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真っ赤なお鼻の狼さん

「ねえ、坊や。サンタとサタンが似ている理由がわかるかい?」

「はぁ……? 何言ってんだ婆さん、そんなもん……」

「無駄口叩いとらんで走らんかね。そら、速度が落ちとるよ」

 橇を曳いて林道の悪路をあくせく走る俺に、御者台から鞭が振るわれた。御者台に座るのは針金のように痩せた背の高い老婆。俺の師匠で育ての親。狼流サンタ空手を極めたマスターサンタ・ウルフだ。

「ふざけんな。あんたが言い始めんたんだろうが」

 理不尽だと叫んでも、サディスティックババアはボケているのか耳が遠いのか、心から楽しそうにひゃっひゃと魔女のような笑い声をあげて俺の裸の上半身に鞭を振るった。

「さあ走りな。終わったら指立て伏せだよ。今日は千回くらいやってみようかね」


 婆さんが死んだのは、そんなことを話した夏の始まりの頃だった。

 目が覚めると、いつの間にか俺の枕元には丁寧にラッピングされた純白のサンタ装束が置かれていた。隣のベッドで眠る妹弟子のアメリーの枕元には真っ黒なサンタの装束。

ここで俺は粗方の事情を察した。

 揺り起こして、寝惚け眼を擦るアメリーの手を引いて婆さんの寝室に行くと、寝床の中でサンタの正装をして笑顔を浮かべて冷たくなっている婆さんを見つけた。

 わんわん泣いているアメリーを適当にあやしながら、俺はサンタの癖にベッドの上でくたばった婆さんに、勝ち逃げを決め込まれたような腹立たしさを覚えていた。



 婆さんが死んでから半年後のクリスマスイブの夕暮れどき。夜に備えてたっぷりと昼寝をした俺は、婆さんの置き土産に袖を通した。

「うわ、だっせぇ……」

 純白のサンタ装束は初心者マークだ。俺のようなセンシティブな年頃の若者には小っ恥ずかしくて仕方がない。

「似合ってます!」

 この半年で俺の妹弟子から弟子になったアメリーは、自分の黒装束に上機嫌で、俺を見ると目を輝かせて褒めた。

「狼の準備は出来たか?」

 照れ隠しにそう言うと、アメリーはビシっと敬礼した。

「もちですよ! ダンサーとコメットがはしゃいじゃって大変でした」


 厩舎の前に行くと、橇に繋がれた八頭の大狼が俺を見て鼻息を荒くした。特に先頭に繋がれたダンサーとコメットは、アメリーが言う通りはしゃぎすぎて地響きが鳴っている。このあたりの山に住む動物がショック死しちまうからやめてやれ。

狼たちに取り付けられたハーネスの具合を確かめる。

 いい仕事だ。十歳でちびのアメリーは、背伸びをしても牛ほどのサイズの大狼の頭には届かない。ではどうやって取り付けるのかというと、狼に襟首を噛んで持ち上げてもらうのだ。俺がガキの頃にもそうしていた。何年生きているのか分からないこの狼たちにとって、俺やアメリーは子どもや孫にも見えるのだろう。


 橇に乗り込み手綱を握ると、隣に座るアメリーが緊張した面持ちで手すりを掴んだ。

 掛け声とともに手綱を打つと、狼たちが喜び勇んで駆け出した。総重量一トンを超える巨大な橇はみるみる速度を上げて森の中の滑走路を駆け抜ける。

 合図を出すと、アメリーが右手に握りしめた鈴を怖々と振った。しゃらんと鈴が鳴り、地を駆けていた狼たちが何も無い空を踏みしめて、続いて橇も宙を滑り出す。

ついに俺たちの初仕事が始まった。


「八時の方向あと千三百メートルです」

 助手席のアメリーがスマートフォンに表示されたマップアプリを見ながらナビゲートする。

 サンタは意外と先端技術を導入に積極的だ。

 ここ数年でスマートフォンとマップアプリがサンタ界にもたらした衝撃はすさまじく、クリスマスイブの作業効率が爆上がりした。老人世代には機械の操作が出来なくても、頭の柔らかい黒サンタを始めとする若者世代がフォローするから問題ない。


「ーーあ、あのお宅ですね」

 アメリーが指さしたのは郊外に建つ一軒家だった。暖房設備が行き届いた最近の住宅の例に漏れず煙突が無いのはありがたい。真っ白のサンタ服は恥ずかしいが、煤で汚れて黒サンタみたいになるよりはマシだ。

 地上に降り立ち、玄関の鍵をピッキングツールで難なく解錠。愛を確かめ合っているご夫婦の寝室の前を通り過ぎて、俺とアメリーは子ども部屋の中に滑り込んだ。

気配を殺して様子を窺うと、部屋の主の少年は、ベッドの中で携帯ゲームに夢中になっていた。

「死ねよっ!くそ。ファック。芋砂の癖に調子こきやがって!」

 まったく、こんな時間までFPSとは悪い子どもだ。こういう時には悪い子どもへのおしおき担当、黒サンタの出番だ。

 俺が目配せをすると、アメリーは音もなく子どもの背後に忍び寄り、右腕を首の下に回して一気に締め上げた。

 素晴らしい手並みで行われたのは瞬時に脳への血流を止め、意識を奪う見事なスリーパーホールド。俺と婆さんがアメリーに仕込んだ絞め技は、タップアウトする暇も与えず、悪い子どもをノータイムで強制的に夢の世界に叩き込んだ。

 これでようやくサンタの仕事ができる。

 さて、あまり知られていないサンタ業界の裏話をひとつ。サンタクロースの仕事は他人の住宅に不法侵入して子どもたちにプレゼントを残していくというのが一般的な認識だが、実態は若干違う。

 他人様のお宅に不法侵入。これは正しい。しかしサンタはプレゼントなど残さない。そんな予算は計上されていないし、そういうのは親がやることだ。

俺はアメリーに寝かしつけられた子どもの前に立つと、背負った袋から取り出した拳ほどの 大きさの宝石を子どもの胸に置いた。

 この宝石はソウルクオーツと呼ばれるサンタ道具だ。その特性は人の魂の穢れを吸い取ること。思春期前の子どもたちはとかく繊細で穢れを溜めやすい。穢れを溜め込みすぎるとおいおい非行に走ることになる。一定値を超えた穢れを溜め込んだ子どもの家をめぐり魂を浄化すること。それが俺たちサンタのメインミッションなのだ。

 穢れを吸い取り終えたソウルクオーツを手に取って覗き込む。透明だった水晶の隅に小さな黒い穢れがわだかまっている。子どもは先ほどよりも険の取れた安らかな寝顔を浮かべている。

「おやすみ。ゲームはほどほどにな」

 そう声を掛けて、俺とアメリーは家を後にした。


 四軒ほど家を巡った頃、アメリーが御者台から立ち上がって声を上げた。

「お師様。鹿です、鹿」

 アメリーが指さす先を見ると、遠い南方の空に八頭のヘラジカに曳かれた豪奢な橇が宙を駆けていた。あちらの方でも俺たちに気がついたのか、橇は方向転換をして俺たちの前に滑り込んだ。

「狼がいるかと思ったら、赤鼻のルドルフ坊やじゃないか」

 薄いピンク色のサンタ服に、スラリと長い手足が印象的な茶髪の美女が橇の上から声をかけた。ガキの頃からお馴染みの、大鹿流派の姉貴分だ。

「エルクの姉さん、久しぶりだな。でも坊やはやめてくれよ。見ての通り俺はもうサンタなんだ」

 俺の言葉を聞いた姉さんはあははと笑った。

「そうだったな。今日がデビューか。アメリーちゃんも、その黒服似合っているね」

 アメリーが嬉しそうに顔をほころばせると、目を輝かせて俺に聞いた。

「お師様、赤鼻ってなんです?」

 どう答えたものか悩んでいると、姉さんが笑いを漏らしながら言った。

「十年くらい前、流派間の交流試合で私とルドルフが立ち合ったんだ。私の後ろ回し蹴りが顔面に炸裂してルドルフは盛大に鼻血を吹いた。試合後もしばらく止まらなかったので、それを見て面白がった狼の大婆様がつけたあだ名だよ。洒落が利いているだろう?私たちの世代だとみんな知っている」

 面白がって言っているけど、あんたと婆さんのせいで今でも不名誉なあだ名を引き摺るこっちの見にもなって欲しい。

 アメリーと一緒になってひとしきり笑うと、姉さんが真面目な顔をした。

「大婆様は残念だったね 。私も生前は散々世話になった。隠居してるうちの師匠もめっきり落ち込んでいたよ。大婆様はあの世代のマスターたちのアイドルだったからね」

 そう。なんとあの婆さん、同年代の男サンタたちにはもてにもてていたらしい。生きていたころは酒を飲むたびにその自慢話を聞かされた。傍から見ればとんでもない因業婆でとても信じられたものでは無いのだが、自慢話のたびに得意げに見せびらかす若いころの写真を見ると黙るしかない。写真に映る若かりし頃の婆さんは確かに言葉を失うほどの美少女だった。月並みな言葉だが時間の流れは残酷だ。

「あの婆さん、まさかベッドの上で死ぬとは思わなかった」

「寝床で死ねるサンタばかりじゃないよ。大婆様は立派な後進を育てて、跡を濁さずの大往生だ。サンタの死に方としては満点じゃないかな。その点隠居もしていない熊の御大はそろそろ危ないと思ってる。ルディ、気をつけるんだよ」

「うん、姉さんもな」

 俺たちはお互いにメリークリスマスと言って別れた。



 悪い予感ほど当たるものだ。

 マップアプリ上に表示されている担当地区内のターゲットアイコンを九割方周り終え、俺たちの初仕事も無事に済みそうだと思っていた頃、アメリーがふと言った。

「お師様。狼たちの様子が変です」

 橇を停めた。

 虚空で足を止めた狼たちは、毛を逆立てて唸り声をあげ、空の一点を睨んでいた。

婆さんの隣で黒サンタをやっていたころには何度も見た光景だ。この後の展開も承知している。


 しゃんしゃんしゃんと鈴の音が聞こえた。

 アメリーの手の中で狂ったようにアラート音を撒き散らし始めるスマートフォン。踏みしめる大地など無いというのに、地響きのように空間を震わせる音。空間を埋め尽くすようなどす黒い殺気が背筋を泡立たせる。

 分厚い雪雲をかき消してそれは現れた。

 宙を駆ける八頭の白熊に曳かれた橇と、御者台に立つ深紅のサンタ服を纏った巨大な老人、その隣で泣き疲れて呆然とした表情を浮かべる黒サンタの少年を見て、俺はやるせないため息を漏らした。

 サンタ業界の裏話をもうひとつ。子どもから抽出した穢れを溜め込んだソウルクオーツは、ときに所持者のサンタを汚染し反転させる。反転したサンタは暴力衝動に任せて暴れ狂う。婆さんいわく、これがサンタとサタンが似ている理由。

 クリスマス・イブの暗黒面。サンタによる反転サンタ狩りパートが幕を開けた。



 心配そうに見守るアメリーの視線を背に、俺は御者台に括り付けられた鈴を一つ取り外して橇から飛び降りた。

 魔法の鈴の効果で、大地と変わらない感触の宙を踏みしめた俺は、同じく橇を降りたサンタと対峙した。

 二メートルを超す長身と深紅のサンタ服を内側から押し上げる程に発達した筋肉。みぞおちまで伸びた白い髭。橇を曳く熊を見るまでもなく身元が知れるというものだ。こんな男はサンタ界広しといえども二人といない。

 生ける伝説、大熊流サンタ空手のマスターサンタ・ポーラベアが、今度は生ける災厄として俺の前に立っている。


 今年度のサンタ名鑑に書かれた記述を思い出す。御年九十八歳のマスターサンタ・ポーラベアの身長は二〇三センチ、リーチは二三〇センチだ。対する俺は身長一八一のリーチ一九〇。ウェイト差に至っては一二五対八五で実に四〇キロだ。あんまりな体格差に笑ってしまいたくなる。そのうえ八十年になんなんとするキャリアのうち、仕留めた反転サンタは百二十を数えるという。

 昨今、一部の若者の間では、クリスマスイブは厄日らしいがまったく同感だ。自分の運の悪さにとことん嫌気が差してくる。交流試合後の飲み会で、得意気に武勇伝を披露していた先輩サンタたちにが羨ましくってたまらない。反転サンタ狩り、通称反タ狩りというのは本来はお手軽なサブクエストのはずなのだ。

 サンタは反タを狩るために格闘技術を鍛え上げ、一方で反転したときに首尾よく狩ってもらうために、敢えて致命的な弱点を設定する。たとえば当代の狼流派のサンタである俺の弱点のひとつに、黒サンタが『赤鼻のトナカイ』を歌っているときに特定のコンビネーションブローを繰り出されると、とどめの一撃を防御できないというものがある。これは幼少期から条件反射のレベルで俺に刷り込まれており、サンタ名鑑に記載されているオープンな情報だ。歌とコンビネーションという二つの条件を満たしていれば、アメリーのような黒サンタでも俺に勝利できるのだ。定期的に開催される他流派との交流試合は、お互いの弱点を確かめ合い、それを維持することを主眼に置く儀式だ。

 このように反タ狩りとは圧倒的にサンタ優位な状況で行われる。当然危険で、一歩間違えれば命を失いかねないが、マニュアルさえ守れば完遂できるという点で、スズメバチ駆除とそう変わらないのが反タ狩りだ。

 しかし何事にも例外がある。サンタが口を揃えて言うセリフは熊の相手だけはしたくない、だ。グランドサンタマスター・レインディアを筆頭とするサンタ空手主要十二流派に三十六の分派を合わせた全四十八流派のうち、大熊流派だけが飛び抜けて異質なのだ。

 恵まれた巨体を特徴とする大熊流派の連中は、鍛錬の全てを異常に過酷なフィジカルトレーニングに全振りする一方で、一切技の研鑽をしないことを弱点として課している。つまり馬鹿力が自慢のど素人。これは一見フェアなようで、実はとんでもなく厄介だ。圧倒的な身体能力に任せて暴れ狂うというのは、攻略本参照で闘うその他のサンタにとっては鬼門もいいところだ。

 まったく、なんでこんな奴らにサンタをやらせているのか理解に苦しむ。四十八流派とその弱点は五百年前のサンタ憲章によって定められているらしいが、そんなカビの生えたお題目はそろそろ放り出すか、大熊流派の廃絶なり、最低でもあいつら相手ならマシンガンの使用を許可するくらいは時流に即して変える必要があると思う。



 やけっぱちな気持ちを抑えて覚悟を完了させ、俺は構えを取った。

 身体は半身に、膝はやや曲げて可動域に余裕を持たせる。体重は前後に偏らずにニュートラル。右手は顎の横でゆるく拳を握り、左手は大きく下がって腰のあたりに。これこそが狼流サンタ空手における古式ゆかしい伝統のファイティングポーズ、刃牙の構えだ。

 対する熊のマスターサンタが取った異様な構えに、俺は眩暈にも似た困惑を覚えた。両腕を大きく広げ、頭と平行の高さにまで掲げたそれは、立ち上がった熊が威嚇するかのような立ち姿だった。

 その構えにどんな戦闘上のメリットがあるというのだろう。正面と脇を大きく晒し、人体の急所はがら空きだ。伸びきった四肢では防御という点では論外だし、有効な攻撃など出来るわけがない。だというのに、俺はそれに明確な恐れを抱いていた。

 攻撃は当たるだろう。

 出血させることもたぶんできるだろう。

 しかしなぜだか勝てるビジョンがまるで見えない。


 風を切り裂く剛腕が唸りを上げて後頭部の髪を掠らせて通過した。余裕を持って回避行動に移ったはずが、予想外の速度に目算を誤って焦りが生まれる。逃げ出したい気持ちを我慢して、がら空きの右の脇腹に中段回し蹴りを叩き込む。同じ体格が相手なら一撃でKOも有り得る会心の一撃だが、分厚い岩を蹴っ飛ばしたような感覚に、いよいよテンションが低下した。理不尽にもほどがある。こちらは何百打ち込めばいいか知れたものじゃないのに、あっちの攻撃が一撃当たれば俺はたぶんお陀仏だ。改めて思う、空手だのといった格闘術なんて、辛うじて弱者が強者に抗うための手段に過ぎない。姑息に小細工を凝らしたところで、狼が熊に勝てるわけがないだろう。


 ネガい気持ちがピークに達すると、ふと婆さんの昔話が脳裏をよぎった 。

「熊はなにゆえ強いと思う。最初から強いからよ。技だのなんだの、闘争を物質にたとえれば不純物だ。そんなものは俺を除くお前らで共有していればいい」

 性格にも色々難があるらしい目の前の老人は、若い頃に同世代のサンタたちにそう豪語したと婆さんから聞いたことがあった。喧嘩っ早い婆さんはそれを聞いて交流試合で大立ち回りを演じたそうだ。激闘の末に辛うじて膝をつかせたが、婆さんの方は上半身を隈無く複雑骨折して昏倒するという散々な完敗ぶりだったらしい。

 あの妖怪のような婆さんが完敗した相手。絶望的な気分に拍車が掛かるかと思いきや、不思議と俺はそこにひとつの勝機を見出していた。



 仕事には情熱を持つべきだ。長くサンタを続けるためにはやりがいを持って仕事に臨むことが大切。今どきこんなフレーズを振りかざすと、ワークライフバランスとやらを標榜する若い連中から反感を買うことが多い。

 かれこれこの仕事に打ち込み続けて八十年。数ヶ月前に気落ちする出来事があって仕事に身が入らなかったせいか、俺はこのクリスマスイブにあっさりと反転して、文字通り本物の老害に成り果てた。

 自分の身体が機械になったような気分だった。意思とは無関係に身体が動く。熊たちを爆走させ、血相変えて駆けつけてきた若造のサンタを二人ほど血祭りに上げた。申し訳ないと思うが、これもサンタ道というやつだ。

 ふと懐かしい気配を感じて、俺の身体は白熊に鞭をくれた。

 分厚い雪雲を掻き分けた先には見覚えのある八頭の大狼。しかし御者台に座るのは当然俺の見知った人物ではない。橇を降りて健気にも俺と対峙するそのひょろい坊主の構えを見て、郷愁に胸が締め付けられた。であれば懐かしいあの日の再現と洒落こもう。ここに俺の暴力衝動と意識は奇跡的に一瞬の一致を見た。

 こそばゆいじゃれ合いのような蹴りをいなし、俺は両腕を広げて若い狼を待ち受けた。


 直後、自分のみぞおちを貫通して背中に抜けるその右腕を、俺は他人事のように眺めていた。信じられないことにこのひょろい坊主は、真正面からこの俺の腕の間合いに飛び込んで貫手をくれていったのだ。愉快過ぎて大笑いしてしまいたいのに、身体の自由が効かないことが歯がゆくてたまらない。

 狼のクソババア。お前は馬鹿で短気な阿婆擦れで、そして本当にいい女だったよ。

お前が死んでからこの半年間、この世がどうにもつまらなくなったと思いきや、最期にこんなに狂ったガキを俺の前に立たせてくれるなんて。

 あの若造だった時分に入れられなかった一撃をくたばった後に届けてくれるなんて、それは奇跡というやつだろう。



 際どい賭けに勝った俺は、即座に右腕を引き抜いて距離を取った。タイミング、指の強度、筋肉と骨の僅かな隙間を貫く突きの正確さ。そのどれかひとつでも足りていなければ俺の末路は知れていた。

 思えば婆さんはヒントを残してくれていた。

 かつて試合をした際の上半身の複雑骨折という症状と、ポーラベアの独特な構えから、野郎の決め手は間合いに踏み込んだ相手を掻き抱き、怪力で絞め殺す熊式鯖折り(ベアハッグ)と推察できた。婆さんが負けたのは反タ狩りでもない状況で、対戦相手に致命傷を与える貫手が使えなかったからだったという可能性も考えられる。

 婆さんが死ぬ間際の一年間、やけに貫手ばっかりを鍛えさせられたのは、ポーラベアとの遭遇を予期していたからか。

 素直に教えてくれればいいものをと愚痴をこぼしたくなるが、知恵を巡らせて勝機を探すクレバーな戦い方こそが、狼流サンタ空手の真骨頂だと婆さんなら鼻で笑うだろう。



 マスターサンタ・ポーラベアは力無く膝を着いた。決定的な戦闘能力の低下を確認した俺は、それでもあくまで慎重に距離を詰めた。

「なんで止めないんだよ!もう勝負は着いたじゃないか!」

 俺は泣き叫ぶ少年の声に苦笑した。

 ゆとり教育の弊害というやつが押し寄せたのか、大熊流派の黒サンタは、サンタってものを分かっちゃいないようだ。俺が黒い装束で婆さんに橇にせられ、初めて聖夜を過ごしたガキの時分にさえ、あの少年よりは硝煙の匂いを漂わせていたものだ。

 俺の橇から背中に力強い視線を感じる。そうだ、いい子だアメリー。俺たちは何があっても眼を逸らさず、どんな苦境にあっても諦めを放棄しなければならない。

 敗北は即ち死。サンタ道という名の修羅道を這いずり回る俺たちに、敗北から学ぶなんて贅沢が許されるわけが無い。

 首だけになっても食らいつくのが狼なら、心臓を潰され、頭を切り落とさようとも筋肉に宿る恨みで立ち上がるのが熊なのだ。

 かつて純白だったはずの装束を、洗い落とせないほどの紅に染め、長い髭が白くなるまで狂った条理に身を置いた偉大な先人を相手にするからこそ、俺には油断もなければ容赦だって有り得ない。


 膝を着き、とどめを待つポーラベアは、理性の灯った目で俺を見ると、笑いを浮かべた。

「よう、坊主。おかげで目が覚めた。手間掛けさせたな」

「別に。これもサンタの仕事の内ですから」

「お前、ババアの弟子だろう。冥土の土産に名前を教えろ」

 赤鼻のルドルフ。染み付いた習慣から、ついそう名乗ろうとしたところで、ふと気が付いて首を振る。

 今夜の俺には違う名前がある。

「サンタクロースです」

 同じ名前の老人は表情を満足気に歪めると、おどけた調子でからかうように言った。

「そうかい。なら早いところやってくれ。ーーおい、なんて顔してやがる。お前はサンタなんだろう。笑えよ。やり方は知っているだろう」


 白い衣装が朱に染まった。これで俺も初心者マークは卒業だ。橇に乗り込み、目に涙をためて最後まで目を逸らさずに帰りを待っていたアメリーの頭を乱暴にひと撫でする。

 サンタの仕事はまだ終わっていない。俺はホウホウホウとやけっぱちな高笑いすると、夜明けの近い空に向けて狼たちを走らせた。


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