第五章 フライト
――AXA航空NZXXX便。(東京成田発⇒中国上海浦東行)
神崎がヘッドホンを耳に掛けて座席に備え付けのリモコンを操作すると、ヘッドホンからスローテンポなクロスオーバーミュージックが流れた。
「さてと――」
神崎は技術論文を手に取って読み始めた。
「電子キャリアの再結合で発光を得る導電性高分子、発光材料は共役系高分子と非共役系高分子、導電性と発光性はトレードオフの関係、共役系高分子ポリパラフェニレンビニレン、アルキルメトキシ基(CnH2n+1O)の導入、非共役系高分子はビニルポリマーが骨格か、これは難しいな……」
神崎が小声で呟きながら顔をしかめて右手で頭を掻く。
「お姉さん、ワイン頂だい!」
「はい、白がよろしいですか? 赤がよろしいですか?」
「赤で、お願いしあっす!」
田町がフライトアテンダントに三本目のワインを注文すると、フライトアテンダントはワゴンから赤ワインの小瓶を取り出して彼女に渡した。
「田町さん、三本目ですよ」
「これ、美味しいわよ。しかも無料っすよ、石川ちゃんも飲む?」
「上海到着までに出来上がっちゃうんじゃないですか?」
「まだまだよ、こんなの序の口じゃん!」
田町が右目を閉じて軽くウインクをすると、石川は肩を窄めて左隣の席にいる深淵の横顔を眺めた。
深淵は少し嚊をかいて心地良く爆睡している。
先日、CMD社の新商品インテリジェントパワーLSI(通称IPLSI)が、有機半導体パネルメーカーOSLED社に採用される事が決定した。OSLED社はCMD社にIPLSIの部品供給と次世代ELパネルの共同開発に関する技術提携を申し入れて、CMD社はこれを正式に受諾した。真田は蘇州CMD有限公司の工場拡張と組立開発本部の設立準備を始めた。
また、OSLED社はCMD社の技術提携社である新光技術工業社にも次世代ELパネルの共同開発に関する技術提携を申し入れて、新光技術工業社はこれを正式に受諾した。新光技術工業社は蘇州に事務所を作る準備を始めた。
神崎達は次世代ELパネルとインテリジェントパワーLSIを融合させるべく、製造工法開発ソリューション技術チームの担当者として、新光技術工業社の本社からOSLED社に派遣される事となった。今、中国の蘇州工業区にOSLED社の次世代ELパネル最新鋭工場が建設されようとしている。
ポーンと効果音が鳴って、座席ベルトの着用サインが点灯すると、機内スピーカーからフライトアテンダントのアナウンスが流れた。
『皆様、本日はAXA航空を御利用頂きまして、ありがとう御座います。本日の上海の天気は晴、気温は三十二度で御座います。間もなく上海浦東国際空港に着陸致します。座席のリクライニング、フットレスト、前のテーブルを元の位置にお戻し下さい。ただ今を持ちまして、機内サービスを終了させて頂きます』
更に機長のアナウンスが入る。
『皆様、本機は、これより着陸体制に入ります。気流の悪い所を通過致しますので、座席ベルトをしっかりとお締め下さい』
アナウンスが終わると、飛行機は高度をぐんぐんと落として雲の中に入った。
「うわっ、耳が痛いっすね、高速エレベーターみたいっす」
田町が両手で耳を押さえて気持ち悪そうに顔をしかめる。
しばらくして雲を抜けると、視界が急に開けて飛行機は旋回を始めた。
「神崎さん、ほら、海が見えるわ」
「本当だ、茶色い海だね、真理ちゃん」
二人が小窓を覗いて機外の風景を眺めると、飛行機は更に旋回して低空飛行で滑走路を目指した。
「見えた! 滑走路!」
相川は始めての着陸に少々興奮気味の様だ。
飛行機のタイヤが滑走路に接地すると、ドーンと大きな衝撃音が響いて機体がガタガタと震えた。そして、エンジンの逆噴射が始まった。
「うわっ凄い!」
相川が両手の拳を握り締めて思わず声を上げる。
飛行機のスピードが落ちると機内は静かになって、飛行機はターミナルへと滑走を始めた。
『皆様、本日はAXA航空を御利用頂きまして、ありがとう御座いました。皆様にまたお会い出来る日を、客室乗務員一同、心よりお待ち申し上げます』
飛行機がターミナルに着いて最後の機内放送が入ると、通路側の乗客達は安全ベルトを外してオーバーヘッド・ラックから荷物を降ろし始めた。
「さあ、着いたぞ! 中国だ!」
神崎は気合を入れて座席から立ち上がった。