第73話 収賄
工場の前には女工の応募を求める行列ができていた。
「読み書きが学べる」「技術を身につければ一生食いっぱぐれない」
そんな噂がウィットフィールド村近隣どころか遠くロンドンにまで広がり、若者たちの目は希望に輝いていた。
一方で、トムの養蚕事業はエドワードの土地にまで拡張され、元ハムステッド村の住人が次々と移り住んでいた。廃墟の村は場所を変えて、新しい共同体として息を吹き返しつつある。
エリザベスは子どもたちの前で黒板を指さし、ウィリアムと共に「基礎教育と職業訓練学校」の構想を語っていた。
エドウィンはロンドンから戻るたび「新しい公衆衛生法」の草稿を机に広げ、実現へ向けて動き始めていた。
だが、オリバーはエドウィンの言葉に衝撃を受ける。
「コレラは空気から感染するのだ。だから下水の臭気を断たねばならん」
真剣な顔で語るエドウィンを前に、オリバーは思わず黙り込んだ。
...嘘だろ? この時代ではまだ感染源すら特定されてないのかよ...
アミラに確認するとさらに驚かされた。
「治療には阿片や水銀を使います。効き目は……まあ、気休め程度ですが」
あまりのことにオリバーは頭を抱える。
ロンドンの貧民窟の不潔な光景が脳裏に浮かぶ。
五十人から百人が住む共同住宅にトイレはひとつ。
多くはおまるで用を足し、そのまま街路に投げ捨てる。
街路は汚物溜めと化し、めまいがするほどの悪臭が漂っていた。
むしろコレラが流行しない方が不思議なくらいだった。
【来年にはジョン・スノウという医師が感染源を特定するはずですよ】
...一度、会ってみたいな...
村は急速に成長していた。
このままでは人口が二倍に膨れ上がる勢いであった。
ナンシーはウィットフィールド村の適齢期の娘の情報収集に余念がなく、口癖のように言った。
「あんたの子どもの顔を見るまで、わたしは死なないよ」
ブラウンロウからは時折「飲みに来い」と誘いがあり、豪華な馬車で迎えが来ることもあった。今ではナンシーともすっかり懇意になっている。
すべてが順調に見えた。
そんな繁栄を謳歌するウィットフィールド村に、一人の紳士が馬車から降り立った。
立派な身なりに反して、その顔は暗く沈んでいる。
どこか気弱そうで、おどおどと周囲を見回していた。
男の名はリッチ・ボイヤー。
次に彼が担当する公判の被告、ダンカンから至急会いたいとの手紙を受け取っていた。
一見識もない相手を呼び出すなど無礼にも程がある。
しかも相手は自分が裁く被告である。
無視するのが筋だった。いや、絶対にそうすべきだった。
だが、手紙には極めて不都合な内容が記されていた。
それは、リッチ自身の過去の過ちに触れるものだった。
かつてダンカンから「ちょっとした贈り物」として洋菓子の箱を受け取ったことがある。
だが、中を開けてみると、そこには百ポンドもの大金と、一通の手紙が忍ばされていたのだ。
本来ならすぐに送り返すべきだった。
だが、あの時は妻が病に倒れ、入院費で家計は逼迫していた。
「今回だけ……」そう魔が差した。
その弱さにつけ込まれたのだ。
ダンカンが指定した場所は、宿に併設されたレストランの個室だった。
「お久しぶりですな、判事殿。ご無理を言って恐縮でございます。」
にこやかにそう言いながらも、ダンカンの目は不気味に底光りしてリッチを射抜く。
「ダンカンさん。単刀直入にお願いできませんか? 何が望みです」
リッチは声を抑え、相手の返答を待つ。
「ははは、話が早くて結構。せっかくですからスコッチでも一杯どうです? 私が持たせていただきますよ」
「私は酒はやらんのです」
気弱な性格を見抜かれまいと、リッチはできるだけ無表情を装った。
「ほぉ、それは惜しい。では私は遠慮なく」
ダンカンは余裕の笑みを浮かべ、グラスを傾ける。
「ダンカンさん、長居はできません。要件を」
リッチの声には苛立ちが混じる。
だがダンカンは聞こえぬふりをし、葉巻を取り出してうまそうに煙を吐いた。
「私はね、隣村ハムステッドの地主でした。村は私が支えてきた……と言っても良いでしょう。ですが笑ってくだされ。今や屋敷も牧場も失い、この宿で一人暮らし。妻子にも見放されて……人生終わりですかな」
リッチは引きつった笑みを浮かべるが、言葉は出てこない。
「もう、なにもかもどうでも良いんですよ。」
「あなたと私は、こんな場所で会うべきではない。私は判事、あなたは被告だ」
「分かってますとも。でも、私にとってはどうでもいい。あなたにとってはどうです?」
「……ダンカンさん、これ以上は」
「では、単刀直入に申しましょう。次の公判、第一審で私を勝訴としてください。我々二人の幸せのために。……それとも一蓮托生か? 収賄の罪で私は牢獄、あなたは職と名誉を失い、路頭に迷う。どちらがお好みです?」
「私を……恐喝するのか?」
リッチはかすれる声で絞り出した。
「いえいえ、お願いです。だが忘れぬよう。私はもう、なにもかもどうでも良いのですよ」
リッチは震えながら頷くしかなかった。
だが心の奥では「難しい話ではない」とも思った。
第一審で結審しても、多少の違和感は持たれるだろう。だが遺書は存在せず、証人の証言だけで相続を認めるか否かは判事の匙加減次第。
帰宅後、案件の詳細を調べた。確かに、決定的な証拠は原告側にはなかった。
リッチは、降って湧いた災難が一刻も早く過ぎ去ることをただ祈りながら、公判の日を待った。




