プロローグ
1945年 9月2日
第二次世界大戦は、日本国の代表による対連合国降伏文書への調印がなされたことにより終結。これにより七年間に渡る大戦は事実上、幕を下ろすこととなった。世界は大戦を終えたことによって一応の平穏を取り戻したのだった。
ポツダム宣言を受諾した日本国であったが、その際、その調印式で日本国はある条件を提示。その内容とは『第三国及び連合国による統治の拒否』であった。当然そのような条件が飲まれるはずも無いのだが、連合国はその条件を了承。これにより日本は占領下を各国に返還、そして多額の賠償金を支払うことのみが敗戦した日本の『ペナルティ』となった。この裏には賄賂などがあったとされているが詳しいことは公表されていない。
しばらくは国際連合による監視がされていたが、1951年9月23日、国際連合の監視もそこまでで終わり、その日、日本は歴史上二度目の鎖国を世界に声明。他国との干渉を拒否し、完全なる『独立』をすることとなる。もちろん、他国はこれに当初猛反対であったのだが、同年11月2日、連合国はこれを突然の承諾。これにより日本と他国の接点は無くなったわけだが、政府レベルで秘密裏に接触はあり、それが科学力及び軍事レベルの発展に力を貸していた。それから四十年、日本は大きな事件も無く街の復興に力を注ぎ、目覚しい発展をすることとなる。
1959年12月27日 この日、永らく続いてきた天皇制を廃止。これは民衆の意見と言われているのだが、事実は異なっていた。天皇の下、再び力を蓄えた日本が世界に牙を向くことを恐れた連合国の圧力があったのだ。日本がある程度のレベルまで復興するまでは天皇制の維持を認めながらも、それが達成されたと判断した場合は速やかに天皇制を廃止すること。それが連合国と日本の間に交わされた『密約』であった。
天皇制の廃止により、事実上日本のトップに立ったのは内閣となり、その権限は日に日に力を増していった。ただ、過去にあったような独裁政治を行うことはなく、日本の発展に力を注ぎ、それにより更なる発展を遂げることとなる。
1981年2月2日 天皇制廃止から約二十年、目立った出来事も無く時は流れたのだったが、その日ある転機が訪れる。それが日本初の女性総理大臣の誕生であった。それから十五年に渡り総理大臣の座を女性が明け渡すことは無かった。
初代女性総理大臣、天地香。彼女がとある政策を発表することにより、日本は変革を余儀なくされることとなる。それが、男女平等政策。これまで日本では、男女平等という言葉はなきに等しく、女性差別は根強く残っていた。それは公共の場で特に顕著に表れており、それにより女性の不満は爆発寸前にまできていたのだ。それを打開する政策がこの政策であった。これにより、女性だけでなく一部の男性からも支持を得た天地は、名実共に日本のトップに君臨することとなる。
1984年5月14日 天地は突如、総理大臣を辞任。後任には二代目女性総理大臣、江崎麗子が選ばれた。この時点で衆議院、参議院は女性が六割を占めるまでになり、もはや日本は女性が動かしているといっても過言ではなかった。総理を退陣した天地は裏で糸を引き、江崎を傀儡とし実権を握り続けた。しかし、天地の理想とした完全なる男女平等は彼女の考えとは異なる形に向かっていった。それを行ったのが、傀儡として持ち上げられた江崎だった。江崎は男女平等ではなく、女性上位の日本を作り上げようとしていたのであった。1985年3月21日、江崎が裏で糸を引き、天地の汚職をでっち上げたことにより天地の実権は無きに等しくなった。人気という点では抜群の支持率を得ていた天地の汚職をきっかけに、女性政治家の人気は下降の一途を辿るかに思えた。それを阻止したのも江崎であった。江崎は各地に男性を優遇する政策をとる一方で、これまで同様、女性の地位を高いものにしていくという政策をとり続けた。地位を確固たる物にしつつあった江崎は1985年12月24日、女性上位主義政策を発表。これは女性を男性よりも強い地位に置くことに重点を置いた政策だったのだが、先も述べたように、男性にとっては優遇される点も多々あり、反発も予想よりかなり少ないものだった。しかし、この政策が結果として、後に、大きな混乱を日本にもたらす引き金となるのであった。
1993年11月4日 日本は完全なる女性上位主義へと姿を変え、男性の権力はかなり縮小されていた。全国の市長のうち八割が女性、議会も同様に約八割が女性に占められていた。日本は完全に女性が支配していると言っても過言では無くなっていた。
それを遺憾であると表明したのが後に、十五年に渡る女性総理大臣の歴史に終止符を打つこととなる男、三神修である。29歳の若さでありながら、着実に男性からの支持を得て力をつけていった。江崎からバトンを受け取ったのは江崎の考えに大きく賛同していた飯田良美。飯田は江崎と結託し、更なる女性上位を実現させようとしていた。飯田と三神。この二人は激しく対立し、一年間にも及ぶ男と女の戦争のきっかけを作ったのもこの二人であった。
1994年2月28日 男性上位主義を掲げる三神派、そして女性上位主義を掲げる飯田派に分かれ、男と女の戦いは幕をあげる事となった。