第十五章 蘇州新光技術工業有限公司
――翌日の朝。
神崎はタクシーから降りると、会社の社門にみんなを集合させた。
「これがうちの会社っすか?」
「ああ、ここに社名が書いてあるから間違い無いだろう」
田町が会社の建屋を眺めて尋ねると、神崎は右手で看板を指差して彼女に答えた。
「敷地は結構広いけれど、建屋が小さいっすね」
田町の言葉に同調して、みんなが首を縦に振る。
会社の社門には《蘇州新光技術工業有限公司》と書かれた木製の看板が掲げてある。建屋は小さな二階建てだが敷地は結構な広さで、建屋がもう一棟建てられるだけのスペースがあった。
「それじゃあ、入ろうか」
神崎がみんなに声を掛けて歩き始めると、みんなは神崎の後に続いて保安所に向かった。
「早上好 我是神崎 我従日本来了」
※おはよう御座います。私は神崎です。私は日本から来ました。
神崎は日本の社員証を見せて中国語で保安員に話し掛けた。
「早上好 神崎部経理 辛苦了」
※おはよう御座います。神崎部長、ご苦労様です。
保安員が右手を上げて神崎に敬礼をする。
「請在這箇填写」
※これに記入をお願いします。
保安員がガラスの小窓を開けて入門記帳を神崎の前に差し出す。
「ええと、時間と氏名と訪問部署を記入するんですね」
「是的是的」
※そうそう。
入門申請が終わると、保安員はみんなに臨時のセキュリティカードを渡した。
みんなが保安員に頭を下げて会社の敷地に足を踏み入れる。
「神崎さん、いつの間に中国語を覚えたんですか?」
「石川君、中国語は全然だめだよ、挨拶だけさ」
「いやいや、結構なもんでしたよ」
「そうかい」
神崎は照れくさそうに石川に答えた。
神崎がセキュリティカードをキーボックスにかざしてガラス張りの玄関ドアを開くと、みんなは神崎の後に続いて玄関の中に入った。
「おはよう御座います」
「あっ、おはよう御座います」
中国人の女子事務員が頭を下げる。
「神崎部長様ですね」
「はい、神崎です」
「総経理秘書の李明英です。こちらへどうぞ」
「失礼します」
みんなは李が用意してくれた上靴に履き替えると、彼女の後に続いて会社の通路を歩いた。
「ねぇねぇ、石川ちゃん。彼女は『神崎部長』って言ったっすよね?」
「ええ、神崎部長で合っていますよ」
「神崎さんは、また出世したんっすか?」
「うちの会社の規定で海外駐在中は役職がワンランク上がるんですよ」
「そうなんだ、神崎さんは部長なんだ」
「そうですよ、田町さんも課長ですからね、自覚して下さいよ」
「えっ、私、課長なの?」
「日本の役職は技師ですけど、ここでは課長補佐ですからね」
「マジっすか、マジっすか、石川ちゃん、私、課長っすか」
「痛っ!」
田町が嬉しそうに石川の肩をバシバシ叩くと、石川は肩を窄めて顔をしかめた。
通路の左右にはパーテーションで区切られた部屋が幾つかあって、数人の社員達がデスクワークをしている。
李は通路の突き当りにある総経理室のドアをノックして開いた。
「岡田総経理、神崎部長がお見えになりました」
「おお、そうか」
「どうぞ」
「失礼します」
李が右手でドアノブを持って左手でみんなを総経理室に手招くと、みんなは一礼して部屋の中に入った。
「おお、久しぶりやな石川君」
「岡田さん、ご無沙汰しています」
「ほんまやな、三年ぶりか」
「ええ、そうですね」
「まあ、みんな座ってや」
岡田は石川の肩を軽く叩くと、右手を差し出してみんなを来客ソファーに座らせた。
「李ちゃん、コーヒー入れたって」
「はーい」
「みんな、ご苦労さんやな、ようこそ中国へ」
李がドアを閉めて総経理室を出て行くと、岡田は振り向いてみんなに労いの言葉を掛けた。
「製造工法開発ソリューション技術チームの神崎です。よろしく御願い致します」
「神崎君、君の噂は本社から聞いているぞ、CMD社の蓄電半導体製造工法を確立した天才技術者やな。CMD社との技術提携を成功させた君の功績は大きいで」
岡田が胸の前で手を組んで神崎に話し掛ける。
「いえ、とんでもない、岡田総経理、あの時は運が良かっただけです」
「たとえ、運が良かったとしても、運も実力のうちや、君はいい仕事をしたな」
「ありがとう御座います」
「今回も君には大きな期待が懸かっとるさかいな、頼むで」
「はい、頑張ります」
「よっしゃ、ほな、まずは駐在メンバーの紹介をしてくれるか、神崎君」
「はい、今回の駐在メンバーは深淵進、石川智樹、田町由香里、相川真理、そして、私、神崎龍人の五名です。深淵進は設備設計開発担当、石川智樹はプロセス要素技術開発担当、田町由香里は開発企画担当、相川真理は評価データ解析担当、そして、私、神崎龍人が技術総括を担当致します」
メンバー紹介が終わると、今度は岡田がソファーから立ち上がって自己紹介を始めた。
「私は総経理の岡田将生や、上海工場からの転任で、総経理経験三ヶ月の青二才やさかい、みんな、よろしく頼むで」
岡田は自己紹介を終えると、みんなの顔を見てニコッと笑った。
彼は五十歳を過ぎているが、童顔で子供の様な顔をしている。
「コーヒーが入りました」
「おお、李ちゃん、ありがとう」
李がコーヒーを持って部屋の中に入って来ると、田町と相川は席を立って彼女を手伝い始めた。そして全員にコーヒーが配られると、岡田はみんなとしばらく雑談を交わした。
「僕は石川君と上海で一緒に仕事をした事があるんや」
「そうなんですよね、上海では岡田さんに随分と助けてもらいましたよ」
「そうだな、昼も夜もな」
「あっ、岡田さん、夜の話は勘弁して下さいよ」
「えっ、何っすか? 石川ちゃんの夜の武勇伝っすか?」
田町が興味津々な顔付きで岡田に尋ねる。
「あっ、内緒ですからね、岡田さん!」
「あはは、分かった、分かった、石川君」
「そう言われると、余計に聞きたいっすね」
石川が岡田に右手を振って頼むと、田町は目を細めて石川の顔を覗き込んだ。
――しばらくして。
雑談が終わると、みんなは部屋を出て岡田と一緒に工場見学を始めた。
「一階は営業部とセールスエンジニアリング部で、社員数は十五人、全員中国人技術スタッフや」
岡田は一階にある部屋の説明をしながら中央通路を進んだ。そして、玄関横の階段を登って建屋の二階に上がった。
二階の部屋はガランとしていてフロアーに業務用デスクが並べてある。そして、業務用デスクの上にはデスクトップ型のPCが設置されていて、ネットワークケーブルがデスク横のサーバーらしき機器に接続されている。
「二階の部屋が君たちの技術事務所や」
「ここっすか、何も無いっすね」
「田町さん、広いやろう。二階は全部、君達の部屋や」
「えっ、建屋の二階を全部使っていいんっすか」
「そうや、まあ、こんなに広いのは今のうちだけやけどな、一ヶ月後には新光技術工業社の最新評価設備が次々と入荷されるさかい、ちょっと狭くなるで」
「いいかも、うん、全然いいっすね、特に問題無し」
田町は業務用デスクの椅子に座って、楽しそうに椅子をくるくると回した。
「あっ、岡田さん、あれ、蘇州CMD有限公司っすか?」
「ああ、そうや」
「蘇州CMD有限公司って、こんなに近かったんっすね、知らなかったっすよ」
田町が椅子から立ち上がって、南側の窓の外を眺める。
「南側に見えるのが蘇州CMD有限公司、そして北側に見えるあの工場が蘇州OSLED有限公司や」
「えっ、蘇州OSLED有限公司も見えるんっすか?」
田町が振り返って北側の窓を眺める。
「この工場は蘇州CMD有限公司と蘇州OSLED有限公司の中間地点に建てたんや、君たちの為にな」
「マジっすか、岡田さん」
「マジやで、田町さん」
田町の問い掛けに岡田が答えると、みんなは会社の北側にそびえ立つ蘇州OSLED有限公司の大工場群を二階の窓から眺めた。