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私たちは確率的にしか捉えられないあやふやな世界を生きている

この世界はあやふやだ。

僕の見ていない後ろの世界は煙のやうなもやもやが広がってる。

しかし、ふと振り向くと難しく言うと観測するとその瞬間後ろの世界はあやふやで不確かでなくなり後ろの世界が広がる。

それでも、元々向いていた世界は煙のように消えていき確率の世界へと消える。

いつも観測したらそこに世界が広がっているとは限らない。

はたまた世界が消えていたり、自分が知っている世界ではなくなる。

この世界はゆらゆらと揺らいでいる陽炎みたいなものだ。

そんな可能性が天文学的数字の確率だとしても僕たちの日常に潜んでいる。

それは生き物の不変の理である生死にも僕は言えると思う。

僕はそれについて若気の至りで書いたことがある。


その内容は

『 人は必ず死ぬ。誰にも等しく経験されるであろうことだ。

しかし、未だに死については謎が多い。そして、死には三種類の死の経験があって、一人称の死、二人称の死、三人称の死がある。その中で私は一人称の死に目を向けた。

なぜなら私はいつも考えることがある。それは私が死んだらこの世界は終わるのか。当然のことながら私が死んでも続くことが予想される。

なぜなら家族や他人の死を目の当たりにしても世界は時、時間という単位で続いていることから証明できるだろう。

しかし、私自身は死を経験してしまったら、この世界が続いている姿を私は観測が出来ない。否、死が訪れると同時に私は非存在となり観測が出来ないという言葉も存在しないだろう。

したがって、死とは虚無や絶対的な孤独である。アルフォンス・デーケンが提唱した死への準備教育も死にゆく当事者を他人として見守り支援をすることが関の山である。そこで私はある思考実験に出会った。

それはシュレーディンガーの猫である。内容はまず中身の見えない箱を用意して以下の電子、電子と反応するセンサ、毒ガス、猫の4つを入れて、ふたを閉じる。ここで、箱に入っているセンサは、「電子が位置Aにあると、毒ガスを噴き出す仕組み」になっている。毒ガスが噴き出せば、当然、箱の中の猫は死んでしまう。逆に、電子が位置Aになく、「別の位置Bにある」そしたら、センサは反応しないので、毒ガスは噴き出さず、猫は生きていることになる。

この結果により、箱の中の猫は人間所謂観測者が直接ふたを開けるまでは、箱の中は見えないので箱の中の猫が生きているのか死んでいるのか、知るすべはない。観測者が開けた瞬間に猫の生死が確定する。

だが、ここで言う電子の位置を我々は観測していない。量子力学では、観測していない電子の位置は、本当に決まっておらず、「ここにあるかも」という可能性として、複数の場所に同時に存在するとされている。だが、その電子によって猫の生死は決定されるのだ。なんてあやふやなのだろうか。生と死は相反しない事象のはずだ。それが重なり合って存在している。そこで私は心停止、脳死が死ではなく、観測によって死が決まると提唱したい。


 最初に私も一つの思考問題を提起したい。

それは、人間が誕生した瞬間から人間の持っている感覚所謂五感である視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚を全て失ったらどうなるのかである。人間が外界を一切観測できない状態である。

そこで序論の話とつながってくる。観測できないなら死なないのではないかとされる。なぜなら今私たちの意識は他者から観測されることによりコミュニケーションをすることが出来ている。

つまり、そのすべての感覚を失ったら肉体は観測されていても意識は誰からも観測されないのでは死という概念は存在しないはずである。

言い換えれば、肉体は死んでいても精神は生き続いているということだ。そこに私は一人称の死の謎が秘められていると思う。

しかし、それでもその経験も自分一人の経験とされる。そこでその思考実験の付随である。それはその人間は超高度な文明に属する。

そして五感全ての感覚器官を再生させ機能できるような技術を有する。それで五感を失った人の感覚を再生させたらどうなるのでしょう。

前述の結果からだと量子力学的観点からみるとその再生した時点で他者からだと死から生に状態が移ったという事になる。

また、生から死に移ったとされる。感覚を失った側からすると外界の有無が観測できる。そしてその感覚を失った側の精神は私たちと同じだろうか。否、違うだろう。

なぜなら一度一人称の死を経験していると言ってもいいからだ。人生の最後に経験する一度きりの一人称の死を人生の途中で経験しているのだ。これは、臨死体験に近いと言える。臨死体験をきっかけに人生観が変わったという声を耳にするので感覚を失った人は計り知れないであろう。世界の絶対的真理である一人称の生死を経験したのだからその人は人間なのであろうか。

なので、世間は生き返りやクローンを無意識にその様な事を感じてタブーとすると考えることが出来る。その無意識とは前世の経験からと私は推測する。前世の経験で生と死を経験したからこそ自分が人間でありたいと思うから無意識で生き返り、クローンを忌避する。そこにはすべての生き物に該当して、全ての生き物が等しく生と死を経験する。

なので、全ての生き物が経験するからこそ前世からの唯一の持ち込みを可能とし無意識の奥深くに忌避感が根を張っている。このことからインドでの死生観として輪廻転生が出てくるであろう。それは前世が存在して、来世が存在するという事である。

そして今世の行いによって来世が決まっていくという死生観である。ここで前世の記憶を有する人の存在についてだ。それは前世と今世が生物学的に同じ場合だと私は考える。その共通点でのみ前世の記憶の共有が可能となる。生物学的に異なるのだったとしたら、共通点は生と死しかない。

だから、この世には数えきれないくらいの生き物が存在するので、人から人への転生は限りなくまれであって、ほとんどの人が前世の記憶がないのは異なる生物からの転生からきていると推測する。

それを踏まえて感覚を失った側の人の記憶も再生した後も失う前の記憶は共有できて、一人の人間での生死の経験なのだから失う前の記憶は覚えているはずだ。

それらのことから輪廻転生と思考実験の事象と共通点が生じ、一つの証明となる。逆に、感覚の有無、所謂観測の有無が生と死であると証明ができる。

 しかし、まだ一つ分からないところがある。それは、前述に出てきた人間ではない人間の誕生である。私はその人間ではない人間は哲学的、宗教的、科学的に言うとプラトンのイデア界の住民、キリスト教での天国の天使や神、この世界を仮想世界と仮定した上位世界の生命の現世の顕現かその世界の経験をしたと考える。

その理由はこの世界と一時的にも観測も干渉も出来ないというところにある。そこに多世界解釈、言わばパラレルワールドである世界の観測が可能になるのではないかと思う。実際、私たちが生きていてパラレルワールドの観測は出来ない。

しかし、絶対的孤独の世界ではどうなるのではということだ。人間ではない人間という矛盾が生じたが、パラレルワールドを経験した生命ということなら多少の抵抗があるがその言葉に納得ができる。


 これらのことを踏まえて、私は一人称の死が観測によることで決まるという結論に至った。これは色々と矛盾点を消していったが、私一個人の一人称の死の解釈である。私自身も一人称の死が解明されることが今は絶対に不可能と認知している。

だからこそ、このような解釈が出来たのも事実である。この解釈は思考実験の域を出ないが、この解釈が広まることで一つの死生観として認知してほしいと私は願っている。

なぜなら肉体による病気や怪我で死が背後に迫っている人たちに死のその先の存在を想起させて宗教や哲学、科学を心のよりどころであると感じてほしいからだ。それでも人は死ぬ。それだけは必ず起こる。一人称の死、二人称の死、三人称の死も変わらず起こる。それが心停止、脳死、感覚の喪失という考えが違うだけでこうにも解釈の差異生じる。

だからこそ、今死の謎の追及が必要とされる。今までは準備やケアで死を見つめてきたが、結局は外堀を埋めているだけだ。他者の死を支えるだけだ。死の本質には触れていない。

だから、今こそ私は人類が死の核心に迫るべきである。』


僕は物心のついた時から自分の死、他人の死、死の本質が知りたかった。

ただそれだけだった。

なのに、なのに世界はそれを認めなかった。

このことを話したらみんな、みんな僕を変人扱いされた。


「ちさと君って変わってるね・・・」

「ちさとー、お前何言ってるんだ?」


共感されたことは一度もない、そう、一度も・・・

家族にさえ奇異の目で見てきた。

そこで僕は悟った。

人の生死はタブーなのだと。

だから僕は違う観点からのこの世界の不自然さを見た。


自分以外の存在の意味、時間などそれらの事を誰にも言わず心の中でずっと考えてきた。


そうして僕は高校二年生の春を迎えた。

そんな過去があり高校では友達と呼ぶ人はいない。

人と深くかかわることをやめたのだ。

こんなあやふやな世界に意味があるのかと・・・

これまでの高校生活必要最低限の会話をしてこなかった。

また、あの視線を送られることを・・・恐れて・・・


今日も一人読書と授業を受けに神凪千慧(かんなぎちさと)は高校に登校をする。


これが新作です!

どうでしたか!

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