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第97話 大英帝国の正義

モンクスはフェイギンからの報告を受け、顔を歪めた。

「メダム・エリーヌのカリマの作品は、本当はお針子にやらせているだと?弟子でもない女にか」

「はい。まだ噂の段階ですが、確認には潜入が必要で、いささか時間が……」

「いや、それはいい。カリマが店で何をしようが私には興味はない。それより本題だ」

モンクスはカリマの店に出資していた。

今やロンドン屈指の高級店「メダム・エリーヌ」への投資は大成功で、この店はまだ稼ぎ続けるはずだ。


「承知しました。チャドウィック家の混紡繊維ですが、高級素材としては頭打ちの様子。貴族や大手ドレスメーカーは絹・羊毛に劣るという評価が浸透し、紙誌の論調も同様です。ただし制服や下級職人層では、耐久性と肌触りの良さから需要が伸長。全体シェアは増えていますが、伸びはそろそろ限界かと」

「なるほど。ご苦労。大勢に問題はないな」

フェイギンはなおも首を傾げる。

「なんだ。言いたいことがあるのか」

「あのオリバーという少年が、このところブラウンロウ伯爵邸に頻繁に呼ばれております」

モンクスの表情がわずかに歪む。

伯爵は赤の他人であるはずのオリバーに投資までしている。

それに対し、血縁の甥である自分に声はかからない。

莫大な資産はローズ一人が相続すべきだが、事業に興味を示さぬ彼女に継承の資質は見出せない。

継ぐべきは自分だけだ。モンクスは密かにそう自任していた。

「また新しい投資話か」

「そのようで」

「なにを始めるつもりだ?」

「工場付設のデザイン工房を新設するとのこと」

「なんだと」

モンクスは頭を巡らせる。

チャドウィックの工場はハムステッド村から絹を受け、麻・綿も国産で原料費は低い。歩留まりは高く、品質も価格も他の追随を許さない。

そこにデザイン機能まで内包し、直販でドレスやガウンを出す。ファッション界を揺さぶる野心だ。

一経営者として、彼は唸らざるを得なかった。

「誰の発案だ」

「やはり、あのオリバーかと」

また、あいつか。

面識はない。だが気に入らない。ダンカンの裁判を勝訴寸前でひっくり返したのも、あの少年だ。

彼の仕掛けは、モンクスやエヴァンスが、いや大英帝国そのものが築いた構造を、白蟻のように侵す。

そんな不吉が離れない。

監視は続けているが、工房の動き次第では強硬策が要るだろう。

簡単な話だ。社会的に抹殺し、二度と陽の下に出られぬようにすればいい。

冤罪を拵えるのは造作もない。

カフスが、わずかに軋んだ。

無意識に拳を握っていた。

机上のガラスペン立てがわずかに揺れ、ペン先がかすかに触れ合って、金属音を立てた。

その短い音が、彼の胸中の苛立ちを映すようだった。

才能はあるのだろう。

だが秩序を壊すなら報いを受けるまでだ。

国産原料など不要だ。

絹も麻もインドから買えばよい。

産業革命でイギリスの代表的な工業製品となった綿製品は中国では伸び悩み、一方で紅茶をはじめ絹、陶器などの輸入で増大した貿易赤字。

だが、その不均衡は阿片で是正した。

その均衡を保つのは海軍力と、それを下支えする貿易商の利潤と納められた税金。最優先されるべき予算は海軍だ。

それが文明を世界へ押し広げる、とモンクスは信じている。

「……どうかなさいましたか」

我に返ると、フェイギンが訝しげに見ていた。

「いや、なんでもない」

自分の思考の跳躍に苦笑する。大した問題ではない。

そう思いたいのに、苛立ちは収まらない。

「続けてよろしいでしょうか」

「まだ何かあるのか?」

「例のお針子を、オリバーが工房へ引き抜こうとしております」

「なに!カリマはどう出る」

「それが……言いにくいのですが」

「言いにくいとはなにがだ?」

「お針子は誘いに乗り、退職を申し出ています」

「店に影響はあるのか?」

「ありません。カリマは既に一流デザイナーを複数確保。お針子、メアリー・ウォークナーが辞めても運営は揺らぎません」

「では何が問題だ」

「カリマはかなり残忍で、メアリーは既に阿片中毒が重篤。身動きも難しいほどです」

「愚かな女だ。口外の恐れは」

「今のところは……としか。オリバー側は彼女の状態に気づいた様子」

「何だと。で、どうなった」

「ハムステッド村へ潜入させると、必ず仮面に黒いマントの男が現れ、撃退してきます。手練れです。その男が昨夜、メダム・エリーヌへも侵入を試みました」

「なんだと!」

「ご心配なく。サイラスを配置しておりました。撃退には成功しましたが、取り逃しました」

「一体、何者なんだ?」

「わかりません。現れるのも突然ですが、目的を果たすと同時に姿を消してしまいます。

 配下の者を差し向けても、必ず察知され、逆に撃退されるのです」

「監視されているということか?」

モンクスの調べでは、監視の痕跡は見当たらなかった。

ただ、サイラスの報告によれば、相手は戦闘中に突然“姿を消す”奇妙な術を使ったという。

おそらくは、その術で出入りしているのだろう。

村人やチャドウィック家の者が雇った可能性も否定できない。

だが、今のところ関連を示す証拠は一切ない。

怪しい者の出入りも、報告では確認されていなかった。

「そんな馬鹿な話があるのか?」

「まったくです。ですが、ハムステッド村の住人は、昔からの者ばかり。一人を除いては」

「ん? 一人?」

「オリバーです」

「なんだと!確か、ナンシーの遠縁の子供という触れ込みだったはずだが」

「いえ。ナンシーに、そんな遠縁の親族はおりません」

「では、奴は何者なんだ?」

「わかりません。突然、現れて本物のオリバーと入れ替わっていたようなのです」

「本物のオリバーは、どこへ消えた?」

「既に、この世にはいないものと思われます」

「まさか、あのオリバーが……?」

モンクスの眼光が鋭く光った。

「それは断定できません」

「だが、村人たちは何も疑っていないのか?」

「村人は皆、彼をナンシーの遠縁の子供と信じています。ですが、ナンシー本人は違うようです」

「どういうことだ?」

「彼女はオリバーを、本物の自分の孫だと信じているのです」

モンクスは息を呑み、低く呟いた。

「オリバー.....俺が考えている以上の“食わせ者”というわけか」

フェイギンは無言で頷いた。


「で、メダム・エリーヌのほうはどうする」

「メアリー・ウォークナー、哀れですが、ほどなく命を落とすでしょう」

「そこまで酷いのか?」

「はい。せいぜい数日。今やカリマの言いなりです。退職を拒まれても、自ら抗う術を知らない。死ぬまで描かされ、死ねば密かに火葬にでもするのでしょう」

さすがのモンクスも鼻白んだ。

「その娘が退職などと言い出さなければ、そうはならなかった。―違うか」

「おっしゃる通りです」

そうだ、オリバー。

俺はおまえが何者だか知らない。

だが、娘の残酷な結末はお前が招いたものだ。

貧民が豊かになれば国力が増す?国富論をかじった革命家気取りの愚物め。

貴族も商人も議会も、貧民の教育や扶助に予算など割かぬ。

英国の富は海軍にこそ宿る。

もし海軍費を削って福祉に振れば、アジアの利権はたちまちフランスやオランダに攫われ、帝国は衰退へ転げ落ちる。

お前のしていることは、この国では“悪”だ。


冷徹な官僚、エドウィン・チャドウィックの顔が脳裏をよぎる。

中立を装う、したたかな男。

彼が中心となって制定した新救貧法は、最低予算で運用されるよう設計されたがゆえに、名ばかりの制度へと有名無実化した。

だが本心は読めない。

ウィットフィールド村は近年めざましい発展を遂げた。ブラウンロウ他の投資の効果は確かだが、原動力は工員と農民の消費の伸長。

オリバーは代弁者にすぎず、背後で糸を引くのはチャドウィックではないか。そう考えると、あらゆる点が腑に落ちる。

それにブラウンロウまで関わるなら、オリバーなど小事。

国と利権に関わる陰謀の匂いが拭えない。

モンクスはふと、机上の地図に目を落とした。

アジア各国の港には、海軍の紋章が小さく記されている。

海を支配し文明の伝播を担う、その印。

それを見つめながら、彼は小さく息を吐いた。

「あの方に報告すべきほどの話しか?」

ふと思いついたように小さく呟く。

「はっ?」

「いや、いい」

奇妙な笑みを浮かべるモンクスを、フェイギンは無表情のまま見つめていた。

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