濡れ衣の女船頭は舟を失いますが、水路役人は私を妻に選ぶそうです
「差し押さえまで残り七日」
監督官の声は、増水を知らせる鐘よりよく通った。
七日後の正午、私は母から継いだ渡し小屋と舟二艘を差し押さえられる。仕事と寝床を一緒に失うのだから、なかなか効率がいい。川より先に陸のほうが私を沈めに来たらしい。
「確認を。渡し小屋一棟、係留中の渡し舟二艘。正午に舟札と小屋の鍵を受領します」
「母の寝台は?」
「レーカ、寝台はあなたの私物です」
「では安心して路上生活に持ち込めますね」
水路監督官ヘールトは笑わなかった。三十一歳、濃灰色の外套には泥染み一つなく、黒髪も朝から腹立たしいほど整っている。
私は通知書を受け取った。紙の角が親指へ食い込む。
前年の沈没事故で生じた賠償を払えないため、領主家名義の渡し場を回収する。私が三季分の水位帳を差し出し、事故当日の限界積載量も、出航確認後に増えた荷の重さも示したところで、差し押さえそのものは止まらない。
帳面は汚名を剥がせても、舟の所有権までは生やしてくれない。紙にはそこまでの親切心がなかった。
「前年の事故も、お前の判断で沈んだんだ」
報告書を出したボグラールカはそう言った。
私が拒んだ粉袋六つを、確認印のあとで積ませたのは彼だ。助手のイロナは見ていたが、家族全員の給金を握られて口を閉ざした。私は乗客を全員岸へ上げた。それでも残ったのは、判断を誤った女船頭という便利な札だった。便利な札は強い。人間より剥がしにくい。
ヘールトの長い指が、机の端に置いた水位帳を開く。三季分のどの綴じ紐がどの月か、彼はいちいち私に聞かない。朝夕の実測値、その日の流速、乗客の確認印。私の文字を、私より迷わず扱う。
「帳面と証言による事故報告の訂正手続きは続行します。しかし、差し押さえとは別件です」
「承知しています。監督官は法令に忠実。川は水位に忠実。人間だけが荷をこっそり増やす」
「その件も調べます」
彼は通知書から顔を上げた。
「もう一件、返答を確認します。先日の申し出は、役所への勧誘でも、渡し場の共同経営でもありません」
「はい」
「同情でもありません」
「そこまで念を押されなくても、求婚だと理解しています」
「七日後の正午に、返事をいただける」
「差し押さえの完了後に」
「なぜ同時刻なのです」
「舟を持っている私と、持っていない私では、答えの重さが違いますから」
ヘールトは通知書を鞄へ戻した。求婚のほうを引っ込める気配はない。この男、役所の書式より融通が利かない。
私は係留柱へ向かった。舟底を確かめ、櫂のひびを撫で、水位帳の新しい一枚へ朝の目盛りを書き込む。差し押さえまでの七日間も川は働くし、私も働く。
「正午までは、私が渡します。」
* * *
差し押さえまで残り三日。
衣類を詰めていた木箱の蓋を、私は勢いよく閉じた。入っているのは冬服二着、替えの靴、鍋。入っていないのは今着ている服と、今履いている靴と、昼食。生活は箱一つに収まるくせに、昼食だけは別枠で要求してくる。
「上流で四目盛り増し!」
戸口へ飛び込んだイロナが、息を切らしながら叫んだ。
「一刻前は二目盛りでした。薬師から対岸へ薬箱が五つ、待っている乗客は八人、うち子ども一人です」
数字だけは転ばない。私は荷造り用の縄を解き、木箱ではなく薬箱へ掛け直した。
「通常便は六人。二人は次便へ。薬箱は船尾に三、中央に二。先に薬を渡して、戻りに測深する」
「私物は?」
「服は腐らない。薬は必要な日に届かなければ、ただの高価な箱よ」
川面は昨日まで愛想よく光っていたくせに、今日は濁った額に青筋を立てている。機嫌の悪い川へ「八人くらいいいでしょう」は通じない。あれは聞く耳どころか耳そのものがない。
待つことになった二人へ事情を告げると、荷運び人が薬箱を抱え直した。
「また客を減らすのか。儲からんぞ」
「沈んだ客から往復料金を取れるなら考えます」
「取れたら怖いわ」
六人を低い腰掛けへ均等に座らせ、薬箱を油布で包み、左右の喫水線を指二本分ずつ確かめる。舟首を上流へ振ってから係留綱を解いた。
濁流は横腹を押した。櫂を深く差す。一度目は流れを受け、二度目で舟首を戻す。薬箱は一つも鳴らない。それでいい。薬は乗客より静かだが、濡れたときの苦情は薬師のほうが長い。
対岸で五箱すべてを乾いた板敷きへ下ろし、受領印をもらった。戻ると、ヘールトが長靴姿で測深縄を持っていた。
「監督官、その靴なら膝まで沈んだところで改心できます。川底まで行く必要はありません」
「職務に改心は含まれません」
「泥に片足を取られてから、同じ台詞をお願いします」
彼は本当に泥へ入り、私が打つ浅瀬標の脇で縄を垂らした。膝下まで沈みながら、目盛りを正確に読み上げる。遠巻きの荷運び人たちが「役人が漬かった」「塩を振るか」と騒いでも眉一つ動かさない。笑えば負けだと思っているらしい。すでに長靴は負けている。
測定後、彼は乗客確認印を一つずつ集めた。人数、薬箱の数、出航前の水位。あとから書き足せないよう、私と彼の印で欄を閉じる。
「荷造りを手伝いましょうか」
「求婚者として?」
「求婚者としてです」
「返事はまだです」
「知っています」
好意を仕事の話へすり替える逃げ道を、彼は毎回きっちり塞いでくる。几帳面な男は恋をすると厄介だ。未回答欄を空白のまま保存し、期限まで毎日見回りに来る。
私は濡れていない薬箱の受領票を帳面へ挟んだ。
「正午までは、私が渡します。」
* * *
差し押さえまで残り一日。
夜半、浅瀬標が一本流された。
川はとうとう机を蹴って立ち上がった酔客のようになり、岸を削り、係留柱を揺らし、暗闇の中で何か大きなものを転がしている。
「形見箱を先に取りましょう」
イロナが渡し小屋を振り返った。
母の櫛と、古い舟札と、私が初めて一人で渡した日に母がくれた銅貨が、寝台下の箱に入っている。朝には荷車へ載せるつもりだった。
けれど、川面にあるべき浅瀬標の白い頭が見えない。
「縄と杭を。標を打ち直す」
「箱は明日の朝でも」
「朝一番の舟が出る前に水位がもう二目盛り増えたら、道を取り違える」
私は小屋へ背を向けた。
母の箱は、私が戻れば待っている。川は待たない。待たないものから片づける。それが船頭だ。
腰へ命綱を巻き、予備の標杭を肩に担いだ。イロナが岸の木へ綱を二重に掛ける。膝まで水へ入り、長竿で川底を探った。一歩。石。次は泥。流れが腿へぶつかり、身体を横へ持っていく。
「もう少し右!」
「右は深い。綱を一尺出して」
「一尺!」
数字の声が夜を切る。
浅瀬の縁へ杭を立て、木槌を三度、四度、五度。掌が痺れた。六度目で杭の震えが川底へ食い込む。標の白布を結び終えたとき、小屋の窓明かりは背後で小さくなっていた。
私は振り返らなかった。
翌朝、時報まで五刻。
増水は止まっていなかった。私が通常便を休止すると告げた直後、ボグラールカが客を十二人集め、連れてきた船頭にもう一艘の渡し舟を桟橋へ着けさせた。
「皆さん、心配はいりません。この渡し場は本日も安全です」
客へ向ける声は蜂蜜を塗ったように甘い。
「水位が限界です。十二人なら荷は手荷物まで。粉袋は次便へ回してください」
私が言うと、彼の口元だけが固まった。
「確認は済んだ。お前は余計な口を挟むな」
使用人へ向ける声には、蜂蜜の壺ごと虫が落ちたらしい。
ヘールトは当日の水位記録へ測定値を書き、乗客十二人の確認印を集めていた。積載欄は、乗客十二人、手荷物八、粉袋なし。私とヘールトが閉鎖線へ印を押す。
「この水位では、それ以上は載せられません」
ヘールトが告げると、ボグラールカは両手を広げた。
「もちろんですとも、監督官。私は安全を何より重んじております」
その笑顔のままヘールトが上流標の確認へ離れるのを待ち、彼は荷運び人へ顎をしゃくった。
「粉袋を六つ積め。船尾だ。急げ」
「差配人、記録には——」
イロナの声が細くなる。
「給金を受け取っている者が、誰へ口答えしている」
粉袋が一つ、二つ、船尾へ載った。舟板が沈む。三つ、四つ。確認を終えた乗客たちは、何が増えたのか見えない。五つ目で船尾の喫水線が水面へ触れた。
六つ目を持ち上げた荷運び人の腕を、私は掴んだ。
「下ろして」
「運べたなら私の差配、沈めば船頭の腕だ」
ボグラールカは小声で言い、私の指を一本ずつ外した。六つ目が船尾へ載せられた。
係留綱が解かれた。
舟首が流れへ出る。船尾が深い。深すぎる。右舷へ寄せた粉袋のせいで、乗客が一人身じろぎするたび舟腹が水を舐める。
「戻して!」
船頭が舵を切った。遅い。増水した本流と岸際の戻り流がぶつかる場所へ、重い船尾を先に取られた。
舟が横を向く。
私は小舟の係留綱を外した。
「レーカ、待ってください!」
戻ってきたヘールトの声がしたが、もう舟を蹴り出している。待てるものなら待った。待って川が反省文を出すなら、便箋も貸す。
「岸綱を下流の杭へ! 荷運び人は六人、綱を持って走って! イロナ、乗客名簿を守って!」
小舟へ飛び乗り、櫂を右へ深く入れた。
正面から追えば、こちらも横腹を取られる。上流へ一度張り出し、舟首を斜め下流へ落とす。濁流が小舟を加速させた。流された舟の下流側へ回り込む。近い。まだ遠い。子どもの叫びが風を突き抜けた。
曳き綱が水面を蛇のように跳ねている。
一度目、櫂の先が弾かれた。
二度目。身を乗り出し、櫂を綱の輪へ差し込む。肩が抜けそうな重さで腕が引かれた。膝を舟板へ押しつけ、櫂を捻る。綱が絡みつく。
「取った!」
岸で誰かが吠えた。
私は綱を小舟の杭へ掛けなかった。あの重さを掛ければ、この舟が先に裏返る。腕で引き寄せ、二艘の距離を詰める。波が小舟へ入り、足首を冷たく殴った。
傾いた渡し舟の舷へ手を掛ける。
「動かないで! 立った人から川へ落ちます!」
説得としては少々物騒だが、十二人が一斉にしゃがんだ。よし。恐怖は扱い方次第で優秀な助手になる。
小舟を横づけし、小舟の船首綱を渡し舟の船尾杭へ一巻きした。波が二艘を寄せた瞬間に渡し舟へ移った。右足、両手、左膝。船尾の粉袋が水を吸い、積んだときより一回り膨れている。
「子どもを中央へ。歩けない方も床へ伏せて。ほかの方は低いまま左へ半歩!」
「荷はどうする!」
「粉は泳げません。諦めさせます」
袋を縛る縄へ小刀を入れた。一つ目。濡れた麻袋は人一人より重い。肩を当て、舷まで転がす。舟が右へ傾く。
「今、左へ!」
乗客が動く。私は袋を押し落とした。
水柱が上がり、舟底が一度跳ねた。右舷が指一本分浮く。
二つ目は底へ貼りついていた。縄を切り、両腕を回し、腿で持ち上げる。腰が悲鳴を上げた。あとで聞く。今は却下!
袋を舷へ落とす。波が来る。
「伏せて!」
袋ごと水へ押し出した。傾きが戻る。
「残り四袋を、縄で中央へ引いて!」
低く伏せた乗客たちが二人ずつ縄を取り、袋を中央へずらす。捨てすぎれば急に軽くなり、今度は流れに跳ねられる。
船頭が舵柄へしがみついていた。
「舵が割れています!」
根元に亀裂が走り、動かすたび裂け目が開く。
「長竿を!」
受け取った竿を船尾左側へ差した。川底へ届かない。もう一度、浅瀬標の白布を見る。昨夜打ち直した標が、濁流の向こうで揺れている。
あそこだ。あの左側だけ底が高い。
「全員、中央! 岸から綱が来ます。引かれても立たないで!」
竿を深く突き、身体ごと押した。先端が石を噛む。渡し舟の船首が少しずつ浅瀬標へ向く。
一度。
竿を抜く。流れが戻そうとする。
二度。
掌の皮が滑った。握り直す。
三度目で船首が流れを切った。
岸からヘールトが走ってくる。外套を脱ぎ捨て、腰へ綱を巻き、荷運び人たちと一列になっていた。完璧だった朝の黒髪は額へ貼りついている。長靴はとうに泥へ沈んでいた。今度こそ改心に適した深さだが、笑うのはあとだ。
「綱を投げます!」
「船首の輪へ!」
投げ綱が風を裂く。私は長竿を脇へ挟み、輪を掴んだ。船首杭へ二重に回す。
「引いて!」
六人の荷運び人とヘールトが背を倒した。綱が張る。舟首が岸へ寄り、流れが船尾を押す。私は長竿で浅瀬から外れないよう支えた。
一尺。
半尺。
泥底が舟を受けた。
「今! 子どもから!」
岸の男が水へ入り、子どもを抱き上げる。次に歩けない乗客。残りの十人を一人ずつ、綱を伝わせて下ろした。
十二人目の靴が岸の石へ乗ったところで、私の指から長竿が落ちた。
ヘールトが水を掻き分けて来た。私の腕を掴み、浅瀬へ引き下ろす。
「負傷は」
「腰と手と、監督官の長靴に同情しています」
「後者は不要です」
「では二か所」
声を出した途端、膝が笑った。私はその場へ座り込んだ。濡れた乗客たちが、毛布を被ったまま口々に叫ぶ。
「船首を戻したのはレーカだ!」
「あの粉袋だ、途中で載せていた!」
「立つなと言われなければ、全員ひっくり返ってたぞ」
「粉は泳げないそうだ!」
そこを証言の中心にしなくていい。
イロナが名簿を胸へ抱えて走ってきた。唇は白かったが、指は動いている。
「乗客十二人、全員です。確認印も十二。水位記録の閉鎖時刻は朝二刻、粉袋の搬入はそのあとです」
彼女は乗客一人ずつに名を確かめ、濡れていない証言欄へ印を集め直した。それから書記の机へ向かい、自分の名を署名欄へ書いた。
「ボグラールカ様が、確認後に粉袋六つを積ませました」
「イロナ」
呼ばれた少女の肩が跳ねる。
ボグラールカの声は、私へ命じたときより低くなった。だが、ヘールトが当日一枚の水位記録を持って横へ立つと、語尾が急に痩せた。
「その娘は混乱しているのです。私は安全を重んじて——」
「運べたならあなたの差配、沈めば船頭の腕、でしたね」
さきほど腕を掴まれた荷運び人が言った。
乗客たちの視線が集まる。客前用の笑顔を探したらしいが、ボグラールカの顔にはもう在庫がなかった。
「私は、利益を守るために通常の範囲で指示を」
「前の事故の日も、後から荷を増やされました」
イロナの声は震えていた。数字を言うときと同じ速さで続ける。
「粉袋六つ。レーカさんが三度断りました。私は見ていました。家族の給金を止めると言われて、前は署名できませんでした。今は、自分の名で証言します」
私は立ち上がり、彼女の署名を見た。
「怖くて黙ったことと、沈めると知って命じることは同じじゃない」
イロナの喉が上下した。
「書き直せるところから書き直しなさい」
「はい」
ヘールトは当日の水位記録を掲げた。朝の水位、許容積載、乗客十二人の確認印、粉袋なしと閉じられた欄。今日のことには、その一枚で足りた。私の水読みは誤っていない。確認のあとで荷が増えた。前年については、イロナの署名が同じ命令を記録した。
ボグラールカは記録へ手を伸ばしかけ、二人の書記に両脇を塞がれた。
ああ、実に見やすい。長い帳面より、追い詰められた男の手は雄弁だ。
役所の鐘が鳴った。
一打。
正午。
川も人間も待たせられても、時計だけは買収できなかったらしい。
書記が濡れていない書類を開く。
「定刻につき、渡し小屋一棟、係留舟二艘の差し押さえを執行します」
私は小屋の戸口に立った。
寝台下には、母の形見箱が残っている。取りに戻る時間はもうない。机の水染み、壁の櫂掛け、母と交代で眠った狭い寝台。触れれば何かが剥がれそうで、中へは入らなかった。
鍵を外す。
外へ出ると、ヘールトは監督官の外套を着直していた。泥だらけで、裾から水を垂らし、それでも役人の顔をしている。
「鍵を」
「はい」
私は彼の掌へ置いた。
次に二艘の舟札を係留柱から外す。母の名から私の名へ継いだ札だ。金具が冷たい。二枚とも書記の封筒へ入れ、封蝋が押される。ヘールトが受領欄へ署名した。
渡し小屋の扉にも封印紙が貼られた。
予告されたものが、予告どおり失われる。それだけなのに、息を吸う場所が見つからない。
「鍵はお渡しします。舟札も」
声が掠れた。
「けれど、今日ここにいた十二人が帰れたことまで、あの人の手柄にはさせません」
「させません」
ヘールトは監督官の印章を鞄へ収めた。
「あなたの判断で、今日も十二人が帰れた。あなたは水位を測り、荷を見て、舟を出し、全員を岸へ戻した。前年も、あなたは沈めた人ではなく、帰した人です」
お前の判断で沈んだ。
胸の中へ打ち込まれていた言葉の上に、今日の十二人分の足音が重なった。濡れた靴で、遠慮なく、何度も踏んでいく。
私の空になった右手を、ヘールトが両手で包んだ。
鍵も舟札も戻さない。
ただ、何も持っていない私の手を取る。
「七日前の申し出への返事を聞かせてください」
書記たちが書類から顔を上げた。乗客と荷運び人は濡れた粉袋を抱えたまま、揃って三歩ほど離れた。近すぎず、聞こえなくもならない、じつに行儀の悪い距離である。
ヘールトは私だけを見ていた。
「私はあなたに結婚を申し込みます。渡し場が欲しいのではありません。水位帳を任せたいからでも、今日の礼でもない」
包まれた指先から、彼の熱が移る。
「正しく測れるあなたを尊敬しています。誰より早く舟を出すあなたを、止めたいほど大切に思っています。ですが、それができる日だけを妻に欲しいのではない」
彼の親指が、裂けた私の掌を避けて動いた。
「舟がなくても。測れない日が来ても。働けず、起き上がれず、泣いて何もできない日があっても、私はあなたを選びます。あなたでなければ要りません」
息を吸った。
喉が閉じた。
七日間、答えは決めていたつもりだった。舟を失っても役に立てるなら。帳面を認めてもらえるなら。新しい働き口を用意してもらえるなら。その条件を一枚ずつ並べ、求婚の横へ勝手に貼りつけていた。
彼は全部剥がした。
何もできない日まで、私だと言った。
視界が崩れた。ヘールトの濡れた外套も、封印紙も、遠巻きの人々も、水の底で揺れるように滲んだ。口を開いても声にならない。頬を伝ったものが彼の手へ落ちる。
ヘールトは急かさなかった。
私は何度も息を失敗した。肩が震え、膝から力が抜け、彼の両手へしがみついた。母の舟を失ったことも、小屋へ戻れないことも、前年から貼りついていた言葉も、ちっとも小さくならない。小さくならないまま、それでも明日へ行ける場所が目の前にある。
「私には、舟がありません」
「はい」
「家も」
「はい」
「今日はもう、誰も渡せません」
「それでも、あなたです」
私は彼の手を握り返した。
役に立つ指ではなく、空になった指で。
「私も、あなたと生きたい」
その言葉を口にした瞬間、私たちの間にあった未回答欄が消えた。
ヘールトが私を抱き寄せる。胸へ額が当たり、濡れた外套が頬へ触れた。冷たいはずなのに、腕だけがひどく熱い。
ああ。これは困った。
私はようやく生きたいと言ったばかりなのに、この男はその先を一生分抱き締めるつもりらしい。
* * *
ボグラールカは過積みの指示と前年の事故報告の改変について取り調べを受け、河港差配から外された。封印前の帳面を持ち出そうとして書記に止められた件まで記録へ追加されたそうだ。彼とはそれきりである。川下へ流した粉袋なら拾うこともあるが、承知で人を沈める男まで拾う義務はない。
イロナは中立の共同渡し場で見習いを続けている。報告書へ署名するときだけは今も指が震える。それでも数字を一つも間違えず、自分の名を最後まで書く。
私には河港組合から、水位判断と新人教育の仕事が来た。
求婚を受けた三日後の話だ。順番がたいへんよろしい。先に来ていたら、私はまた働ける自分を結婚の持参金にしかねなかった。
私はヘールトの家へ移ることを自分で決め、借りた机で新しい舟の図面を引き始めた。浅い船底、広い中央席、荷の追加が一目でわかる固定枠。今度の舟札には誰の名を入れるか、そこだけはまだ空けてある。
婚約者は、私が桟橋へ出るたび救命綱を増やす。
一本目は腰用。
二本目は予備。
三本目は「一本目と二本目が同時に切れた場合」用。
昨日、四本目が届いた。
「ヘールト。愛情にも安全限度が必要では?」
「限度内です」
「何を基準に測りました?」
「あなたが川へ近づく頻度です」
水路役所へ相談書を出すふりをしたら、書記たちは全員、私から視線を外した。正午の求婚を見物していた人々に、中立を期待した私が悪い。
仕方なく私は四本の綱を抱え、新しい舟の図面を巻いた。
舟の安全限度は私が決める。
婚約者の愛情の限度については——どうも、測れる者がまだいない。




