第89話 メアリー・ウォークナー
「悪かったな。恥ずかしいとこ見せちまって」
少し落ち着いたのか、ホリーは涙をぬぐって鼻をかむ。
ホリーの見せた女の魅力に不謹慎とは思いながらも内心で心が揺らぐ
あの勝気で工場の女工の間ではボス猿のようなこの女の涙を見る日が来るとは思いもよらなかった。
涙を見せる女を無条件に助けるそれは男の本能なのだろうか?
「なあ、ホリーなにか事情があるなら聞かせてくれないか?俺が役に立つことがあるのか?」
カフェ・ロイヤルの柔らかな午前中の光が、テーブルの銀食器に反射し、彼女の切れ長の目をより深く見せていた。
スコーンを一口かじったかと思うと、フォークを置いて、ゆっくりと息を吐く。
オリバーはコーヒーカップを握りしめ、彼女が話し始めるのを待った。
「姉さんの名前は、メアリー・ウォークナー。……私より三つ上で、いつも私を引っ張ってくれたよ。小さい頃、両親が病で相次いで死んでから、二人でロンドンの路地を這いずり回った。メアリーは針仕事が上手くて、十歳の頃から近所の仕立て屋で下働きを始めたんだ。『ホリー、針は魔法の杖だよ。糸一本で世界を変えられる』って、笑いながら教えてくれたっけ」
ホリーの視線が、窓の外のリージェント・ストリートに遠くをさまよう。
「華やかな社交シーズン。姉さんにとって地獄が始まる。あんた百姓のせがれ何だってな。私らのような一度救貧院へぶち込まれてそこから奉公へ出されたもんがどうなってるか知らねぇだろ」
ブライアンは村人にはオリバーはナンシーの遠縁の農民の子だと説明していた。
「わたしは運が良かった。5歳の時にチャドウィック様の繊維工場へ送られた。他の工場と違って待遇は悪くなかったからな。それにあんたやエリザベスさんが現れた。驚いたよ。工場で働くことが決まって時、早死には覚悟したからね。だけど、すっかり変わった。ありがたいと思ったよ。だが、姉さんは違った。」
オリバーは工場の喚起の悪さと栄養失調で死んだジョーイのことを思い出していた。
「上流階級の皆さんが憧れるメダム・エリーヌの裏方がどんな地獄だか教えてやろうか!」
オリバーは声を出すことすらできなかった。あの地獄はまだ、続いていたのだ。
ナンシーに出会ってオリバーは救われた。
だが、それは稀な幸運に違いなかった。
「仕立て屋のお針子部屋の空気の悪さは工場の比じゃない。狭い部屋に30人も押し込められて、ろくな食事も与えられず、水とパンくずだけで毎日14時間働き続け続けるんだ。1年も働けば肺がやられる。息が苦しくて眠ることも出来なくなる。だが、それはまだ、地獄の1丁目だ。社交シーズンになると30時間ぶっ続けも当たり前になってくる。店主にしてみればシーズンを乗り切る方がお針子の命なんかよりよほど大事なのさ。」
オリバーは自身の子供時代のトラウマが刺激されて一瞬汗が吹き出し、こぶしを固く握りしめる。すぐに『平静』スキルを発動させて冷静さを取り戻す。
「ちょっと、待ってくれ。つまり、今の仕事を辞めたい。そう言うことか?」
あのデザインをした天才を労せずして手中にできる。
棚から牡丹餅とはこのことだ。
ホリーには悪いが今はそのことのほうが気になった。
「そう簡単じゃないんだ。」
馬車の車輪が石畳を叩く音が、かすかに店内に響く。
ビクトリア時代のロンドンは、そんな音で満ちていた。
華やかな表通りと、裏路地の飢えの叫びが、決して交わらないように。
「メアリーは、ただの針子じゃない。彼女のデザインのセンスは、まさに天から授かりものだ。デザイナーが描いた下手くそなスケッチを、彼女が直すだけで、客の貴族夫人たちが『これはパリのクチュールよ!』って目を輝かせるんだ。店主自身のデザインより姉さんのほうが評価されちまった。それが姉さんの運の尽きさ。」
「だから、さっさと辞めてうちに来いよ。」
オリバーとしては早くホリーの姉メアリーを専属のデザイナーとして確保したかった。
「だから、そう簡単じゃねえって言ってんだろ!」
ホリーは苛立だち、オリバーを睨む。
ある日、店主はメアリーの描いたデザインスケッチを見て自分の仕事の手伝いを命じる。
もちろん女の身でろくな教育も受けていない救貧院出身の少女にまともな仕事など任せられる訳はなかった。
自分が命じたとおりにスケッチを仕上げさせる。
単調作業のつもりで仕事を任せたのだ。
だが、彼女の精緻なスケッチセンスは店主の想像を上回った。
まるで、魔法を見ているように店主の描いたデザインが美しいドレスとなって仕上げられていく。
店主は喜びメアリーはしばしば、お針子の仕事のくわえてデザインの仕上げも任されるようになった。
その時点ではまだ、メアリーは使い勝手の良い道具に過ぎなかった。
だが、あの気難しいサザーランド公爵夫人からの注文を受けたことで事情が変わる。
女王への贈り物としてのドレスの注文であったが、どのようなデザインを提示しても夫人は納得しない。
このままでは店主の面目は丸潰れになる。そんな強い焦燥感に落ちる。
ある日メアリーは店主に呼ばれた。
「高貴な方のドレスだ。女王が家臣を謁見する姿を思い浮かべてみるのだ。華やかだが威厳に満ちて誰もが深い忠誠を持つ。そんなデザインが私の指示だ。お前は何も考えなくていい。今言われた通りのデザインを描いてみなさい。」
女王と言われて直ぐに写真でしか見たことのないビクトリア女王の姿が思い浮かんだ。
あれこれと考えていると根っからの服飾のデザインが好きなメアリーだ。楽しくなってきて、出来上がったものはメアリー自身、自分でもほれぼれするような会心の出来で会った。
店主にそれを渡すといつもの通りお針子の仕事に戻る。
サザーランド公爵夫人は満足げに頷いた。
「これよ!これこそが陛下にふさわしいものです。ご苦労様でしたね。あなたにお願いして本当に良かったと思いますよ。」
その言葉を店主は複雑な面持ちで聞いていた。
店主の提案した多くのものはついに夫人に認められることはなかった。
それに対してただの一度でメアリーのデザインには満足して帰っていった。
メアリーの才能は本物だ。自分は彼女の足元にも及ぼない。
だが、そんなことが許されるわけもなかった。
教養のない小娘に天が気まぐれで過分な才能を与えたとしても自分が許さない。
だが、彼女をこの店から出すことも出来ない。
なぜなら、この店のデザインのほとんどに彼女の才能がしみ込んでいるからだ。
彼女は今まで以上にデザインの仕事を任されるようになる。
デザイン専属ではなく、夜に密かに店主の部屋に呼ばれて、手伝いをさせられる。そんな役割であった。
だが、お針子の縫い仕事が減らされたわけではなかった
昼も夜も働きづめとなる。
「殺される」
そう思った彼女は退職を申し出る。
このままでは救貧院へ戻った方がまだましであったからである。
ところが、ある日事件が起こる。
繊維の染料を運んでいたメアリーを誰かが突き飛ばした。
思わず手放した染料のツボは大量の絹生地を台無しにする。
その全てはメアリーの責任となった。
それは彼女の負債として計上され、返済するまで退職は許されなくなった。
そして、デザインと縫い仕事の両方を任されたメアリーの体調は徐々に悪化していく。
次の社交シーズンが始まったならメアリーは恐らく生き残れないだろう。
メアリーを失って一番困るのは恐らくは店主に違いない。
だが、店主のメアリーに対する複雑な感情が彼女の仕事量を減らすことを許さない。
彼女が徐々に地獄に落ちていくのを見て見ぬふりをしている。
「このままじゃ姉さんは死ぬ。」
ホリーは悔しそうに手を握りしめている。
あまりに残忍で身勝手な話にオリバーにもじわじわと強い怒りが込み上げてきた。
それに仕事上のミスを全て一人の従業員が負うなど許されるわけがない。
「..で、その借金てのはいくらなんだ?」
「200ポンド....」
一介のお針子が一生かかっても返せない額であった。
オリバーは愕然となる。
月給5ポンドの高給取りのオリバーが5年かけて地道に貯めたのがやっと50ポンドだ。
養蚕の事業資金に手を付けることは許されない。
急に閃くように思い出した。
金はある。
ダンカンの執事アンセルが逃亡するときに隠した金500ポンドだ。
だが、200ポンドもの大金をオリバーが持っているのは如何にも不自然だ。
だが、ホリーのためだけではなく、どうしてもメアリーを専属デザイナーとして欲しかった。
彼女にはそれだけの価値がある。
「あんた!あのブラウンロウと親しいんだろ?なんとかならないのかい?」
確かにブラウンロウにとってはポケットマネーだろう。
う~~ん!と唸って黙り込むオリバーにホリーがとんでもないことを言う。
「あたしの身体を自由にしてもいいよ。どうせそのつもりだったんだ。それがあんたでも私は別に構わない。」
恐ろしく思いつめたホリーの形相にぎょっとなる。
「待てよ。そんなことが許されるわけないだろ。もっと自分を大切にしろよ。人道的に許されない」
...何言ってんだ俺!今時下手なラノベでもこんなセリフはないよな...
【はい、陳腐そのものですね。】
...いたのかよ、お前!...
「人道?お前本物のバカかよ。そんなものがこの世の中のどこにあるんだよ。」
「うるさい!ちょっと黙れよ。今方法を考えている。」
二人は剣呑ににらみ合う。
金はある。
だが、それをどうやって渡すかだ。
それさえ解決すれば、デザイナー確保という大きな障害が一つ消えることとなる。
だが、状況から時間はあまりなさそうであった。
【ホリーは姉の名前を『メアリー・ウォークナー』と言いましたね。】
...確かそんな名前だな。それがどうかした?...
【あまり、彼女を救い出すことはお勧めできません。】
...なっ! おまえ、今までの話聞いてなかったのかよ?...
あまりにも意外なヨーダの助言に、オリバーは驚くより怒りを感じていた。