第14話「兄の影」
◆アラン視点
兄が屋敷に戻ってきたのは、突然だった。
いつも遠方の領地にいるはずの彼が、何の前触れもなく現れた。
そして、開口一番に言った。
「アラン、お前の婚約について話がある。」
その言葉に、胸が静かに冷えた。
兄の声はいつも通り穏やかだったが、そこには“決定事項”の響きがあった。
「家のために、そろそろ正式な縁談を進めるべきだ。父も同意している。候補は、すでにいくつか挙がっている。」
僕は、何も言えなかった。
兄の言葉は、いつも論理的で、正しい。
でも、心に触れることはない。
「お前が舞踏会で踊った令嬢、リリアン・ド・ヴァルモン。彼女も、家柄としては申し分ない。ただし、感情で動くな。これは“家のため”の話だ。」
その言葉に、胸が強く締めつけられた。
リリアン嬢の名前が出た瞬間、心が騒いだ。
でも、それは“家のため”という枠に閉じ込められた名前だった。
「……僕は、まだ決められません。」
「決めるのは、お前ではない。家が決める。それが、我々の立場だ。」
兄は、静かに背を向けた。
その背中は、いつも通り堂々としていた。
でも、僕には重すぎた。
リリアン嬢の笑顔が、馬車の中での声が、ふと胸に浮かんだ。
彼女は、さくらんぼの話をしていた。
恋に似ていると、無邪気に笑っていた。
その笑顔を、“家のため”という言葉で塗りつぶすことはできない。
でも、僕の立場はそれを許さないかもしれない。
兄が屋敷を後にしたのは、夕暮れ前だった。
玄関の扉が静かに閉まる音が、屋敷全体に響いた気がした。
その音が、僕の胸にも静かに沈んだ。
「家のための婚約」
その言葉は、兄の背中とともに去ったはずなのに、まだ部屋の空気に残っていた。
僕は書斎に戻り、椅子に深く腰を下ろした。
机の上には、書きかけの詩。
リリアン嬢に渡すはずだった言葉。
けれど、今はその紙が、遠く感じた。
窓の外では、風が木々を揺らしていた。
その音が、馬車の揺れを思い出させる。
彼女が隣に座っていた時間。
さくらんぼの話をして、笑っていた時間。
あの笑顔を、“家のため”という言葉で縛ることはできない。
でも、僕の立場はそれを許さないかもしれない。
机の引き出しを開けると、そこには彼女に渡せなかった詩が一枚、丁寧に折られていた。
雨の日に滲んでしまった紙とは違う、乾いた紙。
でも、今は——言葉が乾いてしまっていた。
僕は、ペンを手に取った。
けれど、インク瓶の蓋を開けることができなかった。
言葉が、心に浮かばなかった。
兄の言葉が、頭の中で繰り返される。
「決めるのは、お前ではない。家が決める。」
その言葉に、反論する勇気はなかった。
でも、従う気持ちもなかった。
その狭間で、僕はただ動けずにいた。
夜が深まり、屋敷が静まり返る頃。
僕は、書斎の灯りを消した。
暗闇の中で、リリアン嬢の笑顔だけが、はっきりと浮かんでいた。
◆リリアン視点
午後の図書室は、静かだった。
窓から差し込む光が、棚の影を長く伸ばしている。
私は、詩集を探していた。
雨の日にレオ様が置いていった本の続きが、気になっていたから。
そのとき、誰かの気配を感じた。
棚の向こうに、見慣れた背中。
アラン様だった。
彼は、机に向かって何かを書いていた。
けれど、ペンは止まったまま。
紙の上に手を置いたまま、動かない。
「アラン様?」
声をかけると、彼は少し驚いたように顔を上げた。
その瞳が、いつもより静かだった。
けれど、何かが沈んでいるように見えた。
「リリアン嬢……ごきげんよう。」
「こんにちは。……何か、お悩みですか?」
彼は、少しだけ笑った。
でも、その笑顔は、どこか遠かった。
「悩み……というより、考え事です。」
「詩のことですか?」
「ええ。詩のこと……そして、少しだけ、現実のことも。」
その言葉に、胸が少しだけ騒いだ。
彼の声が、いつもより低くて、重かった。
「詩は、心を映す鏡だと聞いたことがあります。でも、鏡に映したくないものも、ありますよね。」
彼の言葉に、私は何も言えなかった。
ただ、彼の目を見つめていた。
その瞳の奥に、何かが揺れていた。
「……アラン様。もし、詩にできないことがあるなら、誰かに話してもいいことかもしれません。」
彼は、少しだけ目を伏せた。
そして、静かに頷いた。
「ありがとうございます。リリアン嬢の言葉は、詩よりも優しいですね。」
その言葉に、胸がふわりと浮いた。
でも、彼の背中には、まだ何か重いものが乗っているように見えた。
私は、何も聞かなかった。
でも、彼の変化には、確かに気づいていた。
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