第96話 反撃の狼煙
闇のロンドン。
「メダム・エリーヌ」の店舗は、息を潜めたように静まり返っていた。
オリバーは『隠形』を発動し、足音も気配も消して裏手へ回る。
湿った煉瓦の壁を伝い、黒い影のように中庭へと滑り込んだ。
見上げると、二階の窓にだけランプの明かりが灯っている。
鉄格子の奥、あの部屋……。
「あそこだ……!」
小さく呟き、オリバーはわずかに笑みを浮かべた。
『筋力強化レベル10』なら、あの程度の格子など容易に外せる。
だが、壁に手をかけた瞬間、
ゾクリと背筋を寒気が這い上がる。
反射的に身を翻した。直後、銀の閃光が闇を裂いた。
ナイフだ。石畳に突き刺さり、甲高い音が響く。
闇の中に、一人の男が立っていた。
外灯の明かりがわずかに照らす。
黒い外套、異様に静かな呼吸、殺気だけが際立つ。
間を置かず、男が地を蹴った。
まるで空気を切り裂くような無駄のない動き。
【回避不能】
ヨーダの警告が鳴るより早く、刃が眼前に迫った。
オリバーは反射的に『筋肉硬化』を発動。
衝撃音と共に、鋼を殴られたような打撃が全身を駆け抜ける。
次の瞬間、身体が宙を舞った。
「ぐっ!」
石畳に叩きつけられ、肺の空気が一気に抜けた。
【敵の戦闘レベルは10です。勝率0%。退却を推奨します】
…なに? レベル10? なんで、そんな奴が!..
オリバーは血を吐きながら立ち上がる。
足元が揺れ、視界が歪む。
男は動かない。ただ静かに、口元に笑みを浮かべていた。
「ほぉ」
低く、愉悦を含んだ声。
その瞳には、獲物を試すような光。
オリバーは低く身構える。
「誰だ、お前?」
「それをお前が知る必要はない」
男の声は無機質だった。
痛みの中で、オリバーは一瞬だけ見た。
男の顔に、見覚えがある。
【データベース検索中。この男はサワベリーの馬車を襲った者の一人です】
そうだ!あの時、指揮を執っていた男だ。
次の瞬間、空気が揺れる。
オリバーが見たのは、ただ残像だけだった。
「くっ!」
避けたと思った刹那、腹に重い衝撃。
視界が白く弾け、地面を転がる。
【肋骨に損傷、左腕に麻痺反応】
…レベル10ってこんなに強いのかよ?..
【レベル8までの経験値とレベル8→9がほぼ同じで、レベル9までの経験値の二倍とレベル9→10が同等ですからね】
…まじかよ!..
オリバーは歯を食いしばる。メアリーを助けたい。
その執念だけで立ち上がる。
オリバーは天眼智で思考速度を無限大まで引き上げて必死に考える。
最適解を導くために...。
【この男がいる限り強行突破は無理です】
…こいつは、何者なんだ?..
【恐らく報酬と引き換えに警備から暗殺までを請け負う非合法集団の一員と推測できます】
…ともかく、一旦撤退だな..
【正しい判断です】
…メアリーの身体は一日までもつ?..
【明日の夕方が限界です。それ以降であれば不可逆的な損傷を神経細胞が被ります】
…くそぉ……なんでこんな奴がここにいるんだよ?..
【カリマ個人の手配ではありませんね。それよりももっと大きな勢力が動いていることが明確に推測できます】
なぜメアリーがここまで過酷な仕打ちを受けなければならない。
大きな利権が絡んでいるのかもしれないが、ここまでする必要がある理由が知りたい。
「……メアリーを、返せ!」
鎌をかける。メアリーを護衛しているのであれば、反応があるはずだ。
そうでないのであれば、まだ、やりようがあるのかもしれない。
「なるほど、あの娘が目的か」
男が首を傾げる。
「ならば、俺の仕事だ」
最悪の返答だった。
呼吸を整え、必死に『生存限界』へブーストをかける。
だが、それより早く、拳が再び迫った。
咄嗟に右腕を交差して受け止める……骨が軋む音がした。
次の瞬間、頭上から蹴りが降りた。
地面に叩きつけられ、世界が逆さになる。
【意識低下。視覚処理、30%低下】
…やばい……殺される。
オリバーは最後の力で『隠形』を再発動。
身体の輪郭が闇に溶けた。
「消えたか。奇妙な術を使うやつだな。だが、匂いは消せんぞ」
男がゆっくりと視線を動かす。
オリバーは這うように壁際へ。
肺が焼け、喉の奥に血の味。
朦朧とする意識の中で、必死に可能性を探る。
ここで諦めてたまるか!執念だけで意識を保っていた。
路地へ転がり落ちると、『隠形』が解ける。
壁の上には、男が冷たい目で見下ろしていた。
ゆっくりと飛び降り、オリバーへ向かってくる。
血反吐を吐きながら、オリバーはもがき、這いずって逃れようとする。
万事休す。
その時……。
「何をやってるんだ!」
三人の男が、こちらへ駆け寄ってきた。
「ちっ!」
男は身を翻し、その場から消える。
三人のうちの一人がオリバーを抱きかかえた。
「大丈夫か、おまえ?」
『生存限界』が最大効率で働き、急速に回復が始まっている。
口元の血を拭い、オリバーは立ち上がった。
「ありがとうございます。助かりました」
男の顔に見覚えがある。必死に記憶を手繰る。
【メアリーさんと同期中、お針子部屋へ侵入してきた三人の雑誌記者です】
そうだ、雑誌記者!
彼らの力を借りれば、メアリーを連れ出せるのでは?考えが閃く。
【いい考えです。あなたは運が良い】
「助けていただいて、本当にありがとうございます。体は大丈夫です」
「そうか、良かった。さっきは殺されるのかと思って、肝が冷えたぞ。ハハハ」
明るい目の男が陽気に笑う。
「もしよければ、何かお礼をさせていただけませんか?」
「なに? 何を言ってるんだ。ありがたい申し出だが、今が何時だと思っている。それにその怪我だ」
すでに午前三時。非常識な申し出だが、どうしても話が必要だった。
ここはスキルの使いどころだ。『説得レベル10』を発動。
【彼らは空腹です】
…ナイスフォロー!..
ヨーダの絶妙なアドバイス。
「いえ、俺が腹が減ったんですよ。ついでにご一緒にどうです?」
ロンドンの街だ。朝方まで開いている店があることは聞き知っていた。
男は目を丸くしてオリバーを見る。
「腹が減っただと?お前、見かけによらず豪胆なやつだな。気に入った。近づきの印に飯に付き合おう。酒も飲むか?お前ら、いいよな」
「ああ!いいぜ。腹がペコペコだったんだ」
「俺はジェームズ。こいつはモリス、そしてマット。よろしくな」
四人は意気投合し、夜の街の飯屋を目指した。
ジェームズが知っている店があるというのでついていくと、うら寂れた路地裏に出た。
街灯の光が薄く滲み、石畳に鈍い光を落としている。
たどり着いたのは、古びた食堂だった。
看板の灯りは消えかけ、窓の隙間から漏れるランプの光だけが生きている。
「おう、マリィ、まだ開いてるか?」
ジェームズが扉を叩くと、年配の女主人が顔を出した。
「徹夜で仕事かい?また、なにを取材しているのやらね。入りな」
「ありがたい!」
「パンとスープくらいしかないけどいいかい?」
「腹に入れば何でもいいさ」
「おや、そっちの坊や、怪我してるのかい?」
女主人はオリバーの襟元についた血を見て顔を顰める。
「ああ、大したことないんです」
「ちょっと、やっちまってな」
そう言ってジェームズが笑う。
「やっちまったって、なにをだい?喧嘩かい?まあいいさ、入りな」
奥まったテーブルに腰を下ろす。
湯気を上げるポットと、焼きたてのパンの香りが広がった。
その温かい匂いだけで、張りつめていた神経が少し緩む。
「なあ、オリバー。おまえ、あそこでなにをやっていた。泥棒ってわけじゃないんだろ?」
どうやら「メダム・エリーヌ」の中庭から壁を乗り越えて出てくるところを見られていたらしい。
「あそこに、俺の知り合いの姉が監禁されています」
オリバーは事実をありのままに、淡々と話した。
そのほうが彼らには話が早いと思ったからだ。
彼らは、カリマのデザインは本当はメアリーのものではないかと疑い取材をしている。
「その姉っていうのは、お針子だな」
「そうです。なぜ、そう思ったのですか?」
「俺たちは、あそこのお針子の取材をしている。おまえは何を知っている?」
「俺の話を信じてくれるんですか?」
「内容次第だな。だが、話してみろ。俺たちは記者だ。おまえの助けになるかもしれないぞ」
オリバーは少し考え込むそぶりをしてから、ゆっくりと口を開く。
「俺の知り合いの姉はメアリーと言います。今の状況は……」
「ちょっと待て!メアリーと言ったか? メアリー・ウォークナーのことか?」
「は、はい。そうですが、それがなにか?」
「ああ!」
ジェームズは天を仰ぐ。
メアリーの名前を出すと、ジェームズは予想通りの反応をしてくれた。
「助けてくれるんなら、俺は知っていることを何でも話します」
何といっても、オリバーはメアリーの生い立ちから今の状況まで全てを知っている。
この記者たちに全て話せば記事になるかもしれない。
だが、それでは足りない。
彼女は少なくとも明日中に助け出して、治療を始める必要があるのだ。
「わかった。記録を取るから話してくれ」
「待ってください。俺はさっき、あそこへ忍び込んでメアリーさんを連れ出そうとしました。それくらい状況は緊迫しています。話はします。その代わり、明日、彼女を連れ出す手伝いをしてもらえませんか? 緊急なんです」
「どういうことだ」
オリバーは、かいつまんで事情を説明した。
「なんだと! 監禁して、阿片を使って強制的にデザインをやらせているだと?」
ジェームズは目を血走らせ、怒りを露わにする。
オリバーはメアリーの置かれている現状と、これまでの経緯を詳細に話す。
知りすぎているとも言えなくはなかったが、ジェームズ以下二人の記者たちはそんなことよりも、あまりの身勝手な理不尽に憤慨やるかたない様子で怒り狂った。
正義感の塊のような人たちだった。
オリバーは、ヨーダが提案した作戦の概要を話す。
その緻密な内容に三人は最初こそ驚き唸りつつも、やがて猛烈な闘志を見せてくれた。
「まず、メアリーさんの話を俺が原稿に書きしるします。あなたたちの原稿として使いやすい様式でまとめますので、それを利用してください」
「わかった。だが、それが使えるかどうかはわからんぞ」
「はい、それは読んでみて判断してください」
「原稿が出来たら、一緒に俺の知り合いの弁護士のところへ向かいます。そこでこの原稿を見せます。彼にメアリーの『仮保護命令申請書』の作成をしてもらいます」
「なるほど。だが、承認には時間がかかるぞ」
「多分、ディックさん……あ、弁護士さんですが……コネがあると思うんですよ。少し金がかかりますが、俺が払います」
「なるほど。それなら行けそうだな」
「次に、俺は知り合いの医師のところへ行って同行をお願いします。ジェームズさんたちはディックさんと警察に行ってください。ここでも少しお金を使いましょう。五ポンドで足りますか?」
「それくらいあれば、何とかなる」
「では、警察官とディック弁護士さん、そしてあなたたちは保護命令書を持ってメダム・エリーヌへ向かってください。そこで保護を要求してください」
「なるほど。素直に渡すかな?」
「ここがポイントです。彼らは虚偽を主張して拒否してくる可能性が高い。ですが、それを証明する義務は向こうにあります。そこで医師のトーマスさんに診断をお願いします」
「なるほど、完璧だ。早速取り掛かろう。マリィ、原稿用紙があるだろ。俺が預けてたやつ」
「ああ、これかい?もう捨てようかと思っていたところだよ」
「冗談は顔だけにしてくれ」
「なんだって!」
分厚いバインダーを振り上げ、ジェームズの頭に叩き下ろす。
「痛て!」
「確かに渡したよ!」
「乱暴だなあ〜」
幸運なことに、そこにはタイプライターまであった。
紙を受け取ったオリバーは、メアリーの状況をセンセーショナルに書きしるし始める。
その凄まじいスピードに、三人の記者は目を見張った。
三十分で出来上がった原稿を、次々に三人が赤字で添削していく。
それをオリバーが、驚くべき正確さでタイプライターで清書していった。
「おまえ!うちで働かないか?」
「いえ、今はそれどころじゃないので」
「それもそうだな」
「写真があったら完璧なんですが……」
「あるぞ!」
マットがニヤリと笑い、バインダーを開くと数枚の写真が出てきた。
お針子部屋の少女たちの写真だ。
いずれも痩せこけ、栄養失調の兆候が見て取れる。
しかも、狭い部屋にひしめき合い、とても長時間働ける環境ではなかった。
センセーショナルな写真と言えた。
俺たち四人は互いを見つめ、ニヤリと笑いあった。
オリバーは幸運に感謝しつつ、反撃の時が来たことに身体が震える。




