第二十二章 石路の休日
――土曜日の夕方。
神崎は仕事を早めに切り上げてホテルの部屋に戻ると、バスルームでシャワーを浴びてからソファーに座り、リモコンのボタンを押してテレビのスイッチを入れた。
『純正果汁百分比。菜蘋果。草苺。哈哈哈ー。CCCTV新聞』
※果汁百パーセント。林檎。苺。はははー。CCCTVニュース。
コマーシャルが終わると、中国TVのニュース番組が放送された。
「ニュースの内容がいまいち理解出来ないや、こりゃ中国語をもっと勉強しないと駄目だな……」
神崎がテレビを眺めてぼやきながら、頭に乗せたタオルで濡れた髪を拭く。
――しばらくして。
神崎はドライヤーで髪を整えると、軽装に着替えてホテルのロビーに向かった。
「すみません」
神崎が日本語でフロントに声を掛けると、フロントマネージャーは手招きをして劉麗姫を呼んだ。
「両替をお願いします」
劉麗姫がフロントに立つと、神崎はズボンのポケットから財布を取り出して三万円を彼女に手渡した。
劉が振り返って為替レートのボードを眺めながら手元の電卓を叩く。
「二千四百三十五元ですが宜しいですか?」
「はい、それで結構です」
「サインをお願いします」
神崎は伝票にサインをして二千四百三十五元と両替証明書を受け取ると、劉に軽く頭を下げてフロントにある壁時計で時間を確認した。
「午後六時か……」
「お出掛けですか?」
劉が微笑んで神崎に問い掛ける。
「ええ、会社の仲間がみんな出掛けていますから、今日の予定は特に無いんですけどね」
「そうですか、じゃあ、私が同伴しましょうか」
「えっ?」
「私、今日は早番だから仕事終わりなの、あそこで少し待っていてくれない? いいでしょう?」
劉は磁力的な視線で神崎を見つめながら、フロアーの中央にある大きなソファーを指差して尋ねた。
「あっ、はい、いいですよ」
「じゃ、そう言う事で」
劉は腰の下で右手を小さく左右に振って、フロントの奥にある従業員室に入っていった。
神崎は従業員室のドアを見つめて「マジか……」と呟いた。
――十分後。
神崎がホテルの外の景色を眺めていると――。
「お待たせ」
劉が神崎の肩をポンと叩いて顔を覗き込む。
「うわっ!」
「んんっ、何? 驚いた?」
「いえ、何でもないです」
(この娘、間近で見ると無茶苦茶綺麗だな……)
神崎が慌ててソファーから立ち上がる。
劉はホテルの制服を脱いで私服に着替えている。
白いワンピースに赤いハイヒール。長身でスタイルが抜群だ。
彼女の周りには目に見えない清楚な気品が漂っている。
「行きましょう」
劉は神崎の服の袖を軽く引っ張って彼を誘った。
二人がホテルの玄関を出ると、劉はボーイに「タクシー」と声を掛けた。
ボーイが客待ちをしているタクシーを呼び付けて玄関の前に車を着けると、神崎はタクシーの後部ドアを開けて劉を先に乗車させた。そして、車の後ろを回って反対側のドアからタクシーに乗り込んだ。
「去何処?」
※何処に行きますか?
タクシーの運転手が振り向いて、二人に行き先を尋ねる。
「石路」
※石路の発音はシールゥー。
劉は運転手に石路と答えた。
「知道了」
※分かりました。
タクシーの運転手が小さく頷いて車を発進させる。
「あなた、お腹空いた?」
「空いてるよ、もう夕方だし」
「私、お腹ペコペコよ、食事驕ってね」
「ああ、いいよ」
「あなた、何食べたい?」
「うーんと……」
神崎は少し考えてから「火鍋」と答えた。
「分かったわ、火鍋ね」
劉はバックから携帯電話を取り出して誰かに電話を掛けると、窓の方を向いて外の景色を眺めながら話し始めた。
「餧餧 你好 我 麗姫 姐姐 火鍋的店 請預約。 我? 石路 是的是的 那箇秘密 ――etc――」
※もしもし、もしもし、こんにちわ、私、麗姫、姉さん、火鍋のお店、予約してよ。私? 石路、そうそう、それは秘密よ。――etc――。
電話が終わると、劉は神崎の方に振り向いた。
「火鍋って、よく食べるの?」
「いや、食べた事無いんだけど、美味しそうだから」
神崎は少し笑って頭を掻いた。
「美味しいわよ、火鍋、ちょっと暑いけどね」
「あっそうか、ごめん、汗かいちゃうね」
「いいわよ、あなたの驕りだから」
劉は微笑んで神崎に答えた。
タクシーが市街に入ると、劉は運転手に「停車」と声を掛けた。
二人がタクシーを降りて市街を歩き始める。
「うわっ、結構な街だな、デパートまであるのか……」
神崎は辺りの景色を珍しそうに眺めながら通りを歩いた。
石路の街は活気に溢れ、若者達はカップルで週末のデートを楽しんでいる。ヨーロッパ系の外国人観光客も結構歩いているし、日本人観光客の姿もちらほらと見える。街には電気街、デパート、映画館、土産品の専門店、古民家、水路、小橋があり、運河のほとりにある古い建物はレストランやカフェバーに改装されて独特の雰囲気を漂わせている。
神崎と劉は石路商業区の中心街を抜けて、水路沿いにある古民家の裏通りを歩いた。
裏通りには昔ながらの土産屋が立ち並び、店の軒先には中国の茶道具、書、掛軸、陶器など、歴史を感じさせる物品が置いてある。裏道をしばらく歩いて通りの突当りまで来ると、左側に《火鍋》と書かれた看板が見えた。右側は水路の船着場で行き止まりになっている。
「ちょっと待ってね」
劉が船着場にある遊覧船の時刻表を見る。
「十九点四十分、這箇好、六十八元」
※十九時四十分、これがいい、六十八元。
神崎が劉の後ろから時刻表を覗き込むと、彼女は振り返って神崎に話し掛けた。
「ねえ、食事したら、これに乗らない?」
「えっ、船?」
「ええ、遊覧船よ」
「それは、いいね」
「じゃあ、チケットを買うから、二人で百三十六元ね」
「あはは、分かったよ」
劉が右手を差し出すと、神崎は笑って二百元を劉に渡した。
(この娘、お金はキッチリしているな……)
劉は遊覧船の係員に二百元を渡してチケットを購入すると、お釣りを神崎に返した。
「火鍋屋さん、あそこだろう」
「そうよ」
神崎と劉は船着場を離れて火鍋屋の中に入った。
「歓迎光臨!」
※いらっしゃいませ!
店員が二人に威勢よく声を掛ける。
店の中は大勢の客で賑わっている様だ。
劉が店員に話し掛けると、店員は二人を二階に案内した。
階段を歩いて二階に上がると、二階も結構な賑わいで、外国人観光客の姿もちらほらと見えた。
「うわっ、二階も大盛況だね」
「この時間はいつも一番混むの、みんな家族で食事に来るから」
神崎と劉が席に着くと、店員が火鍋をセットして、ワゴンで具材を運んで来た。
「あなた、何食べる? 私はこれとこれと……」
劉がワゴンから好きな物を取ってテーブルに並べると、神崎も具材を見て好きな物をテーブルの上に並べた。
「お酒飲む?」
「そうだね、ビールを飲もうか、君も飲めるかな?」
「ええ、ビールなら飲めるわよ」
神崎は別のワゴンからビールの大瓶をとって、劉のグラスにビールを注いだ。
「それじゃあ、乾杯ね」
「いいね、乾杯」
劉は神崎のグラスに自分のグラスをカチンと合わせると、ビールを少し飲んでから具材を次々と火鍋の中に放り込んだ。
「赤色のスープは結構辛いわよ、気を付けてね」
「本当だ、こりゃ辛いや、でも美味しいね」
「そうでしょう、この店は観光ガイドにも載っていて人気があるのよ」
劉はそう言うと、また具材を火鍋に放り込んだ。
結構な食欲だ。
「私ね……」
彼女は火鍋を食べながら身の上話を始めた。
劉麗姫は見かけによらず素直な娘で、自分が中国の片田舎で育った事や、姉の劉麗華が大変苦労して大学に入った事、親が貧乏で自分は大学に行けなかった事など、プライベートな事を色々と話してくれた。神崎も自分が貧乏学生だった事や、三流会社に自ら希望して入社した事など、普段、会社の仲間には話さないプライベートな事を劉に話した。
「あはは、あなた良い人ね、日本人じゃないみたい」
「それ、どういう意味だよ……」
「うちのホテルに泊まる日本人のお客さんって、良い印象が無いのよ」
「そうかい、日本人の印象ってそんなに悪いの」
「まあ、中には良い人もいるけどね、あまり好きじゃないわ。あなたは別だけど」
劉はそう言うと、神崎の顔を見つめた。
「ねぇ、真田さんって、いい人?」
「えっ、CMD社の真田さんかい?」
「そう、その人」
「ああ、いい男だよ、天才だし、男気もあるしね」
「そうなの」
「そうさ」
「じゃあ、私の兄になっても大丈夫ね」
「えっ、何それ?」
「だって、あの二人は仲がいいもの、ただの仲じゃ無いわね」
「まあ、真田さんは麗華さんが好きだけどね。でも、麗華さんは結婚まで考えているかな」
「あら、うちの姉は、やり逃げする様な女じゃないわよ」
ぶっ!
神崎が飲みかけのビールを思わず吹き出す。
「何処で覚えたの、その言葉……」
「ホテルのお客さん」
「やっぱり、印象悪いな……日本人」
「あなたも、私と、やり逃げする?」
「へっ?」
「うふふ、冗談よ、バカね」
劉は少し微笑むと、悪戯な視線で神崎を見つめた。
――午後七時四十分。
日が暮れて夜のとばりが下ると、石路のあちらこちらに黄色い照明が灯った。
二人は船着場で小さな遊覧船に乗り込むと、四人掛けの席に足を伸ばして座った。
係員が遊覧船を足で蹴って運河の水路に滑らせると、船尾のディーゼルエンジンが動き出して、遊覧船は前方に向かってゆっくりと進み始めた。城壁、庭園、小橋などがライトアップされて、その光が川面に美しく映り込んでいる。遊覧船から見る夜の蘇州の街は綺羅びやかで幻想的な風景だ。船内には中国の民謡音楽が静かに流れている。
「蘇州の夜景ってこんなに綺麗だったんだ」
神崎が川沿いの夜景を眺めて感嘆する。
「蘇州の夜景がこんなに綺麗だったなんて、私も知らなかったわ、街の明かりがとても綺麗ね」
神崎が遊覧船のガラス窓を開けると、外から涼しい風が船内に流れ込んだ。
二人は遊覧船から蘇州の夜景をしばらく眺めた。
「ねえ、神崎さん」
「えっ」
「姉の事、よろしく頼みますね」
「ああ、麗華さんの事だね」
「姉は苦労しているから、絶対、幸せになって欲しい」
「真田さんなら大丈夫さ、君のお姉さんはきっと幸せになれると思うよ」
「あなた優しいわね、モテるでしょ」
「まあ、ちょっとだけね」
神崎が船外の景色を眺めて微笑むと、劉は熱い視線で彼の横顔を見つめた。