プロローグ「静けさに咲く言葉」
◆リリアン視点
ここはルヴァリエ王国。
文化と芸術が花開く国。
石造りの城塞は白金色の陽に照らされ、城下には古書店と香草市場が並ぶ通りが広がっている。
空には時折、教会の鐘が優しく鳴り響く。
城の東側にある図書室は、王城の中でもとりわけ静寂を守る空間。
磨かれた木床、天井まで届く書棚、窓辺には季節の花がそっと飾られている。
その窓辺に、ひとりの令嬢が座っていた……
淡い藤色のドレスに身を包み、絹のような白金の髪をふんわりと結い上げた少女。
瞳は朝露を湛えたような灰青で、手にした本のページをめくるたび、ほんの少し眉を動かす。
リリアン・ド・ヴァルモン。
伯爵家の令嬢。
幼少期から貴族教育を受けながらも、物語と紅茶の世界に魅せられた、静かでやさしい魂を持つ少女だった。
彼女は舞踏会よりも詩集を愛し、花束の中の名前の知らない一輪にこそ目を留める。
この日も、誰もいない図書室で本の海を旅していた。
すると、ふとページの間から、一枚の紙が舞い落ちた。
「……これは、しおりじゃない……?」
紙には、丁寧な筆跡で詩のような言葉が綴られていた。
> “風が君を撫でた午後に、僕は言葉の矢を放つ。”
> “誰にも気づかれないように、図書室の光に隠して。”
「……詩文? 恋文…なの?」
リリアンはそっと指先で紙をなぞった。
けれどその瞬間、彼女の胸の奥が少しだけ高鳴ったのは、それが“誰か”の想いに触れた気がしたからかもしれない。
彼女は知らなかった。
この一枚の紙が、静寂な図書室から、ふたりの青年との運命を連れてくることを……
◆レオ視点
風が静かに、本棚と本棚の間をすり抜けてゆく。
城の東翼、文官専用の書庫のさらに奥。
王子付き文官のレオ・グランディアは、筆記台に腰かけ、ひとつの言葉を繰り返していた。
「“朝露のひとひら”…いや、詩的すぎるか…。」
公文書の端に詩のような語句を滲ませてしまう癖。
それを“美しい”と言う者もいれば、“回りくどい”と笑う者もいる。
だが彼自身には、ただ思い浮かんでしまうのだ。
名も知らぬ誰かの、静かな気配を思い出すたび。
彼は、王国北部の雪深い町・ルミエール出身だった。
凍てつく季節には、文字が暖炉の火代わりだった。
祖父が営んでいた文具屋兼古書店の小さな一角で、紙とペンと詩が彼の遊び相手だった。
貴族の血は流れていない。
けれど、書の美しさと記憶に残る筆跡によって、王立文官試験で異例の登用を果たした。
そして今、王子付き文官という役職を授かっている。
彼の容姿は、闇の中に差す静かな光のようだった。
漆黒の髪を後ろで束ね、前髪は乱れず額を覆わない。
瞳もまた墨色に近く、感情を読むことは難しい。
だが時折、誰にも気づかれないほど小さく揺れる。
そして今、その瞳は窓の外、図書室に通じる渡り廊下の先に向けられていた。
藤色のドレス。
風に揺れる白金の髪。
ゆっくりと書棚に指を滑らせる仕草。
「また、彼女だ。」
リリアン・ド・ヴァルモン。
伯爵令嬢。
誰よりも気高いはずなのに、図書室の静けさに一番馴染んでいる。
社交の喧騒を離れ、一冊の詩集を静かに抱える姿。
その光景が、どうしてこうも胸に残るのか。
自分が書き溜めた詩文のひとつを、ふと彼女の本に挟んでみた。
ほんの戯れのような衝動で。
けれどその後悔は、不思議とやってこなかった。
「彼女は、読んでくれただろうか…。」
言葉は行き先を持たないまま、ページの間に閉じ込められた。
けれどそれが、誰かに届いたとき……
自分の筆跡が、思いを伝える手段になることをレオはまだ知らない。
図書室に向けたその瞳の奥で、小さく灯る“恋”の予感。
それは、彼にも説明できない感情だった。
◇◇
王国北部、ルヴァリエ本土から馬車で五日。
山と森に囲まれた雪の町、ルミエール。
冬になると通りの屋根は白く染まり、窓辺には干した香草が吊るされる。
街の広場は石畳を越えて凍り、靴音が小さな音楽のように響く。
レオが言葉を覚えたのは、雪の降る夕方だった。
祖父の店……
文具と古書を扱う屋根裏のような店の奥で、彼は机に突っ伏していた。
「言葉は、音じゃない、形なんだよ」と祖父は言った。
レオはその言葉の意味がわからなかった。
けれど、インクの匂いと、紙を撫でる筆先の感触が好きだった。
ルミエールでは、口に出す言葉よりも、紙に残す言葉が重んじられていた。
遠方の親戚への手紙、薬草の配合、詩と祈り。
教会の鐘より、紙を束ねる音のほうがこの町では馴染みがある。
レオは寡黙だった。
学校で何かを言いかけても、喉の奥で言葉が凍ってしまう。
そのかわり、彼は紙に綴った。
机の引き出しには、誰にも読ませない詩が並ぶ。
> “誰にも言えなかった言葉が、白紙の上では声になる。”
春……
レオは古書のページの隙間に、自作の詩を挟んでみた。
誰かが拾うかもしれない。
でも、それは渡すためじゃなかった。
その紙が誰かの指に触れた瞬間、それだけで自分がこの町のどこかにいた証になるから。
その詩は、後に王都の文官選抜試験で、審査官の目に留まった。
「筆跡に人柄がある」と言われた。
その日、彼ははじめて“声”を持った気がした。
ルミエールの町には、今も雪が降る。
レオが旅立った日、祖父は何も言わなかった。
ただ、「言葉が凍りついたときは、誰かに手渡しなさい」と、紙を一枚だけ手渡してくれた。
その紙には、何も書かれていなかった。
けれどレオは今でもそれを筆記台の引き出しに忍ばせている。
誰かの言葉を受け止めるために……
「続きが気になる」「面白かった」と思って頂けましたら、リアクションやブックマーク、広告下の【★★★★★】で応援いただけると嬉しいです。誤字脱字のご連絡ありがとうございます。引き続きよろしくお願いします!




