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吉祥寺  作者: 坂本梧朗


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1/6

その1


 天気になった。

 五月晴れに誘われて、と言いたいところだが、私の生活はそれほど身軽ではない。二週間に一度あるかないかの休みだから、行くと前から決めていた。雨が降っても私は行くつもりだった。

 吉祥寺の藤の花。見に行きたいと思って三年ほどになってい た。私はそれまで花見と言えは桜しか知らなかった。藤の花を見ながら一杯、というのもあるのかと思った。

 高速道路を通れば一時間足らすの距離だった。通行人に道を尋ねると、その少し前に通り過ぎた林がその場所だった。

 参道の右側にはテント屋根の小店が並んでいたが、どれも閉まっていた。石段の下まで来ると、これもテント張りの食堂が二つあった。日曜日ではなかったので一つの店しか開いてなかった。私はそこで缶ビールを買った。腹は空いてなかった。

 夕方からは曇りという天気予報だったが、空は肯く、ロ差しは夏の到来を思わせた。缶ビールを飲みながら石段を上っていった。人出は少なかった。途中ニ人連れと一度すれ違っただけだった。ビールを飲みながら、というのはお寺参りには不謹慎なポーズだなと私は思った。観光地という感覚で来たのだが、雰囲気は閑寂な寺のそれだった。

 石段を上りきった所に木造の門があった。鐘楼を兼ねた立派なものだ。門をくぐると、頭上は藤の花で覆われた。巾約十メートルの藤の天井が三十メートルほど先まで続いている。寺の境内がそのまま藤の下になっているのだ。香水のような匂いがした。どこかで嗅いだことのある匂いだ。藤の花の匂いがそれだとは知らなかった。五十センチほどの長さの無数の花房が薄紫色のヴェールのように頭の高さで続いている。藤棚を支えているのは石柱だ。年期の人った御影石で、それぞれに寄進者の名前が彫ってあった。端のニ、三カ所に石のベンチが置いてある。人出は少ない。ゴザを敷いて花見をしている一組、ニ組を予想していたのだが全く外れた。居たのは十人足らずだ。家族連れ、アベック、それに大型の一眼レフカメラを持った男がさまざまな角度から藤の花と見物人を撮っていた。

 私はベンチに腰をおろした。藤の花を見上げて、飲まずにいた缶ビールを飲んだ。いりくんだ蔓の間から日差しがこぼれている。紫というより淡い青色の花房。動物のペニスの形をした花房の軸は下に伸びつつある。伸びた分だけそれを蔽うために花弁は下にさがる。藤の花は増殖する花なのだ。花房の上から下まで蜜蜂が忙しく飛びまわっている。

 これが吉祥寺の藤なのだな、という思い入れで私は花を眺めた。しかし何か満たされない。充足がない。

 こうしたら楽しかろうと思った事がいざ実現してみると、肝心の楽しむ心自体がスポイルされていてどうにもならないことが私にはよくある。プランを立てて、すぐそれが実現すれば問題はないのだが。

 しかしその日は別に不快な事があったわけではなかった。したがっていつものように怒りや不安が私の心を圧さえつけて楽しめなかったのではない。言ってみれば気恥ずかしさのようなものか。たかが藤の花を見ることぐらいを三日ほど前から大目標のように設定し、人にも話してきた。ところが車が吉祥寺に近づくにつれて、大したことはないに違いないという冷笑的な予測が生まれた。せつかくの休日なのに他にする事はないのか、という思いも起きてきた。最後に浮かんできたのは、こんな所に一人でのこのこ来る自分の孤独さだった。吉祥寺に着くまでに私の心から興は半ば削がれていたのだ。

 藤の花が一日をつぶせるだけの充足を与えるはずがない。そんな醒めた意識をだますように、せつかく見に来た藤の花に感じ人ろうと私は努めたのだった。その余計な思い入れが、逆に満たされない思いを強めたのかも知れない。


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