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吉祥寺  作者: 坂本梧朗


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その5

 就職の相談の電話もあった。デパートに勤めるという。桂子は家で子供を相手に習字の 塾をしてい た。外に勤めに出たことはなかった。いつも家の中にいるという暮し方も、桂子の印象を不活発なものにしていた。私は桂子に外に出て働くことを勧めていた。桂子もその意欲を口にはしていた。しかし実際には踏み切れなかった。それがデパ ートに勤めると言う。

 いいことじゃないか、と私は言った 。まだこんなこと言ってるんだ なと思いながら。 ハンカチ 売場だと言う。よかったね、とにかく頑張れよ。……私には他に言う言葉がなかった。桂子は既に過去の女だった。「続かないかも知れないけ ど……」桂子の声は澱んでいた。 いいじゃないか、やるだけやれは。経験が大事だよ。今度デバー トに行ったら寄ってみよう。 うん 、僕? 僕は相変らすだ。「そう……」 桂子は何か言いたそうな様子だったが、「それじゃあ」と言って電話を切った。

 私はそれから一週間ほどしてそのデパートに行く用事があった。思い出してハンカチ売場に寄ってみたが桂子の姿はなかった。桂子から電話があった時そのことを話すと、体がきつくてやめたのだと言った。つき合っている時も桂子 は時折り指圧を受けて いた。頭が重くなったり、肩が凝ったりすると話していた。外見の印象通り桂子の体は丈夫ではなかった。

 個展についての電話もあった。桂子は幼い頃から書道をしていた。これだけは一生涯続ける決意のようだった。私は桂子に個展を開くことを勧めていた。芸術には他人の評価が不可欠だ。他人の目に曝される試練を経てこそ上達がある。書道を続けるつもりなら、年に最低一回は個展を開かなければ。桂子は頷いて聞いていたが、消極的だった。それが個展を開くと言う。

 場所は私が勤めているレストラン。桂子の書をレストランの壁に室内装飾も兼ねて展示し、欲しいという客には即売する。売上げの二割は場所提供代として店に与えるというプランだった。桂子にしてはよく考えたな、と私は思った。室内装飾の変更は店長である私の裁量でどうにでもなる。私はOKした。あなたも金もうけの道を考え始めたのはなかなかよろしい、と桂子をほめてやった。「ふ、ふ」という笑い声が受話器から聞こえた。それならどうしようか。近いうちに会って打合せをしようか。私と会いたいのが真意だと思っていた。すると桂子は少し慌てたように、自分の方からまた連絡すると言って電話を切った。しかしその後、個展について桂子からの連絡はないままに終った。


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