第90話 究極の選択
【メアリー・ウォークナーはこの時代の歪の犠牲になった代表的な人物です。ディケンズによって表現された仮想の人物オリバー・ツイストもその一人ですが、この時間軸ではあなたが彼の役割を担って、現実に存在しています。それに対して彼女もまた、この時代の歪の犠牲者の一人です。違うところは、あなたの前世では彼女は特別な運命を背負って実在した人物であるということです。】
...どんな、運命なんだよ?それよりなんで救ったらいけないんだよ?..
【メアリーは重要な歴史イベントに関連しています。それは彼女の性格や能力、業界での影響力に強く影響しています。】
...歴史改変になるってことか?でも、それなら既に俺が改変しまくってるだろ?..
【そうではありません。ここはあなたの前世とは類似の並行世界であって、未来は不確定です。】
...じゃ、未来への影響はないんじゃないのか?そもそも歴史はこれから作られるんだろ?..
【その通りです。ですが、メアリーのような大きな歴史的イベントに関わる人物の場合、話は別です。】
...ちょっと待てよ。彼女はただのお針子だろ?それがなんでそんな大きなイベントの中心にいるんだよ?..
メアリー・ウォークナーの死が引き起こしたメダム・エリーヌの過酷な労働環境の報道は、新聞で大々的に取り上げられた。
この事件は、公衆の強い憤慨を呼び、「針子の白人奴隷制」と大きく報道されることとなる。
結果、彼女の死は議会で議論されるほど巨大な社会的バックラッシュとして広がる。
【その社会的バックラッシュが極めて重要です。労働者階級への選挙権の拡大や教育法、労働環境の改善に関連しています。つまり彼女は社会的変異点です。】
...だけど、必ずしも彼女がその役割をする必要はないんじゃないか?..
【その通りです。彼女が生き残っても、別の変異点がいずれ現れるでしょう。ですが、バックラッシュの発生は彼女のキャラクターに依存して発生することを忘れないでください。同様のキャラクターが発生するまで長ければ10年かかる場合もあります。】
さらにヨーダは彼女の死によって発生する悲劇的感情と生き残った場合の感情を数値化して見せる。
【死:25vs生:75】
圧倒的に死のほうが全体の悲劇的感情が少ない結果が数値化される。
【あなたは『天眼智』を使って、この結果をシミュレートできます。さらに『超共感』で個々の感情を共有できます。『平静』と『精神強化』を最大値に設定して体験しますか?それによってさらに人間離れした精神機能が追加される可能性があります】
...いや、やめとく..
なんかゲーマー心を揺さぶるようなことをヨーダが言ったような気がしたが、今はそれどころではないのでスルーする。
つまり、メアリーの死ぬことで世界がより平和になる。
何の罪もない無力な女にそんなバカげた運命が設定されているのだ。
究極のマキャベリズム。
そんな理屈で、命を見捨てろってのか?
怒りの感情を抑えることが出来ず、拳が震え、テーブルの下でコーヒーカップを握る手が白くなる。
「どうしたんだ?急に黙り込んで……」
ホリーが怪訝な顔でそんなオリバーを見つめていた。
「ホリー、お金は何とかする。だからこれ以上無鉄砲なことは止めてくれ。」
オリバーの真剣な眼差しにホリーは目を見開き、思わず下を向く。
そっとホリーの手を両手で包む。
「えっ!な、なに?」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔を上げる。
「約束してくれ。そうしたらなんとかして見せる。ホリー、頼む、俺を見て約束してくれ」
ホリーは顔を上げる。
その目に希望の光が灯るのが見えた。
「わかった。あんたを信じていいんだね?」
オリバーは小さく頷く。
人を説得するには誠意だ。マニュアル通りできた自分を褒めてやりたい。
【驚かさないでください。プロポーズでもするのかと思いましたよ。】
その言葉にハッとなって手を引っ込める。
「じゃ、俺はまだ行くところがあるからホリー、お前先に行けよ。姉さんに会うんだろ?」
気まずさをごまかすように言って、顔が赤らみそうになるのを『平静』で必死に抑える。
「そっ、そうか。わかったよ。じゃな!」
店を出てホリーと別れる。
店を出ると早速、ヨーダのお小言が聞こえてくる。
【他人の運命を背負うなんて愚か者のすることですよ】
...わかっているよ。でも、お前ならどうする?..
【まあ、助けるって決めてしまったんなら、お金を用意するんですね。】
...そうだよな。じゃ、とりに行くか!..
【いえ、その必要はないでしょう。200ポンドは大金ですが、ブラウンロウ氏には小銭です。それにメアリーの価値は200ポンドどころではありません】
だが、あのじいさん証拠を見せろ位は言いかねない。
ホリーの服を見せれば信用するか?
それよりも先にやらなければならないことがある。
『天眼智』を使ってメアリーと『超共感』をして、その状態で『生存限界』を発動させる。
ミトコンドリアを活性化させて劣化細胞の除去をして、健康体を取り戻すのだ。
この方法でよほどのことがない限りほとんどの病気を治すことが出来ることが分かってきた。
ただし、膨大な量の『心的エネルギー』が消費される。
それが枯渇した場合、共感対象の闇に術者が取り込まれる危険性が高い。
強力であっても使い勝手は最悪の技能だった。
ゲームで言えば『エグ・ゾーダス』や『メテオ』クラスの災害級の破壊力と引き換えに術者はぶっ倒れてしばらく使い物にならなくなる。そんな技能と言えばわかってもらえるだろうか。
幸い『天眼智』が発現した結果、『心的エネルギー』の最大値は10倍に増えていた。
なんとかやり遂げる自信はあった。
もう一つの問題はメアリーを助けた後のことだ。
メアリーの死によって起こったはずの社会的バックラッシュをどうやって意図的に起こさせるかだ。
...エドウィンさんに相談するしかないか..
エドウィンと話しているとなぜか喧嘩になりそうになる。
そう思うと気が重くなるが仕方がない。
やることは決まった。
後はそれを実行するだけだ....