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第98話 反撃開始

既にロンドンの街は朝靄が立ち上り始めていた。

周囲は明るくなり始め、大通りには行商の準備をする人影や、荷を担ぐ労働者がちらほらと見え始めている。

濡れた石畳の上を、馬の蹄が遠くで鈍く響く。

煙突の群れから煤を混ぜた白煙が立ちのぼり、秋の冷たい空気と混じって霞のように街を包んでいた。

市場へ急ぐ男たちの声、パンを積んだ荷車の軋む音、新聞売りの少年の声。

ロンドンの朝が、まだ完全に目を覚ます前の、独特の風情を放っていたが、オリバーたち四人にそれを楽しむ余裕はなかった。

通りを走る二頭立ての馬車を見つけると、オリバーは迷わず手を挙げた。

御者が振り返る。

「ウェストミンスターの法曹街まで、急いでください!」

御者が短く頷き、鞭が鳴る。

馬車が石畳を叩きつけるように駆け出した。

「旦那方、新聞記者かい?その様子だと特ダネでも掴んだんだろ?」

四人の男たちは血走った目で原稿を貪るように読み込んでいる。御者が好奇の視線を投げかけた。

「いや、俺たちは今から弁護士のもとへ行く。それから裁判所へだ。頼む、急いでくれ、人の命がかかっているんだ!」

他に客はいない。

御者は一瞬ぎょっとした顔をしたが、すぐに気合のこもった表情に変わった。

「よっしゃ、特別だ。なんだかわからんが、人助けなら任せな!」

鞭が再び鳴り、馬車は一度も停まることなくディックの家の前まで運んでくれた。

四人は御者に深く頭を下げ、心づけを弾む。

御者は照れくさそうにそれを受け取り、「がんばれよ!」と短く声をかけた。


ウェストミンスターの重厚な街並みの中、煉瓦造りの一軒家が佇んでいる。

黒鉄の手すり、厚い扉、そして窓辺には薄く灯ったガスランプ。

ここが、ディック弁護士の事務所だ。

オリバーは拳を握り締め、力を込め深く息を吸い込む。

そして拳を上げ、重いドアを力の限り叩いた。

祈るような気持ちで待つこと五分。

玄関の奥から、どたどたと階段を下りる足音がした。

やがて、寝癖のついた髪にガウン姿の男が現れた。

「まさか朝の六時前に依頼人に叩き起こされるとはな。オリバー、一体どうした?まさか強盗にでもなったか?」

その背後に立つ逞しい三人の男たちを見やり、ディックは目を細めた。軍人と言った方が似合っている。

「そのどちらでもありません。時間がないんです。人の命がかかってます」

「人の命?」

ディックは一瞬意味を取りかねたように目を丸くしたが、やがて真顔になる。

「よくわからんが、詳しく話してみなさい」

彼は無言で彼らを応接室に案内した。

ジェームズが手にした封筒を机に置くと、モリスとマットも原稿の束を差し出した。

「これを見てください。彼女、メアリー・ウォークナーの現状です。『メダム・エリーヌ』の裏で何が行われているのかを、我々が取材しました」

「メアリー・ウォークナー?」

ディックは眼鏡をかけ直し、原稿を読み始めた。

ページをめくるたびに眉が寄り、やがて深く息を吐いた。

「ドレスメーカーの過酷な労働の噂は耳にしておったが……これは、度が過ぎる。高濃度の阿片、拘束、意識喪失……いや、これはもはや殺人だ!こんなことを許せるものか!」

「だから、仮保護命令をお願いします」

いま、カリマの悪行を法に訴えている時間はない。

だが命の危険を訴えれば、緊急措置で保護命令が取れる。

オリバーはそう読んでいた。

懐から一束の書類を取り出す。

ディックがそれを受け取り、ぱらぱらと目を通した瞬間、眉がぴくりと動いた。

「なるほど、仮保護命令か。オリバー、おまえ、よくそんなことを思いついたな。」

さらにページをめくりながら、目を見張る。

「これは、おまえが作ったのか?」

「はい。条文は一八四四年の婦女子保護令を参照しました。条項番号と判例も脚注に添えてあります。あとは署名だけで提出可能です」

ディックは書類をまじまじと見つめ、一拍置いてから吹き出した。

「ははっ!おまえ、うちの事務所でバイトしないか?このままじゃ、わしの立場が危ういぞ」

昨日はジェームズから記者にならないかと言われ、今日は弁護士。

そういえばトーマスには医者になれと勧められたこともあった。

だが、笑っている暇などない。

窓から差し込む朝の光が、刻一刻と明るさを増していた。

こうしている間にも、メアリーの命の灯火が消えるかもしれないのだ。

「ディックさん、冗談を言ってる場合じゃありません。メアリーの症状は、もう限界です」

その言葉に、空気が一変した。

ディックの顔から笑みが消え、職業人の表情に戻る。

「よし。すぐに起案して署名を入れる。君らは記者だな?名前は?」

「俺はジェームズ。こっちがマット、そしてモリスです」

「うむ。誰か一人、裁判所へ先に行ってくれ。門番にテオという男がいる。その男にこれを渡せ」

ディックはさらさらと何かを書き込み、マットに手紙を手渡した。

「君ら二人はこの記事の概略を一部まとめ、ウェストミンスター警察署で事情を説明しておいてくれ。わしは仮保護命令を取り次第、警察署へ向かう。そこで合流しよう」

矢継ぎ早に指示を飛ばすディックを見て、オリバーは心強さを覚えた。

さすが老練なプロだ。

「オリバー、おまえはトーマスのもとへ行け。意味は分かるな?」

「はい……」

「忙しい男じゃが、おまえが頼めば助けてくれるじゃろう。馬車はいるか?」

ディックが柔和な笑みを浮かべる。

「いいえ、走ります」

「そうか。仮申請の方は任せておけ。少し金がかかるが、実費は請求させてもらうぞ」

「わかりました。俺が払います」

「うむ……だが、オリバー。なぜそのメアリーという娘を助けようとする?彼らは記者だから職業柄そいう言こともあるのであろうが、おまえは違うだろう。どこで知り合った?」

「えっと……その、工場で働いている女工のお姉さんなんです。頼まれたというか……でも、それだけじゃ……」

「なんじゃと!その女工に頼まれて一晩中駆け回り、金も惜しみなく使っておるのか?」

ディックはニタリと満面に笑みを浮かべる。

「いや、だから、それだけじゃ……」

「ほぉ、女に泣かれたか?」

変なところにだけ感が良い。

「いや、だから!」

「救貧委員会で息巻いておった、あのチビ助がもう女に惚れる年になったとはのう……まぁ良い。それより早く行け!」

人の話を最後まで聞けよ、ジジイ!

そう内心で叫びながらも、オリバーは扉を開き、トーマスが居候するチャドウィック邸へと駆け出した。

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