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「鳥によろしく」

作者: Syuuko Tanaka

 誕生日を迎えるごとに、アルバイトを変えています。ずいぶん腰の据わっていない人間のように思われるかもしれません。

 大学在学中に演劇サークルに入って、演じることが私の生涯の天職だと知りました。役者の自叙伝を読み漁っているときに、ある女優が百以上のアルバイトをして人間観察をしたというくだりがあって、真似をしたのです。

 という言い訳を人にはするつもり。聞かれたことないけど。

 本当は人間関係がめんどうくさいだけである。

 わたしを演劇という底なし沼にひきずりこんだ地元の大学を卒業し、妹が自殺したのもあって、東京に出てきた。もう二十六歳だ。三ヶ月前、所属している小さな劇団ではじめて主役を得たけれど、一週間前に風邪で喉をやられ、どんなに無理をしても死にかけた猫のような声しか出てこなくなり、えみこが役を奪い取った。

こぎたないビルの三階の劇場で、明日が千秋楽。熱の引いた身体を引きずって、自分の劇団の舞台を、はじめて客席から見た。

 戦後の横浜で街娼をし、毎日顔を厚く白く塗り、白いキツネと呼ばれる女。

 音響なんて気にしちゃいない、小さな舞台の上。貢いでいた文学青年に振られて白いキツネが酔っ払い、「あたしは必死に生きてきた。何もわるい事なんてしちゃいないのに、このザマさ」

 えみこは、「しちゃいにゃいのに」とすこし噛む。ほんの、少し。-だけど叫びたくなるほど耳ざわり。

 舞台の上の全てがちぐはぐで、脚本は車のなかで溶けた飴のようにべちゃべちゃしている。

 みんな自分にスポットライトをあてたがっているだけだ。ずっとそう。真剣に目指していた人は次の劇団に移るか、自分の才能を見限って職に就いていった。

 わたしは席を立った。場内はすかすかだ。

 もうやめてやる。

 おへその下に息をため、一気に吐き出す。

「やめる!!」

 大声で叫んだ。

 舞台と客席のほとんどがわたしを向いた。

 この石山竜子いしやまりゅうこ、人生で一番注目された瞬間。

 劇場を抜けて階段を降りた。台風が過ぎたあとで、いわし雲に近い雲は茜色と濃灰色がまぜこぜになっていた。十月後半の冷たい風を受けてぶらぶら歩きながら、ファミレス最後のアルバイトに行くにはまだ時間がある。漫喫にでも入ろうかと思った。鞄を確認すると携帯がちかちか光っている。電話だ。

 はいと言うまでもなく、

『石山さん?何回も電話したんだけど、困るんだよね』

大家だった。私は何回も家賃を滞納していて、風当たりは強い。

「すみません」

『家賃払い込む日分かってるよね。今月の三日後だけど、契約切れるから再契約したいなら十二万払ってもらうって文書読まれてないみたいね。どうする?』

「…へ?」

この間またもやポストに、大家から達筆で黒々と「石山竜子殿」と書かれた手紙が入っていた。どうせいつものゴミだしの文句とかドアはもっと静かに閉めろとか音楽はイアフォンで聴けとかだ、と思ってそのまま捨ててしまった。頻繁に文句の手紙をよこすのが悪い。

『電話代高いんだからさっさと決めてよ』

「む、り、です」

『なら三日後までに出てって。じゃ』

怒りがこみ上げる前に脱力した。大家のおじさんとは相性が悪すぎて、出て行くことはぽつぽつ思い起こしたりしてたんだけど、なんてこった。一週間前に、えみことホストクラブで遊んで五万円とんだ。いつもの家賃分しか口座には残ってない。

 あーあー。

 駅の南口の階段に座り込んで、急にかじかんだ手をもみながら必死に考えた。どこか泊めてくれるところ。劇団からはもうすっかり足を洗うつもりだけれど、さりとて他の知り合いもいない。都会人の孤独だわー。

 そうだ。そういえばアルバイト先の水野さんが、部屋を半分貸したがっているらしいという噂を聞いたことがあった。確か半年前くらいに、事務所でパートのおばさんたちが呆れたように、というよりもねたましそうにこそこそ喋っていた。

水野さん。大学よりもバイトと合コンにいそしむ、外見が派手で快楽に素直な彼女とは、仲は悪くない。

 これはいけるかもしれない。引いていた血の気が戻ってきた感じがして、よっこらしょうと京王線に向かった。水野さんは連日バイトに入っているから、今から行けば会えるだろう。


 店の裏手にある小さな事務所には、店長の煙草とマニキュアの匂いが満ちていた。毒々しいものを吸い込んだ気分になり、一瞬息が止まる。

 転任してきたばかりで役立たずの店長はパソコンにぼーっと向かい、ミニスカートの似合う水野さんは机のシフト表をめくりながら、蛍光ピンクに塗った爪に息を吹きかけている。どうやら上がったばかりらしい。

狭い部屋の隅のパイプ椅子には、二年前からいるらしいけれど、週一でしか入らない調理担当のアルバイト君がメガネをきらりと輝かせながら難しそうな本を読んでいる。

 「おはようございます」

「あ、石山ちゃんだー」

まんまるく黒で縁取った目をぎらりと向けて、水野さんがにこにこする。年上のわたしにちゃん付けをする彼女の感覚は分からないけど、そういうものなのだろう。

「水野さん、あのさ話があるんだけど・・・」

「えー、そうなんですかー。それより今日で辞めちゃうなんて、さみしいなぁ」

「寂しいといってくれるのは嬉しいんだけど…」

「やだ、ちょっとグネってなった」

彼女はまたふーっと爪に息を吹きつける。

ここで会話を終わらせてはならない。わたしは亀のようにぐいっと首を突き出して、

「ところで話なんだけど。こないだ、水野さんが一部屋貸したがってるって話聞いたんだけどさ」

「えー?なんですかそれ。あたしんち、ワンルームなんですけど」

「え・・・」

「まじ狭くって、困ってるんですよねぇ。引っ越したいからバイト必死にしてるんです、親まじ最悪でー」

「それ、僕です」

調理のメガネ君が言った。

「へ?」

「僕んとこです。部屋余ってるの。誰か借りたい人いるんですか」

店員全員がつけることになっているネームプレートを見る。『さざ』

「さざくん、わたし、借りたいんだけどぉー、いいでしょー!五万以下でよろしくねぇ!」

ああ、語尾にハートマーク散ってる。ちょっと水野さんみたいな口調だなぁ。

二人が目を丸くしてわたしを見た。

店長はぼんやりとパソコンを眺めている。


 年下の男と暮らすことになった。自分でそのせりふをいくども噛みしめてひとりわらいする。もちっと色っぽいことだったら誰かに自慢するんだけれど。

ファミレス最後の日にはじめてメールアドレスを交換して、住所をもらい、佐々和善くんの名前をきちんと知る。ともかくその日のアルバイトを上がってから大急ぎで荷物の整理をした。メールで尋ねると冷蔵庫や洗濯機は大きいのがあるので、共用で良いですよ、との太っ腹の返事。すごく広くてきれいな部屋に違いない。うちの備え付けの冷蔵庫なんて四十センチ四方くらいのだし、洗濯は近くのコインランドリーですましてしまっていた。

夜に大家のドアを叩いた。出て行くといったら大家はなぜか拍子抜けしたように、「金がないなら来月まで待ってやってもいいんだけど。こっちも鬼って訳じゃないし」と言う。   

必死でスーパーやコンビニからダンボールを持ってきて荷造りし、明日引っ越し屋を呼ぶ手配もしてある。何をいまさらと腹のそこからむくむく怒りがこみ上げてきたのをこらえ、「はあ」とだけ言って部屋に戻る。

 片付いている部屋で、さびれたスーパーの閉店間際で半額になっていた鮭弁当をぼそぼそ食べる。ご飯、上の方がかちこちで、噛みしめた。

 唯一梱包しなかったソファベッドで、自分を抱きしめて眠る。急に広くなったように感じる部屋はがらんとして、おなかが透き通るように寂しかった。

 なんだかんだで、ここで数年を過ごしたのだ。

業者が来た翌朝の引っ越しは楽なものだった。東京にやってきたときは家出も同然、そのまま忙しくしてきたから。受取りは佐々くんが業者に対応してくれるとのこと、どこまで人間ができているのだろう。

大屋たちあいのもとで部屋の点検が終わり、たいした傷もないということで、来月中という目も眩むような遠い未来に、敷金は全額変えされることになった。 今くれよ。と思うが、

「なんか、悪かったね。部屋も綺麗につかってくれたしさ。元気でやんなよ」

 この人、そんなに悪い人じゃなかったのかもしれない。なんとなく、気の抜けた感じ。

 有難うございます、そうやってはじめて頭を下げて鍵を返した。大屋もぺこりと会釈を返してくれる。

 終わりよければすべてよしってこういうことをいうのかな。

 新しい生活の幸先、なかなかよしじゃないか。


 佐々くんとファミレスの前で待ち合わせて、アパートへ行った。住所しか知らないが、私の中ではすっかりイメージが出来上がっている。歩いて二十分、まだなのーと三回繰り返し、角を曲がるたびにそれらしき建物を探している。コンクリ打ちっぱなし、低い塀の向こうに笹がおしゃれに生えているデザイナーズ・マンションが近付いてきてこれだ、と確信したら、その角を曲がる。

 「ここです。ここの、二階の角部屋」

…立ち止まったのはなんともぼろくさいアパートの前だった。

 おかしいなぁ。おしゃれなマンションで二DKなはずなのになぁ。

 ひざかっくんされた気分で彼の後ろについて行き、ぎしぎし音を立てる錆びた階段を上がり、ドアをきしむ音をたててあけてみればそこはリノベーションされたレトロお洒落な…ということもない。

 狭い玄関に靴を脱ぎ散らす。もとは白かっただろう、薄茶けた漆喰の壁。トイレと浴室は一応別みたいだが、これだけ古いとトイレは和式、お風呂だってどんなもんだか。

 玄関からの短い床を抜けてそこにまあ広めな台所。流しの脇のステンレスの棚に洗いものや歯みがきセットが置いてあった。裸電球の下にはテーブルと椅子が四脚置かれていて広いことは広いけれども、なんだか全体的に暗い感じ。大きくておしゃれな、高そうな冷蔵庫、それととなりにやっぱりよさげな洗濯機がある。部屋に合ってない。

 台所の向かい、右と左にドアがあって、どちらかがわたしの部屋になるのだ。

 「左側、空けておきました。畳だけど窓がふたつありますから。荷物、入れておきましたから。家賃、光熱費食費全部込みで四万でよろしくです。なるべく僕にかまわないで下さいね」

「うん、ありがとー」

口の中でもごもごいって、荷物の積まれた畳の部屋に転がり込んだ。

 なるほど、角部屋で窓がふたつあるのは悪くない。お値段も良心的。がらりと正面の窓を開けてサッシを指で拭うと、指のひらに厚く盛り上がった埃がたまった。ふっと息を吹きかけて埃を飛ばし、隣の家と数メートルの距離ながら、斜め上の方には堂々とした夕暮れが見えた。

 カリリと透き通った音を立てそうな、氷のように冷たい風が、凄みのある青みを増す空に吹いている。


 ぷっつりと、糸が切れてしまった。

 多分わたしの中の演劇は、東京に出てきて、少しずつゆっくりと死んでいった。太陽が冷えて縮まるのよりは、少し早い速度で、ひからびていった。

 けれどもそのひからびた夢は、まだ少しはわたしを動かす力ではあったらしい。

 それを捨ててしまった。

 テレビで役者を見るのが苦しくなった。映画もドラマも、バラエティも、私の捨ててしまった夢をがんばってかなえた人たちでいっぱいだ。

 わたしはずっと寝た。気持ち悪くなるくらい寝て、寝て、眠ってみる夢のほうが優しい時期もあることを知った。ずっと眠っていられたらどんなに幸せだろう、死ぬのは怖いけれどこのままおばあちゃんになるまで眠っていられたらいいのに。とろとろしたまどろみは、でも、空腹によって破られた。

 猛烈におなかが空いた。おなかと背中がぎりぎりまでくっついて触れ合って、それで激痛がしているんじゃないかと思うくらい。携帯で日付を確認したら、 引っ越した日からなんと一週間がたって十一月になっていた。十何通メールがきていてうんざりしたが、ほとんどがえみこからで、あとは劇団長兼脚本家兼舞台監督の男からの退団の意思を確認する粘着質なメールだけだ。

 トレーナーにぼさぼさ頭のまま、財布を持って部屋を出た。キッチンは静まり返っていて、鍋やたくさんの食器はぴかぴかに洗われて布巾の上で使われるのを待っている。佐々君は出かけているようだった。わたしはきちんと揃えられていたスニーカーをつっかけて、外に出た。十一月の風が空腹を撫でる。氷の風は天空から少しずつ降りてきている。

 駅のそばのATMで確認すると、敷金が振り込まれていた。少しおろして、前のバイト先に向かう。

「いらっしゃいませぇ。あ、お久しぶりですー」

 昼のパートさんにまじって水野さんがいた。席に案内してくれて、わたしは一番安いミートソーススパゲティを頼んだ。

 注文を打ち込んだ彼女はにっこりとしてほかの仕事に向かう。語尾を長引かせる舌足らずな発音とはうらはらに、とてもきびきびと動いている。わたしは彼女が好きだ。

 えみこからのメールを、古い順にひらく。時間の経過を追うことで過ぎて行った日を取り戻していく。

 この間一緒に行ったホストクラブのホストを好きになったと書いてあった。そのホストやら、ちゃらちゃらしているように見えて内面は悩みでいっぱいでかわいそうでかわいい、そうだ。ばかかお前。

『りゅうちゃん劇団やめちゃって超さみしいよぅ。団長のセクハラ最悪だし』

『お金ないから雑貨屋のバイトやめる。知り合いの紹介でキャバしよかなって思うんだけどどう思うー?』

『キャバすることにしたー。最近りゅうちゃん忙しいの?マジで会いたいんだけどぉ』

『お金が足りないよー。お金があれば彼もホストなんてやめられるのにさー、まじだるいー』

『りゅうちゃん悩んでない?えみこ心配だよぉ、返信ちょうだい』

えみことホスト、外見はつりあうだろう。えみこのマスカラで作る睫毛の太さは、このスパゲティくらいある…ってのは悪口。

 なんで彼女が劇団なんてやっているのかずっと不思議に思っていた。劇団は、わたしのように地味な人間が主人公に変身する欲望を満たすところだ。彼女みたいに可愛く、派手な人間は、現実でも楽しいはずなのに。なんだか許せない。むかつく。…むかつくなぁ。

 両隣の席は家族連れでにぎわっている。ずるずるとスパゲティをすする。トマトの酸味が血のようで温かく、また冷え始めた手の先に柔らかく血が戻ってくる。


 わたしは来る日も来る日もひきこもり続けた。日に焼けた畳の匂いのする部屋で、コンビニエンスストアで買ったカップ麺をすすりつづけた。佐々君とは顔を合わさないようにしていた。   

 彼は朝の六時ごろ、鳥のさえずる時刻に起きて七時ごろに出かける。夜は六時ごろに帰り、食事をしゴミをまとめ台所をぴかぴかにして九時ごろには眠る。 騒音から推測すると、真面目なことに彼は毎回ご飯を作っているらしいが、お相伴にあずかったことはなく、わたしに声をかけることもない。私も相当だけど、なんか暗いやつ。

 えみこからのメールは来続けていた。彼女はわたしから演劇を奪い去ったが、今では彼女がわたしと外界を繋ぎとめている細い糸だった。

 えみこはだんだん病んでいった。相手をすると疲れるので、あまりメールを返さなくなっていった。

 無性に誰かと話がしたくなった。病んでいない、健全で真面目な人間と。

 健康的な生活を送っていりゃいい。ついでにご飯を女に全部任さないようなのが良いな。んで、情緒が安定的に生きている人。ついでに、男だとなおいい。

いるじゃん、すぐそばに。

 時計の針は夜六時少し前を差しており、部屋からカップ麺を持ち出して、鳩を狙う猫のように、玄関に気配を消して忍び寄るわたし。シャー!!

「おかえり、佐々君。今日は一緒にご飯食べようね」

ひどく迷惑そうな顔をして、彼は突っ立っている。

「ほらほら、これは四百円もするんだよ、コンビニエンスストアで。だからきっと美味しいに違いないよ」

「ちょ…」

「うん、鞄も置いて、靴も脱がなきゃね。このカップ麺は美味しいよ」

「僕、レトルト食品を食べるとアトピーが出るんですよ。だから僕が作ります」

「マジかラッキー」

「何か言いました?」

「いや何も」

手早い調理が始まる。

鳩に反撃されてひげをなくした猫のように、わたしは呆気をとられて彼の手元を眺めている。

 だしをとったお湯の中にじゃがいもとにんじんが踊り、最後に味噌のかたまりが放り込まれてお味噌汁の完成。牛肉と大根が醤油でぐつぐつ煮える香ばしい匂いがして、日本の正しいお母さんのように、向こうが透き通るくらい薄くきゅうりを切っていく。

 おかずは小鉢やお椀に盛られ、薄茶色いほかほかと湯気を立てているご飯がよそられて、食卓にならんだ。

「これ、赤飯?」

「玄米ですけど」

自分でもよく分からないけど、体がほっと安らいだような息をついたのだ。

「僕はあとで食べますから」

「いただきます」

いただきますを言うのも随分久しぶりだと思いながら、ご飯をかきこむ。なんだかよく分からないくらい熱くて、素材の命が濃い何かが喉を滑り落ちていく。食べ終わるまであっという間だった。

「ごちそうさま。すごいおいしかったよコレ」

「無農薬野菜ですから。じゃ、また」

「ってひどくない!?」

いつの間にか彼は、お盆に二人前の料理を乗せている。

薄暗い電球の向こう、部屋の前でわたしを振り返り、

「ひどいとは思いませんけど。とかげさんはいきなり転がり込んできたし、僕はルームシェアをするのが女の人だとは想像もしてなかった。僕も戸惑っているんです」

「とかげ?」

「石山竜子。山を抜くとね、とかげ、と読めるんです。石の竜の子。人間嫌いだけどとかげならまだ好き。許容範囲ぎりぎりですけど」

はぁ…。

 二人ぶんの料理を乗せたお盆を持って、彼は部屋に入っていった。

 おなかいっぱいで眠くなり、布団に転がり込んですとんと眠ったのに、珍しくトイレに行きたくて目を覚ました。携帯を確認すると夜中の一時。佐々君は台所をぴかぴかにして、もう眠っている頃だろう。

 トイレに行ってからパチンと電気をつけ、あらためて見た台所は片付いていなかった。鍋類は空だったが、中身がまだこびりついていた。わたしとしゃべったので疲れたのかもしれない、そんな気がした。洗ってやろうとシンクの前に立ち、三角コーナーの生ゴミの盛り上がりに気付く。たぶん、ひとりぶんの料理が捨てられていた。ほとんど手をつけていないか、まったく手をつけていないか。

 三人分のお皿を洗い、机の上に乾燥した布巾を引いて、ぴかぴかになったのを置いていった。三人分?三人分って何よ。わたしと佐々君と。

 佐々君の部屋に変なものが住んでいる気がした。たとえば拒食症でひきこもりの彼女とか、拒食症でひきこもりの猫とか。

 がぜん、佐々君に興味が湧く。

 次の日の夜、わたしはまたもや玄関で帰りたてほやほやの佐々君ににっこり、おかえりと微笑みかけた。目を伏せて彼はわたしのそばを通り過ぎたが、足をひっかけた。すっころんだ彼を見下ろすのはなかなか優雅な気分だった。きょろきょろする彼に優しく語りかけた。

「豪華なマンションに住んでるって聞いたんだけど・・・まさかこんなぼろい、いや、質素でつましいアパートに住んでいるとは知らなかったなぁ」

「あ。引っ越したんです。家賃浮かせたくて」

「へぇ。実家金持ちかと思ってた。金持ちだったらバイトしないか」

立ち上がって腰を撫でながら、

「バイトはただの社会勉強です」

さらりと言うのを、わたしもさらりと黙殺する。

「そうだよね、引越し費用もバカになんないしね」

「いいや。もちろん、親に払ってもらいました」

きっぱり。

「前のところと今のところの家賃の差額が二十万円。上の階の子どものかけまわる音がうるさいって…まぁ、騙したとも言いますけど。親は同じくらいの家賃のところに引越ししたって思い込んでる。見栄っ張りだけど無関心だから。僕はここでも広すぎるくらいだし、差額とかちょっとした収入は僕の趣味に使ったほうが有効でしょ?」

「ずいぶん高い趣味ね。酒もギャンブルもいいけど、女にだけは気をつけなさいよ」

えみこを思い出しながらいう。

「女って、とかげさんにですか」

彼はまじまじとわたしを見る。私が突然変形するんじゃないかというように。

「この場合の女っていったらホステスとか風俗嬢とかでしょう。わたしのどこに何十万もつぎ込もうっていうのよ」

…なんだか自分が情けなくなってきた。こっそり思う。

 えみこの顔を思い浮かべようとするが、えみこは濃い化粧をころころと変えるのでうまく像が結べない。とりあえずスパゲティのようなまつげが浮かぶ。

返信をしないわたしに、彼女は半ば独白のような形でメールを送ってくる。最近ではキャバクラから風俗落ちしようかと迷っているらしい。

 それには、やめておきな、とだけ送った。

 どうして?と返って来たメールに返信はしなかった。

 訳のない苛立ちで、文章にならなかった。

「ともかく、佐々君からはお酒の匂いはしないし、ギャンブルだって、余ってるお金ならじゃんじゃん日本経済の見えない落とし穴に投げ込めばいいのよ。でも女はダメよ。愛まで搾り取られてぺらぺらの廃人になるよ」

「彼女は、そんなことはしないです」

メガネがきらりと輝いて、彼は確信に満ちた顔で頷く。そのわりに、私の顔ではなく、あらぬところを眺めている。そこに光り輝く美女がいるかというように。だめだこりゃ。

「にしても」

佐々君はわたしを気の毒そうに見つめた。

「とかげさん、ここに来てから廃人でしたもんね。ホストかなんかですか?男はやめておいた方が…っ」

無言で足を蹴った。

凝りもせずその日も彼は料理をし、二人分の料理をお盆に乗せて部屋に引っ込んで行った。仕方がないみたいに、わたしの分が食卓に出されていた。むしゃむしゃと平らげた。最近はどうしようもなくおなかが空いてたまらない。しっかりした量なのに足らなかった。食べ終わってからもむっつりと、女房が出てくるのを待つDV男のように食卓で待った。

 彼が出てきたとき、やはりお盆の上には一食分がそのまま返されてきた。

 今日の献立は里芋と豚肉の煮物と、いんげんのまったりと濃い胡麻和え、それに白味噌の蟹汁とたけのこの炊きこみご飯。どれもこれも絶品。

 そろそろとわたしの前を通る彼を、にっこりと制す。

「それ、捨てるの?」

石像のようにぴたりと動きを止める。

「ダメよ。メシツブには一粒ずつ神様がとりついてんのよ。うじゃうじゃの神様を粗末に扱うと、今にバチがあたってとり殺されちゃうんだよ」

「現代の社会にはだいぶ不必要な神様ですね」

「美しい伝統と格式ってやつ。だから捨てるくらいならわたしにちょうだいソレ」

「だからっていうのがよくわからないけど、これ、残りかすですよ」

「それはきっちり立派な食い物に見えるけど?」

「でも、残りかすなんです」

彼は主張する。まるでそれが真実みたいに。

 わたしは立ち上がって彼の手からお盆を救出した。彼は少し目をつむり、部屋へ戻ってゆく。

 お盆の上のご飯はまだ温かく、けれども確かに急に、味が落ちている気がした。

 わたしのいつのまにか形骸化してしまった、演劇への夢のように。


 本番前に通し稽古を行う。一息つく暇もなく一ベル。開演五分前に鳴るブザーで、アマチュア劇団では脚本が未熟だからたいていその間に劇の説明をする。主人公がどんな女の子とか、どんな世界観であるとか。二ベル、開演直前に鳴るブザー。

幕が上がる。主人公や重要な脇役はすでに舞台の上にいる。

 するすると上がっていく幕を、どきどきしながら暗がりで見つめていた。

 いつの間にかそれはありふれた風景になり、苦痛になって行った。

 …もう考えたくない。眠ろう。

 でも、そろそろ眠れなくなるかもしれない。一時間でも眠らず、ずっと動き回っていたい日がくる。そんな予感がする。


 まだ暗い朝に起きて思った。そろそろアルバイトでもはじめようか。

 ひどい傷を受けた動物が息を潜めるように、怪我をすると人は動物に戻って、回復のための眠りを貪る。傷が大部分ふさがり、機会があれば眠りではなくて餌を貪る。

 演劇の傷は癒え、もっと根源的なものへの欲求が目覚めた。わたしが魅せられているのは人間だ。私をふくむ、面倒くさい人間たちの生態。

 えみこのメールに返信をし、佐々君の起きる前に冷蔵庫の中身を失敬して味噌汁を三人分用意した。中身は豆腐とわかめで、ちょっとしょっぱかった。でも、生まれてこの方カップ麺にお湯を注いだことしかない人間にしてはまともなほうだと思う。

 ・・・佐々君にも飲ませてあげよう。あと、拒食症の猫ちゃんにも。いるんかね、ほんとに。

 まぁ、いままでの感謝ってだけで、それ以上では何でもないし。しかし、なんだかばくばくするな。なんでだか。

 わたしの分を飲み終え、佐々君の分をお椀についでお盆に乗せ、佐々君の部屋のドアを開けた。すぐすぐ、すぐ出るしね。お供えするだけさ。

 と思うけれど視線がうろついてしまう、うーん、好奇心好奇心。

 はじめて立ち入ったが、想像したとおりにきちんと片付けられ、砂漠のように生活感がない部屋だった。パソコンとパソコンの乗っている机、顕微鏡、本棚。

 それからすうすうと安らかな寝息を立てて、佐々君は薄暗い部屋の中、ベッド際で眠っている。

 ベッドからこぼれおちるやわらかな金髪の女性と一緒に寄り添って。

 お盆を取り落としそうになった。

 唐突な忌まわしさがわたしに告げていた。佐々君はとうとうやってしまった。

 佐々君の健全な寝息。もう一人分の寝息がないとおかしい。人を殺して連れて来てしまった。何かの映画みたく、血を完全に洗い流してしまったような、女性の不自然な肌の白さ。歯がカチカチ鳴り、ぶるぶると腕が震えた。次はわたしなのかもしれない。もしかしたらこの女性はわたしの前に住んでて、ごく最近殺されたのかもしれない。

 ぼろぼろと涙が溢れてとまらない。隣の部屋にはわたしがいた。佐々君が相談してくれれば、女性がもう少しだけ助けを求めてくれれば、もう少しまともな成り行きになったはずだ。

 女性の息を確かめようとして顔に耳を寄せる。呼気はないが、臭気もない。このまま隠し通せるだろうか。古ぼけたアパートの、このぼーっとした生活を、わたしは好んでいる。

 畳にお盆を置き、どこか外傷があるかどうか調べるために、思ったより軽い女性の頭部を持ち上げる。パチリという小さな音がした。反射的に女性の顔を見た。

 不自然に見開かれた目がわたしを見つめていた。

 決してこの世のものではない、透き通ったガラスのような目。

 叫んだ。


 「あんたって変態性欲の持ち主だったのね」

「そういうこと言う人の方がたいてい変」

あんなことやこんなことをめまぐるしく思い出し、

「・・・やっぱりあんたの方が上よ」

自信を持って結論付けた。

「ちょっとは思い当たるようなこと、したんですね」

少しひるんだ。しかし、ひっくり返った二椀分の味噌汁の恨みが、わたしに味方をしてくれるに違いない。

「ラグに味噌汁染み込むし。どうするんですか、カビが湧いたら…」

味噌汁に恨まれたのはどうもわたしのようだ。それもそうか。うまく作れなかったし、ひっくり返したのはわたしだし。でも、だまされたような不快感は残る。

「そんなにリアルなダッチワイフと添い寝するからいけないのよ!!」

「そんな分かりやすくて軽々しい存在じゃないんだ、彼女は。とかげさんみたいにうるさくない、静かで、全てを受け止めてくれる。誰も傷付かない」

わたしの悲鳴でびっくりしてはねおきた佐々君と、うつろに横たわっている人みたいな人形と、畳にぺたりと座り込んでいるわたしと。

 恐る恐る、あたたかそうなパジャマに包まれた人形の腕に触ってみる。

 温度はなく、変に柔らかくてうんと奥のほうに弾力がある。人みたいとは言えないが、静かに熱を吸い込んでくれそうな、きめこまかく冷ややかな肌。艶やかで柔らかな髪。もしかしたら人毛を使っているのかもしれない。

「これ、高いでしょ」

「彼女をそんな風に言われたくない。まるで金で買ったみたいに」

「でも買ったんでしょう。買わなきゃ来ないでしょう」

「彼女はそこに、インターネット上に、たまたま居ただけだ。少し手入れを増やして綺麗にしてもらって、手に入れるためにほんのちょっとだけ、二百万くらい、都合しただけだ」

白くなるほど唇を噛んだ彼がかわいそうになる。

 人の温かさを知らないのだろうか。恋人だけじゃなく、親でも友人でも。

「わたしはね、あったかいよ」

彼の手を握った。驚くほど冷えていた。

「触るな!!人間はきもいんだよ!!」

頬を平手で叩かれた。鬱蒼とした森の中の苔のような雰囲気の外見とはまた別に、佐々君は男性としての力を持っていた。口の中に血の味が広がった。

「…あれ、電話の音がするね」

ぽやん。

わたし、いままで何をしてたんだろ。

「とかげさん…ごめん、ごめん。だいじょうぶ?とかげさん」

頬に冷たい手が添えられた。

「ありがとう。えみこから電話がかかってる。行かなきゃ」

「怪我の手入れを」

「佐々のがうんと怪我してる。…えみこも」

血の味はむしろ爽快な感じがした。自分の部屋に戻り携帯を取った。

 窓の外の薄青い光りは、夜と朝の境目、はじまらないかはじまるかの選択を問う光り。

 通話ボタンを押す。

 『助けて。助けてりゅうちゃん』

 ひきつった笑い声をあげて、遠い向こうでえみこがわたしを求めていた。

「落ち着いて。息を吸って。どうしたの」

『死のうとしたの。でも死ねないの』

「何をしたの。薬を飲んだの、切ったの、どうしたの?」

死んでしまった妹と電話がつながったように、わたしは語りかけた。

 わたしは妹を認めることが出来なかった。隣の部屋で妹が唸り、それから笑い、ひとりぼっちで泣いていても、無視していた。妹はいつもぎくしゃくとして、いろんな人が簡単に分かっていることを分かれない、頭の悪い万年思春期のまま死んでしまった。わたしは妹を助けられなかった。まるで姉ではないように、冷たく彼女を拒否した。わたしより、妹の方が親に構われていたからという理由で。構われすぎて、妹はおかしくなっちゃったのに。

『ずっと、お酒を飲んでたの。それから切ったの。手首。血がたらたらする。ばかみたい』

えみこは笑っていた。笑っていたけど、泣いているのが分かった。

「今から行くからね」

『いいよ。バカみたいなことだから来なくていいよ』

「行くからね。待ってなさい。あ…、住所。タクシーで行くから」

『ふらふらする。住所なんて分かんない。考えたくない』

「甘ったれんな!!正気に戻れ!えみこ!」

現実はいつもそこにある。逃げようとしても追いかけてくる。佐々くんがいつのまにかペンと紙を持って傍にいた。有難く受け取る。えみこは急に我に返ったようにさらさら住所を言いあげた。

「ともかく今から行くから」

『…分かった』

えみこはそこではじめて、泣いた。電話の向こうからでも分かった。お腹の底から出ている泣き声、ためていた何かを吐き出すように。

 もう電車は動いている。電線を情報が錯綜し、車がうなり声を上げて日本の隅々まで駆け出している。携帯を片手に、急速に明るくなりはじめた空に向かって、119番にえみこの事情と住所を告げながら、わたしは走るタクシーの中で、えみこのもとに、きもちはいっしょうけんめい、走っている…。


 救急車は先に到着しているのに、えみこはうずくまっ救急隊の人にてイヤイヤをしていた。手首を抑え、しゃくりあげながら座り込んでいる。パジャマ前面、血で染まっている。私が付くと初めて力を抜いて救急車の中に上がった。

 救急車の中はいつも不安になる。病院に連絡を告げる慌ただしい声。えみこに、酒の量や切った時刻を確認する声。運転をするヘルメットの頭が、前部座席からちょこりと見える。右左に整然と積まれている、なんだかよく分からない医療器具は、これまでいくつの命を死のふちから掬い取ってきたのだろう。…妹の時も、隊員さんは本当に必死になってくれていた。ぼーっとしている私なんかより。ありがとうございました。そう思って頭が下がった。えみこは。えみこを、助けてやってください。そう思ったら急に涙が出てきた。

「…命に別条はないと思います。でも、声をかけ続けてください」

歯を食いしばりながら、はい、と返した。えみこ、だいじょうぶだよ。だいじょうぶだからね。

 白いカーテンの向こうには、ふつうの朝の町の風景が広がっているはずだ。

 早朝から犬を散歩させるおばさんがいて、コンビニには朝ごはんを求めるサラリーマンが群がっている。佐々君はそろそろ熱いお茶を飲み、大学へ出かけていくころだろうか。

 救急病院で傷を縫うことになり、わたしはじりじりしながら待っていた。奥のちょっとした小部屋であっさりと処置を受け、落ち着くまでとベッドに寝かされているところに呼ばれる。白い包帯でか細い手首をぐるぐる巻きにして、えみこはちんまりと横になっていた。リストカットが癖にならなければいいな、と思う。

 狭いベッドの上でふわふわとした表情を浮かべながら、えみこはおんなのひとがずっと怖かったと言った。男の人とはたくさん付き合ったから分かったけど、おんなのひとは母親のように不可解だと語った。えみこの酒交じりの息で、付き合って、と言われた。おんなのひとと付き合えば、どうすれば可愛がられるか、気に入ってもらえるか、分かるかもしれないと。

 キャバクラのいじめに耐えられなかったらしい。耐えられない自分に、一番耐えられなかったのだろう。

 男の人ともちゃんと付き合ったわけじゃなくて、遊ばれただけなんじゃないか、バカ。

 包帯の巻かれていないほう、薄い肉の下にすぐ骨のあるようなか細い手をわたしのおっぱいに引き寄せる。

「ほら。あんたが変なことをいうからどきどきしてる」

「りゅうちゃんて胸、ないんだね・・・」

ムッとしたが、いい雰囲気なのでぐっと我慢する。

 それからえみこのおっぱいの上に手を乗せた。わたしよりずっとふくよかで柔らかい。

「えみこもどきどきしてるじゃん」

スパゲティ睫毛が目の下に隈を作り、なんだか非常に間抜けだったけれども、えみこの柔らかいおっぱいの下の動悸は、何にも化粧されていない本当の美しさで、それは誰もかもが持っていることの厳粛さを受け止める。

 わたしは語り出す。

 妹にいえなかったこと。もう少し待ってくれていれば、ほんの少し分かりやすく助けを求めてくれていれば、言えた事を。

「えみこはまず、自分のこのどきどきを大切にして。えみこの心臓を、必死に優しく守ってあげるの。人に優しくしたり、期待に答えようとしたりするのはそれからでいい。えみこが人にしてほしかったこと、助けて欲しかったこと、慰めて欲しかったこと。されてこなくて傷付いたよね、寂しかったよね。でもその痛くてひとりぼっちを誰よりも知っている分、えみこは自分にそのことをしてあげられるんだよ。まず自分が自分のそばにいてあげて。それでも足りなかったりよく分からなくなったりしたら、わたしはいつでもいるから」

 ベッドの上で、えみこは泣きじゃくった。

「みんなずるい。あたしに色んなものを求めて、出来なかったら怒るくせに、出来たらまたどんどん注文をつけてくる。そんなの、こなせるはずないじゃん」

「人間ってずるいものなんだよ。いいの。そういう汚いこと、えみこの全部拾っちゃうところも含めて、全部人間なんだよ。苦しいよね。だからえみこは他の人よりたくさん泣いて、笑って、怒ればいいの。それでいいんだよ」

白くて冷たそうなシーツの上、えみこは声を上げて泣き出す。

 落ち着くまで付き添い、保険証も持ち合わせもほとんどないのであとで持参することを約束して、一緒にタクシーに乗って帰った。

 曇って青ざめた空とデリカシーのない車の排気ガスは回復の一歩にはふさわしくなかったかもしれない。

 けれど鮮やかに染まり始めた紅葉が、現実の端っこを飾っていた。


 佐々君とわたしの静かな生活がまたはじまった。

 隣の部屋で、人間そっくりの人形と佐々君とがひっそりと愛し合っているかもしれないと思うと胸が苦しくなる。

 佐々君はいまだに夕ご飯を三人分作る。

 けれどわたしが正社員登用を目指してのアルバイトからへとへとになって帰ったとき、人形に備えられたご飯とわたしのご飯、二人分が机に置かれている。二人分はいまでは多い。食べられるときは食べるし、おなかがいっぱいになれば残す。そんなことを続けてきて、今では人形に供えられる分のご飯の量が減ってきている気がする。

 えみこはキャバクラをやめ、倉庫でのピッキング作業に励んでいる。アパートで文鳥を飼いだして、可愛くてたまらないらしい。四種類の餌を配合し、具合が悪そうになったら動物病院に駆け込んで、なんともこまめに写メを送ってくる。わたしも二度見に行って、文鳥は見るたびに大きく、健康になってゆく。カフカという名前をつけた彼女の頭の中が、わたしはやっぱりよくわからない。けど好きだ。

 バイト先で知り合った彼氏とはうまくいっているらしく、旅行することになったとにこにこした声で電話が来た。今度ご飯おごるから二日にいっぺん、文鳥に餌をやってきて欲しい、と、人を使うのは相変わらず上手だ。

 冬休みに入った佐々君は、台所に頻繁に出てくるようになって、おかゆの作り方からわたしに伝授している。

「塩と砂糖の差ってそんなに大事かね!?」

「とかげさん、お粥に砂糖はない…」

「牛乳入れて外国風にしたらどうだろ?」

「誰が食べるんですか…」

窓の外の光り加減をながめて、そろそろ文鳥に餌でもやりにいくかと思う。

「人形と食べてて。腹いっぱい。じゃあ、カフカにご飯にやりにいくからさ」

「彼女はそんな肉感的で生々しい欲とは無関係で」

「何よ変態性欲の持ち主のくせに」

「こんなまずいもの、変態でも食べられません」

「ゲテモノ食いのくせに」

おかゆを撒き散らしながらふっとんできたおたまを避けながら、

「いってきまーす」

と笑って、手袋をはめてわけもなく駆け出した。階段を駆け下りて歩き出し、佐々君が閉まりかけた薄っぺらなドアを押して、わたしに手を振って言った。


「鳥によろしく伝えて」


なかなかしゃれたことを言うんだ、ね。

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