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第80話 理想と現実

エドウィンはハムステッド村からの蚕繭の供給が一時的に停止したとの報告を受けた。

「……結局、こうなるのか」

伏魔殿のようなロンドンの政治中枢で長く生きてきた彼にとって、理想とは常に遠のき、妥協に次ぐ妥協ばかりだった。

利権を握る政治家、貿易商、官僚たちがそれぞれの思惑をぶつけ合い、陰謀を張り巡らせるこの場所で、できることなど限られている。


オリバーには遠まわしに警告を与えた。

だが彼は主張を譲らなかった。

しかも、その主張には合理性があり、理想があった。

それはエドウィンの予想を超えるほど鮮烈で、もし政策に反映できれば「新救貧法」が果たせなかった貧困層の救済が実現するかもしれない...そう信じたくなるほど説得力があった。

オリバーの発想は単純だった。

貧困層を熟練工に育てる制度を整える。

産業革命はイギリスに高度な技術を与えたが、それを運用する「人材」は育っていない。

だが、技術に合わせて技能を持つ人材を養成すれば歩留まりは上がり、生産性も高まる。

上がった利益率を給与に反映すれば、工員は貧困層から中間層へと格上げされる。

中間層は余剰資金を持ち、消費が拡大し、外需依存の経済は内需中心へと移行する。

「それこそが真の国力です」

オリバーはそう主張していた。

そのために彼は衛生管理、安全管理、基礎教育、職業訓練、昇給制度を次々と導入し、小さな工場という箱庭の中でその正しさを証明して見せた。

だが、エドウィンは首を振った。

大英帝国は世界の半分を支配下に置き、港を押さえ、植民地から産物を吸い上げ、軍事力で世界を従わせている。

繁栄を謳歌するのはごく一部の富裕層だけ。

軍事と貿易、製造業に予算の大半を割き、教育や衛生、労働環境への投資はわずか。

国民の多くは貧困に喘ぎ、孤児たちは救済の名の下に収容所のようなワークハウスに押し込められている。

再びコレラが流行し始めた。

また、地獄のかまどが再び開こうとしている。


「……もし、私が動いたら?」

心が躍り、胸が高鳴り熱くなる。

エドウィンは机に突っ伏し、目を閉じて想像した。

数人の信頼できる議員を説得し、オリバーの案を「内需拡大の鍵」として議会に持ち込む。

衛生法、労働法、基礎教育法。

三本柱を一度に打ち出せば、帝国の未来を変えられるはずだ。


頭の中で議場の光景が広がる。

支持派の議員が立ち上がり、声を張る。

「工員を熟練に育て、中間層を増やせば、消費は国内に循環し、帝国は強くなる!」

拍手が起こる。だが、ほんの一瞬。

やがて冷笑が広がり、怒号が飛ぶ。

「馬鹿げている!」

「帝国の誇りを捨てるつもりか!」

「愚民に教育?工員に昇給?そんなものは幻想だ!」

机を叩く音。嘲り。

瞬く間に法案は「帝国の利益を損なう危険思想」と断じられ、否決される。

エドウィンは孤立し、巻き込んだ議員たちは立場を失い、自らも政治生命を断たれる。

かろうじて議席に残ったとしても、誰も二度と彼の声に耳を傾けない。

胸の高鳴りは急速に冷めた。


ブラウンロウは動くだろうか?

いや、それはあるまい。

あの老人は商機を見誤ることがない。

損切りに躊躇するような男ではない。

オリバーが不利と見れば、ためらわず手を引くだろう。


それでも、心の片隅で思ってしまう。

もし、奇跡が起こるとしたら...

あの少年オリバーが、この帝国の流れを変えるのではないか。

「……馬鹿な」

エドウィンは目を開け、自分を冷笑し、深いため息をついた。

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