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第94話 悪夢

カリマは怒りと恐怖が入り混じっていた。

だが、やがてその怒りが恐怖を凌駕する。

…あの小僧!..

カリマはギリギリと歯を噛みしめた。

こともあろうに、失禁した自分を見下ろし、嘲笑ったのだ。

自らを救貧院出身の孤児出身と言い放ち、おまえはそれよりも卑しい...と言わんばかりに。


顔を両手で覆う。

怒りと屈辱で、涙が止まらなかった。

なぜだ、なぜこんな仕打ちを受けねばならない。

幼い頃のカリマの生活は、ギャバン家の下働きと変わらなかった。

家人たちはおろか、女中や下男にまで見下され、気の弱い父は一度として彼女をかばわなかった。


それでも社交界へデビューできたのは、美しかった母のおかげだ。

父と母の仲は冷え切っていた。

だが、母とギャバン家当主との間に何らかの取引があったのだろう。

理由など、どうでもよかった。

とにかく、デビューさえできれば。

しかし、社交界は彼女にさらに残酷な現実を突きつけた。

誰も話しかけず、目も合わせない。

舞踏会のたびに、屈辱の時間だけが積み重なっていった。

「ちょっと、いいかしら?」

ある日、伯爵令嬢に声をかけられた。

嬉しかった。

初めて誰かが自分に話しかけてくれた。

...そう思った。

だが違った。

「あなた、もうこれ以上、舞踏会に来ないでくださる?」

「……」

意味が分からなかった。


「どのようなご身分の方か存じませんが、ここは“ふさわしい方”だけの場ですの。あなたはご自分をふさわしいとでも?」

その言葉と嘲る笑みが、周囲にもそれに同調するような嘲笑が。

そのことは今もカリマの胸に棘のように刺さっている。


ギャバン家の当主が亡くなり、跡を継いだのは17歳の長男。

肥満で病弱な若者だった。

跡取りをつくるためだけにカリマは選ばれた。

...なぜ、こんな豚と。..

屈辱に嫌悪感が加わる。

結婚後も家人や使用人の態度は変わらない。

冷たい視線は、彼女をゴミでも見るようだった。


22歳でロンドンに出てからは、ただ必死に働いた。

ギャバン家の財産と、フランス貴族の末裔という称号だけを頼りに。

やっとの思いで守ってきた誇りを、あのオリバーという男は踏みにじったのだ。

孤児がどんな悪事を重ね、人を騙してのし上がったのかは知らない。

だが、貴族である自分を見下し、嘲笑った。

...許せない。..


カリマは汚れた服を脱ぎ、身なりを整えた。

ワインを飲んでも心は鎮まらない。

オリバーへの憎しみは深く、同時に恐ろしくもあった。

もう二度と、あの目を見たくはなかった。

やがて、憎悪は無力なメアリーへと向かう。


「辞めさせてたまるもんか」

カリマは低く呟き、監督役のネリーを呼んだ。

「メアリーだが、今日から個室で作業してもらうよ。急ぎの注文が入った」


「彼女じゃなきゃだめですかい?体調が悪そうでしたが……」

「ああ、メアリーでなきゃダメなんだ。具合が悪いなら、これを使うといい」

そう言って渡したのは、阿片だった。

労働者たちの安らぎであり、同時に破滅の象徴。

「マダム、いいんですかい?これ、使っちまったら……」

「知らないねぇ。あんたが嫌なら、他に回すよ」

5ポンド紙幣を手渡すと、ネリーは獰猛な笑みを浮かべた。


メアリーは翌朝、奇跡のように体調が回復していた。

体が軽く、針を持つ手が喜びに震える。

その日、カリマに呼ばれた。

「メアリー、朗報だよ。ブラウンロウ伯爵様が、あんたの借金200ポンドを建て替えてくださった」

「えっ……!」

夢のようだった。

出ていける。ホリーのもとへ帰れる。

「その前に、ひとつお願いがあるんだよ。これを仕上げてほしい。最後の仕事だ。5日もあれば終わるだろう」

メアリーは頬を紅潮させて頷いた。

「分かりました!喜んで!」

カリマはニヤリと笑い、ネリーと視線を交わした。


狭い個室。鉄格子の窓。

それでもメアリーの胸は希望で満ちていた。

翌朝、ネリーが紅茶を運んできた。

「さあ、飲みな。マダムが特別に淹れたんだ」

紅茶の香りに混じる、かすかな苦味。

体が温まり、作業がはかどる。


二日目。

紅茶が切れると、胸に奇妙なざわめきが生まれた。

「具合が悪いのか?これを飲めば楽になる」

小瓶の中の粉。

阿片の粉末だった。

「これ……何ですか?」

「薬だよ。マダムの特別製だ」

メアリーは飲み干した。

波のような安堵が体を包み、針の音が心地よく響く。

夜になると、もうそれなしでは眠れなかった。


三日目。

吐き気、発汗、渇望。

紅茶の味を思い出すだけで、胸がざわめく。


店で大声でメアリーの声を呼ぶ声が聞こえる。

誰かが怒鳴り込んできたようだ。

怒声と悲鳴!

乱暴になにかが倒れる音がした。

だが、メアリーはそれには何の興味も感じなかった。

ひたすらあれが欲しい。


「早く……ネリーさん、お願い……」

トレイの上の瓶は、昨日より大きかった。

飲んだ瞬間、全身を駆け抜ける快感。

だが、夜には地獄が戻る。

幻覚。悪夢。声。

ホリーの笑顔が悪魔に変わる。


時々誰かが頭の中で何かを言っている。

目を凝らしても視界がぼやけて焦点が合わない、それがなんであるかがついに分からなかった。


四日目。

体は崩れ、魂は針に縫い付けられていた。


その夜もなにかが自分の足にまとわりついてくるような感覚。

それは一瞬、黄金の毛並みの子犬になったが、直ぐにむなしく砕け散った。


五日目。

メアリーは壊れていた。

瓶を握りしめ、床にうずくまっていた。

カリマが入る。

「どうだい、メアリー。まだ出ていきたいかい?」

返事の代わりに、嘔吐。

「あれが欲しいのかい?」

「おねがい……」

「ネリー!」

ネリーが瓶を押しつけ、無理やり飲ませる。

短い安堵。すぐに再燃する渇望。


夕刻。

カリマは仕上がった作品を見下ろし、冷たく言った。

「弁護士が来ている。さぁ、あんたは自由だ。……だが、この紅茶はもうお預けだよ」

「そんな……お願い……」

「おや、ここに残りたいのかい? 私は大歓迎だよ」

メアリーは涙を流し、頷いた。


カリマは静かに笑う。

鍵が、カチリと閉まる音がした。

メアリーの自由は、阿片の鎖に変わっていた。

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