あなたは知らない
わたしが今夜ここに来ることを、あなたは知らない。合鍵を使って五日ぶりにあなたの家へ入ると、イギーが嬉しそうに駆け寄ってきた。しばらくトリミングされていないため、形が随分と崩れてしまっている。トイ・プードルを飼うにはあなたは忙しすぎる。でも、寂しがり屋のあなたは独りで居ることに耐えられない。わたしと一緒に暮らしたら、あなたはイギーをどうするだろう。あなたには必要なくなってしまっても、この子の面倒はわたしが見るから、どうかこのまま飼わせてほしい。
投げ散らされた服を避けながらリビングへ向かう。物欲しげに見上げるイギーのために、持ってきたドッグフードを普段より多くボウルに入れてあげた。あなたは自分で餌を与えたがるから、わたしはいつも少しだけしか食べさせてあげられない。もっともっととねだるイギーに今日は存分に応えてあげた。
イギーというのはあなたが好きな漫画に登場する犬の名前。ここへ来るたびに少しずつ読み進めて、先月やっと125巻まで辿り着いた。抜けていた34巻と71巻を買い足したことを、あなたは知らない。無くなっていたことにすら気付いてないと思う。そういう大らかなところにわたしはいつも心惹かれる。犬種の違いを全く気にしない度量の広さも魅力的。
最新刊を棚に入れ、改めて部屋を見渡す。最近のあなたの忙しさが表れていた。半年以上取り組んできたプロジェクトが失敗し、連日のように帰りが遅い。家に帰れるだけマシだと言って優しいあなたは無理をするから、いつか倒れてしまいそうで不安になる。クリスマス・イヴでもお構いなしに残業を命じられ、今日中に帰れるかもわからない。でも、今日だけは我儘を言わせてほしい。今日はわたしたちが出会ってちょうど一年が経つ大切な日だから。二人で一緒にお祝いしたい。
部屋中に放り投げられた衣類を集め、ポケットを確認しながら洗濯ネットに入れていく。ボールペン、輪ゴム、クリップ、名刺、ティッシュ、五円玉、ポイントカード、噛み終えたガムを包んだ紙。あなたは何でもポケットへ入れて、そのまま脱いでしまう。冬の間は同じコートを着るから鍵やパスケースを忘れずに済むけれど、夏場はよく部屋中を探し回っている。わたしが気付いた時には取り出して、あるべき場所へ戻していることを、あなたは知らない。細かいことに拘らない鷹揚なあなたが好きだから、一緒に暮らしても言わないでおこう。
洗濯機が回り始めたことを確認して、ガムを噛みながらキッチンへ向かう。あなたは自炊しないし、わたしも今まで料理をしてこなかったからコンロ回りは汚れていない。床の上に無造作に置かれた大きなゴミ袋を開き、中を確認していく。コンビニのお弁当、ティッシュ、トイレットペーパーの芯、ダイレクトメール、缶ビール、お茶のペットボトル、割り箸、栄養ドリンクの瓶。雑多に入れられた様々なゴミを一つ一つ仕分けていく。あなたはゴミの分別に拘らず、同じ袋に全て豪快に捨てる。そんな野性的なところがかっこよくて素敵なのに、偏屈な管理人が怒っているのを見てしまった。あなたが家から追い出されることも、あなたの長所を崩されることも、どちらも許すわけにはいかない。それからはずっとわたしが仕分けしている。このことも勿論、あなたは知らない。どうか今のまま変わらないで。
今日は特別な日だから自分でディナーを作ることにした。前菜はトマトのカプレーゼ。メインはミネストローネ、芽キャベツとベーコンのパスタ、チキンのローズマリー煮グリル。デザートはティラミスのコーヒーゼリー。一年前、あなたがレストランでわたしに注文したクリスマスディナーと同じメニュー。でもあの日、あなたはカプレーゼしか食べられなかった。一緒に来ていた女が怒りだして、出て行ってしまったから。あなたはワインを掛けられても怒ることなく、わたしに謝りながら女を追いかけて行った。わたしに謝る必要も、あの女を追いかける必要もなかったのに。あなたが店内に入ってきた瞬間にわたしがあなたに惹かれたことを、あなたは知らない。あなたは自分が先にわたしのことを好きになったと思っていて、わたしはそれがひどく嬉しいから、あなたの間違いは訂正しないことにした。
翌日あなたは照れながら来店して二人分の代金を支払い、クロークに預けたコートを受け取った。オーナーが対応している間に何度も目が合って、微笑みを交わして、その日の夜にはもう、わたしのキーケースにあなたの部屋の鍵が増えていた。早すぎる展開に躊躇いが無かったわけじゃない。でも、わたしたちは止まらなかった。
料理はずっと苦手だった。生まれて初めて誰かのために作りたいと思った。あなたのために料理教室に通ったことを、あなたは知らない。あなたの喜ぶ顔を想像するだけで胸の奥が痺れだす。
ワインはあなたの生まれ年である1992年シャトー・ジスクール。一年前にあなたが選んだワインより二年古い。あの女はわたしと同じ齢だった。飲む三時間前に抜栓してデキャンタージュを30分すると格段に美味しくなる。あなたは何時に帰るだろう。
噛んでいたガムを捨て、部屋の掃除を始める。前にわたしが勝手に片付けた時、あなたが不満そうな声を出したから、それ以来ずっと我慢してきた。適当に置かれたように見えるリモコンやティッシュボックス、読みかけで開かれたままの漫画、床中に散らばる日用品。その全てにあなたの拘りがあることを、あの時のわたしは分かっていなかった。それからは目立たないところだけを綺麗にしてきたけれど、今日は特別な日だから。部屋中全て掃除することに決めた。
照明の傘をマイクロファイバークロスで拭き、リモコンはハンドクリームで磨く。窓サッシのレールに熱いお湯を流し入れると、柔らかくなった塵が割り箸で簡単に集められた。本を出版社ごとに並べ、ボールペンのインクを確認する。予想通り、青が書きにくい。新しいペンと交換した。エアコンのパネルを開いてフィルターを水洗い。マイナスドライバーでカバープレートを外し、コンセントの中も入念に綺麗にする。パソコンのキーボードからキートップを一つずつ取り、エアダスターと綿棒で埃を飛ばす。全てを元にあった位置にそのまま戻した。あらゆる物からあなたの生活を感じる。これからここに少しずつわたしも混じっていきたい。
わたしもあなたも大抵シャワーだけで済ますのに、お風呂の浴槽は汚れてしまう。重曹で丁寧に磨いた。シャンプーボトルの底にも重曹が効果的。中身は五日前にわたしが入れたばかりなので足す必要はない。鏡と蛇口はクエン酸水に浸したキッチンペーパーとラップで覆って放置する。換気扇のフィルターは掃除機で埃を取り、濡らさないようにカバーを戻した。排水溝の蓋を開くと、今日も髪の毛が残っている。抓んで取り出し、絡まり合った毛を一本一本解いていく。37本。そのほとんどが同じ長さで同じ色だった。あなたが浮気していないことも女を連れ込んでいないことも分かっているのに、どうしても止められない。家へ来る度にこっそり確認していることを、あなたは知らない。こんな嫉妬深いところは知られたくない。
一番長い毛を選び、ゆっくりと口に含ませていく。石鹸の香りと滑りを舌先で味わい、歯で擦り合わせ、丹念に飲み込んだ。あなたの頭皮から剥がれた毛が、わたしの喉を過ぎ、食道を通って、胃へと渡っていく。髪の毛が消化されるのは胃と腸のどちらだろう。できることならギリギリのところまでわたしの体内にあってほしい。あなたの一部が今わたしの中にあることを、あなたは知らない。全部食べてしまいたい衝動を抑えながら残りの毛を袋に捨てた。あなたが帰るまでにディナーの準備を終わらせないと。
切れ目を入れたトマトに特製スパイスを掛けたモッツァレラチーズを挟んでいく。カプレーゼにあなたが嫌いなバジルは入れない。ミネストローネはにんにくとオリーブ油を炒めてから切った具材を足していく。カットトマト缶と水を入れて煮込み、特製スパイスで味を整えたら完成。塩と特製スパイスをふった鶏肉を焼いた後、フライパンにオリーブ油、にんにく、白ワイン、コンソメ、ローズマリー、特製スパイスを入れて一煮立ちさせる。鶏肉を戻し入れて20分煮た後、粉チーズと特製スパイスをかけてメインディッシュの出来上がり。芽キャベツとベーコンのパスタはアンチョビを入れるのがポイント。スパゲッティはあなたが帰ってから特製スパイスを混ぜたお湯で茹でよう。生クリームを泡立ててクリームチーズとラム酒を混ぜる。家で作ってきたコーヒーゼリーに載せ、特製スパイスをまぶしたらデザートも可愛く仕上がった。
全体的にちょっとスパイスを入れすぎた気もするけれど、これくらいの量ならたぶん大丈夫。デキャンタにワインを移し、特製スパイスを程良く溶かした。
全ての工程を終え、クッションに腰を下ろす。イルミネーションもクリスマスツリーもいらない。イエス・キリストもサンタクロースも必要ない。この部屋にはわたしとあなた、そしてイギーだけ居ればいい。イギーはすっきりした部屋の隅で気持ちよさそうに眠っている。いつもより多めにあげたから明日の朝まできっと起きない。
枕元に置かれた写真立てに手を伸ばす。一人暮らしの男性が額に入れて写真を飾るのは珍しいと思う。そんな純真なところも好きだった。これは友達と四人で海へ行った時の写真。中学から仲の良い友達なのに、恥ずかしがってまだ会わせてくれない。三人と一緒に居る時のあなたはいつも楽しそうだから、これ以上我慢していたら彼らへの嫉妬が抑えられなくなりそう。
後ろ蓋を開けて、写真を二枚取り出す。四人で映る写真の後ろには、わたしとあなたの写真が隠されている。本当はこちらを表にしてほしかった。でも、家族や友人がいつ来るかわからない部屋に恋人の写真を飾る恥ずかしさは察せられるから、我儘を言ってはいけないと諦めてきた。二人でサッカーを見に行った日、試合に興奮したあなたはわたしにほとんど構ってくれなかったけれど、楽しそうに笑うあなたの隣りにいられるだけで幸せだった。あなたのキラキラと輝く横顔は、今もまたわたしに幸せを思い起こさせてくれる。
最初の急展開とは違い、付き合い始めてからのわたしたちの進み方は緩やかだった。年が明けてしばらくはあの女を思い出して「ごめん」と泣くあなたの声を聴くことが辛かった。夏からは一緒に出掛ける機会が増えて、思い出を積み重ねていった。あなたの仕事が忙しくなり、すれ違う日が続いても、あなたへの愛は膨らむ一方だった。同時に、わたしは我儘になってしまった。今日こそ言おう。ずっと我慢してきたこと。わたしの心の中だけに秘めてきた、あなたがまだ知らないこと。
二人の写真を表側にして戻したところで、鍵を回す音が響いた。全て終えるのを待ってくれていたみたいに絶妙なタイミング。わたしがこの部屋に来ていることを、あなたは知らないはずなのに。
「おかえりなさい。」
「…えっ…?」
「今日はどうしても一緒にお祝いしたかったの。出会ってちょうど一年経つ日だから。」
驚いた顔で硬直するあなたを温かく迎え入れる。大きな瞳を更に丸くさせた表情が幼くてかわいい。ネクタイが乱れているところも愛おしい。
「仕事で遅くなるって言ってたのに、勝手に押し掛けてごめんなさい。」
これからは毎日わたしの声も聴かせてあげる。
「食事はできてるよ。あなたの口に合うように何度も練習したの。」
これからは毎日わたしが食べさせてあげる。
「先にお風呂に入ってきて。綺麗に磨いておいたよ。」
これからは毎日わたしが片付けてあげる。
「次のお休みにどこへ行くか話し合おう。」
これからはもっと二人で出掛けられる。
「そろそろお友達にも紹介してほしいな。」
これからはもっと二人の写真を飾れる。
「疲れているなら家でゆっくり過ごそう。」
これからはずっと一緒に居られる。
「一方的に話しちゃってごめんね。ずっと我慢してたの。でも、もう一年経ったからいいかなって思って。」
一年間、ずっとあなたのことだけを想い続けてきた。ずっと見つめ続けてきた。ずっと聴き続けてきた。ずっと、ずっと。でも、どうしても言えなかった。だから―――。
「…おまえ………誰だよ……」
あなたの恋人が誰なのか、あなたは知らない。
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