第86話 事業拡大
裁判から2年半が経過していた。
一等級の絹糸の生産は工員の技能に深く依存している。
オリバーがエドウィンに約束した目標は、5年で歩留まり7割だった。
ところがその目標が、わずか2年半で達成されてしまった。
これにはエリザベスの教会教育とウイリアムの職業訓練が大きく貢献していた。
絹糸の生産に関しては、その最も効率の良い訓練方法が既に確立されていた。
もちろん個人差はあるが、それでも3ヶ月の研修後に確実に一級品を生産できるようになるのだから、現時点での工員たちの技能レベルはイギリス第一、いわゆる世界でも有数と評価できる。
しかも、各個人の歩留まりは正確に記録され、それがそのまま給与に反映されるのだから、工員の向上心の高さは驚くほど高い。
混紡繊維の需要はじわじわと高まり、工場の拡張が決定された。
ハムステッド村では桑林の植林が急速に進み、蚕繭の増産のめどもついていた。
村の繁栄ぶりは驚くほどだ。
繁華街はまるでロンドンの街角でも見ているように、レストラン、洋服屋、カフェテリア、居酒屋などが立ち並んでいた。
芝居小屋もでき、月に一度はロンドンから劇団が遠征してきて、3日間の上演中は毎日大入り満員だ。
この村では農民も工員も、それなりに豊かなのだ。
休日には家族そろって出かける姿がよく見られるようになっていた。
人々の表情は穏やかで、生活に満足している様子が伺える。
そして、驚くと同時にエドウィンにとって喜ぶべきことがある。
ウィリアムとエリザベスは、彼の目で見ても大きく成長を遂げていた。
ウィリアムが提案する「基礎教育」に関する法案は、長年官僚として国政に関わってきたエドウィンの目から見ても、精緻かつ実現性のある骨太な内容であった。
ウィリアムの主張は、これを国家事業として行うべきことであるというのだ。
エリザベスは大きく発展したハムステッド、ウィットフィールド両村に、公衆衛生・予防医療の本格的な教育施設の設置を提案していた。
ここで卒業した生徒が全国に散らばっていけば、多くの病気を予防できる。そう考えているんだ。
はからずも、ジョン・スノー医師がコレラの感染源が井戸水であることを証明したのが、数か月前のことだ。
そのことを信じる者は少なかった。
だが、オリバーはエリザベスを急かし立ててジョン・スノーに会いに行ったのだという。
そして、アミラ、ローザと共にスノー医師の提言をもとに講じた予防策により、全国的に流行しているコレラがついに、この両村では発生することがなかった。
このことを全国に伝えるべきというのが、エリザベスの主張であった。
もしそれを達成したら、彼女は大きな仕事を成し遂げることとなるのであろう。
両村は植民地の外需には依存せずに、村民の生活水準は極めて高い水準に上り詰めていた。
この現実は認めざるを得ない。
エドウィンはここに来て、考えを改めざるを得ない。
そう思い始めていた。
ブラウンロウは頻繁にエドウィンの屋敷を訪れるようになっていた。
オリバーを伴うこともしばしばであった。
二人を見ていると、まるで親子のように見えることがあるから不思議であった。
さらにローザを伴うと、祖父、母親、孫のように見えてしまう。
それほどこの3人は馴染んでいた。
家族同然に見える……と言ってもよかった。
その3人は今日も、エドウィンの屋敷をドヤ顔で訪れていた。
混紡繊維で新たなる提案があるというのだ。
絹を含んだ混紡繊維は、絹以上に高級感がある。
その質感が多くの仕立て屋や服飾店の注目を集めていた。
しかも、繊維の値段が絹の半分程度であるため、仕立てあがった紳士服やドレスの価格もはるかに安くなる。
「これはわしの考えじゃが、どうじゃろ。腕の良い仕立て屋を数件買い取って、工場付属の服飾店を起業するんじゃよ」
「ふ、服飾店ですか?」
「そうじゃ。原材料の調達から繊維の生産、そして衣服のデザイン、仕立てまでを一気通貫で行う。その効果はわかるよな?」
二人並んだブラウンロウとオリバーは、そろってニカッと笑って見せた。
「ですが、腕のいい職人やデザイナーは、既に大手の服飾店のお抱えがほとんどですよ。ここには大きな利権が絡んでいる」
この老人はそれを承知の上で、敢えてそれに切り込もうというのだから困りものである。
「それではつまらん。若手の有能なデザイナーを発掘するから面白いんじゃないか」
隣でオリバーが「うんうん」とうなずいている。
…全く!…
エドウィンは内心で頭を抱える。
「どうじゃ! 良いアイディアであろう」
「確かに衣服を一気通貫するのは、価格競争的には圧倒的な優位性がありますね。しかも、混紡繊維は絹製品や羊毛製品よりも素材自体が安い。しかも国産絹は輸入品の半値、圧倒的な価格競争力ですね。しかし……」
「しかし、なんじゃ?」
「あまりに安い価格では価値を認められません。良いものであったとしても、それなりの価格があるから富裕層で評価されるのです。お分かりですよね?」
「では、価格を上げればよかろう。金はあって困るもんじゃないしな」
「それでは素材に純粋な絹を使った製品にはかないません」
「そうじゃろうか? オリバー、お前はどう思う?」
オリバーは「ニカッ」と笑って話し始める。
…こいつめ!…
オリバーは16歳となり、すっかり大人びて来ていた。
身長も伸びてやや小柄で痩せ気味であったが、堂々としていた。
どうやら、酒が好きで飲みすぎて時々ナンシーに殴られているとか。
…たるんでいる。一度締めてやらねば…
そう思いながら、オリバーが話を始めるのを見つめていた。
「実のところ、純粋に絹で仕立てた衣服は購入当初はそれなりの品質なのですが、耐久性に難があります。つまり、すぐに着れなくなってまた、新たに購入する必要があります」
「衣服には流行がある。裕福な貴族や商人は社交界での面子がある。毎年買い替えるのは当然ではないか? 2年も3年も同じ服を着るものなどおらんわ」
「確かにその通りです。ですが、そのような需要はほんの1%にすぎません。実際には商談やカジュアルな会合、お茶会など普段着として恥ずかしくないものを数着、日を変えてそれぞれにふさわしいものを着る場合のほうがはるかに多いのでは」
「それは確かにそうだ」
「それで、エドウィンさんが官庁へ着て行かれる服はどうですか? それは麻と綿の混紡繊維ですよね。大事な会合の日には絹の混紡繊維を着用しておられるのではありませんか?」
全くその通りだった。
そう言われてみると、混紡繊維の需要は絹製品よりもはるかに高い。
エドウィンの様子を見透かすように、オリバーはわが意を得たりと大きく頷く。
「だが、流行の中心はやはり絹と羊毛だ。それらにはステータスを証明する効果があるからだ」
「全くその通りです。だからこそです。これをブランド化するために独自に服飾店を構えて、デザインと仕立てをする必要があるのです」
「つまり、混紡繊維の衣服にも絹や羊毛と同様のステータスを持たせるというのだな」
「その通りです。混紡繊維は見た目は絹、快適さは綿、耐久性は麻という素晴らしい特質を持っています。これにファッション性が加わり若い女性層の支持を得られたらどうでしょう? それはその方にとって自慢のドレスとなりえます」
「うむぅ~」
エドウィンは考え込む。
確かに理にかなった経営方針だ。
恐らくファッション性の高い混紡繊維のドレスは、若い女性の垂涎の的となるに違いない。
だが、どの程度までなら既得権を持つ貿易商や貴族等がそれを許容する?
この国の政治や経済、行政に至るまで全ての権力を掌握しているのは彼らなのだ。
イギリスの経済は植民地から搾取的な手法で原材料を輸入して、それを奴隷労働に近い環境で工員を酷使することで、莫大な利益を上げているのだ。
このビジネスモデルは彼らにとって絶対だ。これを放棄することはない。
国産の原材料、高い給与の工員。
それは彼らにとって論外な選択だ。
それにこの利権には海軍が深くかかわっている。
国産の原料は海軍の価値を大きく貶めるに違いない。
そうなった時、何が起こる。
自分には彼らと戦う力はあるのだろうか?
「あんたの気持ちは分かる。だが、今の状況を良しとせんのはあんたも同じじゃろ? いや、むしろ国政、救貧法に深くかかわってきたあんたじゃからこそ、忸怩たる思いがあるんじゃないかな?」
この老人は全てを分かったうえでこの話を持ってきている。
「あなたには勝算があるのですか?」
「そんなものはない。やって見んとわかる訳はなかろう。だが、オリバーもおる。ウイリアムやエリザベスが大きく成長した。ヨークシャーあたりの工場主の中にはウィットフィールド村の大発展に興味を示しておるものも少なくない」
確かにそうだ。
エリザベスやウィリアムばかりではない。
ハムステッド・ウィットフィールド両村の教育水準は大英帝国随一にのし上がっていた。
この教育水準の高さが、生活の余剰という思わぬ副次効果を起こしている。
道路や上下水道のインフラの水準は極めて高い。
つまり、非常に快適な生活環境が出来上がっていた。
オリバーを見ると、相変わらずドヤ顔で自信満々の様子であった。
最近では親友のトーマスですらオリバー支持になってしまっている。
なんとなく不安を覚えるが、もはや自分の後戻りできないところまで来てしまったのだろう。
先のことをくよくよと悩むのは愚か者だ。
エドウィンは二人の提案を了承して先に進むことを決意するしかなかった……。