チョウドウテイトハ
「わかったか?」
薄いカーテンから漏れでた月明かりと、小さくオレンジに光る豆電球が、かろうじてパイの顔を照らす。
クリームは、呼吸を整えながら「何がですか?」と返した。
「能力のことだよ。お前は『超童貞』なんだ。普通の人とは違うんだよ」
パイは腰を下ろしながら言った。
猫背が放った白い玉。それをパイが白い膜で跳ね返した。彼がいなければ、なんらかのダメージを追っていただろうし、少女は連れ去られていただろう。
クリームは、隣ですーすーと寝息をたてている少女を見た。路上で気絶してからというもの目を覚まさない。この少女をクリームは二度助けた。暴走バイクから、そして猫背から。尋常じゃない力を使って、である。能力、そして、『超童貞』。これを頭の中でどう処理していいものか。そして、目の前に座っている小太りでひげ面の男を信用していいものなのか。クリームは次に発することばを選びきれないでいた。
「まあいい。あいつが離れるまでここでじっとしてよう。少しはくつろげよ」
パイのことばに従い、クリームは無言のまま腰をおろすと、ゆっくりと部屋を見渡す。六畳ほどの小さな部屋であった。猫背が襲って来た場所からそう離れていない。つまり、クリームが住んでいるマンションとも近いということでもある。
「ここはあなたの部屋ですか?」
「パイでも、パイ師匠でもいいぜ、クリーム。いや、パイ師匠がいいな。師匠か」
小太り中年男が、にやにやと笑っている。なんと気持ちの悪いことか。
「パイ師匠だ!あいあむパイ師匠!」
「で、ここは誰の部屋で?パイ師匠」
「ああ、俺の部屋だよ」
師匠と呼ばれたことがよっぽど嬉しかったのか、パイはにやにやしたまま言った。
クリームは、やはりこのにやにや男を信用できずにいた。襲撃現場に都合良く現れ、且つ部屋もその近くにあった。なにか仕組まれているような。そんなクリームの疑いを感じ取ったのか、パイは、膝を立て、わざとらしく頭を掻きながら言う。
「おーけーおーけー。隠しごとはなしにしよう。そうだ。研究所を出たお前を俺はずっと付けていたのさ。だけどな、駅前でお前を見たのも、ここに俺の部屋があるのも偶然だ。むしろラッキーと言ったほうがいいだろう。クリーム、その突然現れたわけのわからない力、どうする気だ?その力についての情報を俺たちは持っている」
俺たち、というのは、研究所にいた女、ダイクのことも含めているのだろう。パイたちに会ったことはラッキーだ。たしかにそうだ。彼がいなかったら、クリームはなにもわからないままもんもんとしていたことだろう。だが、わからないままでもよかったのではないか。パイにあったことで、なにか大きな渦に飲み込まれたような、そんな恐怖をクリームは感じていた。彼に会わなければ、駅での出来事は一過性の体の異常と考えて、平穏な生活に戻ることができたかもしれない。
ーーー平穏な生活?
頭のなかに差した疑問をクリームは、かき消した。この状況を、パイの言っていることを肯定したくない、という強い気持ちが働いたからだ。なんとか話をずらす。
「力の話は置いておいて、この少女はなんなんですか?」
「こいつについては俺もよくわからん。なんで襲われてたのか。あいつなら知っているかも」
閑静な住宅街に、バイクの音が轟く。
「噂をすればなんとやら」パイは再びわざとらしく頭を掻く。ふけが飛んでそうでいやだな、とクリームは思った。
がちゃりとドアが開く。
「集まってるわね」
ヘルメットを脇に抱えた、ライダース姿のダイクが現れた。
「派手な登場だな。猫背の変なやつはいなかったか?」
「大丈夫よ。独り身の女がぼろアパートに帰って来た、ただそれだけよ」
ぼろアパートは言い過ぎだぜ、とパイはニヒルに笑いながら立ち上がり、右手の拳をダイクに突き出した。ダイクはそれに左手の拳を突き上げることで応じる。こつんと、両の拳がぶつかると、二人は照れたように笑った。まだこの挨拶に慣れていないらしい。
「私たちはあなたにできる限りの情報を開示するわ」
狭い畳の部屋と小さなちゃぶ台に、ライダース姿でロングヘアーのダイクはなんとも違和感がある。
クリームは迷っていた。力のことを訊ねるかどうか。訊いてしまったら、もう元の生活に戻れないような気がした。もとの、平穏な生活に。
ーーー平穏な生活?
再度の疑問に、クリームは向き合うことにした。そもそも平穏な生活があったのか。派遣先の工場は潰れ、ろくに就活もせず、貯金も底が見えている。これを機にまた就職斡旋してもらえばいい。しかし、30も見えて来た歳の、たいした職歴も資格もない俺に、どんな仕事があるって言うんだ。よしんば仕事にありつけたとして、それは平穏な生活か?毎朝の出社。年下の上司。安いであろう月給。就職して、結婚して、子どもを産んで。社会が唱える、「普通に生きる」ことが、どれだけ大変なことか。「普通の幸せ」に至ることがどれだけ難しいことか。それだけでなくても、俺には今まで楽してきたツケがある。ならいっそ。ならいっそ、楽な方へ行けばいいじゃないか。逃げたほうがいいんじゃないか。社会の言う「普通」から。どうせ「普通」じゃないんだし。
クリームは、意を決すると、ダイクを見て言う。
「教えてください。『超童貞』のことを」
ダイクはにんまりと笑い、話し始める。
「そうね。『超童貞』とは、力のもつものたちのこと。さっき会った猫背がどうたらとか言う、、、」
「やつのスペルマは爆発だ」
「そう。猫背の彼も『超童貞』よ。彼は自信のスペルマを爆弾にすることができる。『超童貞』はそれぞれに能力があるの。あなたの場合、ん?なんか臭いわね」
「あ、すみません。さっきいわゆるその能力を使ってしまって」
クリームは、ねちょねちょとする股間部を広げて言った。
ほらよ、とパイがパンツを投げた。ありがとうございます、と言って、クリームはトイレでいそいそと履き替えた。
「それで、スペルマってのはつまり」
少し照れながら、ダイクに訊ねる。ダイクは慣れているのか、特別な反応を示すことなく、答える。
「そう。精子よ。『超童貞』たちは、精子を能力に利用することが多い。でも、まだまだわかっていないことが多いの。あなたの場合は少し特殊で、推測ではあるけれども、射精までに至る興奮を「力」に変えて、一時的に身体能力を強化していると考えられるわ」
射精までの時間。クリームは、駅前での、そしてさきほどの、出来事を思い出す。
「『超童貞』というのは、つまり、まあ、わかるわよね?」
クリームは、ダイクのことばにどきりとした。見かねたパイがことばをかける。
「なにも恥じることはないぞ、クリーム。お前も、俺も、そして、あの偉そうにしていた猫背も、そうなんだ」
なんて清々しい顔をしているのだろう、とクリームは思った。同時に、恥じていた自分に恥ずかしくなった。そうだ。なにも恥じることはない。みんな、そうなんだ。
「そうです。童貞です」
「違うのよ、クリーム。あなたは、『超童貞』なのよ」
ダイクが、にこりと笑った。パイも、強く頷いている。
ーーーそうだ、俺は。
「『超童貞』です!」
俺は、『超童貞』なのだ。クリームは、強く思った。
「さて、ここからは私たちからあなたにお願いよ」
クリームは、「なんでしょう」と問うた。
「あなたには、私たちの仲間になってほしいの」
「仲間、ですか」
「そう。すべての童貞が『超童貞』に覚醒するわけではないわ。童貞の中でも一握り、数はかなり限られている。しかし、最近になって、明らかに『超童貞』の数が増えはじめた」
なぜでしょう、とクリームは訊ねた。
「童貞が、昔よりも増えすぎている。そのせいで『超童貞』の数が増えているのよ」
ダイクのことばをパイが補足する。
「一説には、教科書にのっているもののなかにも『超童貞』がいたという話だ。他にも、昔話や伝承での超人的な力は、『超童貞』が行ったものだと考えられているものが多い。昔はそれだけで済んだ話だ。だいたいの『超童貞』は、後に童貞を捨てるものが多かった。力を使って有名になれば、普通の流れさ。しかし今は、その力を持ってしても、童貞を捨てないものが増えた」
「なぜ童貞を捨てないのか。いろんな説があるけど、大きく二つね。『超童貞』の研究が進み、その力が童貞だからこそ起こるものだ、と知ったもの。もう一つは、力を持ってしても、女性との心の距離が埋められずに童貞のままでいるもの。後者は今までになかった現象ね」
ちなみに俺は前者だ、とパイは言った。クリームが疑いの目をパイに向けると、パイは「なんだよ」とむすっと言った。
「『超童貞』が増えると、やはりその力を悪事に使うものが増える。そして、『超童貞』の力が科学的に明らかになって来た昨今、それを利用しようとする権力者が増えて来たのよ。そして、それらを止めるためにうまれたのが」
「俺たち、『イノセントワールズカンパニー』通iWCだ!」
カンパニーということは、お金は出るのだろうか。クリームの目下の危機は、やはり明日の生活であった。そのことを訊ねようとしたとき、そばで声がした。
「ん?なに。ここは」
目を擦りながら、少女が起き上がった。
「さて、面白い女の子を助けたわね、あんたたち」
ダイクは、にやりと笑い、電気を点けた。
眩しいな、とクリームは思った。