さよならは夕暮れの冬
明日、世界は終わる。比喩でも感傷でも何でもなく、事実終わってしまう。
それが世界に知らされたのは、約2年前の事だった。深夜、こたつに入ってテレビを見ていると、てろんという間の抜けた音とともに「緊急ニュース」とテロップが出て、世界的権威の某国際機関が発表、といった内容の文章が点滅した。当時マブセは高校受験を間近に控えていた。勉強の合間、休憩にみかんの甘皮をむいて食べながら、あ、とマブセが声を出すと、どうかしたと台所からミカドが訊ねてくる。
「世界が終わるらしい」
「何それ」
マブセの返事に、湯気の立った土鍋を持って、ミカドがテレビをのぞいた。
「あ、ほんとだ」
画面は深夜バラエティからニュース速報番組に変わり、化粧も服装も整いきっていないアナウンサーがどもりながら報道文を読んでいるところだった。お伝えします。先ほど……、何度も同じ内容を繰り返すアナウンサーの背後、ガラス越しに見える報道室の様子は慌ただしく、時折混乱したその音声が漏れて聞こえる。うわあこれはまじっぽいねえ、とミカドが言う。
「トイレットペーパー買っとくか」
「何でトイレットペーパー」
「そういうのがあったんだよ、昔」よいしょ、とミカドは鍋をテーブルコンロに置き腰を下ろすと、鍋の蓋を開ける。湯気が広がり、一瞬マブセの視界が曇った。おでんだしのいい香りがする。おでんはマブセとミカドの共通の好物だった。「あ、でもトイレットペーパーは予言とは関係なかったか」
「予言?」
「1999年ノストラダムスの大予言。知らないか」
「まだ私生まれてないから。知らない」
「うわあ」
きたかあ2000年代生まれ。ジェネレーションギャップきたかあ。そう言いながら大根を菜箸でつつく、言葉の反面妙に落ち着いたミカドの態度とは異なり、「緊急ニュース」を受けた世間の混乱は当初凄まじいものだった。街では悲観した人間による暴動が続き、水面下では、あの発表は某秘密結社主導による陰謀であり事実ではない、といったデマとも噂ともつかない言説がまことしやかにささやかれた。各国首脳が共同声明を出したことでそれは立ち消えとなったが、続いて各分野の研究者が滅亡を回避するための持論を展開したほか、来る時に備えて自宅簡易シェルターの作り方がネットで話題になるなどした。
しかし、日が経つと誰もが状況に慣れたのか、いつのまにか日常は形状記憶合金のように元に戻り、お前たちは大人になれない、と悲壮な顔つきをしていた教師も、再び受験だ受験だとうるさくなった。ただ世界が終わる、その事実だけが影のように、ふっと時折見え隠れする。入学したとて卒業もできないと文句を言いながら、マブセも勉強に戻るほかなく、間もなく入試日は訪れ、春も巡ってきた。あれから、二年になる。クリスマス一色に彩られた街の中で、誰もがただほかにできることもなく、明日に待つ終わりへと向かっている。
授業は、昼過ぎに終わりになった。ホームルームで教師が話す事を頭のはしで聞き流しながら、肘をつきマブセは窓の外を眺める。
廊下側後方にあるマブセの席からは、窓側を向くと自然と教室全体を見渡すことができる。黒板の横にはられた予定表と掃除当番表、誰かが描いたまま数か月残されている落書き、教室の席は歯抜けとなり、残った同級生の多くは、いつものようにやる気もなく、マブセと同じように茫とした様子だった。窓の外には空のほか何も見えない。その色は吸い込まれるように薄青く遠く、冬の透明な日差しが室内に冷えた影を落とし、車のエンジン音が離れていく。
と、机の上に置いたスマホの画面が光る。一瞬その内容を確認し、マブセはすぐに目線を戻した。
退屈そうな同級生達の後頭部を見やり、最後まで残ったのはこいつらか、とぼんやり思う。納得の面子だ、という気がした。ここにいない同級生の一人は、最後くらいは豪勢に過ごすのだと、今頃は家族で南半球のリゾート地にいる。報道が出てすぐに、飛行機とホテルを予約したのだと言っていた。オーシャンビューの、五つ星の、芸能人の誰誰が行った、滔々と語られるその話を聞いても、はあ、と自分が間の抜けた反応しかできなかったことをマブセは思い出す。途中から、面倒くさくなって、視界のはしに入る別の同級生のつむじを観察していた。将来禿げるか、禿げないか。将来など、ここにいる誰にもこないけれども。何にせよ、後日、マブセは、同級生が別の同級生にも件の話をしているのを聞いた。
教壇では教師が長い話を終えたところだった。それじゃあ、と言葉尻を上げ、そして言いよどむ。一瞬の間の後に、同級生達の視線が集まり、しかし結局何も続けなかった。教師がそれじゃあ、ともう一度言い、教室を出ていくと、締まりなく最後のホームルームは終わった。同級生達も立ち上がり、荷物を片付けるとばらばら教室を後にしていく。
マブセも教科書類を鞄に仕舞うと、コートを羽織り、マフラーをかたく巻いて、駐輪場に向かった。教室もそうだったように、停めてある自転車の数もまた少ない。落ち葉がかさかさと鳴る。スカートから出た膝頭が冷たかった。腰をかがめて鍵を回し、自転車を出していると、マブセ、とこちらに向かって、よたよた自転車を漕いでくるノサキの姿が見えた。
「ついに終わったなあ」
ノサキが手を振りながら言い、そうだね、とマブセは返事をする。「ノサキが最後までちゃんと学校に来るとは思わなかった」
「暇だしな」
ノサキはそう返し、続けた。「飯、どこか行こうと思って、連絡したんだけど」
「気づかなかった」マブセは返す。「このへんでどこか店、開いてるかな」
「来々軒なら大丈夫だろ。あのじいさん元旦の朝でも店やってるからな。来々軒が閉まった時すなわちあのじいさんが死んだ時だと考えて差し支えない」
そう言いながら再び自転車を漕ぎだしたノサキについて、マブセも仕方なくサドルに跨り、ペダルに足をのせる。ぎい、と音を立てて、錆びつき気味のチェーンが回りだした。
学校前の歩道には、学校帰りの学生の姿がぽつぽつと続いていた。街路樹脇に集められた雪の残骸は排気に汚れ、風が頬を切るように冴えている。空の下、街は不思議なほどに白く明るい。途中、同級生が数人、かたまって歩いていくのを横に通り過ぎ、マブセの吐いた息も流れていく。
夏も終わりかけた頃から、街は徐々に終わり支度をはじめていた。マブセの通う高校はあくまで暦通りだったが、早々に閉校した学校、休業に踏み切った企業もあった。個人店の多くもそうで、ノサキのよく行く来々軒はその数少ない例外だった。
来々軒は、年齢不詳のじいさんが一人で切り盛りしている中華屋だった。醤油ラーメンが一杯480円、チャーシュー麺になると一杯600円で、その120円の違いは、少しばかりの白髪葱と、極薄チャーシュー2枚の増量だった。たけえよ、あのぼったくりじじい、とノサキはいつも文句を言う。言いながらもよく通っている。という事を、いつか一度マブセがミカドに話すと、ミカドはやけに納得していた。
「なつかしいなー来々軒」ミカドはそう言って笑う。「ノサキくんも元気そうでよかったよ」
マブセとノサキとは、小学生の時からの付き合いだった。ノサキの家と、以前住んでいたマブセの家が近所だったのだった。特に親しいわけでもなかったが、マブセがミカドの家に住むようになってからも、付き合いは不思議と続いた。ノサキがマブセの事情を知っていた事も理由にあったかもしれない。特段、本人にそれを確認したわけでもないが、近所に広がった噂と事実を、しかしノサキが知らないわけもなかった。かわいそうだ、酷いことをすると、時に腫れものに触るような態度でマブセに接する教師や同級生、近所の人達、その中でノサキはずっと変わらずにいた。
20分強自転車を漕ぎ、そろそろ来々軒が見えてくるという頃だった。うわ、と前方でノサキが声を上げた。
「まじかよ、閉まってる」
道の角、通常であれば色褪せた赤い暖簾がかかっている場所は、しかししんと静まりかえり、シャッターが重たく下りていた。
「まじかよじじい、こんな直前に死んだのかよ。ここまで来たら、最後まで生きろよお」
ノサキが大げさに天を仰ぐ。
「いや、張り紙あるけど」自転車を停め、シャッターに顔を近づけると、マブセはそれを読み上げた。「『事情により、閉店いたします。58年間ありがとうございました』」
「生きてたか」
「生きてるねえ」
「いや、まさかあのじいさんも、流行にのるとは」ひゅっと空を見上げていた顔を戻し、ノサキが妙に感心した。「しかし、想定外だった。ラーメン食べてー」
「さっき通ったコンビニ、開いてたけど」
「カップ麺かー」
ノサキは言い、そして覚悟したように、仕方ないか、と言うと、再びペダルに足を掛けた。
「ちょっと買ってくるからさ、上の公園で待ってて」
ノサキがコンビニに向かうため来た道を戻っていく。マブセも自転車のサドルに跨ると、来々軒の先になだらかに続く坂を上りはじめた。
その公園は、崖に面していて、マブセの住む街全体を見渡すことができる。遊具もないからか、いつも閑散として、時折散歩途中らしい老人が休んでいるくらいしか人影を見ない。自転車を停めてベンチに座り、コートからスマホを出して、通知がないか、もう一度確認した。沈黙している黒い画面を少しの間見つめ、それからマブセはノサキを待つ。
眼下に広がる街は、夕暮れの気配につつまれはじめ、ぽつぽつとともりはじめた街明かりが、空の下にある星のようにやわく瞬いていた。ひときわ光の集まっている場所は、きっと駅前の広場だろう。毎年のようにクリスマスツリーが飾られ、それを囲むように、イルミネーションに華やいでいる。風にのって、その喧噪が聞こえてくる。
ノサキは、暫くして、息を上げながら立ちこぎで坂を上がってきた。お待たせ、というノサキの自転車かごには、カップ麺の入った袋と、何故か電気ポットが入っていた。電気ポットは、ノサキがペダルを回すたびにがたがたと音を立てる。
「どうしたの、それ」
「もう店閉じるからって、貰って来た。せっかくだから、ここで食べてこうと思ってさ」
よ、とマブセの隣にポットを置き、自分もベンチに座ると、ノサキはマブセにカップ麺を渡す。
「……あ、味噌だ」
「おごりに文句言うな」
ノサキはフィルムをむくと、くしゃくしゃに丸めて、カップ麺の入っていたビニール袋に捨てた。
「ごちそうさまです」
「いいえー」
公園に、こぽこぽとお湯を出す、間の抜けた音が響く。
しばらく、二人とも黙っていた。
「あ、三分」
そう言ってノサキが食べはじめ、少ししてマブセもふたを開け、食べだした。カップから湯気が上がり、冷たい肌で冷えた頬に触れてあつい。息を吐く。眼下、先ほどまでやわらかく光っていた街明かりは、薄藍に染まりだした空に飲まれ、先ほどより強く輝いて見える。空のきわには橙が滲み、しかし見上げるとまだ昼の気配が残って、ぽっかりと空いた穴のような月も明るい。
「来々軒の勝ちだな」
スープの最後まで飲み干すと、ノサキが言った。「こっちのほうが美味いけど」
「全体的に薄いからね、あそこ」
「チャーシューとかな」
ノサキはそう言って笑い、ふいに言った。
「終わるなあ」
「終わるねえ」
マブセもカップを置いて、返す。
終わる、ともう一度思う。終わりたくなくても、終わりたくても。
ベンチに置いたスマホの画面が通知で光った。マブセが視線だけでそれを確認するのに気づき、ノサキが促す。
「見たら」
「……うん」
ちいさく頷いて、マブセは画面に表示されたメッセージを読む。そしてちいさく鼻で息を吸い、吐いた。
「ミカドから」
「叔母さん?」
「うん」
クリスマスだからと言って、最後だからと言って、特別な何かが起きるわけもない。サンタもいない。贈り物などない。マブセはしんとして、そう思う。待っていても、来ない。奇跡はない。自分はずっと前に、世界の終わることも知らされる前に、両親に捨てられたのだった。知っていたし分かっていたが、それでも自分の中にあったわずかな期待、それを自分で奇跡と呼ぶことが、マブセの胃の底をじりと焼き、やがて静かに消えていった。
何が起こったのか、街がわっと賑やかになる。そのざわめきがちいさく、聞こえてくる。大道芸かね、毎年やってるよな、とノサキが言う。そうかもね、と言いながら、マブセは目を細めた。目をこらしても見えない、無数の光の粒の下に、同じように無数の人達がいて、この空の下、それぞれの最後へと、向かっている。
「……私、そろそろ帰ろうかな」
「おー」
暫く茫とした後だった。マブセは立ち上がり、スカートのごみを払う。
じゃあ俺も帰るわ、と、マブセに続いて、ノサキも立ち上がった。手早くごみをまとめたビニール袋をまとめ、電気ポットを再び自転車かごに入れると、サドルにまたがり、振り向いて、言った。
「それじゃあ、さよなら」
マブセも自転車に乗り、答える。
「さよなら」
ノサキの背中が坂道に消えていくのを途中まで見送り、マブセもまた、帰り道へとペダルをのせる。と、ミカドに返信をしていなかったことを思い出し、スマホを取り出した。
お疲れさま。
何時ごろ家に帰ってきますか。
今日はおでんです(Xmas)
文末にクリスマスツリーの絵文字が光る。何故そこだけ、クリスマス準拠なのかと思う。変なミカド。思いながらメッセージを返す。
了解。
今から帰ります(Xmas)
そうしてふっと大きく息を吸い込むと、夕暮れの中、ペダルを漕ぎはじめる。




