アニバーサリー
誰かの嬉しい日は誰かの悲しい日だ。誰かの歓喜の裏にはいつだって、誰かの絶望がある。そんなことは痛いほどわかっている。この世に生を受けたその日、わたしはこの世界に呪いをかけられた。
美しいひとだった、と聞いている。古びたアルバムに几帳面に貼られた写真の中の女性は、いつも優しい笑みを浮かべて父の隣に収まっている。華奢で線の細いひとだ。目尻の下がった切れ長の目や、ツンと細い鼻や、口元のほくろ。自分に似たところがないか、つい探してしまう。アルバムのページをめくる。今よりも若い父は、快活そうに大きな口を開けて笑っている。女の人はそれを微笑ましそうに見ている。いかにも仲睦まじい二人の幸せそうな様子は、女の人のお腹が大きくなっていくにつれてさらに輝きを増していく。女の人の丸いお腹に触れる父は、見たこともないほど優しげだ。ページをめくる。女の人のお腹ははちきれそうなほど大きくなり、少しやつれた顔で片手を挙げている。写真を撮る父に手を振っているのかもしれない。
そして、それ以降の写真は一枚もない。
冷え冷えとした空気が足元に溜まって身体が痺れるような冬の日、空白のページを黙って見つめながら、自分が母のいのちを奪って生まれたことを、わたしはまたまざまざと思い知らされるのだった。
師走の声を聞くと、気が早い家はクリスマスの飾り付けを始める。中学校へ登校する道行きで、近所の庭木に飾られたサンタクロースやトナカイのオーナメントが視界に入らないように、わたしは自分の爪先をじっと見つめた。世の中がクリスマスの浮かれたムードに染まるにつれて、どんどん息が詰まっていく。わたしの手足にはいつも枷がかけられていて、それが十二月になるとグッと重みを増してわたしを暗い淵に引きずり込もうとしてくる。振り返れば、美しい顔を憎悪に歪ませた母の亡霊がわたしに縋り付いているのだろう。
「聖、おはよう! どうしたん? 遅刻するよ」
気づかないうちに足を止めていたらしい。肩にぽんと手を置かれて我に返ると、真紀子がこちらを訝しそうに見つめていた。
「おはよう。ちょっと立ちくらみがして」
「大丈夫? 今日めっちゃ寒いもんね。ほら、学校行こ」
十二月になると毎年わたしの様子がおかしくなるのを、理由はわからないにしろ、付き合いが長い真紀子は気がついているのかもしれない。それでも何も言わない友人の優しさに感謝して、わたしは彼女の手を取った。
「うう、さぶ。もうすぐクリスマスかあ。てことはあれだ」
真紀子はわたしの手を離さないまま、小走りで学校への道を急いだ。わたしの少し前を行く真紀子の白い息がはずんでいる。握られた手は、わたしのものとは違って温かい。
「聖、誕生日だね」
そう言って笑顔で振り返った真紀子から、わたしは思わず顔を背けた。真紀子はそんなわたしの態度を気にした様子もなく、「クリスマスパーティーと聖の誕生日会、しなきゃね」と楽しげに笑い、何かを逃さまいとするかのように握った手に力を込めた。
わたしの母は、クリスマスの日にわたしを生んで死んだ。そのことを、わたしは誰にも言うことができずにいる。
真紀子のおかげで、学校にはなんとか遅刻せずに済んだ。最後は階段を一段飛ばしで駆け上がったせいで、息が切れて肺が苦しい。始業の鐘とほぼ同時に教室に飛び込んだわたしたちは、クラスメイトたちに茶化されながらそそくさと席についた。真紀子は「ギリセーフ!」と大きな動きでおどけて周りの子たちを笑わせている。朝の教室はまだ暖房が効いていなくて寒いはずなのに、走ったせいでじんわりと暑かった。
「おまえが遅いの珍しいじゃん」
寝坊?と、隣の席の谷口がわたしの方を見てにやりと笑う。
「ちがう、真紀子と一緒にしないで。ただちょっとぼーっとしてて」
「へー。あ、シシュンキってやつか! 好きなやつがいるとか!」
からかうように大きな声を出した谷口に苛立って、わたしはそっぽを向いた。腕を下敷きにして机に突っ伏す。怒ったのかよなんだよ、という谷口のちょっと焦ったような声を聞き流しながら、指先だけが冷たい手を隠すように握りしめた。さっき走ったばかりなのに、わたしはいつだって身体のさきっぽだけが冷たい。まるで死んでいるみたいだ。いつまで経っても温かくならない指先になぜか泣きそうになりながら、わたしはぎゅっと目をつぶった。
「つーか先生遅くね?」
頭上で谷口の声が聞こえる。わたしに話しかけているのだろうか。
「なんかね、三組で問題起きたらしいよ。多分そのせい」
「え、問題ってなになに」
谷口の疑問に答えたのは前の席の沙織だった。食いつくようにまた大きな声を出した谷口ほどではないが、『問題』というのが何か気になってわたしも思わず顔を上げる。沙織は少し得意げな顔で谷口に顔を近づけ、内緒話をするかのように声をひそめた。
「谷口声でかい。なんかね、三組にちょっと変な子いるの知らない? 心の帝って書いて、『シンディー』って名前の子」
「心の帝? めちゃくちゃかっけえ」
「いやー、女の子に帝はないでしょ。しかも、その子図書委員でさ、優等生なのよ」
シンディーのことならわたしも知っていた。クラスが一緒になったことはないが、その名前の風変わりさで入学当時からいつも目立っていたからだ。わたしがシンディーを移動教室で見かけたとき、彼女は太いおさげを揺らして猫背がちに廊下の隅を歩いていた。その黒々としたおさげ髪や黒縁の眼鏡はお世辞にも似合っているとは言えなくて、名前の珍妙さを嫌ってわざと地味な格好をしているように見えた。
「で、その帝がどうしたんだよ」
「あの子、二年になってからずっと同じクラスの派手な子たちに名前からかわれてさ。昨日の放課後についに爆発しちゃったんだよ」
「帝が爆発。強そうだな」
「わたしも友だちに聞いただけなんだけど。なんか泣き叫びながら物投げたり髪つかんだりしてやばかったんだって」
「ひえー、女子はこわいな。なあそれより…」
谷口はおおげさに肩をすくめると、沙織に数学の宿題のノートを見せるように頼み込んでいた。わたしはまた机に突っ伏して、うつむきがちだった彼女の顔を思い出していた。シンディーは、自分の名前をどう思っていたのだろう。
わたしも、『聖』という自分の名前が嫌いだ。愛する妻の生命と引き換えに生まれた娘に、父がどういう感情を抱いたのかわたしにはわからない。でも、名前を呼ばれる度にわたしは自分の罪を思い出す。妻の命日であるクリスマスを連想させる名前をわざわざ娘につけた父は、わたしのことを憎んでいるのだろう。わたしが生まれて最初に奪ったものは、母のいのち。そして一番最初に与えられたものは、罪を忘れるなという戒め。だからわたしは、生まれた瞬間に罪を背負ったことを、肉親から憎まれて続けていることを、忘れてはいけないのだ。
シンディーの件はわたしが思ったよりも大きな騒動になっていた。大人しい優等生だったシンディーがクラスのリーダー格の女子につかみかかり、髪の毛をわしづかみにして顔に唾を吹き掛けたという話は、いつしか『心帝一揆』と呼ばれるようになっていた。シンディーはあれからずっと学校を休んでいる。
冬休みを一週間後に控えた十二月の中旬すぎ、月曜日のロングホームルームで、担任の坪口先生は神妙な顔つきで一枚のプリントを配った。かさつく手で前の席の沙織からプリントを受け取る。白いそれには、『自分の名前の大切さを知りましょう』と丸い文字で印字してあった。
「はい、聞いて―。みんなもう知っているかもしれないけど、つい先日、人の名前をからかうという絶対にやってはいけないことをしてしまった生徒がいました。先生、それは本当に悲しいことだと思います」
坪口先生は本当に悲しそうに眉毛を下げ、胸のところに手を当てた。若くてかわいい先生はみんなの人気者だけど、こういう話をするときはどうも演技くさい。心帝という名前は普通じゃないと、先生だって思っているはずだ。
「先生の名前は美帆といいます。これは、先生のお父さんが、広い海をどこまでも旅する船のように自由であってくれという意味を込めてつけてくれた大切な名前です。みんなの名前にも、それぞれお父さんやお母さんの特別な思いがあると思います」
聖、という名前。それにお父さんが込めた思い。それを知ることは、お父さんがわたしを憎んでいることを改めて突き付けられることを意味している。思わずプリントをつかむ指に力は入って、白く小さく震える。
「ちょうど来週から冬休みだから、ご家族のかたに自分の名前について聞いてみましょう。名前の由来とか意味とかこのプリントに記入して、休み明けに提出してね」
先生の言葉にみんな小さな声で返事をした。また、わたしの手足にかけられた枷が重くなる。足掻こうとすればするほど、ずぶずぶと暗いほうへ沈んでいく気がする。わたしはプリントを四つ折りにして、カバンの一番底にしまった。壁にかけられたカレンダーに描かれたサンタクロースの笑顔がこちらを見ている気がして、わたしはその視線から逃れるように膝の上で握りしめたこぶしだけを見つめ続けた。
ひとりで暗いところをさまよっていると、真紀子が明るい声でひーじり、とわたしの名前を呼んだ。氷点下の世界に放り込まれたように硬直していた身体から、ふっと強張りが解ける。瞬きを忘れて乾いた目をしばたかせ顔を上げると、いつの間にか先生はいなくなっていた。休み時間になっていたようだ。真紀子は何かを見定めるようにわたしの顔をじっと見つめ、それからニカッと笑ってわたしの冷えた手を自分の手で包み込んだ。
「ねえ聖、本当に誕生日会やらないの? クリスマスパーティーだって…」
「うん、冬休みは多分ちょっと忙しいから。親戚とか、集まる気がするし。でもありがと」
わたしの答えに、真紀子はつまらなさそうに唇を尖らせた。忙しいというのも親戚が集まるというのも真っ赤な嘘だ。ただ、誕生日もクリスマスも、特別なものにしたくなかった。それは、お母さんの命日だ。祝っていい日じゃない。浮かれていい日なんかじゃない。真紀子は毎年、誕生日会をやろうと言ってくれるけど、わたしがそれに応えたことはない。これからもずっと、ない。
「残念だなあ。聖の記念すべきフォーティの誕生日なのに」
「それだと四十じゃん。オバサンじゃん」
真紀子は手を叩いて笑い、「まあ当日暇になったらピンポンしにきてよ。わたし多分家で漫画読んでるから」と言った。返事はしなかった。
お父さんは熊のような人だ。外での仕事が多いせいで冬でも日焼けしているし、太い腕にはたくさん毛が生えている。言葉遣いも荒いしお酒もたくさん飲むし、この人がどうやってあの写真の美しい女性と結婚できたのか、わたしには不思議でならない。
その日、珍しく仕事から早く帰ったお父さんに、もやししか入っていない焼きそばを出す。今日もどうせ外で食べてくるんだと思っていたから、豚肉は全部自分の分に入れてしまったのだ。お父さんは文句も言わず、あぐらをかいて焼きそばを口いっぱいに頬張りながら、星のマークがついた缶ビールを水のように飲んでいる。わたしはそんなお父さんに背を向けてテレビをつけた。画面の中では、真紀子が好きだと言っていた男性アイドルがクリスマスディナーの食レポをしている。
「おう聖」
ビールのおかわりかと思って振り向くと、お父さんは小さくげっぷをして「おまえもうすぐ誕生日だな」と言った。わたしが何も答えずにいると、お父さんの視線はふらふらと部屋の中をさまよい、お母さんの写真の上で止まった。もうすぐ誕生日だなというのは、もうすぐ命日だなという意味なのだろう。わたしは体育座りをした膝に顎を置いて、うんといやの中間のようなことを言った。
「何かほしいもんあるか」
お父さんはポリポリとお腹をかきなら、ぶっきらぼうに言った。
「別に、ないよ。いつも通りでいい。だって」
お母さんの命日だから。わたしがお母さんを殺した日だから。言えなかった言葉はしこりのように、わたしの心に居座った。お父さんはいじけたようなわたしに面倒そうな唸り声をあげて、「なんかあれば言えよ」と席を立った。台所で乱暴に缶をつぶしている。空き缶、洗ってっていつも言ってるのに。お母さんだったら、お父さんは言うことを聞いたのかな。それは一生答えのわからない問いだ。
お父さんがお風呂に入ったあと、わたしは自分の部屋であのプリントを取り出した。『自分の名前の大切さを知りましょう』 ――― プリントに書かれたその言葉は、やはり呪いのようだった。今日もお父さんに、言えなかった。わたしの名前の意味って何? どうしてわざわざ聖なんて名前をつけたの? たったそれだけのことが、怖くて、悲しくて、どうしても聞けなかった。お前が憎いからだ、お前が俺の愛する人を殺したからだ。もしも本当にそう言われてしまったら、わたしはもう生きてはいけない気がした。震える手でプリントを小さくたたむと、机の引き出しにしまい込んだ。窓の外に近所の家々の忌々しいイルミネーションがチカチカと光っているのが見える。何がめでたい。何がめでたいんだ。わたしは今にも叫び出しそうになる唇を噛みしめて、何も見えないように布団をかぶって眠りについた。
冬休み前の最終登校日はクリスマスイブだった。明日から休み、それにクリスマスイブということもあって、クラスのみんなは浮かれているようだった。隣の席の谷口は「おれ、明日からハワイなんだよ!」と朝から二十回近く大声で叫んで、周りの子たちに鬱陶しがられている。わたしも「仕方ねーからおみやげ買ってきてやるけど、何がいい?」と何度も聞かれたけど、うるさいから無視をした。
「聖、ひーじり」
終業式とホームルームを終えて帰り支度をしていると、遠くの席から真紀子に手招きをされた。目で用を問いながら近づくと、真紀子はくすぐったそうな顔で「はい!」と小さな包みを差し出した。
「これ…」
「一日早いけど、誕生日プレゼント! 聖って何が好きとかほしいとか全然わかんなくてさあ、適当に選んじゃったんだけど」
もらって、いいのだろうか。わたしは誕生日を祝われるべき人間じゃないのに。まごついて受け取れずにいると、真紀子がちょっと怒ったようにほら! とさらに強く包みを突き出した。
「もらってくれないと困る。これは、聖のために用意したんだから」
「ありがとう…」
真紀子の勢いに負けて、思わず包みを受け取る。水色の綺麗な包みには、何か硬いものが入っている。
「あー! 恥ずかしいからここで開けないで! 家で! 家で開けて!」
リボンに手を掛けると、真紀子は慌てたように手を振った。わたしは手の中のプレゼントを胸元で抱きしめ、もう一度「ありがとう」と言った。真紀子はまたくすぐったそうに笑い、いいってことよとわたしの背中をたたいた。真紀子にずっと握られていたプレゼントの包みは、真紀子の手と同じように温かかった。
別のクラスの友だちとカラオケに行くという真紀子と別れ、一人で学校を後にした。カバンの中には真紀子からもらったプレゼントが入っている。うれしかった。いつもよりも足取りが軽いのが自分でもわかる。スーパーに寄るために商店街へと足を向けると、クリスマス本番を迎えた街は、どこもかしこも輝きに満ちていた。サンタの格好をして客引きをする店員さん、昼間からビカビカ光るイルミネーション、どこかからか聞こえるジングル・ベルのメロディー。小さな女の子の手を引いた若いお母さんがそのメロディーにあわせて鼻歌を歌いながら、わたしを追い抜いていく。パパにケーキ買ってきてもらおうね、という甘い言葉が聞こえる。それは、絶望的なまでに幸せで温かい光景だった。
何を勘違いしていたんだろう。こんな幸せな世界の一部に、自分をあてはめちゃいけない。ありふれた幸せを奪ったのはわたしだ。ただ二人だけで幸せだったお父さんとお母さんから、クリスマスの日にすべてを奪ったのは、わたしだ。ケーキもいらない。プレゼントもいらない。クリスマスの歌だって、サンタクロースだって、いらない。ただわたしは、お母さんに死んでほしくなかった。お父さんとお母さん、二人でいてほしかった。冬になると何度も繰り返し見たあのアルバムの中の写真の二人は、わたしなんていなくたって、二人はそれだけで良かったのに。
踵を返して、家の近くの公園まで走った。身体中が小さな針で刺されたように痛い。その穴から何かがこぼれ落ちそうになる。むき出しの膝が、冷たい風にさらされて感覚を失っていて、指先が死んでいるように冷たかった。本当に死んでいればよかったのだ、あのとき。十四年前のあの日に。ベンチに座って、真紀子からもらったプレゼントを取り出した。家には持って帰れない。捨ててしまおう。公園のごみ箱に包みを投げ入れかけた。しかしやっぱりそのまま捨てるのも忍びなくて、ベンチに座り直して包みを開けた。中から出てきたのは、スノードームだった。小さな丸い世界の中には偽物の雪がはらはらと舞い、女の子とそのお父さんらしき人が大きな雪だるまの隣で笑っている。わたしはスノードームをさかさまにして、何度も雪を降らせた。雪は、何度でも降った。しばらくその様子を見つめ、包みをぐしゃりと丸めかけて中にカードが入っていることに気がついた。かじかむ手で取り出す。
――― 聖が、少しでもクリスマスを好きになれますように。
クリーム色のカードには、真紀子の右肩上がりの文字でそう書かれていた。言葉にできない感情に、唇がわななく。真紀子は気がついていたんだ。わたしが、クリスマスを嫌いなこと。自分の誕生日を憎んでいること。ひとりでカードを抱きしめていると、公園に誰かが入ってくる気配がした。カードを手にしたまま慌てて姿勢をただし、その黒い人影を見つめる。ゆっくりと歩くモッズコートのフードの下の顔を認めて、わたしは「あっ」と思わず声をあげた。シンディーだった。シンディーはわたしの反応を見て、こちらにゆっくりと近づいてきた。
「もしかしてわたしのこと知っている人?」
シンディーはわたしの隣に腰掛けた。学校での姿とは違い、眼鏡をかけていないし髪もほどいている。そして、しっかりと顔を上げていた。
「同じ学年で。クラスが違うけど」
「あ、そうなんだ。わたし、学校でなんて言われてる?」
わたしが口ごもると、シンディーは「はっきり言っていいよ。もう別に気にしてないし」と言い切った。ただの強がりにも見えず、わたしはちょっと迷ってから口を開いた。
「心帝一揆とか。帝のご乱心とか…」
わたしが小さな声で言うと、シンディーは顔を歪めた。やっぱり泣き出すのではないかと思い慌ててその真っ直ぐな背中に手を添えると、彼女は何かが破裂したような大声を上げて笑い始めた。わたしはぎょっとして、背中に手を添えたまま、初めて見る彼女の笑顔を凝視した。
「あー、おっかしい。帝が一揆はないでしょ。やっぱり馬鹿ばっかりなんだ」
笑いすぎてお腹いたい、と言いながら、彼女はクリスマスイブの曇天の空を見上げた。つられてわたしも上を向く。あの厚い雲をこの冷気の針でつつけば、今にも水気が溢れ出して雪が降り出しそうな空模様だ。シンディーはふぅと息をつくと、「みんな勘違いしてるけどさ」と切り出した。
「わたしは別に、心帝って名前、嫌いじゃないんだよね」
思わずその横顔を見る。白い肌の中で頬だけがほんのりと桃色に色づいて、目の中の光がきらめいている。思わず、見とれた。
「そりゃさ、なんて馬鹿な名前つけてくれたんだって反抗のつもりでらしくもない真面目ちゃんやってたけど。やっぱり嫌いになれないんだよね。だからこの前はつい怒っちゃった。失敗したなあ」
シンディーはわたしの手の中のスノードームと手紙に目を留め、「聖って名前?」とつぶやくように問いかけた。わたしは黙ってうなずく。
「じゃあ、明日誕生日とかかな。メリークリスマス、いい名前だね」
シンディーはひらりと手を振って立ち上がると、冬休み明けには学校行くからさ、と言い残して去っていった。その真っ直ぐに伸びる背中と、潔く流れる黒髪を見送りながら、わたしはさっきよりもほんのりと温もった手のひらを見つめた。スノードームの中の父娘には、まだ優しい雪が降り注いでいる。
その夜、いつもと変わらない食事を終えてゆっくりと居間でくつろいでいるお父さんに、くしゃくしゃのプリントを差し出した。
「わたしの名前…『聖』って名前のこと、知りたくて」
唐突な話に、お父さんは箸をくわえたまま黙ってその白いプリントを見つめた。
「お父さんが、わたしのこと、その、お母さんのことで…良くないこと思ってるのは知ってるんだけど…」
お父さんは箸を置き、プリントを取り上げて顔から近づけたり離したりした。痺れを切らし「お父さんはわたしの名前、嫌いなんでしょ」と言い募るように聞くと、お父さんははあ? と目をむいた。
「なんだおまえ、やっぱり思春期か? やめてくれよ、桃子がいなくなって俺ぁ娘との付き合い方もいまだに手探りなんだからよ」
お父さんはぐしゃぐしゃと頭をかくと、覚悟を決めたように一度大きな息を吐きあぐらをかいてどっしりと座り直した。
「いいか、まずおまえの名前をつけたのは母さんだ」
「え…?」
知らなかった。お母さんは、わたしを産んですぐに出血多量で意識が混濁し、わたしを抱くこともなく亡くなったと聞いている。名前をつける暇なんて、なかったはずだ。
「子どもがクリスマスに生まれるかもしれないって聞いて、あいつはえらく喜んでな。男の子でも女の子でも『聖』って名前にしようってずっと言ってたんだ。ぽんぽこのお腹をなでながら、毎日ひじり、ひじりって呼んでたんだぞ」
知らなかった、そんなこと。父に憎まれて、母のいのちを奪ったわたしに呪いをかけるためにつけられた名前だとばかり思っていた。お父さんは言葉を失ったわたしをちらりと見て、「そういや桃子の話、全然したことなかったか」と無精髭の生えた顎をするりと撫でた。
「あいつは元々身体が強くなくてな。子どもを生むのはあぶねえって、最初から医者に言われてたんだよ。それでも、俺たちはおまえに会いたかった。おまえを待ってたんだよ」
お父さんがあまりにも優しくわたしを見るから、わたしは喉がひりついて、塩辛いものがせり上がってくるのをこらえきれなかった。その目、アルバムの中にあった、お母さんを見る優しい目。もしかして、お父さんはずっとわたしを、その目で見ていてくれたのか。
「しかしあいつはなあ、美人だったけどどうもセンスがなくてなあ。プレゼントはいつも、魚の漢字がプリントされた湯呑みとか、信楽焼のたぬきとか、どうしようもねえモンばっかりだったんだよ。でもな、最期の最期に、世界一いいモンもらっちまった」
お父さんはしみじみとつぶやいて、気恥ずかしそうにずずっと鼻をすすった。お父さんがお母さんから最期にもらったもの。何かと目で問うと、お父さんはわたしの頭にぽんと手を置いて、
「おまえだよ、聖」
と言って笑った。
「桃子…母さんはな、最期のクリスマスに、俺にはおまえを、おまえには聖って名前をくれた。世界一のクリスマスプレゼントだろ。おまえは確かに母さんと過ごした時間は短いかもしれねえけど、だからって自分が愛されてないだとかいらない子だとか、そんなくだらねえこと考えるんじゃねえぞ」
一度開いてしまった涙腺をとめることはできず、熱い涙が真っ白なままのプリントにぼたぼたとこぼれ続けた。お父さんは思春期の娘はこれだから困るぜと言いながら、いつまでもわたしの頭をなで続けた。
もうすぐ日付が変わって、わたしたちはクリスマスを迎える。そうすればきっと、お父さんはわたしに心からの「おめでとう」をくれるだろう。たまにはケーキをねだってみてもいいかもしれない。それも、誕生日とクリスマスで二つだ。それから真紀子にも連絡しよう。休みが明けたら、シンディーとも友だちになりたい。それから、それから。考えることは色々あるのに、いつまでも涙が止まらない。ひじり、ひじり。優しい声が聞こえる。どこか懐かしい女の人の声。わたしを呼ぶのは誰だろう。暖かくて眠ってしまいそうだ。
夢と現実の境目が曖昧になったころ、また優しい声が聞こえた。メリークリスマス。お誕生日おめでとう、聖。今日が誰かにとっての悲しい日でも、わたしにとってはどうか嬉しい日になりますように。祈るように抱きしめたスノードームの中で、父娘は寄り添うように笑っていた。