素数のクリスマス
193
「サクくーん」
その声で頭の中のコンパス(方位磁針ではない。)と定規、そして描いていた作図が一瞬で散ってしまった。
白いコートにチェック柄のスカートを身に着けた女の子が改札から出てきた。
「お待たせ。イクミのこと、だいぶ待ったでしょ」
「うん」
「こういう時は、『今着いたところだぜ。』ってかっこよく言うんだよ」
「うん、今着いたところ」
かっこよく、ではなく、普通に言った。
「いまさら言ってもおーそーい―」
彼女に言い返す言葉が見つからず、コンビニで買った100円コーヒーを口に近づけようとする。
「ちょっと、もらうね」
許可も了承もすることなく、僕の右手から紙コップが取り上げられた。代わりに、彼女の冷え切った手が持つものを失った右手を掴まえた。
「そのコーヒー、おいしい?」とりあえず尋ねてみた。
遠慮もためらいもなく彼女は紙コップの蓋を開けた。「ちょっと」貰うと言っていたから少しくらい残してくれるのだろうか。
「喉が渇いていたからちょうどよかった。でも、やっぱりコーヒーは熱々が一番だね」
「1時間前に買ったからもう冷めていると思うよ」
「1時間も前からいたの!」
「いや、ああ、うん、そうなるかな」
「1時間も寒い中突っ立っていたら風邪ひいちゃうよ。ほらこうすれば暖かくなるから」
郁美は肩をくっつけるように自分の腕を僕の腕に絡めてきた。
「コーヒーは?」
差し出されたコップの中を覗くと、黒い液体ではなく、白い底が見えた。
「全部飲み干しちゃった、てへ」
どうやら「ちょっと」というのは量のことじゃないらしい。
「そろそろ行こうよ。時間が無くなっちゃう」
肩をくっつけながら僕たちは駅の構内から出た。
「ねぇ、私が来るまでの間、何を考えていたの?」
大きな観覧車へ目掛けて遊歩道を歩きながら、僕たちは言葉と寒さで白くなった息を吐き出していた。
「正十七角形の作図方法を考えていた」
「作図というと、コンパスと定規でやるやつ?」
「そう。時々頭の中のコンパスと定規が誤作動を起こして、おかしなものを描き出したりしている」
「そのコンパスと定規、全然役に立たないね。あ、でも、その『おかしなもの』は見てみたいかも」
郁美の吐く息から微かにアルコールの臭いがする。これから人と会う約束をして、アルコールを飲んでくる発想はよく理解できないが、それを咎めるだけの十分な根拠を論理立てることができない。
「ちょっとお酒臭いかな? さっきビール1缶飲んできたんだー。これからやることを実現するためには、テンション上げ上げでいかないと」
缶ビール一本分でテンションが上がるかもわからないし、そもそもこれからやることに対してテンションを上げる必要があるかもわからない。そもそもテンションとは、張りや張力のことで「上げ上げ」できるようなものではない。
「サク君、ちょっと止まって」
言われた通り、歩みを止める。
「よーし、えいや」
郁美は空になった紙コップを投擲する。紙コップはきれいな曲線を描きながら、縁に当たることなくゴミ箱の中へ入った。
「ナイスショット!」
「こういう時は『ショット』ではなく『シュート』って言うんじゃ?」
「後でサク君を打ち抜く時の願掛けだもんね・・・・・・ちょっと言ってて恥ずかしくなってきた、早く行こう」
何を言われているのか、さっぱりわからん。
僕は引っ張られるようにして歩きだした。
打ち抜く・・・何を「打ち抜く」のだろう。射的の的かな、それだと季節外れだ。
(x, y) = (0, -1)
券売所の係員によると、今は誰も観覧車に乗っていないそうだ。今日という日なのに、意外なことだと思った。みんな寒さのあまりに大人しく家で過ごしているのかもしれない。
大人二人分の入場料を払って、ゲートをくぐった。
郁美を先頭に、係員の手を借りてゴンドラに乗り込む。ゆっくりと上昇する。
(x, y) = (-√2/2, -√2/2)
「郁美、観覧車ってどっちに回っているのかな?」
「どっちって、時計回りでしょ?」
「時計回り、ということは右回り。いや、左回りもあるよ」
「左回り? あー、裏側から見たのね。それなら、イクミは『上周り』って答えるかな」
「上?」
「そう、上に回って、頂上に着いたら下に回る。上周りからの下回り」
なるほど、これは僕になかった発想だ。
「時計や観覧車は右回りだけど、陸上のトラックや単位円は左回りなんだ」
「単位円ってなーに?」
「半径が1の円のこと。グラフに書く時は、原点を円の中心にする」
「ふーん、ってことは、観覧車の中心が原点ってことね。その時、私たちは、」
「(-√2/2, -√2/2)をマイナス方向に少し移動したところかな」
「なるほどー」
(x, y) = (-1, 0)
「ねぇ、サク君、私これから好きな人に告白をするんだよ」
「黒白をつけるんだね」
「黒白、それをいうなら白黒でしょ・・・あー、わかった! 告白と、黒白をかけたのね」
「うん」
「もうー、これじゃ話す気を失うじゃない。こういうのをなんて言うんだっけ、出臍をくだかれる?」
「出鼻をくじかれる」
「そう、それ。『お湯を差される』ともいうよね」
「水を差される、な」
「寒い日はお湯のほうがいいと思うんだよね」
「それで、何を白黒はっきりさせるの?」
「そうだった、イクミ、これから告白するんだ。驚いた? 驚いたでしょ」
「うん、驚いた。成績で『良』を取るところ『優』を取った気分」
「それって、そんなに喜ぶこと?」
「教育機関という名の組織に所属している間はずっと成績が悪かった」
「そうだったの、なんか意外。あ、でも、わかる気がする。サク君、先生に言われたこと絶対やらないでしょ」
「うん。わかっていてやらないから余計にたちが悪い」
(x, y) = (-√2/2, √2/2)
「うわー、海が見えるよ!」
観覧車の南側――時計で例えるなら時計の裏側――には港がある。この観覧車は「海が見える観覧車」なのだ。
「真っ暗だね。あの光っているのって船かな」
「船は左舷と右舷で違う色のライトを点灯する。そうすることで、暗闇の中でも、その船が向かってきているのか離れているのかがわかる」
「へー、飛行機も右と左で違う色のライトをつけていた気がする。同じ理由かな?」
(x, y) = (0, 1)
「もうすぐ頂上だよ、サク君」
「そうだね」
「うん、そして、」
郁美は腕時計をかかげる。小さく「10、9、8」と数えながらタイミングを計っているようだ。
「2、1、メリー・クリスマス!」
「うん、クリスマスおめでとう」
「メリー・クリスマスだよ」
「メリー・クリスマス」
ゴンドラは日付が変わった数秒後に頂上を通過した。僕たちは12月25日に最初に頂上を通過した搭乗者になったのだ。
「ねぇ、サク君、」
ゴンドラの通過と0時00分を重ねる演出は偶然の産物だと思いたい。ただ、郁美に掛かればこんな偶然も数学的な裏付けがある。
「郁美、この観覧車って一周するのに何分かかる?」
「17分。半周は8分30秒だよ」
ほら、偶然も蓋を開けてみれば、必然だったりする。
「ねぇ、大事な話がある」
「うん、聞くよ」
「好きです、私と永遠に付き合ってください」
(x, y) = (1, 0)
「ねぇ、サク君、永遠の記号があるでしょ」
「永遠の、記号?」
黒い海を見つめていた視線を郁美へ移す。
「数字の8を横にしたやつ」
「∞のことね。それがどうした?」
「永遠じゃなくて、無限大っていえばよかったのかー。それでね、『∞』という記号はね、ウェイト=スミス版の大アルカナでは、『奇術師』と『力』にしか描かれていないんだ」
「・・・タロットカードの話か?」
「サク君、知ってたの?」
「いや。それで、『奇術師』と『力』は何を意味するんだ?」
話に乗ることにした。
「気になる? ならさっそく占ってあげましょう」
この場にタロットのデッキがあるわけではない。僕が『奇術師』と『力』を引いたことにするのだろう。
「ゴホン。さて、」
郁美は占い師っぽく語り始めた。
「はじめに、『魔術師』や『魔法使い』とも呼ばれる『奇術師』のカードについてです。奇術師は杖を持っています。その杖をふりかざす様子は、奇跡のような出来事を起こす意志をあらわします。つまり、まずは「やる」という強い意志を持つことが大切なのです。あなたは、すでに悩みや問題に対処するスキルを持っているのですから。
次は『力』について、このカードは自分の内部にある本能的な力や強い衝動を制御できることを暗示します。感情的や衝動的な行動は控えて、冷静に行動しましょう。あなたの行動に期待しています」
「結局のところ、慎重に行動しろということか」
「強い意志を持つことも大切です」
「そうか。ありがとうな」
(x, y) = (0, -1)
郁美の言葉でいう「下回り」の間、僕たちは他愛もない話をした。もちろんタロットの話もした。(郁美がタロットについて詳しいとは知らなかった。)クリスマスになったからといって、クリスマスに話す最初の話題がクリスマスになるわけではないのだ。
397
「ねぇサク君、もっと自信を持ったほうがいいと思うよ」
来た時と同じ遊歩道を歩いていた。往路と同様、郁美は僕の腕に自身の腕を絡めていた。
「方位磁針は一つあれば十分だと思うよ」
「そっちの磁針じゃない。自分を信じるほうの、自信だよ」
郁美が紙コップを放り込んだゴミ箱の横を通る。
「自信なら今ついた」
「へー、すごいじゃん。なんでついたか教えて」
「正十七角形の作図には64段階ある。今解けた」
「ずっとそのことを考えていたのね」
「うん、ずっと考えていた」
「あきれたため息が出ちゃうわ。それで次は何について考えているの?」
「64を二進法で表すとどうなるかを考えている」
「1000000。2の6乗だから、0が6つよ」
郁美は間髪入れずに答える。
「そうか?」
「次は?」
「64の、」
「1、2、4、8、16、32、64」
「うん、そうだね。それは、間違いないと思う」
「次」
「・・・考えることは、一つだけになった」
「うん、そう」
もう考えることは何もない。
僕はコートのポケットから重みのある小さな箱を取り出し、郁美の手の中に収めた。
「えっ、なに?」
郁美が両手でその箱を持った隙に、彼女の腕の拘束から外れる。
「プレゼント? 開けるよ、開けるね」
郁美はゆっくりとその箱を開ける。
「うわー、素敵」
箱の中を見つめているところ、「おっ」と何かに気づいたようだ。
「7万と・・・えっと、6千円くらいした」
「もうー、なんでそういうことを言うの。正しくは76621だよ。どうせ、もっとしたんでしょ」
にひと笑みを浮かべる彼女を見つめる。
僕たちは素数で繋がれている。
これからも素敵な素数に会えるだろうか。
193×397
郁美×朔成
おわり
参照:鏡リュウジ『タロットの秘密』(講談社現代新書、2017)。