ギフト
その時の先輩の姿を僕は一生忘れないと誓った。
◇
新学期が始まると理学部の四回生は希望する研究室に所属することになる。化学教室は戦前からある古い建物で僕が五階の角にあるその研究室に行ってみると壁には亀裂が走っていてまるで廃墟のようだと思った。
「失礼します」
少し緊張しながら研究室の扉を開ける。角部屋らしく北と東に大きく開かれた窓からは東山の山麓、とりわけ送り火で有名な大文字山が大きく見えた。
中に入るとその山影をバックに一人の女性が窓際に腰掛けていた。整った綺麗な顔立ちのしっとりした印象の人でシンプルな春物のセーターにロングスカートをはいていた。その人は僕を誰だか確かめるようにじっと見つめた。部屋には他に誰もいないようで僕は少しドギマギしながら
「今日からこの研究室に配属された四回生の牧野です。あの、先輩ですよね?」
言うとその女性は僕を見ていた瞳をふっと和らげて嬉しそうに笑った。その表情にトクンと心臓が小さく跳ねた気がした。焦る僕に立ち上がったその人は歩み寄ってくると手を差し出す。え? と思いながらもその手を握りかえしていた。
「ようこそ研究室へ。私はD2(博士課程二年)の関根薫子。君のメンターだ」
「あ、はい。よろしくお願いします」
僕は軽く会釈した。研究室に配属になった四回生には教官とは別に先輩大学院生が勉強や研究の指導に付いてくれる制度があって、その人をメンターと呼ぶのだ。
「よ、ろ、し、く、な!」
「え? ちょっ、先輩!」
なんだか男っぽい口調で、いきなり先輩が繋いだ手をぶんぶん振り回した。予想外のことにバランスが崩れ、あやうく倒れそうになった所で先輩が手を放す。なんとか踏みとどまって先輩を見ると楽しそうに笑っていた。最初の印象とすごく違うなと思った。
と、その時。ガヤガヤと人声が聞こえて部屋に七,八人が入ってきた。大抵は先輩達で同級生も二名ほどいた。
「やあ、先に来てる人もいるね。じゃあ、新四回生との顔合わせだ」
その後、僕たちは簡単な自己紹介をした。なぜか関根先輩は参加しなかったので少し不思議に思ったけれどそう言う事もあるのかと気にはならなかった。ただメンターを改めて紹介される段になって
「じゃあ、牧野くんのメンターはM1(修士過程一年)の萩原くんにやってもらおう」
「え?」
思わず声が出ていた。
「なにか?」
進行係をしていたM2の岡崎先輩が怪訝そうに聞いてくる。
「あの、僕のメンターは関根先輩じゃないんでしょうか? D2の」
「はあ?」
岡崎先輩が首を傾げる。僕は言葉を付け加えた。
「さっき部屋に入った時、関根先輩からそう言われました」
岡崎先輩はしばらく首を傾げていたがハッと何かに気づいて、驚いた表情で僕を見た。
「……まじかあ」
ぽつりとそんな声が漏れた。周りでも「え?」「うそっ」とか言う声が漏れて先輩方が互いに顔を見合わせている。新四回生の僕らはなにか分からず、ちょっと変な雰囲気になった。
「あの、関根先輩じゃ、ダメって言う事でしょうか?」
恐る恐る聞いてみる。
「いや、そう言う事じゃないんだけど……うん、まあ、分かった。それでいい」
僕はホッと胸をなでおろす。関根先輩がメンターから外れなくて良かったと思った。その間、関根先輩は我関せずという感じで少し離れた部屋の窓から景色を眺めていた。
◇
「君は大学院に進学希望だよね?」
「ええ、まあ」
「うん、よかった。じゃあ夏の院試まではとりあえず試験勉強だね」
薫子先輩との最初のメンター相談はそんな会話から始まった。
「院試ってやっぱり難しいですか?」
「そうだね。でも心配しなくて良いよ。執筆する教授陣の出題傾向はバッチリだ。なんせ青二才の時から分かってるから」
「は?」
よく分からないことを言われたが先輩の自信たっぷりな笑顔に安心感が湧いてくる。
「と言うことで、はい、これ、過去問」
「うわ!」
机の上にどさどさと大量の試験用紙を置かれて仰け反りそうになる。
「これを全部やれば楽勝で合格できるよ」
「はあ」
確かにこれだけやればいやでも受かりそうだけど。チラッとめくると数十年前の凄く古い試験も交ざっていた。
「こんな古いの出ます?」
「まあ、将来への勉強だと思ってやってみたらいい。分からなかったら私が教えて上げるから」
「分かりました」
先輩が教えてくれるのなら、この勉強もいいかなと思った。
ーーー甘かった。
先輩は思いの外スパルタだった。図書室で過去問と専門書と講義ノートを広げて問題に向かっていると傍らに座った先輩が厳しくチェックしてくる。
「ほら、そこ間違ってる。分子軌道の計算はそのままやると難しそうだけど、よく見て変形すればすごく簡単になるよ。完成形の予想を立てなさい」
「物質の相は結局、体積と温度と圧力で決まる。グラフからその相がどういう状態か見極めなさい」
「ここはもう覚えるしかないけれど順序立って覚えれば問題ないよ。順番はね……」
そんな厳しい指導だったけど僕は全然いやじゃなかった。
そんなある日、三ヵ月もの海外長期出張していた教授が帰ってきて、さっそく土産話を聞きながら研究室でコンパと言う流れになった。薫子先輩は都合が悪く参加していなかった。コンパ後の夜、教授に「君が牧野くんだね。ちょっとおいで」と声を掛けられて教授室に連れて行かれた。なんだろうとは思ったけれど、こちらもお酒を飲んで気が大きくなっているのでノコノコ付いていった。教授室で二人になる。教授はその分野では非常に有名な、次の大きな賞の候補と言われるような人で、五十代の白髪交じりの先生だけど人当たりのいい口調で
「いやあ、突然すまんね。驚いたかい? 少し話したいことがあってね」
「はあ、なんでしょうか?」
教授は少し躊躇うような間を置いて
「君のメンターは関根君なんだって?」
「はい」
「彼女……元気かい?」
「ええ」
なんでそんなことを僕に聞くんだろうと思いながら答える。本人に聞けばいいのに。まあ、今日はいなかったけど。
「関根君のメンターはどんな感じだい?」
「えーと、めっちゃ、スパルタです」
そう言うとふっと教授が笑みを漏らした。
「そうか。相変わらずだな」
「はい?」
「いや、気にしないでくれ」
教授はなにか遠くを見るような表情をしてからすっと僕に目を合わした。
「牧野君、頑張りたまえ。君にはきっとすごい研究者人生が待っている」
「はあ?」
そんなこと言われてもと思ったけれど
「ありがとうございます。頑張ります」
教授はうむと頷いて、もう行っていいよと手を振った。
◇
「どうして院試の合格発表の日が、送り火の日なんですか?」
僕はため息混じりに薫子先輩に苦情を言う。
「落ちてたら死にたくなりそうです」
先輩はあっけらかんと
「まあ落ちた時、周りが送り火で騒いでいて誰も注目しないから気が楽だからかな」
「そんなあ」
リアルに想像して落ち込んできた。不意に背中をバシンと叩かれる。
「いたっ」
「あはは、なにを心配してるのさ。君はあれだけ勉強したんだから当然合格してるよ」
「そうでしょうか?」
「もちろん」
そうだったらいいなと思う。
「あとで発表がなぜ送り火の日なのか、君にも分かるよ」
「え?」
先輩が謎の発言をする。その意味を考えることよりも合否が気に掛かった。
院試の合否発表は夕方、教授の口からあっさりと告げられた。
「もう五時だから解禁だな。牧野君、山口君、小山さん、みんな合格だよ」
途端にほーと力が抜けた。周りで先輩達が、それ準備だと騒ぎ始める。
「なんですか?」
「もちろん君たちの合格祝いだよ」
先輩達が部屋の大テーブルに缶ビールを並べ始める。
「なんて手回しのいい! 落ちてたらどうしたんですか!?」
「その時はもちろん残念会だな」
合格にホッとした事もあってその日、呑むペースは速かった。一通り出来上がったところで、その場に薫子先輩がいないことにようやく気づいた。僕はキョロキョロと部屋を見回す。先輩はいつものように窓際で一人景色を見ながらビールを傾けていた。
「先輩」
「うん?」
「僕、受かっちゃいました」
「ああ、当然だな」
「ありがとうございました」
「ああ。それよりも君、今日がなんの日か覚えているかい?」
聞かれて思い出す。そうだ。今日は五山の送り火。ハッとして腕時計を確認すると、もう七時半を回っている。送り火は確か八時からのはずだ。その時「さあ、行こうか」と先輩の誰かが言うのが聞こえた。
「どこへ?」
誰かが聞く。
「屋上だ!」
え? 屋上はカギが掛かってて出られないんじゃ、と言う疑問は薫子先輩の「合格発表がこの日な訳を見せてあげるよ」と言う言葉で完全に消え去った。
化学教室の屋上はこの日だけは解放される。建物には夕方以降IDカードを持った学生・教職員しか入れないから、屋上はまさに関係者しかいない。しかも大文字山は目と鼻の先。見渡せば、北も西も遮るモノが無く、五山全てが見渡せそうな絶好のロケーション。おそらく今京都にいるどんな観光客よりも僕らは特等席にいるだろう。そんな中で折りたたみイスやテーブルを研究室から持ち込んで再び合格祝いの宴会を始めた。
送り火が灯った時はさらに盛り上がった。次々にビール缶を合わせてカンパーイと声を上げる。他の研究室の人とも誰彼かまわず歓声を上げた。
不意に気がつく。薫子先輩はどこだろう? 一緒に屋上に来たはずだけど。暗闇の中、眼を細めて探すと大文字山に近い屋上の端に先輩が立っているのが見えた。酔っ払ってふらふらと先輩に近づく。大文字山を見つめる先輩の横顔がまるで送り火に照らされたように光って見えた。でも、その表情はなにかを堪えているように悲しげに見えて、つと足が止まる。訳もなく不安が胸に湧き上がった。次の瞬間、先輩は振り返って僕を見ると柔らかく微笑んだ。
「どうだい? 合格発表に相応しい日だろう?」
僕はどうにか先輩に近付くと知らずにその手を掴んでいた。
「先輩、いっぱい教えてもらって、ありがとうございました」
「ああ」
「これからもメンターよろしくお願いします」
「もちろん」
先輩の笑顔を見てようやく落ち着いてきた。
「あ、すみません」
腕を掴んでいたことに気づいて慌てて放す。先輩は僕を見ながら柔らかく微笑んでいた。背後では大文字の送り火がそろそろ消えかかろうとしていた。
◇
「学会で発表してみないか?」
「は?」
教授にそう言われたのは合格発表の翌日だった。
「十二月初めにうちの大学でやる学会に君の研究を発表しよう」
「ちょっと待ってください。もう三ヶ月しかないじゃないですか」
「テーマは決まっているだろう?」
確かに研究室に配属された四月に研究テーマは決めたけど、今までは院試の勉強に掛かりっきりでなんにもしてない。でもこれが研究室の方針ならやるしかないのか?
「他の四回生もですか?」
そう思って聞いてみる。でも答えは
「いや、君だけだ」
「え? どういう事でしょう?」
「君は関根君がメンターに付いているだろう?」
「はい、そうですが」
「なら、大丈夫だ。なんとかなる」
「え、いや、でも……」
「まあ、頑張りたまえ」
話はこれまでと手を振られた。そんな無茶なと頭を抱えて教授室を出ると、すぐ薫子先輩を掴まえて
「教授が十二月の学会で発表しろって言うんですけど」
「廣田君がそう言ったのかい?」
教授に君付けとは先輩もすごいなあとか一瞬頭をよぎったけど、今はそれどころじゃない。
「ムリですよね?」
「彼が言うんなら、本気だろう」
「そんなあ」
僕は再び頭を抱える。
「間に合うはずありませんよぅ」
ふふっと先輩の笑い声が聞こえた。びっくりして見ると先輩は不敵な笑顔を浮かべている。
「これは彼からの、君と私への挑戦状だな。間に合わせて見せようじゃないか!」
「先輩、まじですか?」
僕は呆然と先輩を見つめた。
それからの三ヵ月はまさしく怒濤のような日々だった。ここでもやっぱり先輩はスパルタで僕は研究のイロハからたたき込まれた。
「いいかい、実験はやる前にあらゆる可能性を考えるんだ。そしてそれに対応する条件の実験を組む。出てきた結果が曖昧になってはいけないよ。必ずマルかバツかが分かる条件を組むんだ」
「よい結果ばかりを選んじゃいけない。一見失敗な結果の中にも真実は隠れているものだよ」
「いつも疑問を持ち続けるんだ。本当にそれで正しいのかもう一度疑わなければいけないよ」
もちろん実験も毎日続いた。時には徹夜が二日、三日と続く事もあった。それでもいい結果が出るとは限らない。二日徹夜の実験がうまくいかなかったとき、不意に先輩が言い出した。
「疲れたね。君も疲れただろう?」
「そうですねえ」
目がショボショボしていた。
「ところで世界で一番深い湖を知っているかい?」
「はあ?」
少し考えて答える。
「バイカル湖、ですか?」
「そうだ」
「はあ、それが?」
「確か白川通りにあるんだが、君は知ってるかい?」
「え? なにがですか?」
「バイカルだよ」
「はい?」
「まあ、いい、今から行ってなんか買ってくるといい」
よく分からないまま先輩に送り出されて今出川通りを銀閣寺方面に歩いて途中で白川通りを南下すると
「ああ、なあんだ。これか」
目の前に【バイカル】という名前のケーキ屋があった。肩の力が抜ける。実験の失敗に落ち込んでいた気持ちがふっと軽くなった。ケーキを買っていったら先輩喜んでくれるかな? 僕はあれこれと先輩の好きそうなケーキを想像しながらカットケーキを二つ買って帰った。
「うん、美味しいな」
先輩がケーキにパクついている。その幸せそうな表情にしばし見とれた。落ち込んだ僕の気分転換にお使いを頼んだのかと思ったけど本当にケーキが食べたかっただけかもと思い直した。まあ、先輩のこんな表情が見られるんなら、どっちでもいいや。
「どうした。君も食べな」
先輩は少し気を使ったように言う。僕も自然と笑顔になった。その後も、研究は一筋縄ではいかなかった。でもその度にケーキを食べることが出来て、なんだか失敗も苦にならなくなった。
学会発表が目前に迫った頃、徹夜三日目だった。朦朧とした頭で液体ヘリウムの操作をしていて、急に意識が遠のいた。
「なにしてるんだ、君!」
薫子先輩の叫び声が聞こえた。ハッとして意識は戻ったけど、まだ朦朧として状況がよく分からない。先輩が僕の手からバルブを奪う。
「すぐ止めなきゃ! 君は、そっちの開放弁を開いて!」
先輩の指さしたバルブを見つめてようやく我に返る。ヤバイと思った。背筋に悪寒が跳ね上がってくる。バルブに飛びついて必死に回す。途端に大きな音を立てて排気が始まったのが分かった。安堵で思わず力が抜けそうになった時、がっと胸元の服を掴まれた。
「なにをやってるんだ、君は! 液体窒素を入れる前にヘリウムを入れたら爆発するぞ!」
先輩の瞳が怖いほどの真剣さを湛えている。
「もっと慎重にやるんだ。ちゃんと作業前には確認して、そうして……」
僕はなにも言えず先輩を見つめた。その瞳に怯えが浮かんでいる。
「ちゃんとやらないと……私は君をこんなことで失いたくない」
服を掴む先輩の手が震えていることに気づいた。手だけじゃなく肩も身体も震えている。思わず抱きしめたくなって思いとどまった。今の僕にそんなことをする資格はない。
「すみません、先輩。申し訳ありません。ごめんなさい」
「うん」
「もっとちゃんとします。もっと気をつけます」
「うん」
「もっと先輩に心配掛けないようにします」
「うん、うん」
「だから、先輩。もう、泣かないでください」
「なっ」
先輩はばっと僕から離れると腕で涙を拭った。
「泣いてなんかいないよ」
そう言ってぎこちなく笑う。僕も精一杯の笑顔を見せた。
この人を悲しませたくない。この人を失望させたくない。この人に喜んで欲しい。この人と一緒にいたい。いつしか僕は薫子先輩にそんな感情を抱いていた。だから、学会までの残りの時間をがむしゃらに頑張ることが出来た。結果、なんとか無事に学会発表することが出来た。僕と先輩はハイタッチを交わして教授にVサインをして見せた。
◇
学会発表の夜。打ち上げで酔いつぶれて研究室の簡易ベッドで眠っていたら、人声にふと意識を覚ました。
「……すげえな、牧野。ほんとに学会発表しちゃったぜ」
「四回生のこの時期って前代未聞だよなあ」
先輩たちだろうか? 僕のことを話題にしてる? 思わず聞き耳を立ててしまう。
「やっぱり、あれだな、研究室の女神が付いてるからだよな」
研究室の女神? 薫子先輩の事だとしたら確かにそうかも。
「お前、その話本当だと思う?」
「ああ。最初は教授の法螺話だと思ってたけど、こう見せつけられると信じざるを得ないな」
うん? 話が見えなくなってきた。先輩の事じゃないのか?
「でも、あれだろ。その女神、確か十二月末には、いなくなるんだよな」
「ああ、クリスマスな」
「はっ?!」
思わず声が漏れた。ガバッと起き上がる。
「うわあ!」「な、なんだ牧野か! 起きてたのか?!」
「先輩、今の話、かおる…関根先輩の事ですか?!」
僕は驚いて叫んでいた。薫子先輩がいなくなる? まさか?!
「どういうことです? まさか、海外留学とかですか?」
先輩たちが顔を見合わせて困った表情を浮かべる。
「教えてください!」
僕の迫力に気圧されたのか先輩たちが困惑顔で告げる。
「いや……そういう話じゃないんだ」
「じゃあ、なんです?」
先輩たちは再び顔を見合わせて何かを確認するようにぐっと頷きあう。
「なあ、牧野、驚かないで聞いてほしいんだけど」
僕の心臓は早鐘を打つ。どんな事実が告げられるのか。
「お前の言う関根先輩な、俺たち、会った事がないんだ」
「……は?」
何を言われたか分からなかった。
「冗談は、やめて…」
「いや、冗談なんかじゃない。ほんとなんだ。ただ、そういう人がいることは前から聞かされてた」
僕は全く予期せぬ先輩の言葉にまともな考えが浮かばない。その間に先輩たちは淡々と話してくれた。
この化学教室には研究者を導いてくれる女神がいるという噂。その人が目を付けた学生は決まって凄い研究者になり、それこそノーベル賞の候補にあげられている人もいるという。ただ彼女の指導は決まって一年間、それもクリスマスまでで、その後は消えてしまうという話だった。
「そんな、バカな……」
思わず呟くと
「俺達も教授の法螺話だと思ってたよ」
「廣田教授が?」
「そう。この話は教授が新四回生歓迎会でいつも話すんだ。研究者を目指す学生に、はっぱをかけるための法螺話だと思ってたんだけどな」
そこで思い出す。教授に初めて会った日の会話。その後の僕への対応。まさか教授は?
「教授は、どこでそんな話を?」
「さあな? 誰かから聞いたのか、昔から伝わってる話なのか。気になるんなら直接、聞いてみたらいい」
直接聞いてみる? 教授に? それとも……。
僕が悩んで無口になっていると先輩たちは立ち上がって、じゃあなと告げる。別れ際にぼそりと聞かれた。
「なあ、関根さん? て、ほんとにいるのか?」
「います!」
反射的にそう答えていた。
その夜はもはや眠気など吹き飛んで研究室でまんじりともせず過ごした。先輩たちの話が荒唐無稽すぎてそんなことあるわけないと思い、でも否定しきれずにもしかしてと考えだす。そうすると胸に刺さるような痛みが走って息が苦しくなった。そしてまたそんな馬鹿なと思いなおす。そんなことをなんどもなんども繰り返した果てにようやく夜明けが訪れた。
朝、教授が研究室にやってきた時、押し掛けるように教授室に飛び込んだ。
「先生、関根先輩のことで、お話があります!」
僕の様子を見て何かを悟ったように教授は気づかわしげに僕を見つめる。
「そうか。知ってしまったんだね」
僕が話し始める前にそう切り出した。
「そこに座りたまえ。彼女のことを話してあげよう」
それからの話を僕は半ば覚えていない。正直聞かなければよかったと思った。
ーーー彼女が神様かどうかは分からない。でも人でないことは確かだ。戦前から彼女がこの化学教室に現れて幾人もの学生を指導していたという伝説がある。その伝説を私は信じるよ。なぜなら、私も彼女に指導を受けた一人だからだ。先生も? ああ、三十年も昔にね。もうすぐいなくなるんですか? そう、クリスマスの日だったかな。なぜです? さあ、もう教えることはなくなったという事なのか、それともあちらの、天界とか? そういうところの事情なのか、私は聞けなかったな。いずれにしても、もうすぐ彼女との別れは来る。君も覚悟しておいた方がいい。
教授は最後はそう優しく言ってくれたけれど、そんなことで気持ちが軽くなったりはしなかった。僕はその日、そのまま下宿に帰って薫子先輩とは顔を合わさなかった。
もちろん顔を合わさなかったのではなく合わせられなかったんだ。先輩が人間でないと教えられて平気でいられるはずがない。でも本当はその事実さえどうでもよかった。ただ先輩がいなくなってしまうことが怖かった。クリスマスまであと二週間もない。そんな急な別れは耐えられない。だから理性を搔き集めて、まだ事実と決まったわけじゃないと思い直した。明日先輩と会ってそのことを聞けば、先輩は「なにをバカなことを言ってるんだい。もっと科学的に考えなさい」と僕を叱ってくれるに違いない。だから、僕は……。
翌朝、勇気を振り絞って研究室に顔を出すと、先輩はいつも通り窓際の席で景色を見ていた。僕に気づいて振り返る。いつもの柔らかな笑顔に危うく泣きそうになった。
「やあ君、昨日は来なかったんだね。流石に発表で疲れたかい?」
「……はい」
ぎこちなく答える。先輩はそれには気づかないように普段通りで話を続ける。
「学会が終わったから、しばらくは無理せず研究しよう。ただ今回のデータはいわば突貫工事みたいなものだ。この後の検証が大切になる」
「……先輩」
「うん?」
躊躇いがちに声を掛けて、けれどその後が続かなかった。なんと聞けばいい? 何を聞けばいい? 先輩は本当は人間じゃなくて、もうすぐいなくなってしまうんですか? そんなことがどうして聞けるだろう? それに今、こんなにも間近にいて、こんなにも心地いい声が聞こえてくる。だから改めて、そんなことあるはずないと思ってしまった。それとも思いたかっただけかもしれない。だから結局、何も聞けなかった。
十二月も半ばを過ぎ、京都の町にもジングルベルの音色や綺麗な飾りつけが街を彩った。けれど僕の心は次第に押しつぶされるように重くなっていった。先輩の様子は相変わらずで、とてももうすぐいなくなるようには思えなかった。クリスマスまであと二日と迫った日、だしぬけに先輩にクリスマスプレゼントを贈ろうと思い立った。きっと先輩はクリスマスが過ぎてもいてくれる。だから贈ったプレゼントを身に着けて見せてくださいと言ってみよう。そうだ、そうすれば……。
僕はその日繁華街を一日中駆け回って先輩に似合うアクセサリーを探した。
◇
クリスマスの日。
朝から何かと理由を付けて先輩のそばに居続けた。学会準備の頃はあんなに朝から晩まで一緒にいたのに今はもう一緒にいるための苦しい理由を探さないといけない。その不自然さを先輩は緩く笑って許してくれた。
夜になり、研究室の人たちも三々五々いなくなっていく。忙しそうな先輩達もこの日ばかりは特別な用事があるのだ。帰っていく先輩達の何人かが僕に心配げな視線を向ける。そんな顔で見ないでくださいと心の中で非難する。
そして部屋に先輩と二人きりになった時、僕は勇気を出して話しかけた。
「先輩、あの……今日はクリスマスですね」
「ああ、そうだな。君はどこか行くところはないのかい?」
「ありませんよ。それに僕は先輩と居たいんです」
「それはまた嬉しいことを言う」
先輩が冗談交じりに笑う。僕は少しムッとしながら
「冗談じゃないです。それにこれを先輩に渡したくて」
買っておいたプレゼントを差し出した。先輩は驚いた表情で受け取ると
「開けてみてもいいかい?」
「もちろんです」
僕が用意したのはシンプルな銀色の一本簪で頭の部分に雪の意匠、そこから繋がれた三本の色とりどりのビーズが持ちあげるとシャラシャラと心地よい音を立てた。先輩はそれをしばらく見つめていたが不意に手櫛で髪を梳くとクルッと丸めて簪を挿した。
「どうだろう? 似合うかい?」
僕はしばらくその姿に見とれて、それから我に返る。
「もちろんです」
「そうか。こんなプレゼントをもらったのは初めてだ。ありがとう」
「きっと先輩に似合うと思ってました。たぶん着物姿ならもっと似合います」
「そうかな」
「だから、先輩。僕と初詣に行ってください」
何度も練習したそのセリフをやっとの事で口に出す。先輩はふっと顔を綻ばせて、それから、すまなそうに言った。
「君に話があるんだ」
その言葉に背筋が凍る思いがした。僕は反射的に叫ぶ。
「聞きたくありません!」
先輩が悲しそうに視線を下げた。
「やっぱり知っていたんだね。この半月ほど様子がおかしかったから、そうじゃないかと思っていたんだ」
「先輩が何を言ってるのか分かりません! 僕は何も知りません!」
まるで子供の様に叫んで目を閉じた。そうすれば先輩の話を聞かなくてもよくなると思った。けれど……。
頬にいきなり柔らかい感触がして驚いて目を開いた。先輩の指が僕の頬を撫でている。見つめる瞳が僕を心配するように揺れていた。
「ちょっと外を歩こうか」
先輩が優しく告げる。僕は無言で頷くことしかできなかった。
先を歩く先輩のすぐ後ろを無言でついていく。僕の贈った簪が小さくしゃらんと鳴る音だけが聞こえる。銀閣寺道に入った辺りは綺麗なクリスマス飾りが光っていたけれど銀閣寺の手前で左に折れるともう飾り付けもなく、その先で先輩が小さな道に逸れたところで僕は初めて声を掛けた。
「先輩、この道って……」
先輩はちらっと振り返るとまるでいたずらする子供の様に目元に笑みを浮かべ無言で先へ進んでいく。それは大文字山の登山道。送り火の火床へ繋がる道だった。京都の大学生ならば卒業までに一度は登った事があるだろうその道。僕も学部のころに友達と登った事がある。けれど冬の夜。街灯もない真っ暗な道を先輩は躊躇いもなく登っていく。その後ろ姿を追いかけている内に先輩の身体が仄かに光っているような気がしてきた。僕は息をのむ。それでもそんなはずないと頑なに言い聞かせた。
木々を抜けて急に開けた場所に出た。そこが火床だった。送り火の日にはこの火床に薪が組まれ火がつけられる。けれど今は土台しかなかった。先輩が振り返って眼下を見下ろした。京都の街が広がっている。色とりどりの灯りがこの聖夜をお祝いするように瞬いていた。
「綺麗だろう?」
先輩がその光景を眺めながら言った。僕は先輩に近寄り並んで見る。見ているのは先輩自身だ。長い登山道を登ってきたことでさっきより冷静になっていた。
「薫子先輩」
初めて名前で呼んでみる。先輩は驚いたように振り返った。僕は続ける。
「先輩、来年も僕のメンターをしてください」
「何を言ってるんだい君は。来年、君は修士になるんだ。もうメンターは必要ないよ」
「でも僕は先輩にもっともっと教えてもらいたいんです」
「もう教えられることはすべて教えたかな」
「まだ足りません。もっと教えてください。お願いします」
「それは……」
「お願いです。来年も、再来年も、その先も、一緒に実験をしてください。一緒にバイカルのケーキ食べてください。一緒にずっと……居てください」
先輩は申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「すまない。それはたぶん無理だ」
「どうしてですか?」
僕は先輩に向き直る。その手を思わず掴んでいた。
「なんで無理なんです。僕は先輩が誰でもかまわない。神でも悪魔でもそんなこと関係ない」
掴んだ手を引き寄せる。そのまま先輩を抱きしめた。
「先輩……愛してます。僕は先輩を愛してます」
顔は上げられなかった。先輩の肩に額を付けて震えながらその言葉を繰り返す。いつのまにか先輩の手が僕の背中を優しく叩いていた。
ふふっと耳元で先輩の柔らかな笑い声が聞こえて、僕は驚いて顔を上げる。
「そんなことを言われたのも初めてだよ」
たまらず唇を重ねた。あっという先輩の声が漏れて不意に舌が触れ合った。一瞬、お互い求めるように押し合い、でも先輩のそれは、制するようにすっと離れていった。唇を放すと先輩が呆れたような表情をしている。
「君がこんなに大胆だとは知らなかったよ」
「先輩、僕は……」
愛していますともう一度言おうとした時、それを抑えるように先輩は頷いた。
「君の気持ちは分かった。でも、私の話も聞いてくれるかい?」
僕も頷く。互いに身体を寄せ合ったまま、まるで睦言のように僕らは話し出す。
「なぜ、この場所に来たかわかるかい?」
先輩が聞く。僕は答えられない。
「この場所は彼岸と此岸の交わる場所なんだ」
「ひがんとしがん?」
「そう。夏の送り火の日、この場所から無数の仏霊が向こうに還っていく。私はそれを見ながらいつも思うんだ。私の番はいつ来るんだろうって」
その言葉に息が詰まりそうになった。
「私が何者なのか、私自身分からない。けれどいつの間にか私はここにいて長い間、君たち学生を見てきた。私には君たちが持っている天賦の才能が見える。そのギフトを出来れば輝かせてあげたいと思った。そうして何人もの学生を導いて、やがてそれが私の役割で私はそのためにここにいるのだと思った。けれどその役割はいつまで続くんだろう? この学生を導けばそれで役割は終わるのかもしれない。今度の学生が最後で、そうしたら私もあの向こうに行くのかもしれない。そんな風に思いながら、けれど今まではいつの間にかまたこの場所に戻っていた。でも、もしかしたら今度こそ、君が最後の学生かもしれないとも思うんだ」
「そんな」
「違うかもしれないが」
先輩はちらっと微笑を浮かべる。
「じゃあ、なんで消えたりするんですか? 戻ってきたら、また一緒にいてくれてもいいじゃないですか?」
「それは、私が決められることじゃないんだ」
「どうして?!」
「さあ、どうしてだろうね。私にも分からない。でもそうだ、今日はクリスマスだろう? みんなにギフトを渡す日だ。だから、もし私の存在自体が君たちへのギフトだとしたら、今日が最後なんじゃないかな」
「そんな理由、納得できません」
「だめかな?」
「だめです。それに、もし今日が最後だとしたら、僕が欲しいのはこの先も先輩と生きられる未来という贈り物だけです。そのためなら、僕の才能なんか全部残らず誰かにあげてしまってもかまわない」
「君……」
僕は夜空に向かって叫ぶ。
「今日はクリスマスでしょう! 奇跡が起こる日だ! 神様でもクリストでもサンタでも、誰だってかまわない。お願いだから、先輩と生きられる未来を僕にください!」
先輩が呆れたように僕を見つめて
「君は、わがままで諦めが悪いな」
それから微笑む。
「でも、諦めの悪さは研究者には得難い資質だ。大切にするんだよ」
「先輩」
「無理も無茶も無謀もかまわない。でも危ない事だけはするんじゃないよ」
「先輩」
「私の教えたことを忘れないで。しっかりやるんだよ」
先輩の言葉が、否応なしに別れを予感させる。
いやだ。先輩を失いたくない。僕はもう一度先輩を抱きしめる。腕の中にしっかりと抱える。先輩がいなくなってしまわないように。この確かな温もりが消え去ってしまわないように。
今度は顔を上げて先輩を見つめた。先輩は緩やかに笑いながら顔を近づけてくると一度軽く唇を重ねてから僕の肩に顔を預けた。重なり合った頬から先輩の温もりが伝わる。耳元で先輩の声が聞こえた。
「もう、お別れだ。けれど、もしまだ私の役割が終わっていなかったら、その時は、今度は君が見つけてくれ。いつまでも待っているよ」
「……薫子先輩」
その瞬間、重なり合っていた頬も、抱きしめていた腕にも、先輩の暖かさは消え失せて、僕は目を見開く。光が粒になって夜空に舞い上がっていく。きらきらと。ひらひらと。見上げる僕の耳元でしゃらんと音が鳴った気がした。
それから僕は光の粒が消えていった夜空をいつまでもいつまでも見上げていた。今日のことを、先輩の姿を、僕は一生忘れないと誓った。
◇
十数年後。アメリカの大学で大きな業績を挙げた僕は三十代後半にして異例の抜擢で母校の教授になって戻ってきた。懐かしい研究室の教授室はあの頃のままで、僕の教授だった廣田先生は数年前に定年退官されてしばらく教授がいなかった所に僕が赴任する形になった。
「牧野教授、みんな集まりました」
学生が赴任の顔合わせに呼びに来る。分かったと返事をして先に行かせてから、さあ行こうかと足を踏み出した時、かすかな音が聞こえた。
その音は初め、ごく小さく、何かが擦れているように聞こえた。けれど耳を澄ますと次第に大きくはっきりと聞こえてきた。それが何かを理解した時、僕は瞳に溢れてくるものを抑えることができなかった。
「……薫子先輩」
耳元でしゃらんと鳴るその音はとても楽しげに響いていた。
了