第二十五章 ウイルス
――一週間後。
蘇州OSLED有限公司二階技術事務所。
相川がデスクに座ってPCのモニター画面を睨みながらキーボードを叩いている。
「石川さん、よく頑張るわね。まるで生ける評価マシンだわ」
彼女はPCのモニター画面から目を離して上を向くと、ふわぁ~とあくびをして両手を上げた。
石川は疲れを知らないロボットの様に技術データーを次々とサーバーに転送している。技術サーバー#028に溜まったSEM画像は全部で千枚以上あって、その大半は彼が接合評価の為に撮影した電極接合部の拡大画像だ。電子新聞のMPが近づいて、CSサンプルの出荷が目前に迫り、技術メンバー達は大忙しだ。
※SEMは走査型電子顕微鏡の事。(Scanning Electron Microscope)
相川は技術レポートを作成していて、完成した技術レポートは、田町が管理番号を付けて技術サーバー#029に保管している。
「あれっ、またミスったのかしら?」
田町が顔を傾げてPCのモニター画面を覗き込む。
「どうしたんですか?」
「最近、パスワードの入力エラーが発生するのよね、PCのモニター画面に《パスワードが違います》って表示されるのよ」
「パスワードを忘れたんですか?」
「いいえ、忘れてないわよ。ほら、毎日ここに書いているから」
田町はキーボードの下から小さな付箋を取り出した。
付箋にはPCのBIOSパスワードとOSのパスワードが書いてある。
※BIOSとは基本入出力システムの事。(Basic Input Output System)
PCの電源を入れると、このプログラムがまず最初に起動してメモリーの容量や周辺機器の接続状態をチェックする。
※OSとは操作システムの事。(Operating System)
BIOSが立上がると、次にOSがディスクからメインメモリーにコピーされて、コンピューターシステム全体を管理する。OSは基本ソフトウエアと呼ばれる。
「それはダメです。セキュリティ違反ですよ」
「えっ、でもみんなやっているわよ」
田町は床を蹴って椅子を滑らせると、隣席のデスクPCのキーボードを両手で持ち上げた。
「ほらね」
キーボードの下には小さなメモ用紙があって、田町と同じ様にパスワードが書いてあった。
「あっちゃー、この会社の情報セキュリティは甘いですね」
田町が振り向くと、相川は顔をしかめた。
「それと……忘れない様に電子ファイルにパスワードを記録しているわよ」
田町がデスクトップのアイコンをクリックして電子ファイルを開く。
「それもダメです」
「そうなの? いいじゃん、電子ファイルに記録しておけば忘れても大丈夫だし」
「ダメです。それはNGです」
「あら、堅いわね」
「堅いとかそういう話じゃなくて……」
「まあ、いいじゃん、それよりこのパスワードの入力画面、何とかならない? 表示回数が多過ぎるのよね、一日一回だけならまだ許せるんだけど、二回も三回も表示されるとイラっとしちゃうわ。ちょっとシステムの設定変更してよ」
「はいはい」
田町がPCのモニター画面を指差すと、相川は呆れ顔で彼女のPCのモニター画面を覗き込んだ。
「えーと、パスワードの設定変更は……」
「座っていいわよ」
田町が席を譲ると、相川は彼女の椅子に座り込んだ。
「このPCのシステムはよく分からないのよね、ウインドウズじゃないし、マックでもないし、お嬢はよく分かるわね」
田町が相川の横顔を見ながら愚痴をこぼす。
「このOSはユニックス系ですから、ウインドウズやマックしか知らない人には確かに使い辛いかもしれませんね。でも私はこっちの方が好きです。テキストベースで命令言語を打ち込む方が好きですから」
※ ユニックスとは一九六〇年代後半にAT&T社のベル研究所で開発されたOS。
相川はキーボードを叩いて、PCのモニター画面にパスワードの設定画面を表示した。
「あれっ、変ね、パスワードの変更周期は三十日に設定されているわ。OSのパスワードじゃなくて、ネットワークのパスワードですか?」
「OSとネットワークの両方よ」
「OSとネットワークの両方? 毎日ですか?」
「パスワードの入力画面は毎日出るわよ、最低一日一回ね」
「一日一回?」
「パスワードを変えた日なんて、二回出る時もあるわよ」
田町は腕を組んで相川に答えた。
「それはおかしいですね」
「このPCは壊れているのかしら?」
「いえ、このPCは壊れていません」
「じゃあ、なぜ、パスワードの入力画面が毎日出るわけ?」
「たぶん、ウイルスです」
「えっ、マジ? このPCにウイルスが入っているの?」
「ええ、マジですよ」
「このPCのOSはウインドウズじゃなくて、ユニックス系なんでしょう。ウイルスを入れるのって難しいんじゃないの? それに入っても動かないでしょう」
「そうですね、このOSはOSLED社専用に開発されたものだから動かないと思います」
「じゃあ、ウイルスを作ったのはOSLED内部の人間という事になるわね」
「正解です。会社の内部に犯人がいます」
「それってマジ危険じゃん」
「ほんと、マジ危険ですよ」
「誰かしらね? もう、イラっとするわ!」
「犯人をみつけましょう!」
「そうね……って、どうやってみつけるのよ?」
「ちょっとシステムの中を調べてみますね」
相川がキーボードを叩くと、PCのモニター画面に黒色のウインドウ画面が表示された。
「ネットワークの通信ログを引っ張り出して閲覧してみます」
相川は黒色のウインドウ画面にプログラムを書き始めた。
「よし、これで通信ログのテキスト出力が出来るわ」
※ログ=記録
※テキスト=文字
「それ何なの?」
「ネットワークの通信ログを閲覧出来るプログラムです」
「えっ、そんな事出来るの?」
「ええ、出来ます。じゃあ、ネットワークの通信ログを画面に表示させますね」
相川がキーボードの改行キーを押すと、通信ログの閲覧プログラムが実行されて、黒色のウインドウ画面に白い文字が上から下に滝の様に流れた。
「これ読めるの? マトリックスの映画みたいじゃん」
「テキストがスクロールしている間は読めないけれど、スクロールが止まったら読める状態になります」
「へぇ~まるでハッカーみたいね」
「ええ、ハッカーですから」
相川は田町にそう答えると、目を細めてPCのモニター画面を睨みつけた。
彼女の穏やかで優しい表情は何処かに消えて、獲物を狙う肉食獣のような鋭い眼差しになっている。
「あの、お嬢……」
「ちょっと黙ってて、今、集中しているから」
「はい……」
田町は胸の前で両手を上げると、相川の気迫に押されて後ろへ下がった。
「この中に何かいるわ。やばい奴。匂いがするもの……」
相川がPCのモニター画面を睨んで唇を噛む。
――しばらくして、ウインドウ画面の中を滝の様に流れていた文字列がピタリと止まると、相川はキーボードのスクロールキーを押して、画面の文字列を追い始めた。
彼女が「キーワードは何かしら?」と呟いてキーボードのファンクションキーを叩くと、ウインドウ画面の中にメニュー画面が表示された。そして、メニュー画面から《Text Search》と表示された項目を選択して、テキストボックスの中にXXXXと文字を打ち込むと、ウインドウ画面の中にXXXXを含む文字列が次々と検索された。
「あった!」
相川が検索画面の文字列を指差す。
「何があったの?」
「田町先輩以外の利用者の記録です」
「えっ、これは私の専用PCになっているはずよ」
「田町先輩のPCにウイルスを入れて、パスワードを盗んだ奴がいるんです」
「なりすましってやつ?」
「ええ、そうです」
「誰なの?」
「犯人はまだ分かりません。でも、田町先輩になりすました時間とアクセス先はログに記録が残るから分かるんです」
「ほんとに、分かるの?」
「ええ、ちょっと、通信ログの分析に時間が掛かりますけどね」
「お嬢、手伝うわよ!」
「先輩、お願いします!」
相川と田町は急いで通信ログの分析を始めた。