第二十一章 情報セキュリティAAAAA
――土曜日。
神崎が蘇州新光技術工業有限公司の二階事務所でPCのモニター画面を眺めている。
新光技術工業社は週休二日制で土曜日は基本的に休みだが、神崎と深淵の二人が休日出勤で出社している。石川は田町と相川を連れて蘇州の市内観光に行ったので今日は居ない。
神崎のPCはインターネット回線経由で蘇州OSLED有限公司のPCに接続されている。OSLED社とCMD社は外部記録媒体での技術情報持ち出しを禁止しているので、新光メンバーは各工場にあるPCからリモート接続でOSLED有限公司の技術サーバーにアクセスする事を許可されている。
「精度〇・九二ミクロン、Cp値一・六八で正規分布、よし、接合精度はOKだ。折り曲げ試験の結果も問題無し。熱衝撃の加速試験は……ありゃ、エックス線観察の結果がNGか? 導電性熱硬化型樹脂が剥離しているな……これは問題だ」
※Cpは工程能力指数の事。製品の加工ばらつきの度合いを示す。Cp値が一・三三以上であれば、まずまずの出来栄えと言える。
※熱衝撃の加速試験とは、高湿環境下で前処理した製品に高低温の熱ストレスを与える試験の事。
神崎は頭の上で手を組むと、事務所の天井を見上げて、ふうっと小さく息を吐いた。
「どうしました? 神崎さん」
深淵が斜め向かいの席から神崎に声を掛ける。
「いや、有機IC接合評価の結果なんですけど」
「あっ、あれ、どうでしたか?」
「接合精度と折り曲げ試験は問題無しなんですが、熱衝撃の加速テストで導電性熱硬化型樹脂が剥離して評価結果がNGなんですよ」
「えっ、どれですか? あっ、これですね」
深淵は席を立って神崎のPCのモニター画面を覗き込むと、有機ICの接合欠陥ポジションを指差した。
「そうです。このポジションです」
「なるほど、このポジションに応力集中が起こるわけか、これは設備や接合プロセス条件の問題じゃなくて材料に問題が有りますね」
「そうなんですよ、導電性熱硬化型樹脂材料が問題です」
「しかし、随分と派手に剥離してますね、こりゃ、有機ICの接合は予想以上に厳しいですよ」
「ええ、とても厳しいですね。即在の熱接合技術は使えそうにありませんし、接合材料も要素開発からやり直しです」
二人は腕を組んでPCのモニター画面を見つめた。
――午後十二時。
「神崎さん、そろそろ昼飯にしましょうか」
深淵が神崎を食事に誘う。
「えっ、もうお昼ですか?」
「ええ、十二時ですよ」
「あっ、本当だ」
神崎は腕時計で時間を確認すると、PCのモニターのスイッチを切って椅子から立ち上がった。
二人が事務所のドアを開けて二階の通路を一緒に歩く。
最近、蘇州新光技術工業有限公司の建屋の二階に、同社の最新評価設備が次々と搬入された。大半はOSLED社とCMD社向けの設備だが、外部の受注設備も何台か在庫が置いてある。新光技術工業社はCMD社と技術提携を結んでから会社の知名度が上がり、OSLED社との技術提携後は会社のブランド価値が更に上がっている様で、株式は東証一部上場を果たして一流ブランドの地位を築きつつあった。会社の経営は今や飛ぶ鳥を落とす勢いだ。
「神崎さん、この建屋の二階も随分と狭くなって来ましたね」
「ええ、深淵さん、最近、うちの評価装置はよく売れていますからね」
「この調子だと、もう一棟、建屋が必要ですよ」
「そうですね、たった一ヶ月で二階のスペースが殆ど無くなりましたからね」
神崎はパーテーションの窓越しから出荷前の評価装置を眺めた。
二人が二階の階段を降りて一階にある小さな食堂に入ると、中国人スタッフの姿がちらほらと見えた。彼等の皿には食べ切れない程の御飯が盛ってある。
「すみません」
「你好! 神崎!」
※こんにちわ! 神崎!
神崎が食堂の厨房を覗き込んで声を掛けると、小娘が振り向いて神崎に威勢よく挨拶をした。
「あれっ? 平平ちゃん? この食堂で何してるの?」
「工作!」
※仕事!
「あっ、そう言えば、食堂の業者が変わるとか岡田さんが言ってたな……夕日屋だったのか」
「腹減ったか! 神崎!」
「あはは、はいはい、お腹が減りました」
平平が食堂の皿を調理用のスプーンでコンコンっと叩くと、神崎と深淵は顔を見合わせてゲラゲラと笑った。
「今日の鳥肉は美味しいぞ」
平平が山盛りの御飯と鶏肉料理を皿に載せて二人に渡す。
「平平ちゃん、ありがとね」
「どういたましてー」
「あはは、平平ちゃんは面白いな」
平平が言葉足らずの日本語を話して厨房でペコリと頭を下げると、二人は腹を抱えてまたゲラゲラと笑った。
――午後三時。
深淵が仕事を片付けて帰り支度を始める。
「深淵さん、今日も按摩ですか?」
「そうそう、これですよ、神崎さん」
深淵は両手の親指を立てて按摩の仕草をしながら神崎に答えた。
「中国式マッサージは気持ちいいですよ、一緒にどうですか?」
「あっ、いいですね。でも、今日はもうちょっと頑張ります」
「そうですか、それじゃ、お先に失礼します」
深淵が事務所のドアを開けて先に退室すると、神崎は振り向いて業務報告を書き始めた。
――一時間後。
神崎は業務報告書がまとまると、事務所の天井を見上げて、ふうっと小さく息を吐いた。
「よし、出来た。今日はこれ位にするか、業務完……んっ?」
電子メールに業務報告書を添付して送信ボタンを押すと、神崎は「業務完了」と言い掛けたが、途中で言葉を止めた。
メールを送信した瞬間に、二件の電子メールが同時着信したからだ。一件は真田からで、もう一件は結城からだった。
神崎は最初に真田のメールを開いた。
真田のメールには暗号化処理された電子ファイルが添付されている。メールを読んでみると、《来週の月曜日に新しい有機ICサンプルを届ける》と書いてあった。添付ファイルを暗号キーで開いて内容を確認すると、それは有機ICの設計図だった。配線図に電極端子の補強ランドが記載されている。
「あっ、電極端子に補強ランドを入れたのか……」
メールには石川の評価速報を受けて電極パターンの改善を行ったので、接合強度は二倍になるだろうと書いてあった。
「さすが真田さん、仕事が早いや……」
神崎は真田のメールを読み終えると、続けて結城のメールを開いた。
結城のメールにも暗号化処理された電子ファイルが添付されている。メールには《新しい有機ICサンプルが来週届くので接合試作を行う》と書いてあり、メール文の最後に《添付資料は最高機密資料に付き取り扱い注意》の警告文が記入してあった。添付資料のファイルネームは《産業用KAKUREMINO》だ。
「産業用KAKUREMINO? 最高機密資料?」
神崎は首を傾げて、添付ファイルを暗号キーで開いた。
添付ファイルの内容を確認してみると、有機ELパネルの設計図が四十八枚記載されていて、設計図の右上には赤色で《極秘情報》と電子検印してあった。情報セキュリティクラスはAAAAAだ。
「情報セキュリティクラスAAAAA? AAAAより、まだ上があったのか……」
神崎が小さな声で呟きながら、また首を傾げる。
設計図を順番に確認して見ると、有機ELパネルのデザインは全て変形した歪な形状で、即在の映像規格サイズの物は見当たらなかった。
神崎が設計図を一枚一枚チェックして最後のページを開くと、そのページはパネルの組立図だった。
「あっ、何だこれ、立体パネルじゃないか! これは光学迷彩服の設計図だ!」
神崎はPCのモニター画面を見つめながら、思わず大きな声を上げて驚いた。