第十六章 蘇州OSLED有限公司
――一ヶ月後。
石川が銀色に輝く工場棟を眺めながら左から右に大きく首を振る。
「しかし、この工場は大きいですね」
「そうだな、工場棟の長さが二百メートルもあるからね」
神崎は真夏の強い日差しを右手で遮りながら、蘇州OSLED有限公司の工場棟を眺めた。
蘇州OSLED有限公司には五つの工場棟がある。それぞれの工場棟の大きさは、高さ三十メートル、幅百メートル、長さ二百メートルで、工場棟の側壁には蘇州OSLED有限公司のロゴが青色で大きく表示されている。高麗芝生で覆われた工場の敷地面積は蘇州CMD有限公司に勝るとも劣らない広さだ。
神崎は保安所で入門記帳にサインをすると、蘇州OSLED有限公司の敷地を歩いて、工場棟の裏側にある従業員玄関のキーボックスにセキュリティカードをかざした。すると、キーボックスの照合サインがグリーンに変わってガラス張りの自動ドアが開いた。
二人は工場の中に入ると、玄関で上靴に履き替えてから非常階段を上って二階フロアーの中央通路を一緒に歩いた。
「あっ、深淵さんだ!」
石川が通路の左側にあるクリーンルームのガラス窓を指差す。
深淵はクリーンルームの中で組立設備の原動配管工事に立ち会っている様だ。
蘇州OSLED有限公司は次世代有機ELパネル開発の為に五棟目の工場棟を完成させて、最新鋭の製造装置や検査装置を次々と工場に搬入している最中で、深淵は蘇州OSLED有限公司から次世代有機ELパネルの製造に関わる施設設計、及び、組立設備設計の技術支援を任されている。
石川がボールペンでクリーンルームのガラス窓をコンコンと軽くノックすると、深淵は振り向いて彼に手を振った。
「石川君、よく深淵さんが分かったね」
「深淵さんは、技術支援者を示す青色の腕章をしていますから直ぐに分かりますよ」
「そういう事か」
「大忙しですね、深淵さん」
「ああ、そうだな、有機ELパネルの製造装置と検査装置が次々と搬入されているからね」
二人は深淵に手を振り返して通路を進むと、途中で立ち止まって、右側のクリーンルームの中を覗き込んだ
通路の右側にある小サイズ汎用次世代有機ELパネルの組立工程は既に完成していて、クリーンルームの中ではRTR式の製造装置が稼働している。
※RTRとは、ロール状に巻いた基板に回路パターンを印刷し、封止膜等と張り合わせて再びロールに巻き取る手法。製造工程の自動化による大量生産が可能で、大幅なコストダウンを実現出来る。しかし、寸法精度が悪い等のデメリットも多くあり、適用する工程を絞り込む必要がある。
石川が腕を組んでクリーンルームを眺める。
「クリーンルームの作業者が多過ぎる様な気がするな……」
「石川君、このクリーンルームはクラス一〇〇〇で設計されているらしいよ」
「クリーンレベルの悪化が歩留に即反映される世界ですからね、作業者の入室人数を制限しないとクラス一〇〇〇の意味が無くなります」
※歩留とは生産数に占める良品の比率を示す。歩留〔%〕=(良品数÷生産数)×一〇〇
「パーティクル対策が必要になりそうだね」
※パーティクルとは微細な塵の事。
「ええ、そう思いますね」
二人が議論を交わしながらまた通路を歩き始める。
――通路を更に進むと、突き当りに技術事務所が見えて来た。
入口のガラス窓には《制造技術部》《生産技術部》《質量控制技術部》の文字が印刷されている。
二人はキーボックスにセキュリティカードをかざして技術事務所の中に入ると、《技術開発支援部》と表示されたエリアに向かった。
技術事務所のデスクはじゅうぶんな間隔を取って配置されているので、居室は広々としていて開放感がある。各部署の境界にはパーテーションが無く、天井から吊ってある表示板がそのエリアの部署を示している。事務所の中には三十名程の技術スタッフが働いていて、日本人技術スタッフの姿も見える。
相川がデスクに座ってPCのモニター画面を眺めている。
「相川さん、おはよう御座います」
「あっ、石川さん、おはよう御座います」
「真理ちゃん、おはよう」
「おはよう御座います。神崎さん」
二人が挨拶をすると、相川は振り向いて二人に挨拶を返した。
「電極接合データーの解析は進んでいるのかな?」
石川が自分のデスクに鞄を置いて、相川のPCのモニター画面を覗き込む。
「ええ、順調に進んでいますよ。電極接合強度の加速試験もバッチリです」
「うわっ、いいじゃん! この劣化特性なら問題無しだね!」
石川はPCのモニター画面に表示された電極接合強度のデーターを見て喜んだ。
新光メンバーは蘇州OSLED有限公司の技術事務所に開発技術支援者としてデスクを構えている。蘇州OSLED有限公司の業務はIPLSIの接合技術開発が主業務で、開発技術提携規約により、新光メンバーはOSLED社の技術社員と同等の権限を持って仕事をしている。開発現場は情報セキュリティAAAの機密エリアで、新光メンバーはOSLED社の一般社員でも入れない開発エリアに入る事が可能で、機密情報が蓄積するコンピュターネットワークへのアクセスも許可されている。
「神崎さん、田町先輩は?」
「田町は遅れて来るよ、試作部材の調整でCMD社の方に行ってもらったんだ。たぶん、昼からこっちに来るけどね、何か用事があるの?」
「ええ、大した用事じゃ無いんですけど、『私のPCが時々フリーズする』って田町先輩が言ってましたから、見てあげようと思って」
「そうなの?」
神崎が振り向いて田町のデスクPCを見る。
「じゃあ、昼から確認してみます」
「真理ちゃんは情報処理のプロだからほんと助かるよ」
「いえいえ、滅相もない」
神崎が相川を褒めると、彼女は小さく手を振って神崎に答えた。
新光メンバーはCMD社のIPLSI開発にも携わっている為、蘇州OSLED有限公司と蘇州CMD有限公司の間を頻繁に往復している。両社は共に急ピッチで開発を進めているので大忙しだ。
「さてと」
神崎は窓側のデスクに鞄を置いて着席すると、デスクPCのスイッチを入れて仕事の準備を始めた。