のだが、どうにも迫力がない。本来の優しげな顔つきが抜けないからかもしれない。

「な、なぁ、何するんですかッ!? しかも息子さんの前で。……見て下さいよ、ピエトロ君を。死にかけたリスを見るような目であなたを見てますよ!」

「全くだ、このダメ親父が。……ところで美鈴、片方だけ揉まれたんじゃ釣り合いが取れねえだろう? もう片方は俺が揉んでばるるうああああッ!」

伊東が言い終わるのも待たずに彼女は渾身の回し蹴りを顔に喰らわせる。熊の様な巨体が軽々と吹っ飛び、ダルダーノが座っていた椅子を巻き込んで部屋の隅まで転がっていった。

そんな無様な伊東を見て爆笑するダルダーノだったが、ピエトロは彼女と手合わせしていた自分が死と隣合わせだったことを悟り、今更ながらに身が震えた。

「私、帰りますッ。もう訓練にも付き合ってあげませんからッ」

流石にやりすぎたようで、温厚な中国人は怒りながら部屋を出て行く。十以上年上の男二人にあんなことをされれば、当然ではあるが。

「え? もう帰っちゃうの?」

「ええ。実は今日、そこのスラムで人に会う約束をしていましてね」

しかし、ピエトロの問いに振り向いた美鈴の顔は普段の優しげなものに戻っていた。彼女の怒髪天は全く長続きしないらしい。

「あの、ごめんね、メイリンさん。僕、覚えが悪いんだ」

 美鈴から中国拳法を学び始めて三ヶ月になるが、向いていないのか一向に上達する気配がない。

ピエトロが沈鬱気味にそういうと、彼女は少年の前で膝をついて彼の頭に手を乗せながら言った。

「一斑を見て全豹を卜す、ですね」

「え?」

聞き慣れない言葉に目を瞬く少年。

「君は、覚えは悪くありませんよ。実際他の武術や銃の扱いは見事ですから」

「本当?」

幼い少年は、意外な言葉に顔を上げた。褒められることなどこれが初めてだった。

頷く美鈴。

「人間、向き不向きが必ず存在するんですよ。……だから、君は戦闘技術なんか学ばない方が……」

「?」

 結局最後まで言い切ることなく、悲しげに笑う美鈴。幼い彼はその表情の意味するところが分からない。

「メイリン、次は金曜日に来てくれ。頼むぞ」

ダルダーノは何だかんだで気絶している伊東の様子を見てやりながら美鈴に言った。

美鈴は、少年の肩をポンと叩くとゆっくり立ち上がる。

「セクハラしないなら、喜んで」

勝手なダルダーノの発言に、しかしニコっと笑顔を返して部屋を出て行った大人びた彼女の姿は、幼いピエトロにある種の憧れを覚えさえたのは言うまでもない。

「お~い、次はお前のカラテとジュウドウの時間だぞ。……死んだか?」

しばらく、羨望の思いでぼんやり立っていた少年の背後から父の声がする。

「……奴の胸を揉むまでは死なない」

見かけ通りタフらしく、伊東はもう気がついたらしい。

「形良し、大きさ良し、張り良しだった。隙あらばまた触ろうと思う」

「今度は俺の番だぞ」

ニヤニヤ笑う二人は互いの拳を突き合わせる。了承の証らしい。

そんな大人げないダメ男二人の姿は、幼いピエトロにある種の憐れみを覚えさせたのは言うまでもない。



「…………ん」

目が覚めた。

懐かしい夢を見ていたようだ。

ついこの前起こったと思えるようなはるか昔の夢。もはや二度と訪れることのない現実。

ピエトロは苦笑いをする。

あんな滅茶苦茶な父だったが、あの日々は楽しかった。

日頃の訓練では、子供に過酷に過ぎる鍛練をさせていたダルダーノだったが、それでも伊東か美鈴のどちらかでも来ると、子供の様な明るさを見せていた。

今思うと、あれは彼なりにはしゃいでいたのかもしれない。というのも、父が他の業界仲間と一緒に動いていたところをほとんど見たことがない。仲の良い知り合いはあの二人位だったのだろう。

業界でもトップクラスの実力を持っていた父が、殺し屋には到底似合わない者達と行動していたのは不思議な話でもある。

もしかすると――

「父さんも温かみが欲しかったのかな?」

ベッドの側においてある写真立てに、わざわざいぶし銀な顔にして写っているひょうきんな父に語りかけるピエトロ。

感傷に浸るのはそこまでにして、ピエトロはベッドから立ち上がり、大きく伸びをする。

「……メイリンさんか」

最近は彼女のいない生活に慣れ過ぎていたせいで、気にかけもしなかったが、もう一ヶ月以上会ってない。以前は、よく伊東とここに酒を飲みに来ていたのだが。

それを唐突に思い出したということは、何かしら彼女を思うことでもあったのか。

「いや、それともまたシックになり始めたかな」

彼は苦笑した。

父と同様、友人という友人は、伊東と美鈴しかいないため、二人が仕事で国を出ると途端に孤独になってしまうのだ。

父が死んでからは、余計にあの二人に依存していた。

この裏社会に生きる人間は裏切りを恐れてか、近しい人間を作ることへの本能的な恐怖があるようで、あの二人以外の人間に親しく接してもほとんどが煙たがるのだ。利害で結ばれた関係なら信用してくれるが、それ以上には踏み込めないらしい。

だからこそ、あの二人の温かい空気には幾度となく助けられた。

とりわけ、美鈴は母性にも近い優しさをピエトロに向けてくれる。写真でしか知らぬ母よりも余程近しい女性。この業界には全く似つかわしくない柔らかい微笑みや、表裏問わず、誰とでも接することができる太陽の如き明るさには今でも憧れている。

「さて、そろそろ……」

身を起こさないとこのまま惰眠を貪りそうだ。

目覚ましを欲したピエトロは一階に降りて、キッチンにあるインスタントコーヒーを作る。味にうるさかった父とは違い、ピエトロには食へのこだわりがないので、立ち上る湯気は安っぽい香りしかしない。

ちなみにキッチンは伊東という暴風に荒らされた後、彼が綺麗に片付けている。二時間もかかった。

ピエトロは、カップを持って背もたれの高いソファに座り、いつもの習慣でテレビをつけたが、狙いすました様にエンリコが謎の死亡をしたという報道をやっており、画面は再び黒へと戻る。

「はぁ……」

溜息一つついてから、目の前のテーブルの上に置いてあったタオルを手に取った。カルロからもらったそれを。

「…………」

 たかが、安物のタオルだというのに、自分の心が落ち着いていくのが分かる。これは、今や表の人間との繋がりの証となっていた。

それというのも、この前、教会から家に帰る途中で、良くも悪くもカルロと親交を深めたためなのだろう。

カルロはピエトロの人間観察力に強い関心を示していた。あの日一緒に帰りたがったのはそれを聞き出すためでもあったようだ。推理小説好きが高じて、高い洞察力が欲しかったのだろう。ピエトロは、少年の表の生活を教えてもらうことを交換条件に、カルロに観察眼を鍛える方法やコツを教えた。

カルロは学校でピエトロの読み通りの生活しているらしく、自分への分析が見事だったことを彼らしい遠回しな言い方で賞賛してきた。

そして、そのお返しに彼は観察術のやり方を教えた。しかし、ピエトロの考えを読んだ少年にしては意外にも飲み込みが悪かった。言い方を何度か変えて教えるのだが、少年はなかなか得心が行かない様子だった。

だが、指導が悪かろうが、話の内容が他愛無いものだろうが、彼にとっては表の少年との語らいは非常に心地よいものだった。近くのカフェに入ってつい長話をしてしまう程に。

しかし、それをここ二日間ぶっ続けで、しかも数回来た依頼を蹴ってまでやってしまった点については後悔していた。

「……あぁ、そうだ。今日はエルダさんの所に行くんだったな」

ふっと頭に浮かんだ依頼という単語が彼の今日の予定を思い出させてくれた。とりあえずその悩みは記憶の引き出しにしまい、タオルを丁寧にたたむと、コートを着た。

今日は仕事の報酬を受け取りに行く予定だったのだ。



人々が集まり、賑わう範囲を正確に読むのは難しい。

祭りで人が集まる時、祭りの内側と外側、その曖昧な境界を判断するのは至難である。

内側ならば祭りに意識が行き、外側ならば、祭り以外の物に目が行くもの。だが、その境界は入口であり出口、すなわち通過するだけのものであるため、人の意識はその境界そのものには向けられることはない。

この探偵事務所は、賑わう中心街を起点にして、その境界を跨ぐこのビルで営業しており、ピエトロはその建物の前に立ち、このレンガ造りのビルの存在感の薄さを改めて感じた。

この建物は人の目を全く引かない。丁度人々の意識に入らないような位置に立っているのだ。道行く人々を見てもこのビルの両側にある本屋と美容院にはそれなりの集客があるのだが、そのビルの一階にあるパスタ専門のレストランは、閑古鳥の巣窟と化している。

そして、そういう目立たない場所にこそ、業界の人間は巣を張る。

この三階建ての建物の内、二階のエルダ探偵事務所と、三階の銃砲店の営業が長く続いているのは、実はそれらが裏社会の息のかかった店だからだ。それ故に、客足と注目度は同じでも、一階と二、三階の収入には歴然たる差がある。

そのため、一階のレストランは彼が知る限り、既に五回以上は色んな店が営業を始めてはすぐに閉店となっている。以前、珍しいことに日本の寿司屋を始めた者がいたのだが、案の定すぐにつぶれてしまったために伊東が嘆いていたことがある。

ピエトロはそれを思い出し笑いしながら階段を上り、エルダ探偵事務所の扉を勝手知ったる我が家のように開けた。

「……分かりました。夕方以降、お子さんがどこに行っているのかを調査すればよろしいのですね? ……はい……はい……」

ガラス窓を背にして執務机に座っている女性が電話で対応しながら、ピエトロを睨んできて、ひらひらと無造作に手を振ってくる。それは「いらっしゃい」と言っているようにも「帰れ」と言っているようにも見える。とりあえず、彼女の性格からいきなり『帰れ』は考えられないので、ピエトロは事務所に入った。

と、入る前は気づかなかったが、部屋の中では耳障りな騒音が響いていた。

ピエトロは、音の発生源である部屋の中央に配置された応接用のテーブルとソファ、そのソファの背に隠れた人物を確認する。

「…………この男は、本当に遠慮が無いな」

来客用に使う茶色のソファの上に、ウイスキーのボトルを片手に、顔には裸の女性が写っている雑誌を乗せた伊東が、いびきも高らかに眠っていた。

おそらく昨日からいたのだろう。同じく来客用であろう長方形のガラステーブルは、ビールの缶や酒のボトル、ツマミにピザが残り数片、などなどによって盛大に汚されていた。

ピエトロは彼女が不機嫌な顔をしている理由が分かった気がした。

「……はい。ではまた後日に。……ピエトロ。その自堕落な熊をテーブルのゴミと一緒に捨ててきてちょうだい」

その女性は電話を切るなり営業口調はなりを潜め、やたら尊大な物腰のハスキーボイスで言ってくる。

それと同時に執務机の中から紙包みを取り出すと、ピエトロに渡す。

エルダは、外見は二十代後半で、小麦色の肌、ウェーブがかかった透き通るような長い銀髪に茶色の瞳、白のワイシャツに黒のジーパン、黒いハイヒールというラフな格好をしている。ワイシャツのボタンが上から数個が外されているが、そうでもしないと胸元がキツイのかもしれない。彼女はそれだけスタイルが良い美女だった。

彼女は、表向きは探偵業を営んでいるが、本業は殺しの依頼を受け、それを業界の殺し屋達に仲介する斡旋業をしている。

彼女を仲介することで、殺し屋と直接的な関係を持つ必要が無いため、一般人は気軽に非合法な依頼を頼むことができる。その仲介手数料をもらうことでこの探偵事務所は潰れずに済んでいる。

「すみませんね。エルダさん。……さて、おい、リュウイチ。起きてくれっ」

ピエトロは、彼女から報酬の入った紙包みを受け取ってポケットにしまいこむ。

捨てるかどうかはさておき、彼は伊東のネクタイを引っ張って乱暴に起こそうとするのだが、雑誌がズレ落ちたために抑えられていたいびきの勢いは却って増すばかりで、起きる気配は微塵もない。

眉間の皺をより深くしたエルダは煙草に火をつけ、親指で隣の部屋を指す。そこにぶち込めということらしい。

ピエトロは外見に似合わず、伊東の巨体を軽々担ぎ上げて隣の部屋に運んでいった。

その部屋はエルダの私室兼書斎なのだが、そんなプライベートな空間に寝かせて良いと言う辺り彼女の面倒見は意外に良い。

部屋の一面を占める大きな本棚の中には、大量の本とファイルが収められており、他には木製のデスク、パソコンに化粧台、ベッドが置かれている。女性の部屋にしては飾り気がなく、質素だ。

彼女のベッドを使うのは憚られたため伊東は床に寝かせ、ピエトロは小さく溜息をつく。

すると――

「あ~、また会ったね~、ピエトロ~」

後ろから聞き覚えのある声、弛んだゴムのような口調が聞こえてきた。

壁際にあった椅子に座って、ファイルを読んでいたその少女は、初対面の時とは違い、白いだけの地味なパジャマを着ていた。髪型も茶色のツインテールから銀のストレートに変わっている。

「……き、君は、この前の? どうしてここに?」

こんな少女がいるような場所ではないと思うのと同時に、二日前に出会ったのは偶然ではなかったと思い始めた彼だった。

「あたしの助手だからよ。可愛いでしょ?」

困惑したピエトロが少女に聞くが、一緒に部屋に入ってきたエルダが代わりに答えた。

「助手? こんな子供に務まるんですか?」

少女は、あのローラー靴で音を立てながら移動し、エルダの長い足に抱きつく。かなり懐いているようだ。

「危険が少ない代わりに、情報の漏洩防止や伝達とかが大変な仕事だからね。電話、手紙、口頭、色んな方法で依頼を受けたり回したりするけど、電話やメールは聞き耳立てたり覗き見されれば簡単にバレちゃうの。となると、やっぱり一番安心できる伝達手段は信頼のおける人間だけになるわけよ」

そう言って、ピタリと身を寄せている少女の頭を愛おしげに、しかしクシャクシャとかき回す。そのせいで髪型がかなり乱れるが、少女はまるで気にせずニコニコしている。

彼女も少女を可愛がっているようだが、まさか親子というわけではあるまい。エルダが腹を膨らませていた姿など見たことがない。

「それに、ぶっちゃけあたしの立場って、ハイエナの連中と大差ないからね。戦闘スキルのない落ちこぼれ。だから聞こえる陰口が結構あるのよ。癒しも欲しくなるわ」

 そうは言うが、彼女はピエトロから見ても十分に有能だと思う。一日に三十件近く来る裏の依頼を処理し、場合によっては内容に見合う報酬を依頼主と交渉する。しかも表で探偵業。これらを一人で捌いているのだ。生半可な処理能力ではパンクしてしまうだろう。

「なるほど。色々苦労されているようですね。……あ、そうか、分かった。どうりで既視感があったわけだ」

「「?」」

髪の色が似ている二人を見ていたら、少女に初めて会った時に感じた既視感の正体が分かった。

「その子、あなたにそっくりなんですね」

「あら、気づいた? そうなのよぉ。この子を見た時はほんと驚いたわよ。あたしの子供の頃にそっくりでね。間違いなく美人になるわ。あたしの様に」

あからさまに自分の美貌を自慢するエルダは上機嫌になり始めた。余程この少女を可愛がっているらしい。そして、少女の派手な服はきっと彼女の趣味だと彼は思った。

エルダの話に寄ると、一週間程前、伊東が犯罪組織の隠れ家に踏み込んだ時に、スナッフビデオ製作の生贄にされかけていたこの少女を見つけ、拾って来たらしい。

しかし、いくら人情厚い伊東とはいえ、そこまでの慈善行為はしないはずなのだが。

「なんでも、『無表情に足にしがみついてきて離れなかった。見捨てると呪われそうな気がした』とか言ってたわ。何が呪いよ。九ミリ弾なら弾き返しそうな体してるクセに」

 そう言いながら、エルダは寝ている伊東の腹を足で踏みつけ、ぐりぐりとにじった。しかし、そんな扱いをされて「おかわりッ!」という寝言を吐いたものだから、エルダに鳩尾を踏みつけられている。

「でも、この子とあんたが知り合いだったのには驚いたけどね。どこで会ったのよ?」

少女との出会いに関して簡単に説明したが、自分が殺しを躊躇っていたのを曲がりなりにも少女に救ってもらったことは伏せておいた。プロの肩書きを持っている自分の醜聞は広めるべきではない。

「あたしはお兄さんのこと知ってたよ~。酔っ払ったリューチが話してたし~、これでも見たしね~」

少女は先ほどまで読んでいたファイルをパラパラめくる。伊東の下の名前である「龍一」の発音が難しいのか、若干イントネーションが狂っていた。

ファイルには、業界で働いている人間の詳細が百人以上載っており、その中には伊東やピエトロ、美鈴の顔も当然入っている。仲介人の助手を務める以上、業界の人間の顔と居場所を知っていないと話にならない。エルダに言われて、それらの人物を頭に叩き込んでいるのだろう。

孤児やチンピラに仕事の一端を任せることは裏社会では珍しくないが、秘密の漏洩を恐れて、ここまで業界の情報を覚えさせることはしない。やはり、彼女にとってこの少女は特別らしい。

見せてもらって分かったが、このバインダー型ファイルに載っている業界の人間は、業界内での実力や任務成功率などが高い順に並べられているらしい。

伊東は三、ピエトロは六、美鈴は二十ページ目に詳細が記載されていた。

しかし、目の前でだらしなく大の字になって寝ているこの男が、国内でとはいえ、上から三番目の実力を持っているなど、にわかには信じられないピエトロだった。

しかし、それよりも――

「エルダさん。メイリンさんは、最近どうしてるんです?」

美鈴の実力は、幼い頃から変わらずピエトロを上回っている。だというのに、彼女の順位が彼を下回るのはおかしいと思ったのだ。

「リュウイチの話だと、今は日本でがっぽり儲けているそうよ。中国拳法の講師をしながら、ヤクザの護衛をしているんだとか。あたしはこの辺りの依頼を斡旋しているにすぎないから、日本での彼女の動きは分からない。……でも、あそこは世界的に見ると、治安が安定してて、業界の仕事がほとんどないことで有名だから、儲かるわけがないと思うんだけどね」

「よっぽどギャラのいいところで働いてるのかしら?」などと呟きながら、エルダは腕を組んで何やら考え出す。

ピエトロは安心した。先走って最悪のシナリオを想定していたが、彼女は元気でやっているらしい。それが分かっただけでも十分だった。

同時にその話を聞いて日本に強い興味が出た。

治安が良いということは、簡単に犯罪が行われないということで、日本に行けば全く不自然なく仕事量は減る。勤勉で規則と時間に厳しい人間が住む国と思うと気が滅入るが、安全な生活が保証されていることでは群を抜いていることで有名だ。

「エルダさん。僕も日本で仕事がしたいんだけど……」

「ダメよ。あなたに仕事を頼む依頼主は多いし、ただでさえ、マリオとシルヴィアがソマリアに飛んでて人手が足りないんだから。いっそメイリンを連れ戻したい気分よ。もともと連絡も無しに日本に移住した子だしね」

「連絡も無しに?」

真面目な彼女が、そんな勝手な行動を取るとは考えにくい。

「ええ。かれこれ一ヶ月近く前に……確かミャンマーの三角地帯から香港までの阿片輸送のための護衛を中国マフィアに頼まれて、それっきりだったのよ。依頼完了の連絡も無かったし、その時死んでしまったものと思っていたけどね」

ミャンマーから日本への急な移動は確かに不自然ではある。しかも、この業界では最後に仕事をした日から一ヶ月以内に次の依頼を受けて仕事をしないと、仲介人の裁量で裏切り者と見なされて暗殺される。

しかし、どういうわけかエルダは期限を過ぎている美鈴を裏切り者と断じて、業界内の情報ネットワークに流す事はしなかったらしい。もしされていたら、間違いなく追手が向かい、その場で殺されていただろう。

「連絡、で思い出したけど、最近あんたのことを嗅ぎ回っている連中がいるらしいわよ」

 エルダがいきなり話を変えた。

「は?」

「あたしも詳しいことは知らないけど、あんたと会った時、最近の動向を聞けたらこっそり聞いて欲しいって、ルッチに頼まれてたのよ」

 ルッチと言えば、この辺りでは有名な情報屋だ。しかし、何故自分の情報を欲しがるのか? 単に実力や経歴ならば分からないでもないが、動向調査をしてなんの益になる?

「特に何もしてませんがね? というか、それを僕に言ってはダメでしょう」

 教会に行っている事は隠した。伊東の言う通りならば、周囲に広めるべき事ではないだろう。

「あいつは守銭奴だからね。これが良ければこっそり聞いてたかもね」

 エルダは、人差し指と親指で丸を作りながらそう言った。思わず彼は笑ってしまう。

 ともあれ、自分を嗅ぎまわる人間がいること自体は頭に入れておくべきだろう。相手の意図も全く読めないし、用心に越した事はない。

と、ピエトロが少し思案していると、彼の視界の下から白く小さな手が差しこまれる。

「ピエトロ~。あたしはフランって言うの~。よろしくね~」

唐突にそう言ってくる小さな少女。彼女の様子を見るに先ほどから自己紹介したくて仕方なかったようだ。二人の会話を邪魔しないように大人しく待っていたのだろう。

「へえ、フランか。良い名前だな」

良い名前かどうかは分からないが、腰を落としてからフランの握手に応じる。

ニコっと、その少女は無垢な笑みを浮かべる。その顔にはまだ裏社会の影がかかっていない。今ならまだこの子は引き返せるのではないだろうか。

子供の頃から業界で生きることを義務付けられる人生を歩まされるなど、あまりに酷い話。知らず知らずの内に業界に浸透させられ、気づいた頃には逃げることもできなくなってしまうのだ。

今握っている小さな手が、これから多くの悪事を任されることを思うと、彼の胸はどうしようもなく痛む。しかも、運が悪ければ――

「エルダさん。この子……」

「あんたの甘い性格、治らないわね。……心配しないでよ。人殺しはさせないし、危険なことにも巻き込ませないから。もっとも、あたしの後釜にするために、その他の仕事は幅広く教えていくけどね」

彼はその顔を見て少し安心した。観察術を使うまでもない。エルダの少女を見る目には明確な母性と愛情がこもっていたからだ。

「てなわけで、フランちゃん。おじさんとこれからデート、ディナー、ホテル、そして朝帰りしましょうね~」

いつの間にか起きていた伊東は、本気なのか冗談なのか、少女の手を取って大笑しながら部屋を出て行く。唐突な出来事を理解できず、目を丸くして引っ張られていくフラン。

「ちょ、待ちなさい。このエロ熊ぁッ、あたしの子に何するつもりよッッ!?」

「もちろんナニだが!? げあ~はっはっはっは」

そして、先の優しい視線とはうって変わって、子の仇を見る目つきをするエルダが伊東の背中を蹴りまくるのだが、その逞しい肉体故か毛ほども効かず、お返しとばかりに爆発的な笑い声をぶちまけてくる。

「おい、リュウイチッ。冗談でもヤバいって、っと……?」

慌ててピエトロも伊東を追うのだが、先に追っていたエルダがドアの前でいきなり立ち止まったので、急停止を余儀なくされる。

「どうしました?」

問うピエトロを無視して、エルダはポケットから取り出した携帯の受信メールをじっと見た後、彼女の雰囲気は大きく変質した。

「待ちなさい。リュウイチ」

 声が違う。どんな鈍い人間でもそのことに気づいたに違いない。

声が低くなったとか、怒気がこもっているとか、そういうことではない。それこそ、曖昧な祭りの内と外の境界を、表と裏の隔たりを掴む感覚、すなわち第六感とも言うべきものが、聞く者に確たる違和感を覚えさせる。

それを証明するように、いくら静止しても聞かなかった伊東が、ピタリと歩みを止める。ピエトロは、彼女の続く言葉が分かってあからさまに渋い顔をした。

「……依頼が来たわ」

そう言ったエルダの声は、人を死に至らしめる冷酷さと、全てを己の利益に繋げる無情さを秘めたものとなっていて、ピエトロは深く溜息をついた



空が赤くなり始めた頃に、彼はサン・カンチアーナ教会へやってきた。

礼拝堂に入って一番手前の左側の席に座り、両手を組んで目を閉じる。だが、もちろん祈りに来た訳でも、懺悔をしに来たわけでもない。

誓いに来たのだ。あいつを煉獄にたたき落とすことを、かの者達に約束する。

そうだ。あいつはただでは殺せない。自身と同じ屈辱を、いやそれ以上のものを与えなければ気が済まない。殺すのなら、まずあいつと親しい人間を目の前で殺してからだ。

情報屋から得た話によると、伊東龍一とホン美鈴がそれにあたるが――

「無理だろうな」

その二人は、業界でもトップクラスの実力者らしい。ならば誘拐も暗殺も容易ではないだろう。

 だが、当てがないわけでもない。奴を苦しめる方法は残っている。ここに来たのはその当ての有用性を確認するためでもあった。

「あなたはこの間の方ですね? どうかなさいましたか?」

自分の苦悩を吸い出してくれるような声が彼にかけられる。

噂をすれば影とは言うが、まさか本当にその当てが来てくれるとは。

「何かお悩みでも? 私で良ければ相談に乗りますよ」

「ま~たあんたは、どうしてルチアーノ神父に懺悔を任せないのん?」

 聖母を思わせる修道女の後ろで、怠惰を顔に張り付けた修道女が溜息混じりに言う。確かに懺悔は神父の仕事だ。それは本来修道女の役目ではない。

「お祈りと清貧だけでは神の使いと言えないわよ。主がそうされたように目の前で困っている人は救わないと」

「そりゃあ、そうだけどさ」

確かに、聖職者の鑑と言える慈悲深い言葉だが、彼にとっては余計なお世話だ。

自分は別に修道女の手による救いなど求めていない。自らの救済は自らの手をもってして初めて達成されるのだ。

「ベツに、俺はタスケテくれなんテ言ってナイが?」

たどたどしい言語でそう言う。

「でも、あなたは苦しんでいるのでしょう? あなたの心の中は、悲しみと怒りが渦巻いています。それは一人で抱えていてはいけない感情です。親しい誰かに話して解いてもらうべきです。私にその悩みをぶつけてもいい……」

「シャラップッッ」

その怒声は教会内に反響する。教会内にいた、数人の修道女と訪問者の目が彼らに向く。

「テメエには分からネエよ。そんなオメデタイ脳ミソじゃなおサラだッッ」

 なんだってこの女は人の心にずかずか入り込んでくるのか? しかもこちらの内心を正確に言い当ててくるのか? まるでこいつの手の上で踊っているような感覚さえしてくる。  

気に入らない。

「……も、申し訳ございません」

彼の破裂寸前の怒りを受けたせいか、目の前の修道女は深く項垂れた。後ろの修道女も「ほら見たことか」という顔をしている。

「……なあ、アンタ。悪いとオモウならさ。ピエトロ=べレッサとどういうカンケイかオシえてよ」

唐突な発言に彼女は驚いた。訳を聞いても彼は「いいから」とはぐらかすだけだ。

「……別に深い関係では。ただ、私は今の人生に絶望なさっている彼を救おうと、そう思ってるだけです」

「……アイツも、あんたをタヨリにしテルのか?」

「……おそらくは。ここへは二度も来て下さいましたし。お話をした後は、どこか満足そうなお顔をしてくれます」

 それだけ聞いて、彼は今日初めて愉快な気持ちになった。

「うっはははは、オーケーオーケー。アンタは合格ダヨ」

意味の分からない発言に、二人の修道女は小首を傾げるだけだが、本人が満足したならそれでもいいと思ったのか、二人もぎこちない笑みを返す

「じゃ、セイゼイあいつを救ってやってクレ」

彼は投げやりな口調で言い、礼拝堂を後にした。

 


「坊ちゃん」

「レナード」

 教会の外で待機していたらしい、そろそろ白髪が見え始めた初老の男性が、話かけてきた。レナードの外見は黒いスーツ姿にサングラスというSPを思わせる格好だった。威圧感がある上に無表情だが、不思議と無情ではない雰囲気を醸す人物だった。

「本当にやるのですか?」

「ええ、もちろんです。これで僕の望みは叶うんですから」

 先ほどまで修道女に見せていた剣幕はどこに行ったのか、彼は酷く穏やかな口調と顔で応じた。

「…………坊ちゃん」

 レナードは頭を押さえながら、酷く苦しそうに話しかける。

「はい?」

「……いえ、何でもありません」

はっきりしない部下の様子に彼は首を傾げながらも――

「今夜、しかけて下さい。そうすれば、奴の逃げ場を無くせますから」

「……分かりました」

 レナードにそう命じた彼は、ピエトロが泣き叫ぶ様を思うと同時に、大人も腰を抜かす程醜悪な笑みを浮かべていた。



「敵残存数は?」

「ゼロ」

「こちらの損傷は?」

「ゼロ」

無線でのやりとりが小型のインカムを通してピエトロの耳にも届く。

仕事の完了を確認して、彼と、その周りにいる男達は拳銃をホルスターに収めた。

ここは、高層ビルのアンティーカ、その四十四階にある会議室だ。壁の一面がガラスで覆われていて、本来ならここからの夜景は美しかっただったろうが、ガラスに飛び散った血と肉片を通して観る夜景は、尋常な精神では許容できるものではないだろう。

 この細長い会議室の中央には巨大な葉巻の様な、楕円形のテーブルが置かれ、その周囲を革製の回転椅子が囲っている。もっとも、今はどれも銃弾で穴だらけになるか、打ち倒されている。そこに座っていた者達と同様に。

「いやぁ、簡単だったね。ピエっちにヴェロっち」

「こんなクソ仕事に十人も必要だったとは思えねえ」

「まあ、ともかく無事に終わって良かったですよ」

 確かに楽な依頼だった。もっとも、それはピエトロとこの二人がいたおかげであるのは否めない。他の七人だけでは手こずるか失敗していただろう。

 貿易商社を表向きの看板にして、裏で麻薬や武器を売ることで急成長した犯罪組織の本社がこのビルだった。そして、今日は幹部達の会議がある日だったため、この日に暗殺計画が決行された。七人が、脱出路の確保とモニタールームを抑えてセキュリティを落とし、この三人で幹部とその身辺警護の者を殺していった。

「ま、とりあえず、ヴェロっち。上行かない? たぶん結構金目のモンがあるぜ?」

他人をおかしな名で呼ぶ、三十代前半で中肉中背のその男は、名をマルコという。顔を覆うセミロングの金髪の上に麦わら帽子を被り、派手なアロハシャツに半ズボンの水着を着用するという、場違いにも過ぎる格好をしている。

「ああ、俺はちぃと後始末をしてから行く」

 気怠げに応じた四十代前半で長身のその男は、名をヴェロッキオと言う。茶髪をオールバックにして、白のワイシャツに青のジーパンという身軽な格好をしていて、右頬に大きな切り傷があるのが特徴だった。

彼は汚れてない椅子に座って煙草をふかしつつ――

「全員、会議室まで来い。……いいから来いって。美味い話がある」

 無線を通して、階下で仕事をしていた七人を呼んだ。

 ピエトロは内心で小首を傾げる。その指示は予定とは違う。計画では、速やかに地下駐車場から脱出する手はずになっている。彼らを上に呼ぶ理由がない。

「じゃ、ピエっち。俺等は先に行こうぜ」

 マルコがピエトロに向き直り気楽な口調で言ってくる。

 豪勢なことにこのビルの最上階は、この犯罪組織のボスとその家族の別荘となっている。そこにあるであろう高価な調度品や金庫を狙うつもりなのだろう。

 だが、彼はそんなものにも興味はないし、依頼以上の悪事を重ねたくはなかった。何より――

「いえ、僕はこの後、別の仕事が……」

あります、と言いかけたピエトロは、会議室の外から感じた気配に反応し、廊下に躍り出て気配の主に銃を向けた。

「ひぃっひぃぃぃぃ」

廊下を抜き足で通り抜けようとしていたその者は、銃を向けられた事で腰を抜かして足元から崩れた。

「お~でかした、ピエっち。よく気づいたねぇ」

 何を言うか。とピエトロは内心で呟く。ここにいる三人が壁の向こうにいる人の気配程度を感じ取れないわけがない。マルコは当然気づいていただろう。ただ自分で抑えるのが面倒だっただけだ。

「おっほほ、ボスの娘だよこいつ。上から逃げてきたんだな。……へぇ、上玉じゃんか。ちょっとこっちに来なよ」

そこにいたのは年が十五、六程の少女だった。ショートの黒髪に、上はタンクトップ、下はショートパンツにロングブーツという出で立ち。

ピエトロは唇を噛んだ。てっきり護衛の生き残りだと思ってつい抑えてしまったが、まさかこんな少女とは。

モニタールームを乗っ取った際にエレベーターを停止したため、この娘が最上階から下に逃げるにはこの会議室前の廊下を通る他なかったのだ。

「いや、いやああああああああああ」

マルコの脇に抱えられて会議室の中に連れていかれる少女。手足をばたつかせるが、大の男に力で敵うわけもない。

「マ、マルコさん。その子は標的に入ってないッ」

ピエトロは咄嗟にそう言ったが、振り返ったマルコは奇怪な生物を見る目で、狼狽する青年を凝視した後、ヴェロッキオと目を合わせ、再びピエトロを見た。

「おいおい、ピエっち。TPOって知ってるか? 面白いギャグだが場違いだよ?」

 失笑しながらテーブルの上に彼女を仰向けに乗せるマルコ。

 この場において、味方になりえる存在だと感じたのだろう。少女が捨てられた子猫の様な目をピエトロに向けてくる。

「や、やめろと言ってるんです。その子は……」

「やめんのはおめえだよ。ボケ」

 ピエトロの言葉が起こされた撃鉄の音に遮られる。彼の背後では、ヴェロッキオが彼に銃を向けていた。目の前では、マルコも懐の銃に手をかけている。

「くぅッ」

 自分は何をしているのか。業界内で怪しい行動をしたら殺されると伊東から忠告されたばかりなのに。こんな反抗をしたらその後目をつけられるのは当たり前ではないか。

だが、みすみすその娘を殺されても良いものか? またあの時の少年の様に不幸に巻き込むのを許していいものか?

 実力的にヴェロッキオを倒すのは難しくない。銃を突きつけられたこの状況でも形勢を覆すこともできる。だが、目の前のマルコは自分と同等の実力者だ。ぶつかればただでは済まない。いや、間違いなく、死ぬ。

 ピエトロはこの二人と、力足らぬ自身にまで憎悪を放ちながらマルコに背を向けた。

もちろん、心では少女を救いたい。だが体は手を出さずに去るのが最善であると伝えている。そして、それこそが正解だ。心の判断では確実にここで殺されるだろう。

「何より大事なのは、自分の命」。伊東達ならそう言うだろう。だから、業界の非道は見過ごすべきなんだ。ピエトロは自分にそう言い聞かす。

「大丈夫だよ。ピエっち。この子を人買いに売れば、薬漬けにされて何も考えられなくなるからさ」

 ピエトロは拳を強く握りしめる。

「おら、この後仕事があんだろうが。とっとと消えな」

 ヴェロッキオがアゴで部屋の扉を指す。

言われるまでもない。ピエトロが部屋を出るべく扉に手をかけた時、丁度廊下から下で妨害工作をしていた七人の男達が入ってきた。

「おい、ヴェロッキオ。美味い話ってのはなんだ?」

 その七人の男の一人が、良いネタ欲しさにねっとりとした笑みを浮かべて聞く。

「ああ、それはな……」

 突如発生した殺気にピエトロは戦慄しながらも、体は条件反射で男達の近くから離れた。

「お、おい。よせッ」

そして、その男の表情も笑みから驚愕へと変わる。

突如響いた銃声と共に飛び出したデザートイーグルの五〇口径弾が、その男の顔から驚愕すら奪い、後ろに立っていた者の顔にも貫通して潰していく。計五発の弾が七人の男達の顔か心臓に大穴をあけ、撃ち倒していった。後に残るのは、怯え切った少女が垂らす涙の音さえ聞こえる重い静寂のみ。

「俺等の報酬の取り分が増えるって話だ」

ヴェロッキオはほくそ笑みながら、銃をしまった。

「……あ、あんたっ。あんたなにしてんだよッ?」

 信じ難い光景にピエトロはヴェロッキオに詰め寄る。

「ああ? 何だ、まだいたのかよ? 心配しなくてもどうせハイエナが死体を処理するさ」

目の前の長身の男は面倒くさそうに頭を掻きながら言った。証拠は隠滅されるから仲間殺しも問題無いと。

「そんなこと聞いてない。仲間を撃つなんて、気でも狂っッ!」

 殺気と銃声を受けたピエトロは、糾弾を止めて瞬時にその場から一歩引く。と同時に一瞬前まで彼が立っていたところを横から銃弾が通り抜けていった。

「ピエトロ。そろそろ善人ごっこは、終わりにしような」

 マルコが普段らしからぬ固い呼び方をしたということは、つまり、協力者としても見なされなくなったということだろう。今彼が撃った弾は、十分に避けやすいように放たれていたが、それは最後通告でもあったはずだ。次何かしたら今度こそ――

 ピエトロは、肌に爪が食い込む程拳を強く握りしめながら、その場を去った。少女が救いの眼差しを自分に向けているのを感じながら。

 彼が退室した直後から聞こえ始めた、引き裂かれる衣服の音と少女の悲鳴は、ピエトロがビルから出るまで止むことなく響き、熱した刃と化して彼の心を斬り刻み続けた。

 

 

 サン・カンチアーノ教会の裏に建てられた宿舎では、何事もなく祈りと奉仕という労働を終えた修道女達が、今日という日が無事に終わったことを主に感謝して、ベッドの柔らかさと温かさに身を預け、幸福な眠りへと落ちている。

しかし、一人の足音がその宿舎の静寂を乱しながら、大理石でできた廊下を進んでいく。

消灯時間であるため、灯りは必要最低限しかついていないが、窓から流れ込む月の光が十分にその代わりを務めてくれる。

廊下の突き当たりにある部屋。その扉の前まで足音が近づいて、止まる。

しばらくして――

「……何をしているのです? 入りなさい」

部屋の主が、足音の主にそう言った。発せられた声の高さから女性の喉を通ったものだと分かるが、それにしては重みのある声だった。

「失礼します」

足音の主は、部屋の主にそう断った。鈴を転がしたように玲瓏な声を廊下に響かせて、扉を開ける。

部屋の奥には中年の女性が、書類や本が無造作に置かれた仕事机で事務処理をしている。机と棚だけが置かれた質素な部屋だ。整理された棚に反して机の上は汚く、やり始めたジグソーピースの様な書類の散乱具合だった。

顔は机に向けたまま、その女性は聞いてきた。

「……シスターマリア。消灯時間は過ぎていますよ?」

「申し訳ありません、院長先生。ですが、私は今ある悩みを抱えていまして、それが気になって眠れないのです。……相談に乗って頂けますか?」

しばらく沈黙が続き――

「……そこの椅子にかけなさい」

院長は言いながらペンを置いて、書類をまとめ、机の引き出しにしまい始めた。

シスターマリアは、部屋の扉付近にあった椅子を、仕事机近くまで持ってきて腰かけた。

「……どんな悩みですか?」

別に規則違反に対する怒りも含まれていない、ただの質問だというのに、彼女はわずかに委縮する。

会う度に、声を聞く度に、この院長は聖職者らしくないと思う。

その声は聞き手の体に数倍の重みを加え、目つきは剣のように鋭く、見つめる者の心を例外なく刺し貫き、切り刻んで中身を暴こうとする、と言っても失礼に値しない程に鋭い雰囲気を醸しているのだ。修道女よりも騎士を思わせる人物で、彼女の放つ空気はそれだけ鋭く、冷ややかだった。

しかし、こう感じるのは彼女位のもので、アンジェリカをはじめとする他の修道女は声の重み以外は感じないらしい。顔は怖いが、美人だし、声音は優しいし、目つきも温かみを感じるとすら言っていた。他にも、年が四十代前半とは思えない程若く見え、仕事に実直で、厳しいわりには面倒見がいいので、憧れている修道女達は多いとも。ただ、笑わないのが欠点らしいが。

 面倒見がいい点には彼女も大いに賛成している。だからこそ、声と目つきのプレッシャーに耐えながらも、今までに何度もここへ来て話を聞いてもらってきた。

そして、今夜も。

「私は、ある男性のお悩みを解消してさしあげたいと思っているのですが、かなり複雑なものらしく、なかなか解決の糸口が見つからないのです」

彼女は、その男性の悩みや問題点を全て話した。彼から得たどんな細かい情報でも語って聞かせた。

「…………それで、あなたはその男性が罪を犯した、または犯罪組織に関わっているのではないかと危惧しているわけですね?」

シスターはグロテスクな物を見てしまったかのように、さっと院長から目を逸らし、小さく頷いた。

聡明な院長は、シスターから男性の情報を聞いただけで、シスターマリアが出してしまった結論をも先読みしてきた。

「…………残念ですが、シスターマリア……」

暫く熟考した後、そう言いながら院長はゆっくりと椅子から立ち上がり、彼女の方に近づいてくる。

「その男性は、真実、悪に身をやつした者でしょうね」

目の前でシスターを見下ろしながら院長は言う。反射的に顔を上げて何かしら反論しようとしたシスターを、しかし、院長は続く言葉で抑える。

「何故なら、その男性の祈りは、おそらく主への敬慕ではなく、己への赦しです。積み重ねた悪行から来る体の汚れを洗うために神に祈っているに過ぎない。……神への祈りは、他者への慈愛。己への赦しを求めるのは自己の欲望を満たすだけもの」

この院長は、神を信仰し永遠の愛を誓いながらも、その実、人間への救いは人間の手によってもたらされるという現実的な考え方をしていた。故に、神という偶像からの虚構な赦しを得て、心の安らぎと罪の解消を得ようとするその男性を良しとしない。

「院長先生。それでも彼は良き人物です。罪を重ねていたとしても、神に赦しを乞うということは、自身を悪と認め、改善しようとしている証拠のはずです。彼は……善人です」

シスターはいたたまれなくなって、強く否定する。

彼女は見た。彼女は知っている。悲痛な表情から伝わってきたのだ。彼の心の痛みが、魂の苦しみが。悪人であるなど信じられない。彼女は彼の優しさを知っている。以前カルロにからかわれていた自分に対するさりげない助けにも気づいていた。そんな彼は悪人とは程遠い人物であるはずなのだ。

「……ええ、その男性は、真実、善なる心を持つ者でしょうね」

「?……は、はあ」

一転した意見を言う院長の言葉に、シスターは小首を傾げて院長の矛盾を示す。

「……その者の肉体は悪に染まっていますが、心は善に満ちているということです」

「……?」

シスターの頭は傾いたまま戻らない。

「……悪行を積んだものがそのまま悪人というわけではありません。善行を成した者が聖人たりえるわけでもありません。……心と肉体に宿る善悪は決して連動しているわけではないのです。完全なる善悪となるならば、その者が心から望んで善か悪を成した時のみ。

悪魔のような心でもって悪を成す。または人々の幸福を夢見て善を行う。そこで初めて、心と肉体の善悪は一致します。

しかし、その男性はかなり稀有な存在のようです。おそらくその者の心と肉体は完全に互いを否定し合っている。悪を行う体と純白な善を求める心とでね。……哀れな人」

鉄面皮とも言えるその無表情が動いた。微々たるものだが、両のまなじりに向かって眉が下がる。

「……ですが、どんな人物であろうとも関係はありません。主の教えに導かれる私達には、どんな悪人でも善人でも見捨てるという選択肢は無いのですから。その者が望んでいるように、等しく他者を助け、愛せる人生を歩めるようにしましょう」

院長は、その男性は救われるべき存在であると言った。しかも、自らもその男性を救うことに協力するとさえ言ってくれた。

「院長先生……ありがとうございます」

「模範生のあなたには、それなりの褒美をあげるべきだとも思っていましたしね。立場上、一人の人物に肩入れするのは控えるべきですが、特別です」

言いながら院長は腕を組み、部屋をうろうろと歩きながら思案を始める。

「…………察するに、その者は悪行を強要されていると言ったところでしょう。しかし、その者はその仕事とやらを辞められない。……辞めたら重い罰を受けるのかもしれません。だから、仕方なく悪事を働き、それに耐えられず教会で懺悔を……と、そんなところでしょう。まずは、彼をその仕事から切り離すところから始めないといけないでしょうね」

院長の飲み込みの速さと、思考の柔軟さに驚嘆しつつ、シスターマリアも思考を巡らすのだが彼女の人生経験と知識では、昼間彼に伝えた方法が考えうる限界だったため、既に思いついた策を頭の中で反芻することしかできない。

「……シスターマリア。今日はもう遅いです。部屋にお戻りなさい」

ふと、院長は目の前の物に目を止めると、思い出したように言った。院長の視線の先を追ったシスターはその指示に納得する。

時の流れは早いもので、二人の視線を集めた振り子の揺れるアンティークな置き時計は、既に彼女が部屋に訪れてから一時間以上経過してしまっていることを告げていた。消灯時間をかなりオーバーしている。

「はい。夜分に失礼致しました」

シスターは椅子を元の位置に戻すと、深々と一礼してから退室しようと扉のノブに手をかける。

「シスターマリア」

呼び止められ、振り返ったシスターに、院長は言葉を送った。

「善なる心は善行を蓄えた体に宿り、悪の心は悪行に耽った肉体に宿るもの。その者は、善行を積むことできっと救われるでしょう」

そう言って院長は、僅かに口を綻ばせた。それは太陽の動きを目視する程に微々たる差であったのだが。

院長に笑みを返したシスターマリアは扉を開けて、一歩外に出たところで、突如膝から崩れ落ちた。

「シスターマリアッ!?」

目の前でいきなり倒れた彼女に、流石の院長も狼狽した。

「マリア!? マリア、しっかり」

院長が駆け寄り、彼女を抱き起こしながら容態を見る。呼吸は荒いが、特に熱があるわけでもない。念のために確認した脈も安定している。

「あ、……大丈夫です。私は、元気です」

 幸いにも彼女には意識があった。元気と言う割には声に力がない。貧血か何かか、とにかく重いものではないのだろう。院長の緊張は緩むが、暫し考えた後シスターマリアに聞く。

「……あなた、寝つけないのは今日が最初ではありませんね?」

 抱かれたままの彼女は、隠し事がバレた子供の様な居心地の悪い顔をしながら頷く。

 まさか、その男性に関してそこまで思い悩んでいたとは。本来、人々から懺悔を受けるルチアーノ神父の代わりが務まる程、他人に尽くし、その悩みを解く彼女の献身はこの教会では有名だが、ここまで自分を顧みないのは流石に問題である。

「睡眠不足による免疫低下での体調悪化は十分に考えられます。倒れた原因が不明な以上、念のため病院に行くよう命じます」

 院長は溜息をついた後、彼女にそう言いつけた。

 

 

 大通りに路上駐車している白いキャンピングカーの、運転席の真上に備え付けられたベッドで眠っていた彼は、携帯の着信音で目を覚ます。

「俺です。……そうですか。あいつはケルネ通りにいるんですね。それにしても何でこんな時間に? まぁいい、好都合だ。しかけて下さい」

会話の内容から相手は彼の部下か何かだと思われるが、相変わらず、普段の彼にある怒り任せの態度とは異なる。そこにあるのは嫌悪でも、下の者に対する優越でもなく、純粋なる感謝から生まれる柔らかい声音だった。

 彼は通話を切って、ベッドの下にある運転席に座っていた強面で黒スーツを着た男に命じる。

「ケルネ通りです。行って下さい」

 頷き返した男は、エンジンをかけて、指示された通りに車を走らせる。

――これであいつへの復讐がまた一歩近づくというもの――

 そして、相変わらず、少年がそう考えた時には既にいつのも憎悪でぎらつく眼に戻っており、その口元は邪悪に歪んでいた。

 

 

 ピエトロは、アンティーカ・ビルでの仕事を済ませた後、直接このケルネ通りにやってきた。深夜のこの通りは活気に満ちている。扇情的な格好をした女達が建物によりかかって客引きしたり、酒乱した男達が喧嘩をしたりと騒ぎに事欠かない。

そんな通りを、彼はバッグ片手にターゲットと共に歩いている。

 悪女。

それが、エルダから依頼を受けて、このターゲット――カタリーナ=カヴォスを一日観察して得た回答だった。おかげで、こちらの依頼にそこまで強い罪悪感を覚えることはないだろう。

一昨日、エルダの事務所に二つの依頼が来た。一つは殺人の依頼が、もう一つはパリからナポリに移動するマフィアからの護衛の依頼で、この仕事の依頼主は伊東を指名してきたため、彼に任された。

伊東は、「フランスは無駄に気取るから嫌い」という偏見に満ちたぼやきを吐きながら、四日後には帰ってくる旨を残して去っていった。しかし、「俺様の帰還を喜ぶために、十二年物の酒を用意しておけ」という余計な一言も残していったが。

伊東の依頼は、詳細を聞いただけでもかなり難度が高いものだと分かる。

この依頼をしてきたのは、シチリア・マフィアの傘下に下ることを認められず、組織から離反したユニオン・コルスの一派だが、裏切り者としてシチリア・マフィアに壊滅されることになり、腕利きの殺し屋を雇われて命からがら逃げ回っているらしい。

対するもう一つの依頼は、一般人から頼まれた非常に簡単なもので、ターゲットの女性をケルネ通りという小さな繁華街の裏路地で猟奇的に殺すというものだった。

エルダは、業界のネットワークにこの依頼を流すつもりだったが、伊東がピエトロに任せるように言ったため、彼がやることになった。

猟奇殺人をすること自体に臆することはないのだが、今回のターゲットがエンリコ同様に善行という護りを纏った悪人であることは、絶対にあってはならない条件だった。

故に、彼は昨日の残りの時間を使って標的を尾行し、その人間性を観察した。

カタリーナは家から出るなり、大学にも行かずに不良仲間とつるんで、年寄りや観光客を狙ったスリ、物を盗む等の横行を行い、その上彼女は夜になると自分の体を売っていた。

「くっ」

途端に先ほどのビルでの出来事が脳裏を掠め、彼は悔恨の滝に打たれるように項垂れる。

あの少女にはもう真っ当な未来はない。あの場で輪姦された後は、変態共の玩具にされる道しかない。運が良ければ内臓を売られて残りは犬の餌になるが、彼女の容姿からして前者の道を歩むだろう。

彼女の仕草や言動から分かっていた。あの娘は犯罪組織の娘ながら、闇に一切染まってない純粋培養の少女だった。あの様な非道を受ける謂れなどなかったはずだ。

「ねえ、おっさん。どこでヤるつもり?」

 記憶の中の少女とは真逆の印象を受ける女に聞かれ、彼は我に帰った。

「……ケルネ通りの路地裏だ。あのあたりは人の通りが少ない」

全く感情を乗せずに言葉を発する。正直この女とは口を聞きたくなかったが、ターゲットと共に殺害予定の場所まで移動するのが望ましい。気絶させたり、殺してから運ぶというのはとんでもない手間になるからだ。

「ホテルじゃないの? ま、いいけどさ。……でもさあ、変な穴場に詳しいね。もしかして、見かけよりもお盛ん?」

「……まあね」

下卑た彼女の言動に耐えることに神経を集中する彼の声は、どうしても冷たい響きを持ってしまう。そのためか、街をふらついていた彼女を誘った時、怪訝そうな顔をされてしまった。その声に情欲の色がなかったことに無意識にも気づかれていたのかもしれない。

ちなみに、ピエトロがおっさん呼ばわりされているのは、付け髭やメイクなどで中年男に見える様に外見年齢をごまかしているためだ。

大胆な仕事をする時のカモフラージュで、五通りある彼の偽りの顔の一つ。

ようやく目的の場所に入るための、建物と建物の間にある誰も気に留めないような小道が見えてきたが、同時に、やはり仕事に対する嫌悪感が、体中を虫が這い回るような痒みを与え、心が仕事を拒否するかのように痛み出す。

 一つ前の仕事が、あの少女を見捨てた事が気になって集中できない。そんなのは素人も同然の愚行だというのに。

――ともあれ、エンリコの時の様にならないのは幸いか――

そう思いながら、小道に入ろうとした瞬間――心臓が張り裂けんばかりに膨張したような、それでいて周囲の高圧に耐えきれず縮小していくような、矛盾を孕んだ感覚を覚えた。

これは言い様のない悪寒? 否、絶望? 否、恐怖? いや、畏怖だろうか? そのどれとも捉えがたい恐ろしい気配だった。まるで体中の毛を逆なでされる様な、体中の皮を引きはがされて心を覗かれたような、とにかくおぞましい感覚に捕らわれる。

その強烈な邪気が発せられてくる方向を振り向くが、その刹那の間に送り主は人混みに紛れてしまったらしく、その正体を掴むことはできなかった。

今まで一度も感じたことのない感覚だったが、おそらく殺気の類だろう。卓越した殺し屋達は皆、殺しに取り掛かる時は殺気を帯びる。

とは言っても、気合で人が死ぬ訳ではないのだが、殺気を向けられた対象は、否応なく死と隣り合わせになる感覚に襲われ、恐怖、萎縮し、正常な思考ができなくなる。

殺し屋によって程度差はあるものの、気絶させる程強いものから、冷や汗を流させる程度まで、と完全に本人の力量に左右される。おそらく近くで桁外れに強い殺し屋が仕事をしているのだろう。

しかし――

「誰だ? マリオさん達はシリアとソマリア、伊東はフランス、ジャンさんも確かドイツで仕事をしている。美鈴さんも日本。他にこんな気配が出せる人は……」

「? ……何ぶつぶつ言ってんだよ、おっさん。大丈夫だって。そんな警戒しなくても、簡単にばれやしねえんだろ? 声だって聞かれねえさ」

ピエトロの内心とは全く見当外れの事を苛立たしげに言ってくる女。

動悸がおさまらない程の恐怖にさらされたのは久しぶりで戸惑ったが、いつまでもこんなところに立っている訳にもいかない。

こびりついた不安を引きずりながら、ピエトロは女を連れて小道の影が作り出した闇に溶けていった。



ケルネ通りの建物と建物の間にある小道から、更に小さな脇道を通った先は開けた空間になっており、見たところそこはゴミ捨て場のようだ。

ゴミ箱が設置されているにも関わらず、あたりには分別もされないままのゴミが無造作に捨ててあり、腐臭が立ちこめている。

 いや、現状では既に腐臭など毛ほども気になりはしない。それ以上に鼻をつく鉄の香りと、一度吸えば胃の中身を逆流させる程の臓物臭がこの場に充満しているからだ。

 ここが殺風景なゴミ捨て場だったと誰が思うだろうか。地面や壁には赤いそれがぶちまけられており、一見すると大量のトマトを叩きつけたようにも見える。

この場所を彩っている原材料を知らなければ、それなりに豪快に描かれた絵に見えたかもしれない。いや、例え知らなくてもこの絵に心奪われる者は、やはり修復できない歪みを持った人間だけだろう。

例えば、何の意欲も無いままにこの作品を仕上げた作者を差し置いて、盛大に賛辞を贈るこの観客のような。

「すっげええええ。マジすげぇえ。神降臨だろ、オイ」

年齢は二十歳過ぎ。黒髪で焦点が定まっていないような目をして、病的に痩せており、肌は不健康で青白い。黒いジャケットに黒いTシャツ。そして黒いジーパンを着た中も外も真っ黒の青年が、プレゼントをもらって無邪気にはしゃぐ子供の様に興奮している。

本当に、全くもって、心底、邪気が無いというのは恐ろしいものだとピエトロは思う。

また、彼はこの出会ったばかりの黒いクライアントを早々に嫌っていた。本来なら、依頼人と殺し屋がセットでいるところを見られるのはまずいため、彼が事を済ませて小一時間立ってから現場に来るように言っておいたのに、この男には堪え性が無かったらしく仕事中にずかずかと入ってきてしまったのだ。

「騒ぐな。人が来たら面倒なことになる」

ピエトロは酷い棒読み口調で言う。

「何が楽しい? 他人の無意味な死の上に成り立った幸福が良いものなわけがないだろう」と、本当はそう喚き散らしたい思いを必死で抑えるのに集中しているせいだ。

そして、ピエトロは素早く、赤に染まったナイフを拭き、同じく真っ赤になったゴム手袋を外してビニール袋に入れる。

「分ぁかってるよぉ。あ~あ、ポリ公なんざいなきゃ自分でやってるのになぁ」

「…………」

この男の声と言葉は異常に彼の燗に触る。表の人間がワルぶって裏の事柄に足を突っ込みたがっているだけという印象を与える。ピエトロは肺の中を空にする勢いで強く息を吐く。胸に詰まった苛立ちをその息に乗せて。

彼はバッグの中に入れておいたもう一つの服装に着替えるべく、付け髭を外し、メイクを落とした。

「いやあ、良い物見せてもらったよぉ。俺ってばマジ感動して頭おかしくなりそうだったもん。だから、また頼むわ」

いくら気持ちを落ち着けても抑えきれない。無遠慮で無知蒙昧なる青年の言葉は、簡単に彼の怒りのボルテージを最大まで上げる。

表社会に生まれただけでも恵まれているのに、それに満足できずに裏の出来事にまで手を出してきた愚か者の一挙手一投足は、この未発達な殺し屋の心を土足で踏み荒らす。

しかも――

「……また、何を頼む? 憎かった女は死んだぞ? 他にも殺したい奴がいるのか?」

感情を殲滅して発したその声は、三流役者の棒読み口調のそれに酷似していた。

青年は持参したデジカメで、その絵画を余すことなく撮り尽くした後、小道の方にゆらゆらと戻りながら、答える。

「いやあ、別に憎くなんかなかったぜぇ。一言も喋ったことないし。ただ単に目に入ったから殺してもらったのよ。……意味わかんねえって顔してるじゃん? いいぜいいぜえ、あんたには敬意を表して、俺の壮大な計画を教えちゃうよぉ。今回殺してもらったのはさあ、あんたらの仕事っぷりを見学してぇ、要領つかんでその内自分でも殺しをできるようにするためなのよぉ」

青年はあっさりと自分が連続殺人鬼になるために精一杯修行していると宣言した。

悪行によって得られる怪しい快感に酔っているのだろう。陶酔したような口調と目は、酒を口にした子供の様に、無理な背伸びをした痛々しさしか感じられない。

「そうか、お前はあちらでは満足できなかったのか? だからこちら側に来たいと?」

そう問うたピエトロの顔は、今際の際を迎えた死体の様に表情を作らず、妙に解放されたようなものとなっていた。

彼は、これ以上この依頼主に問うべきではなかった。依頼主もピエトロに話しかけるべきではなかったのだ。

しかし、身の危険を感知できない青年は、ずかずかと彼に、そして彼の心の領域に踏み込みながら軽薄に言った。

「そうそう。マジ親とか、学校とか社会とか、日常生活ってウザい事多いんだよね。あんたもフリーな殺し屋なら分かんだろ、俺の自由を求めるピュアな気持ち? てかさぁ、それよりもあんたの殺しっぷりにはマジ感動しちゃってさぁ。あんた、めっちゃ活き活きバラしてたじゃん? 俺もそれやりたいわけよ。てか、俺ももっとガキの頃から裏社会に入れば良かったとふぉひょっは…………」

途端に気の抜けた声を出す青年。

一瞬、己の異常に目を白黒させ、生温かい様な冷える様な感覚を喉に覚えた青年は、反射的に下を見た。

呼吸をする度に、その喉からは赤い飛沫が飛び散った。

彼は、自らの喉から噴き出す赤いそれを暫しぼんやりと見つめた後に、思い出したように悲鳴を吐きだす。

「ひ、ひひゃあ、あ、あああ、あああああああ」

当人にとっては全力の声量によるものなのだろうが、肺の空気が口に到達する前に喉からも出ていってしまうために、欠陥を抱えた楽器の様な声が漏れるだけだ。

「僕が……お前の何が分かると? お前に、僕の何が分かるとッッ?」

綺麗に拭き取ったナイフを再び朱に染め、無様に地面でのたうつ青年を見ることなく、蝶のはばたきにすらかき消されそうな声を漏らす。

だが、それは嵐の前の静けさだった。次の瞬間にピエトロはもがき苦しむ青年の襟を荒々しく掴むと、まさに暴風と化した。

「なあおいっ!?。何が分かるんだよッ? 好きでこんな事やってると思ってるのかッ? そんなわけないだろうッ。どうしておまえは裏に来たんだよッ? 何故表で満足できないんだよッ!? そんなに死が好きならなぁ、勝手に一人で首くくれッ。好き勝手にくたばりゃいいだろうがッ」

最早己の仕事が秘匿第一であるということすら頭から消え去ったピエトロは、顔をくしゃくしゃに歪めて涙を流す青年の襟を荒々しく前後に揺さぶり、罵声を叩きつける。その反動で、彼の喉の切り傷はどんどん裂けていくが、目に入ってない。

おそらく青年が聞くことができたのはピエトロの言葉の前半までだったろうが、今の彼には青年が既に事切れていることすら分からなかったのかもしれない。

「聞いてんのかあああッッ」

そう喚きながら、怒りにまかせて青年の顔に拳を叩きこむべく、力いっぱい腕を引いた瞬間、青年の背後。このゴミ捨て場へ続く脇道の入り口あたりが一瞬光った。

殺し屋としての条件反射が作用し、何の未練もなく青年から手を離して、壁に隠れる。

怒りで我を忘れて、周囲への警戒を怠っていたことを心から悔んだ。

今の光は間違いなく自然によるものではない。このゴミ捨て場はもちろん、小道にもわずかな電灯すらなく、ケルネ通りからの光と月光が、かろうじてこの場所を照らしているに過ぎない。

故にこの場所で、あのような光が起こるわけがない。――それにあの光には見覚えがある。先ほど足元の青年の手から幾度も発せられていた光に似てはいなかったか? 一瞬だけ光った? 懐中電灯の光ではなく、フラッシュ?

かつてない恐怖と焦りを感じ、ナイフを構えて、陸上選手が見たら自棄になりそうな速度で小道を走り抜けてケルネ通りへと出るが、もはや通りの人混みの中から先ほどの光を起こした者を見つけるのは不可能だった。

くしくも、この小道に入る時と同じ状況になったことがとても偶然とは解釈できず、更なる焦燥感と後悔が彼の心に泥の様に沈殿していった。

そのため、道具を片付けた後、足早にその場を立ち去るピエトロには、彼の近くから道を鳴らすガラガラという音が出ていたことも、ましてやその音の主が漏らす鈴の様な笑い声も、耳にすることはできなかった。



病院の裏手に位置する入口は、夜間に緊急患者を診察するために口を開いており、その入口付近にある椅子に座っていた茶髪の少年が、診察代の払いを済ませた金髪の女性に話しかけた。

「あ、姉さん。寝不足で倒れたって聞いたけど、大丈夫なの?」

「あら、カルロ。来てくれたの?」

その女性は、黒い長袖のワンピースに黒い帽子を被り、茶色いトートバッグを手にさげているという外見をしたシスターマリアだった。

夜間に修道女が夜の街を出歩くのは体裁が悪いため、一時的にこの服を着ているのだ。化粧をせず、服装が地味なのは、修道女として『清貧、禁欲』の規則を彼女が忠実に守っているからだろう。

「院長先生が家に電話をくれたんだよ。迎えに行ってやってくれってね。誰も連れ添ってくれなかったの?」

「院長先生が同行すると言って下さったんだけど、時間も時間だし、私の都合に余計な時間を使わせるのは迷惑だと思ったから、断ったのよ。ここと教会と家は、距離的にも近いし、タクシーを呼んでもらったから大丈夫と思って」

それを聞いたカルロは、首をかくんと傾けて大袈裟に溜息をついた。

「まったく。変に卑屈だと、却って余計な不安を生むんだよ。病人を一人で歩かせるのが周りからしたらどれだけ心配か、それを知らない姉さんじゃないだろ?」

「ご、ごめんね、次から気をつけます。……さ、行きましょう」

 しばらくは姉の抜けた一面をカルロが叱り、彼女が謝るという現状が続きながら二人は帰路についた。

彼女が帰る場所は教会ではなく実家の方だ。院長から体調不良が完治するまでの間、自宅に帰れるよう許可をもらった。彼女達は病弱な母親を持つため、久しぶりに様子が見たかったのだ。

「お母さんは大丈夫?」

シスターの問いに、カルロは口元だけ笑みの形にして言った。

「今は横になってるよ。今日はまだ楽そうだったから、心配は、ないかな」

彼女達の母親は数年前から心臓を悪くしていて、たまに何の前触れもなく倒れることがあった。

「そう。…………私も、働こうかしら」

その発言を聞いたカルロは、はっとして姉の顔を見た。

修道女にも給金はある。しかし、そのほとんどが慈善活動のための資金として当てられてしまうため、個人の自由が効く分はわずかしか残らないのが現状だ。

少年からすれば、聖職者は姉の天職であると思っている。この自己犠牲の塊で、他者の幸福に喜びを見出す人が、今の仕事を止めるのがどれだけ辛いかは、彼女の悲しみの色を帯びた表情から読み取れる。やめるべきではないと彼は思う。

だが――

「お母さんの治療費を稼がなきゃダメでしょう?」

カルロの思考を読んだ様に、シスターマリアは言った。

 母親の病気の治療は彼らの家計に大打撃を与えることになる。ただでさえ貧しい生活をしているのだ。そんな余裕は皆無であると言っていい。それを理解してか、母親も最初の診察以降、病院の世話になって出費が出るのを抑えている。それを打開するには、収入源を増やすしかない。

「そう、だね」

少年は何も言い返せなくなってしまい、しばらく二人は黙って公園を歩いた。

人通りの少ないこの森林公園は彼女達の実家までの近道となっている。しかも、この時間帯になると、大通り等は如何わしい勧誘や、酒乱した者、スリなどの危険人物も多く出てくる。子供と女がそういう場所を通ると危険なのだ。

「よう、姉ちゃん。ちょっと俺等と来いよ」

だが、周囲に人が少ないからこそ、そこを狙う連中も確実に存在する。そう言った者達の犯罪行為は、一目のある通りのものと比べると格段に危険性を増す。夜間に外出する経験がほとんどない二人はそこの注意が散漫だった。

「な、なんですか!? あなた達は」

怯えながらも問いかけるシスターマリアとカルロの周りを、いつの間にか五人の柄の悪い青年達が囲んでいた。

「んなこたぁ、どうだっていいんだよ。いいから来い」

目の前に立つおそらくリーダーらしき青年が、シスターの腕を乱暴に引っ張る。

「姉さんっ!」

カルロが叫ぶが、不幸にも周囲に人はいない。元よりそういう場所を選んで通ったのだ。

「ちっとばかし眠ってもらうぜ」

そう言って、その青年はスタンガンを取り出してシスターの腹部に押し当てた。

「ぎゃ、あっ」

だが、その場にいた全員がその悲鳴に違和感を覚える。夜の公園に響いたその声は野太い男のものだったからだ。悲鳴の直後に近くの芝生に男の持っていたスタンガンが落ちる。

何をしたのか分からないが、シスターマリアは一瞬で男にダメージを与え、スタンガンを弾き飛ばしていた。

 男は、腹部を押さえながらシスターから数歩後ずさり片膝をつく。

「これ以上の悪事はおやめなさい。主が悲しまれます」

シスターマリアは拳を構えながら、震える声で言い放った。

「く、くそ。こいつ、妙な体術を使うぞ。全員で抑え込めッ」

膝をついた男は、周囲の男達に指示する。それに従い、他の男達は警棒やスタンガンを取り出してジリジリと輪を狭める。

「うぅっ」

 彼女は読みが外れて苦い表情をする。

シスターマリアは何かしらの自衛手段を学んでいたようだが、喧嘩の流れは心得えていなかったようだ。不良の喧嘩では舐められることが最大の屈辱にあたる。彼女は力を示して威圧するのが目的だったようだが、そんなことでは男達は止まらない。例え女一人に対しても徒党を組んで叩きのめすのが彼らの勝ち方だ。

もう後が無いことを悟ったのか、彼女は恐怖に泣き濡れる弟を抱きしめた。だが、次の瞬間襲いかかるべき男達は一斉に接近を止めた。

「……あ?」

しかし、その理由は、彼ら自身が問いたいことだった。

何故、自分は動きを止めてしまったのか。

何故自分の足は震えている? 何故自分は滝の様に汗をかいている? 何故自分の心臓は痛む程に動悸を速めているんだ?

「お、おい、てめえらどうした?」

 リーダーの男が喚くが、その答えは彼の背後から歩みよってきた。

 彼の中にある本能と呼ぶべきものが、尋常ならざる危険を感じて跳ねるように振り返る。

 そこにいたのは、茶色いロングコートを来た金髪の青年だった。

年も背丈も柄の悪さも男達よりも下。なのに、その気配と目付きの鋭さは桁違いに強い。

男達は悟った。この青年は、同じ犯罪者として自分達のはるか先に立つ存在だと。

「……」

 青年から向けられる槍の様な視線と殺意が一層強まった瞬間、男達は途中何度か蹴躓きながら悲鳴も高らかに逃げていった。

「……誘拐を企んでいたってことは、ヌドランゲダの下っ端達かな。はずれか」

あまりの出来事に茫然としているシスターマリアとカルロは、聞き取れぬ程の声量で漏れた青年の呟きに反応してようやく我に帰った。

「ピ、ピエトロさん?」

「お、おおお、お兄、さん。た、助けて、くれ、たの?」

 驚愕する彼女と、半泣きになって腰を抜かすカルロをしばしじっと見るピエトロ。

「いや、偶然通りがかっただけさ。彼らも僕を見るなり逃げ出すなんて、失礼だよなぁ」

 ピエトロはしらばっくれながらカルロの手を取って立たせてあげた。

「あの、助けて頂いて、ありがとうございます」

 シスターマリアが深々と礼をしてくるが、ピエトロは助けてないと言い続ける。

 彼が二人を救ったのは本当に偶然で、ただ、近くから聞こえた怒声が気になってここへ来ただけだった。捜している人間の手がかりが少しでも欲しくて足を運んでしまったが、この二人に会うのは大きすぎる誤算だった。仕事をする夜に出会うのは、自身の醜い部分を直視されるのも同然だからだ。

「では、僕は急いでいるので、失礼」

「あ、もう行っちゃうのか?」

 あからさまに名残惜しそうに言うカルロに、ピエトロは振り向いた。

「……カルロ、あれから上達したかい?」

「いや、ごめん。練習してるんだけど、なかなかできないよ。やっぱり人の考えを読むのは難しくて」

青年の問いに、少年は申し訳なさそうに項垂れる。

ピエトロから散々観察術のコツを教わっているのだが、なかなか上手く覚えられないのだ。幼い頃から練習しているピエトロに追いつくのは無理であるにせよ、彼から才能があると言われている手前、習熟が遅いのは少年にとって恥ずべきことだった。

「星星の火以て野を焼くべし」

「え?」

聞き慣れない言葉に目を瞬く少年の肩に、手を乗せるピエトロ。

「何事もそうだが、努力しているなら大成するさ。とりわけ君には才能がある。後は、上手く歯車が噛み合えば、簡単に読めるようになるはずだ」

「本当?」

「もちろんだ。これは身につけておけば、色々と得をするだろうから頑張れ。……さて、これから人と会う約束があるんでね。そろそろ行くよ」

ピエトロは少年の肩をポンと叩くと、今度こそこの場を立ち去った。

「……あの人、本当に何者なのかしら?」

シスターマリアがポツリと呟くと、興奮気味のカルロが口を挟む。

「……そんなのどうだっていいじゃないか。やっぱりカッコイイよ、あの人。あんな不良達を追い払っちゃうなんて」

先ほどからというもの、彼女はカルロの態度に驚きっぱなしだった。この前、自身の詳細を暴露された時に彼をキツい目付きで見ていたため、てっきりピエトロを毛嫌いしているものと思っていたのだが。

「いつの間にピエトロさんと仲良くなったの?」

「あはは、ちょっとね~」

 カルロは照れくさそうに言った。余程ピエトロと関わりが持てたことが嬉しいらしい。

 その後、スイッチが入ってしまったらしく、観察術を指導してもらっていることや、その鋭さがシャーロック・ホームズの様だとか、素っ気無い態度ながらも優しさと紳士的な雰囲気を感じるなど、カルロはあの青年のことをまくしたてるように話す。

 襲われた緊張から解けたためか、談笑する二人は、自分達をつけている男達がいたことにも気づかず、帰路についた。

 

 

余人が見たら、落胆の化身と言われかねない程に肩を落としたピエトロは、自宅のソファにもたれて頭を抱えていた。

 現在は深夜の二時を回ったところ。カタリーナ殺害を完了してから早三時間が経っている。その間にあらゆる情報屋やエルダに会って、あの殺害現場の写真を撮った人間を捜索していた。

あの時、ケルネ通りで自分以外に仕事をしていた業界の人間について聞いて回ったが、当たりはなし。その後は、町を歩き回ってあの特徴的な気配を感覚で探ったのだが、それも徒労に終わってしまった。

 この業界で顔が割れないように配慮するのは常識中の常識だったのに、まさかこんなことになるとは。

 ピエトロは、もう一度考えをまとめる。

 まず、あの写真を撮った人間が一般人である可能性はゼロだ。ただの人が、如何に判断力が落ちていたとは言え、自分に感づかれずにあそこまで近づくのは不可能。つまり、その者は気配を消す技術を持っていたということになるが、表社会の人間がそんな不必要で高度な技術を身につけているはずがない。

 となると、必然的に裏社会の人間の仕業であると分かる訳だが、こうなると思い当たる節がある。エルダから得た、誰かが自分を嗅ぎ回っているという情報と、教会で自分に殺気を向けた人物と出会った時期が重なるのだ。

 相変わらず理由は不明だが、その者の仕業である可能性は十分高い。

「くそっ。何故あの時押さえなかった」

 初めて教会で殺気を感じた時に、送り主の正体を突き止めておくべきだった。大した殺気でもなかったため、脅威とは感じず、捨て置いたのがいけなかった。

 いてもたってもいられず、ピエトロは立ち上がった。あんな証拠写真を放置してはおけないし、自分の情報を手に入れているならば、この家の場所はとっくにバレているだろう。

 そして、あの通りの人混みの中から、しかも変装していた自分を見つけてきたのだから、最初から尾行されていたと考えるべきだ。ならば、まだこの家の周辺に尾行者がいる可能性はある。そいつを探して洗いざらい吐かせよう。

 結論を出して、足早にリビングを出ようとすると、リビングの入口脇に置いてある電話が鳴った。

「非通知」

 このタイミングでかかってきた怪しげな電話。あまりにも出来すぎている。

少し迷ったが、ピエトロはそれに出た。

「タントウ直入にイウ。ピエトロ=べレッサ。アンティーカ・ビルの地下チュウシャ場に来い。今スグにだ」

 それを聞いた瞬間、ピエトロの目は大きく見開き、心臓は耳に鼓動が届く程高らかに鳴った。

驚いたのはその呼び出しにではない。相手の声に対してだ。この国の言葉に慣れてないのか、たどたどしい上に電話越しで若干くぐもっているものの、それは間違いなく聞いたことのある声だった。誰のものかまでは思い出せないが、この声は確実に自分に大きく関わったものであることを彼の心が記憶していた。

内心で戸惑いながらも主導権を握られないように返答する。

「こんな時間に悪戯電話とは感心しないな。しかもお前みたいな、子供が」

「マザーファッッカアアアア。ナメンじゃネエぞクソ野郎ッ。……イイか、よくキケよ」

 雷鳴の様な怒声が彼の鼓膜を叩く。が、電話の主は一瞬間を置いて無理やり自分を落ち着けたらしく、続く言葉は不気味な程に落ち着いていた。

そして、ピエトロの言う通り電話から聞こえるのは少年の声だった。年の頃一二、三才と思われるが、この声には年不相応な殺意と怒りがたっぷりとこびりついている。もう憎悪という過程を通らないと声が出せない程に。

「お前がヒツヨウとしてル、マリア=フォルトゥナーテは、俺がアズカッテる。こいつを殺されタクなきゃ、オトナシク指示にシタガえ」

 ピエトロは再度驚愕した。いや、彼の胸に去来する感情はむしろ悔恨の方が大きい。

とうとう、あの純粋なシスターを巻き込んでしまったのだ。

とにかく、自分を呼び出すために誘拐されたのなら、彼女はまだ生かされているはず。ならば無傷で取り返すのが自分の義務だろう。

しかし、いくら考えてもここがひっかかる。

「……お前は、誰だ?」

ピエトロはそう問うが、相手は答えずに通話を切った。

 行く他はないだろう。

相手の正体も気になるし、何よりあのシスターは、これからも彼の道標たりえる存在だ。そんな女性をこれ以上自分の面倒事に巻き込みたくはない。

 ピエトロは大きな戦闘を想定して装備を整えると、今度こそ家を出た。

 

 



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