第92話 歪んだ野望
カリマ・ギャバンの先祖は、フランス北部ノルマンディーの小貴族であった。
しかし、革命の波に飲み込まれ、家は没落した。
祖父の代に至り、彼らはイングランドの遠縁にあたるギャバン家を頼って、バースへと移り住んだ。
だが、そこでの生活は豊かとは程遠く、むしろ貧困のどん底だった。
カリマは、フランス貴族の誇りだけを支えに、この腐ったような窮乏の日々に耐えていた。
貧しさは彼女の心を蝕み、いつしか他者の苦痛を嘲笑う歪んだ棘を生み出していた。
十四歳のとき、ギャバン家の後押しを受け、彼女は社交界へのデビューを果たした。
しかし、野望に燃えるカリマの希望は、すぐに失望へと変わった。
痩せてひょろ長く、背だけが高い彼女は、貴族のご令息たちの目を引くことが、ついになかった。
嘲笑の視線が彼女の肌を刺すたび、心に毒が溜まっていった。
十六歳のとき、カリマはギャバン家のアレンと婚姻した。
だが夫は家督を継ぐやいなや病に倒れ、早逝してしまう。
カリマが夫に魅力を感じたことは一度もなかった。
彼女にとって婚姻とは、跡取りを残すための義務にすぎなかった。
それでも、アレンは小貴族としては幾ばくかの財産をカリマに残していった。
夫の死を悲しむどころか密かに安堵した。
彼女の野望にとって夫はただのお荷物でしかなかった。
社交界には良い思い出はなかった。
だが、一度でもあの華やかな世界に所属していたという事実は、彼女の誇りとなった。
その誇りが、彼女を支える唯一の灯火であった。
どうしても、あの憧れの世界と関わりたい。
そのために、どんな犠牲も厭わなかった。
二十二歳でロンドンへ出たカリマは、なけなしの財産を叩いて、宮廷専門のドレスメーカーを開業した。
店名は「メダム・エリーヌ」と名付け、彼女の亡き母の名を冠した。
最初の十年は決して順調とは言えなかったが、それでも少しずつ顧客を増やし、自転車操業でなんとか生き延びた。
デザインはカリマ自身が担い、お針子は救貧院に依頼すれば、ただ同然の給金で雇うことができた。
正直に言えば、救貧院の存在がなければ、カリマの店はとうの昔に破産していたに違いない。
あの薄汚れた孤児どもは、彼女の野望を支える捨て駒でしかなかった。
十数年の苦闘の末、徐々にメダム・エリーヌは宮廷での一定の人気を獲得するに至った。
カリマのデザインしたドレスがファッション雑誌を飾ることすらあった。
カリマは自分の才能が認められたことに有頂天となった。
受注量は数倍に膨れ上がり、店を拡大した。
それに伴い、お針子の数は30人にまで膨れ上がった。
だが、それは新たな地獄の始まりでもあった。
お針子の管理は、一瞬たりとも気を抜くことはできなかった。
彼女たちは無教養で怠惰、多くは醜く、まるで動物以下にしか見えないことすらある。
痩せこけ、腫れ上がった手足で針を握る姿は、吐き気を催すほどだった。
特に社交シーズンの繁忙期には、彼女たちに対する苛立ちは頂点に達する。
納品が遅れる。
それが絶対的に許されることではないことを、全く理解していないのだ。
「出来ません!休ませてください!胸が苦しいんです!お腹がすいて倒れそうです!」
何たる怠惰!
ご令嬢の方々のドレスが届かない。
それがどれほど罪深いことかが、理解できていないのだ。
あの惨めな叫び声が、カリマの耳に煩わしい羽虫の羽音のように響く。
「カリマさん、これ以上締め付けるとまた、脱落しますぜ」
監督を任せているネリーが、無表情に報告をする。
ネリーの目は、針子たちをただの肉塊のように見据えていた。
「脱落!良い身分だね。ああ上等だ。働かないなら鞭で打て。それでもダメなら飯は抜きだ。皮が剥がれ血が滴ろうが、構わん。倒れたら路地に放り出せばいい」
「ですが、一人倒れると、その分が他の負担になるんで、また、倒れますぜ」
お針子は一人倒れると連鎖的に倒れることがある。
繁忙期にそれが起こると、納品が遅れる可能性が出てくる。
たとえ総崩れになっても、繁忙期は乗り切らなければならない。
それさえ終われば、また、救貧院から連れてくるだけだ。
食い詰めた孤児など、いくらでも補給はできる。
あの哀れな目をしたガキどもを、いつでも引きずり出せるのだ。
「ともかく、あんたに任せたからね。よろしく頼むよ」
そう言ってネリーに1ポンド紙幣を握らせる。
彼女は歯を剥き出し、残忍な笑みを浮かべてそれを受け取った。
お針子のことなどにかまっている余裕はなかった。
ただの消耗品。
使い潰せばいい。
ある日、デザインの手伝いのためにお針子を一人、自室へ寄こさせた。
ネリーに連れられてきたのは、いつもの通りメアリーという娘であった。
細い体躯に、怯えた瞳。
救貧院育ちの典型的な惨めさだ。
デザインの紙を整理させ、部屋を片付けさせた。
少し休憩しながらワインを飲む。
無言で恐る恐る部屋の掃除をしている娘を見ていると、いたずら心が起こる。
いや、正確には、残酷な衝動だ。
この娘の怯えを、もっと引き裂いてやりたい。
「あんた、このドレスはどうだい。美しいと思いかい?」
「えっ、はい……とても美しいと思います」
蚊の鳴くような声で答えた。
震える唇が、惨めさを増幅させる。
「だが、これはまだ中途半端なんだよ。仕上げはこれからだ。あんた、私の仕事手伝ってくれるんだってねぇ。ネリーからそう聞いたよ」
カリマの仕事の手伝いを嫌がる娘は多い。
全く恩知らずな話だ。
誰のおかげで生きていられるかわかっていないに違いない。
嫌がらないのはこの娘だけだ。
だからこそ、試したくなる。
その偽善を粉々に砕いてやりたい。
「はい……」
「ふん……」
カリマは鼻を鳴らす。
そんな自己犠牲的な返事を聞くと、無性に腹が立つ。
ここで働くお針子など、一人も信用できるものなどいなかった。
少し意地悪をしてやろうと思う。
いや、もっとだ。
彼女の心が壊れるまで。
「じゃあ、このデザインの仕上げをしておくれ。私は今日はもうへとへとだよ。これを明日までに仕上げないと、大変なことになる。わかるかい?お客様への納期が遅れるんだ。損失は50ポンドほどかな。失敗したら、あんたの給金から天引きだ。払えないなら、体で払ってもらうよ。わかるかい?」
メアリーの顔はさっと蒼ざめ、声が震える。
瞳に涙が浮かぶ。
「あの、私には……」
「なんだい!出来ないってのかい」
わざとヒステリックに叫んでみせる。
娘は泣きそうな顔で蹲る。
その顔を見ると、鬱屈した気持ちが少しだけ晴れるような気がする。
いや、もっとだ。
快楽に近い。
ネズミをいたぶる猫の本能。
いや、猫など可愛いものだ。
彼女はもっと獰猛な獣だった。
「申し訳ありません」
「なにを謝っているんだい。私は手伝いを頼んでいるだけじゃないか?じゃ、頼んだからね。」
……1時間後、娘は恐る恐る仕上がったデザインをカリマの元へと持ってきた。
カリマは怪訝な顔で娘を見る。
元々捨てようとしていた失敗作だ。
まさか、本当に持ってくるとは思いもよらなかったからだ。
この娘の絶望を、もっと味わいたかったのに。
「捨てときな」
「えっ!」
驚きと同時に安堵した表情に、再び残忍な嫌がらせがしたくなる。
「待て!見せてみろ」
震える手でそれを渡す。
それを見て、カリマは驚きで目を見開いた……
出来上がったデザインは完全ではなかったが、卒なく仕上がっていた。
そして、これを縫いあげて仕上がったものを想像するとなぜか心が躍る。
それは天性の才能であるに違いない。
...なぜ、こんな小娘が..
この娘はカリマが持っていないなにかを神から与えられているのだ。
カリマはデザインセンスは素人ものではない。
長年培ってきたものがある。
そのカリマの目で見て、このドレスを着た令嬢は間違いなく注目を浴びる。
そのことが直ぐに分かった。
「ふん!バカなことだ」
だが、すぐにその考えを改める冷笑を浮かべる。
たまたま偶然に出来上がった。
そうに違いな。
そうでなければ、フランス貴族の私よりあの薄汚れた小娘のほうが優れているということになるではないか。
天地がひっくり返ってもそんなことが起こる訳ななたっか。
だが、その作品自体は自分のものとして発表した。
それはファッション誌『イングリッシュ・ウーマン』の巻頭を飾った。
この日を境に「メダム・エリーヌ」はロンドンでも有数の高級店にのし上り、ファッション雑誌の常連と化す。
メアリーはカリマの野望の貴重な道具となる。
頻繁にカリマに呼ばれるメアリーを周囲は特異な目で見始めていた。
何かあると彼女の相談する。
いつの間にかお針子たちの中心人物であった。
だが、カリマは彼女が仕上げた作品を発表するたびに怒りと得体のしれない毒が心の底のに汚泥のように溜まっていくのを感じていた。
三文雑誌の記者が店に乗り込んできた。
カリマの作品は大きな評価を受けると同時にやがてゴシップの対象となっていった。
だが、今のカリマにとってゴシップなど簡単に踏み潰す自信があった。
有力な貴族や商人には十分な鼻薬を嗅がせてある。
ゴシップなどしょせんうわさに過ぎない。
真実は力があるものが作るものだ。
そして今のカリマにはその力がある。
メアリーが店を辞めたいと言っていた。
...バカな娘だ..
おまえのような孤児にはそれを決める権利などない。
そのことを思い知らせてやった。
彼女は200ポンドの負債を負うこととなる。
腹の底から笑いが止まらなかった。
これで彼女は一生カリマの所有物に等しい。
困ったことにメアリーの体調が急変する。
このままでは死んでしまうのではないかと思ったが、それはそれで構わない。
既に「メダム・エリーヌ」はブランド化して不動の地位を得ている。
金を出せがいくらでもデザイナーを雇えるのだ。
これで孤児の小娘に神が気まぐれで与えた才能も闇へを沈んでいく。
それで良い。
そうなればさぞさっぱりとすることだろう。
だが、意外な事態が起こる。
オリバーという男がブラウンロウ伯爵を伴ってやって来た。
200ポンドを建て替えるのでメアリーの退職を認めろと言うのだ。
相手は大英帝国でも有数の富豪だ..