スイーツの失われた世界
「だだ、ど……っ、だどろ……っ」
「姉上大変だ、どうやら日本語が通じないようだ」
「いや、さっき思いっきり日本語だったから」
腰を抜かしたままの少女はがたがた震えながら言葉にならないただの音を発する。右手はひっきりなしに眼鏡をかちゃかちゃと直し続けて、まるで一つの動作しかできないロボットみたいだ。
座り込んだ少女のスラリとした細い足は黒のラッセルタイツでおおわれ、スカートの裾からパニエのオーガンジーが覗いている。生成の立ち襟のブラウスに黒のハイウエストの編み上げスカートを合わせて金縁の丸眼鏡と相まってクラシカルな装いだ。
しばらく可愛いなぁと怯える少女をニヤニヤと2人で眺めていたらふと違和感に気がついた。うちの裏口の向かいにあった小部屋の扉。開かれた扉から漏れる明かりは蛍光灯の無機質な明かりではなくどう見たって自然光だった。
「今夜中だよね……?」
スマホの液晶が表示する時間は0:10、なんやかんやしている間に日付を超えてしまった。私は警戒して抑えていたドアから手を離し、まるで夜行性の虫が街灯に惹き付けられるように光の溢れる方に足を進める。近づいてきた私に少女が「ひい」と小さな悲鳴をあげたが、ごめんちょっと気にしてあげてる場合じゃない。
不思議な事は昔から嫌いじゃない。学生時代はおとぎ話からライトノベルまで読み漁っていた。裏口が急に裏口じゃなくなるなんて非現実的な事が起こったばかりの私の心は、更なる不思議の予感を前にまるで新品の靴を下ろす時のような、新刊の漫画を読み始める前のような高揚感に満たされていた。
珍しく弟が少し慌てた様子で出ていこうとする私を引き留めようと名前を呼んでいたけど、振り返ることも忘れて扉の向こう、溢れる光の中に飛び込んだ。
「眩し……っ」
虹彩が光量を調整しきれずにつきりと痛んで 一瞬目が眩む。白んだ視界はすぐに色彩を取り戻していき、すっかり明るさに慣れた目が捉えた世界は窓から差し込む陽の光に溢れたカントリー風の可愛らしいキッチンだった。
「どうなってるの?昼間だよねこれ」
窓の外には人並みも見える。しかし往く人来る人誰もが現代社会とは思えないような服装をしていた。馬車とか普通に走ってるし。
これは、これは、 俗に言う……。
「異世界ってやつじゃないですか!!」
「姉上うるさい、馬鹿みたいに見えるぞ」
思わずキッチンの窓辺で両手を上にあげ天井に向かって叫ぶと、後からついてきた弟に苦言を呈される。その後から黒髪美少女がひょっこり顔を出して怯えた様子で私の様子を伺っていた。
「ほら、姉上がそんなんだからユリアが怖がる」
「あ、へ、すんません。てかユリア?」
「あぁ、ユリアーナだ、長いからユリア」
「どうも、初めましてあなたが隠れ蓑にしている者の姉の沙羅です」
「は、初めまして……」
私が異世界の空気に浸っている間、紫苑は黒髪美少女もといユリアさんと仲良くなっていたようだ。
こうしてお互いがお互いを人間だと認識したところで、そもそも一体何がどうなっているのかという現状について話すことになったのだった。
「私は卵を買おうと思って裏口を開けたらあそこだった」
「その、食料庫から物音がするなと思って扉を開けたらお二人が立っていました」
「じゃあ、なにか前触れみたいのは?」
「ないね」
「ないですね」
私とユリアさんが紫苑の質問に対して同時に否定的な回答を返す。そう、ほんとにただ卵買いに行きたかっただけなのだ。
「長い話になりそうだ……」
「ユリアさん1回うちの方に来ない?どうやら椅子とかここあんまり無さそうだし」
「あ、すみません今日越してきたばかりで……、必要なものはこれから揃えようと思っていたところなんです」
新居で急にこんな怪奇現象が起こるとは災難だな。我が家の方にユリアさんを案内するとキョロキョロと忙しなく首を動かしていて面白い。壁掛けの電波時計を見ると時刻はあっという間に深夜1時を上回っていた。
「あっち散らかってるからリビングで話すかな」
「ではオレはお茶を入れてくる」
紫苑がキッチンでお湯を沸かしている後ろ姿を眺めつつ、布団の無いこたつテーブルとセットで置いてあるソファに腰掛ける。冬はこたつに入りながらソファを背もたれにするんだよね。来月くらいにはこたつ布団出してこないとな。
「不思議なところですね」
「そう?」
「こちらは夜なんですか?」
「真夜中だね、ところでそっちも時間は24時間?」
「え?あぁ、そうですね、大体12時間ほど違うみたいです」
「すごい事起ってるのに皆割と落ち着いてるの面白いな。ティーカップないからマグカップで勘弁」
茶葉の踊るガラスのティーポット片手に紫苑が戻ってきた。ティーバッグの紅茶も美味しいけどやっぱり缶に入ってるお茶の方が香りがいいから好きだ。飲みきるのは大変だけど。
「いい香りですね……」
「でしょでしょ、ローズだけだと苦味が強いからブレンドしてあるお茶が好きなんだ」
「ローズ……?」
「あー、えーと、そっちにはないのかな薔薇の花の事なんだけど」
「薔薇!薔薇が入っているんですか!?」
ガタリ、ものすごい勢いでユリアさんが立ち上がる。まるで恐怖で声も出ないと言った感じで眼鏡がずれたのも直さずに、わなわなと震えている。
「え、なしたし?」
「薔薇ですよ!?毒入りじゃあないですか!!」
「ええええええぇぇぇ!?」
今度は私達姉弟が声を上げて驚く番だ。薔薇に毒?棘はあるけど毒まで聞いたことなかった。
「これが毒?普通にあちっ、飲めるが……」
「紫苑さん!!薔薇の毒は速効性っ、早く解毒剤を……あれ?」
キョトンとしたユリアさん可愛い。ローズティーを飲んだ紫苑がピンピンしているのがよほど不思議なようだ。
「薔薇に毒なんて聞いたことないよね?」
「そんな、じゃあ、え」
「一口飲んでみたらどうだ?」
手渡されたマグカップに注がれた琥珀色の液体を恐る恐るのぞき込むユリアさん。そして、覚悟を決めたように口を付けゴクリと紅茶を飲み混んだ。
「あ、そんな一気に飲んだら」
「あっつっ!!」
「熱いから気を付けてな」
弟よ、それは飲む前に忠告してあげるべきだったのでは。口内の熱さに悶えるユリアさんは、それでも目をキラキラと輝かせ、今自分が飲んだものが信じられないとばかりにマグカップから立ち上る湯気をフンフンと嗅いでいた。
「口の中に広がるのは確かに薔薇の芳香、毒がありながらもその優雅な香りに魅せられて王族貴族は好んで庭園に薔薇を咲かせますが、お茶として味わうことでこんなにも心が満たされるものなのですね」
「飲んでも何ともなかったでしょ?」
「はい、薔薇の毒は速効性なのでこれが私の知る薔薇であれば私は死んでいたはずです。ですが、これは、本当に素敵な飲み物です!!」
気に入ったようで何よりだ。ソファに座り直したユリアさんはニコニコと紅茶を飲んでいる。
「お茶請けになりそうなものなんかあったかな?」
「昨日作ったクッキーがまだ余ってるはずだ」
「あー、夜勤中のめっちゃお腹減る時間帯に送ってきたあの飯テロ画像か」
紫苑がテーブルの上に出したのは新雪のような粉砂糖をまぶしたまあるいクッキー。ブールドネージュと呼ばれる、ほろりと口の中で崩れる優しい甘味のクッキーだ。
クッキーの中では一、二を争うほど私はこれが好きで、ケーキ屋さんとかでレジの横に売ってたりするとついつい買ってしまう。実は作るのもそんなに難しくなかったりする。
「小さなパン?ですか?」
「ううん、クッキーだよ……てその顔はクッキーも分かってないね」
「すみません……」
「クッキーとは、小麦粉を主原料としたビスケット……と検索したら出たぞ、しかしビスケット何それってなるなこの説明……、まあ美味しいから食べてみては」
ずずいとクッキーの入ったタッパーを紫苑が差し出す。ユリアさんは興味津々と言った感じでまあるいクッキーを一つ手に取る。口に入れるとまるでふわりと花がほころぶ様な笑みを浮かべた。
「おいひいですぅぅ」
「良かったねぇ紫苑」
「こんな美味しそうに食べてもらえるなら作り手としては大満足だ」
「こんなに美味しいもの私初めて食べました!もう一つ頂いても宜しいですかっ」
「どぞどぞー」
ぱくりぱくりと次々クッキーをほおりこんでいく。昔飼っていたハムスターを彷彿させる姿に気持ちが和む。
「そっちの世界の甘味ってどんなものなの?」
「そうですね……、砂糖ずけにした果実などが主流です、それをパンの中に入れて焼いたものはありますが、本当にこんなに甘くて、そしてバターの風味が口いっぱいに広がって幸せな気分になれる食べ物はありませんよ」
「クッキーが無い世界とは……!オレは生きていけないな……」
「砂糖自体が高価なものなので、口に出来るのは特権階級に限られてますし……、私も甘いものは久しぶりに食べました」
少し切なそうに笑うユリアさんと、信じられないという顔をする紫苑。そうだよね、あんたミルクティーにがばがば砂糖入れるくらい甘党だもんね。私もお菓子は好きだから、食べられないのは辛いけど。
「どうやら生活環境がかなり違うみたいだね」
「こちらは見慣れないものばかりです」
「ユリアさんの世界はどんな所か教えて貰っていい?」
「はい、私の世界レスュークルは……」