コードネーム クリーム
彼は、雑踏のなかでふと立ち止まり、上を見た。真新しいビルの間に、街にふたをするような灰色の空があった。
10日ぶりの外であった。
ーーー間が悪い
3年弱勤続した派遣先の工場が買収された。もうすぐで正社員として雇用される、という話になっていたのに。何もない人生だったが、正社員になれば何かが少しでも変わるんじゃないか、と思っていた。漠然と、だが。
ーーー何をしよう
退屈な単純労働と当たり障りのない人間関係しかなかった職場ではあったが、いざなくなってしまうと、自分の居場所はあそこしかなかったな、と彼は思う。朝のラジオ体操、休憩所での一服、年末前の暇をもて余した大掃除、帰ってからの一杯。
一度無職になったことで、生来の怠惰が現れてしまった。体が泥沼に浸かっている。立ち上がるのも面倒で、フルタイムで働いている人が、スーパーマンに見える。あっというまに5ヶ月が過ぎた。来月までは失業保険をもらえるが、次の派遣先は決まっていない。というより、派遣会社に行くのも億劫になってしまっていた。
ーーーどうする。貯金は少しあるが、どうする。俺よ、どうするんだ
背中に、誰かがぶつかった。柄の悪そうな男だった。その男は、彼を一瞥し、舌打ちをすると、さっさと歩いていった。
彼は、なにかを悟ったように笑みをこぼし、再び歩き出した。
ーーーこの町では、立ち止まってはいけない。
と思った数歩先で、彼は赤信号で立ち止まった。
ーーーこの町にも、ルールはある。
彼は、自嘲気味に笑った。
信号を待つ彼の前に、帽子を被った女の子がいた。中学生くらいだろうか。まだ夜と言える時間にはよほど早いが、少女が一人で歩いている、というのは、数年前のこの地域では珍しい光景であった。ここ、駅の西側は、特に治安が悪かった。
随分平和になったが、それでも時折影が現れる。
信号が青に変わるや否や、少女は、いの一番に飛び出した。
そこに、バイクが、猛然と、突っ込んでくる。
ーーーこの町は、まだまだ、
間に合わない。反射的に走り出した彼ではあったが、少女との距離、バイクのスピード、を冷静に分析していた。途端、経験したことのないような高揚感が沸き上がってくる。どばどばと、脳から、得も知れぬ何かが分泌されている。それは、とてもスローに、しかし、一瞬に、彼の頭のなかから全身へと、流れていった。手の、足の、指先の、体全体の細胞一つ一つが、それぞれに高揚しているのを感じた。
次の瞬間、何が起きたのか、彼は瞬時には理解できなかった。彼が起こしたことであるにもかかわらず、である。
ーーーおれが助けたのか
暴走バイクと、無惨にも散っていくであろう少女の後ろ姿。彼が見た、すこし前の光景である。しかし、その、暴走バイクによって命を落とす運命にあった少女は、今、彼の腕の中にいた。
バイクのスピード、バイクと少女と自分との位置関係。どう考えても、間に合うはずがなかった。考えても、というより、考えるまでもなく、不可能であり、なにか奇跡が起きたとしか考えられなかった。
「あ、あの」
少女の声に、彼はようやく自分の世界から抜け出し、周りを見た。
暴走バイクは、とうに走り去っていた。人々は、その奇跡を目撃し、珍しくも赤信号以外の理由で足を止めたが、次の瞬間にはなにごともなかったかのように歩みを再開していた。
「あ、あの、おろしてもらってもいいですか」
「あ、す、すまない」
帽子が、すぐそばに落ちていた。
彼はそれを拾い、少女に渡す。
中学生のような幼い顔立ちに、黒いロングブーツ。背伸びをしたい年頃なのだろう、などと考えながら、彼は言う。
「まだこの地域は、子供が一人で出歩くには危ないよ」
さっきまではしおらしかった少女であるが、彼のことばを聞いて途端に目の色を変える。
「助けてくれてありがとうございました。でも、私、もうすぐ大学生になるとしなので大丈夫です」
少女は、帽子を目深に被ると、むっとしながら言い捨て、人ごみに消えていった。
ーーーうっせえちび
少女の反応にいらっとしながらも、彼は、暗い日常に戻るための一歩を踏み出そうとした。
そのとき、股間部に違和感を覚えた。
べとりと、なにかがまとわりついている。なにか、ではない。彼には見当がついていた。もじもじと歩きながら、なんとか路地裏までやってくると、ズボンの股間部を触る。
ーーー精子か
めまいがした。体全体から血液が抜けていくような、ようするに、貧血になったような感覚である。
倒れながらに、彼は、見た。
無機質なビルの間に、町にふたをするような、灰色の空があった。ごうごうと風の音がすると、ぱっかりと空が割れ、光が差した。どんよりとしていた雲が白く光る。もくもくとした、ホイップクリームのように。
ーーーおれの股間についたホイップクリームも、この雲のように、真っ白なのだろう
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「・・・今までになかった反応だわ。明らかに、違う・・・」
女の声が、彼の耳に入ってくる。
うっすらとした光が、彼の目を刺激する。
ーーーここは、どこだ
「ああ、起きたわね」
ぼんやりとだが、彼の視界に、白衣姿らしき女の姿があった。
「どうだ、クリームの状態は」
黒い影が、女の隣に現れた。
「今、目が覚めたところよ」
女が、メガネらしきものをくいっと整えながら言った。
ベッドの上で、激しい頭痛に苛まれながらも、彼は揺れ動く二つの影の会話に疑問を持った。
「く、クリームって」
なんとか声を振り絞り、疑問を投げた。
「ああ、お前のコードネームだ。ホイップクリームがなんだとうなされてたからな。勝手につけさせてもらった。ちなみに俺のコードネームは」
黒い陰は、一度息をつき、わざとらしくためた。
「pieだ。パイ師匠とよぶんだ、クリーム!」
頭痛がひどくなる。耳鳴りが強くなる。体温計を使うまでもなく、高熱があるのがわかった。視界が、意識が、ぐるぐると、廻っていた。クリーム。パイ。クリーム。パイ。頭の中で、クリームとパイが堂々巡りを始める。
ーーークリーム、パイ、クリーム、パイ。コードネーム、クリーム。おれは、クリーム
わけもわからず、彼は自分に言い聞かせた。すると、はっきりと、一瞬だけ視界が明確になり、目の前にいる声の主の顔が、ありありとわかった。
ひげ面の中年男性が、満面の笑みでこっちを見ていた。
ーーーパイ、これが、パイ師匠
「おれたちは」
パイ師匠は、再びわざとらしくためた。
「パイクリームだ!」
ーーークリームパイだろうが
クリームは、目をつぶった。