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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

虎視眈々

作者: クロシロ

もしかしたら続くかもしれないし、続かないかもしれない。

 小鳥の鳴き声よりもか細い悲鳴にイナンシの白い虎耳がピクリと震える。

 緩慢に両腕を前へ伸ばして何かを受け止めるような体制をとると、本当に空からボロ雑巾のような子供がふってきた。

 まだ青年に片足を突っ込んだばかりのイナンシでも抱えられるほど小柄な少年は、檸檬色の瞳をこれ以上ないほど見開いてイナンシの冷徹ともいえる端麗な顔を食い入るように見つめている。

 黒い髪に黒い虎耳。これが噂の忌み子かとイナンシの澄んだ空色の瞳がひとつふたつ、瞬きをした。なんか、見覚えがあるような。


「…」

「あ、う、ぁ」


 ろくに喋れない子供をイナンシもまたじっと見つめる。

 子供の目尻に溜まっていた涙が頬を流れて顎に伝ったが、本人は拭うこともせずにイナンシから視線を外さないでいる。

 別に取って食いやしないのに。

 肩口で揃えられたイナンシの白髪がサラリと揺れた。


「お前の目、酸っぱそう」


 それが、イナンシが弟に向けて放った最初の言葉である。


 天まで届くのではないかといういくつもの大樹が根をはる地。ジャングルの奥地に虎の獣人達の住み処がある。

 まだらに生えている大木は、その切り株でそこそこ広い家が造れそうなくらい幹が太い。

 そのうちのひとつ、表面がでこぼこしていてなんとも登りやすそうな大木の頭上高く、一段と太く枝分かれした場所に背丈の小さな人影が数人見えた。

 鬱蒼としたジャングルにさす陽光は限られていて良好な視界とは言い難いが、それでもこの子供が落ちてきたのは彼等の仕業だろうということが容易に想像できる。

 強者を敬い弱者を蹴落とす虎獣人の社会性が、イナンシは特に不愉快だった。誰よりも気位が高そうな見た目のイナンシは存外平和主義だったのである。しかしそれを知る獣人はいない。なぜなら、他の同族から一定の距離をおくどころかあまり口をききすらしないからだ。

 関わりたくないものには関わらない。実に素直でわかりやすい性格だとイナンシは自分の内面を評価しているし、そこの部分に関してだけは他者から見ても同じであった。

 だから、彼が腕の中の少年をそのまま抱えて自分の住み処に連れて帰ったということが、あっという間に一族の間を駆け巡ったのである。


 イナンシの住み処は集落から離れた場所にある。

 虎獣人のテリトリーは広く、広大なジャングルのほぼ全域を制しているのだが、その片隅でイナンシは生活していた。

 滝壺の裏にある洞穴の奥の奥、轟々と流れる水の音が聞こえなくなるくらいの奥である。

 ここまで奥地になると暗くじめじめした場所と思うかもしれないが、全くの正反対であった。

 天井が崩れて天窓のようになっている洞窟はジャングルよりも日が差して明るく、その真下には雨水がたまってできた水場があり、色とりどりの花や希少な薬草などが生い茂っているのだ。

 離れた場所にはともされた洋灯、魔物の皮と骨で作られたソファや寝具に加え、調理場や調合台までも揃えられている。

 まるで都会で暮らす獣人達のような生活環境であった。同族の虎獣人達は所謂樹上家屋を住み処にしているため、もっと原始的な生活を送っていることだろう。

 それは服装からも予想できる。分厚い腰当てにゆったりとした下衣、袖なしで肩から身体を覆う上衣に好みの装飾を着けるのが虎獣人の正装で、まさに民族衣装といった出で立ちなのだが、イナンシは白いワイシャツに黒いスラックスという同族から浮き出た格好をしていた。

 頭領の息子と言えばで名が上がるほど強いイナンシだが、変わり者としても有名であった。

 元々、白い虎は獣王の血を引く血筋の直系にしか生まれない。それも稀に。力を継ぐ虎も同じだ。ぽっと黒い虎が生まれでもしたらどうなるか。この子供を見れば明らかだろう。これで多少なりと直系の力を使えたら、少しはましな扱いを受けただろうに。


 イナンシはそっと少年を寝具に降ろした。

 彼の檸檬色の瞳は未だにイナンシを凝視していて、なんでこんなに見てくるんだと流石のイナンシも首を傾げた。助けた理由を知りたいのだろうか。


「俺はお前の兄だ」


 イナンシと名乗れば頷かれる。どうやら知っていたらしい。なかなか名乗ろうとしない弟の名を、イナンシもまた知っていた。


「エバーノ」


 呼べばエバーノの瞳孔がキュッと縦に伸びた。


「俺がお前の名付け親だ」


 今の今まできれいさっぱり忘れていたが、イナンシは一度エバーノに会ったことがある。

 彼が生まれたばかりの時、黒い虎がと一族がうるさかったため黙らすために顔を出したのだが、当時の自分は些か短気だったので、これのどこが不吉で脅威になるんだと、くだらなさのあまり手当たり次第に同族に噛みついて一帯を血塗れにしたことがある。

 呆れた頭領にこいつはエバーノと言い残してその場を去ったのだが、そうか。もうこんなに成長するほど時が流れていたのか。


 懐かしそうに目を細め尾を揺らすイナンシを、エバーノは零れ落ちそうなほど見開いた瞳で呆然と見つめた。

 弟の心情など全く気にしていないイナンシは、手当のために棚から取り出した瓶詰めの薬草を遠慮なくエバーノの傷口に塗っていく。


「黒くて強そうだからエバーノと名付けた。でも寝て起きたらお前のことを忘れてしまっていた、許せ」


 そんな馬鹿なと言いたくなるようなことを淡々とエバーノに告げるイナンシは、至って真顔だった。

 ずっと黙っていたエバーノだったが、ここにきてようやく口を開いた。


「ぼく、強くない」


 みんなと色も違う、と暗く重い声で吐き出した。


「同じである必要がどこにある」


 エバーノの尾が逆立った。


「俺のように白い奴がいれば黒い奴だっているだろ。可能性と確率が低いだけのことで、吉兆でもなければ凶兆でもない。寵児も忌み子も思想の当てはめに過ぎない。そんなの、性格による」


 開いた口が塞がらないとは今のエバーノのことを言うのだろう。

 

「強くないのは栄養不足で体が貧弱だから。力を使えないのもそう。むしろ強すぎて耐えられないから使ったら死ぬぞ」

「っえ、」

「お前も直系の力を引き継いでいる。俺の勘がそう言っている」


 イナンシは自分の勘を何よりも信じている。宝石よりも強固で貴重な宝だからだ。


「お前が現状を脱することにまず一番必要なのは食うことだ」

「でも、みんながぼくには力がないって…」


 一通り薬を塗り終わったイナンシは腕を組んでソファに寄りかかると、実に偉そうに鼻を鳴らした。


「持たざる者が持つ者の器をはかれるわけないだろ」


 天井から吹いた風が洋灯の火を揺らす。

 薬草特有の苦い匂いがかき消され、イナンシから香る花蜜の匂いがエバーノの鼻腔を擽った。


「帰りたければ行け」


 顎でさしてそう言うと、イナンシはエバーノに背を向けて調合台の上にあるモノをガチャガチャといじり始めた。

 刻んで、茹でて、注いでかき混ぜる。イナンシの手元の音だけが洞窟内に反響する。

 暫く待っても背後の気配が動く様子はなく、イナンシは作業を続けたまま言葉をかけた。


「ここにいたいのなら俺を手伝え。無能はいらない」


 小さく駆ける音と共にエバーノがイナンシのすぐ横にやってきた。ジッとイナンシが行う作業を観察して、チラリと視線を向けてくる。


「喋ろ。察せられるほど、俺は感情に機敏じゃない」


 面倒くさいと言わなかったのはイナンシなりのせめてもの気遣いだった。


「う、うるさくない?」


 指先同士を握りしめて問うエバーノの前髪を柔く掴んだイナンシは、そのまま弱い力で引っ張って俯いていた顔を上げさせた。


「お前ひとりに気分を害されるほど俺は繊細な性格をしていない」

「…うん」


 エバーノの口元が不自然に歪んだ。まるで無理矢理口角を下げているかのようだ。

 嫌味のように整っている顔立ちすら反感を買う要素になり得る。あの大木にいた人影も男児が多かった気がする。

 イナンシは掴んでいた手を離すと寝台を指差した。


「寝てろ。手伝うのはまともに動けるようになってからでいい。邪魔になる」


 後ろ髪を引かれるようにしながらもエバーノは言われた通りに寝台に潜り込んだ。

 規則正しい寝息が聞こえてきた頃、イナンシは手を止めて洞窟の外に出た。街におりて作った薬瓶を売ったりエバーノの衣服などを買うためだ。

 都会的な暮らしを好んでいるイナンシは、このジャングルを出て街で生活したいという密かな目標があるのだが、それを叶えるために乗り越えなければいけない掟が憂鬱で半分諦めていた。かわりにこうして偶に街におりては好きな物を買うという、ささやかながらも心が跳ねる一時を過ごしていた。

 両腕に一杯の荷物を抱えて洞窟に帰ると、寝台の小山が出かけた時と違う大きさになっていることに気づき、気配を殺して近づいたイナンシはそっと寝具をめくった。

 人型ではなく、獣の姿で丸まって眠るエバーノがいた。

 浮き出た肋骨に眉を顰める。迂闊に触る気にもなれず、イナンシは再び寝具を被せた。



 エバーノの食事は温かなスープから始まった。徐々に中に入っている具材が増え、量が増え、品が増え、少量ではあるが肉も口にできるようになった。

 頬がふっくらとし始め、肋骨が目立たなくなってからようやくイナンシはエバーノが手伝うことを許したのである。

 ちょこまかと部屋を動き回るエバーノを視界の端に捕らえながら、イナンシは氷花の種を砕いて忘却茸の胞子を混ぜ合わせると、仏手柑水が注がれた器に入れて色の変化を確かめる。


「空瓶」

「ん!」


 イナンシが片手をだすとその手に冷たく固い感触が乗る。

 エバーノはイナンシの腰元を風が吹けば外れそうなくらい弱い力で握っているが、イナンシからの咎めがとんできたことはない。あれこれ好きにしているが気怠そうな視線を向けてくるだけだ。

 もう十分健康体になると、そろそろ筋肉をつけろと告げたイナンシにより、エバーノは滝壺を泳いで魚を狩るという仕事を任されるようになった。

 狩った魚はイナンシが料理してくれるのだが、今まで焼いたものしか食べたことがなかったエバーノはイナンシがだしてくる料理の味に上を向いて目を閉じてしまうことが多い。

 大袈裟な奴だと思いつつ、実は誰かに料理を振る舞うことがなかったイナンシも美味しいと言われれば悪い気はしない。

 街の料理品を真似て作っているのでまずジャングルで食べることはできない品々だ。

 狩るものが魚から肉に変わり、薬草を見分けるための知識を与えられ、簡単ではあるが調合も任せられるようになったエバーノは、イナンシに言われた「喋ろ」を実直に守っていた。

 おかげで喧嘩らしい喧嘩もしたことがなく、イナンシの辛辣さが丸くなることもなかった。

 力を扱うための稽古も順調である。

 

「兄さん、僕もそれやるよ」

「エバーノ」


 イナンシが鏡草の球根を刻んでいると横からエバーノに声をかけられた。

 成獣となった彼は人型の姿も背丈が伸びて溌剌とした少年になっていた。

 緩く口角が上がっている顔を眺める。唯我独尊みたいな眉目よい顔立ちだがイナンシの面子を立てようとする健気な弟。

 ふと陽光が遮られイナンシは天井から空を見上げた。鷲の体に朱雀の羽、犬の足を持つ美しい鳥が飛んでいる。シムルグだ。


「少しでかける」

「一緒に行くよ」

「いい。待ってろ」


 分かったと頷くエバーノは外れ者にされていたせいで一族の掟について知らないのだろう。それはつまり、イナンシと違って強制ではないということだ。分かってはいたが、こうして目にすると全身の力が抜けるくらいホッとした。

  虎族は生まれた時に頭領から血の印を刻まれる。掟を破れば死ぬという呪いだ。イナンシにも刻まれているが、エバーノには刻まれていない。

 洞窟をでるとシムルグの鳴き声が空に響いた。道案内を受けずとも行くべき場所は分かっている。今まで何度も無視してきたシムルグの声に薄ら笑いを浮かべながらイナンシはジャングルを進む。

 虎族の住み処に近づくにつれ、ちらほらと同族の姿が目に入る。久しぶりに訪れたせいか突き刺さる視線に圧がある。鬱陶しい。

 頭領の家はジャングルで一番大きい大木にある。家の中にはイナンシの他にも若い虎族の男女が七、八人いた。腹違いもいるが皆がイナンシの兄姉で、ここではイナンシが末子なのだ。


「遅い。無理矢理引き摺ってこさせろと言うところだったぞ」


 ずん、と肩にのる重力が増えたような錯覚さえする覇気ある声が、咎めるようにイナンシを呼んだ。それだけで耳毛が逆立ちそうになる。

 屈強な体を椅子に沈め、悠々と足を組んで頬杖までしている強面の男。

 イナンシの父親でもあり、同族を統べる頭領でもある。

 

「やっと答える気になったか」

「俺は頭領にはならない」


 イナンシは間髪入れずここにいる全ての者を突き放す言葉を選んだ。

 頭領からバチバチと雷が漏れ出ている。わざと力をチラつかせているが、それを見てもイナンシの瞳孔は丸いままで、他の兄弟のように縦に伸びたりしていない。

 強い者が統べる。頭領は跡継ぎにイナンシを選んだが、イナンシは同族が嫌いなのでずっと拒否の姿勢をとってきた。長になれば当然一族と縄張りを他の獣人や魔物から守る義務が生じる。なぜ嫌いな奴らを守らなければならないんだと住み処をでたのだ。今更気持ちは変わらない。

 それに、同族とみなされていないエバーノと今のように暮らせなくなる。嫌だ。


「五年も待たせておいてそれか」

「勝手に猶予を与えたのは貴方だ。俺はあの時と変わっていない」

「なら、お前はここで同族から抜けるとでも宣言するのか」

「はい」


 頭領がイナンシを睨む。イナンシも負けじと睨み返した。バチチと音が爆ぜる。イナンシの体が帯電し始めた。


「耐えられるか見物だな」


 頭領が冷たく笑った。


 虎族は一族を抜ける時、命がけの掟がある。

 飾った言葉をそぎ落として言えば頭領からの一方的な暴力に耐えるという、反吐がでるほどくだらない掟だ。

 誇りと矜持を冒涜されても手にしたいものなのかという問いかけなのだそうだが、それで死んだ者達だっているのに随分とふざけたものだ。

 

 ジャングルの中でも開けた場所、兄弟が立会人として見てる中、イナンシの肉から血が吹き、骨が折れ、内蔵が痛めつけられていく。

 倒れてはいけない。膝をついてはいけない。手をついてはいけない。獣型になってはいけない。あとはなんだっけ。頭領が納得するまで耐えられなかったら一族の恥として自害しろだったか。誰だこんな掟をつくった先祖は。噛み殺してやりたい。


 イナンシの腕が何処かへ吹っ飛んだ。素手で獣人の腕を殴り、その衝撃で千切るなんてどんな馬鹿力なんだ。再生できる薬はあっただろうか。雷で繋げられたりするのだろうか。まあ、多分できるだろう。この力は以外と便利なのだから。

 片目が潰れ、右耳も聞こえなくなった。膝に穴が開いているような気がする。自分でいうのもあれだが血の臭いに酔いそうだ。兄弟の何人かは当分不眠症になりそうな顔でこの惨状を見ている。イナンシの頭がガクンと下を向く。足元が見えた。

 

 あ、倒れそう。


 残り少ない歯を噛みしめて耐えた。まだ終わらないのか。鬱憤溜まり過ぎだろ。誰のせいだ。俺のせいか。ざまあみろ。

 

「興ざめだ、帰るぞ」


 

 頭領の声が聞こえてイナンシは片目を開いた。辺りは暗くなり、空には月が浮かんでいる。


「三日も耐えやがって。おかげですっきりしたじゃねえか。お前を追放する。黒いのと同様、二度と一族に関わるな」


 遠ざかる足音が聞こえなくなってから、イナンシもようやく動きだした。しかし、遠慮のない力で肩を掴まれビクリと体が痙攣した。


「くたばれよ、このまま」


 長男の声だった。昔からイナンシに嫉妬し、憎々しげに牙を剥いていた男が弱りきったイナンシを引き摺って歩く。

 抵抗する力も残っていないイナンシはされるがまま、意識を飛ばさないようにするだけで精一杯だった。

 渓谷に連れてきた長男はヘーゼルの瞳を歪めてその下を見やる。黒く塗りつぶされて底が知れない。ますます瞳が喜色に歪んだ。

 イナンシの首を掴んで宙にぶら下げる。


「きったね」


 長男がそのまま手を離す瞬間、イナンシの震える指から放たれた雷が長男の胸、心臓を貫いた。


「お前がな」


 イナンシの口元が月光に光る。鋭利な牙が覗いていた。


 そのまま、イナンシは渓谷へと真っ逆さまに落ちていった。


***


 痺れる腕の痛みでイナンシは目を覚ました。

 暗く冷えた渓谷の底で、帯電した体がむくりと起き上がる。

 腕も足も目も耳も、全ての傷が元通りになっている。本当にこの力は便利だ。

 目頭を揉みながらあれから何日経ったか考える。早く帰らなければ。エバーノが心配してまた痩せてしまう。

 軽く屈伸してから軽快に渓谷をのぼる。しかし、地上についてからイナンシは眉をひそめた。

 鉛色の空に走る稲妻。鳥の囀りも、虫の羽音さえしない静かなジャングル。風も吹いていない。あまりにも不自然だ。

 呪われた迷宮のような不気味なジャングルを歩き、洞窟を目指す。道中、見たこともない植物を発見しゆらりと尾が弧を描く。滝壺へつくとようやっと水の音が聞こえた。浅瀬に立つ後ろ姿に胸の底から熱いものがこみ上げてきて、鼻までその余波が押し上げてくる。

 呼びかける前に向こうがばっとこちらをふり返り、檸檬色の瞳を極限にまで見開いた。

 イナンシもまた、驚きのあまり呆然としていた。

 少年だったエバーノが、青年に成長していたのだ。

 もしかして、自分は随分長い間眠ってしまっていたのだろうか。


「兄さん」


 記憶よりも低くなった声がイナンシを呼ぶ。


「エバーノ」


 後に続く言葉を言う前に、エバーノが飛びかかってきた。

 そのまま二人して草木が生えた地面に倒れ込む。青々とした匂いに包まれる中、イナンシの顔にボタボタと水滴が落ちてきた。


「…っ、」


 エバーノが声を押し殺して泣いていた。なんて下手くそな泣き方なんだと思わずイナンシから笑みがこぼれた。


「帰るのが遅くなった。許せ」


 そっと頭を抱きしめる。黒い髪と耳を撫で、イナンシは自分の心臓の音をエバーノに聞かせた。

 広がる空の鉛色は分厚く、いつ雨が降ってきてもおかしくない。鈍足に流れる雲のようにのろのろとエバーノが顔をあげた。転んで膝を擦りむいた幼子よりも涙に濡れている。しゃっくりのせいでまともに喋ることすらできていないエバーノだが、それでも伝えたいことがあるようで、よれて草臥れた言葉達がフニャフニャとイナンシの耳に届く。

 そのひとつひとつに頷いて、時には笑いながら、イナンシは胸の内からじんわりと広がる痛みを甘受していた。

 

「落雷で同族が死に絶えた…?」

「ん」

「お前ひとりでずっと暮らしていて」

「ん」

「俺が、消えてから三十年が過ぎ、て。は、本当に?」

「ん」


 どうやら、話すことは尽きないようだ。


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