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第71話 ダンカン絶叫

オリバーがダンカンを相手取り、裁判所へ訴状を提出した。

その噂はたちまちウィットフィールド村へ広がり、すぐさまダンカンの耳にも届いた。

当初ダンカンは鼻で笑った。

高々孤児の分際で、自分のような有力地主を訴えるなど身の程知らずも甚だしい。

勝ち目などあるはずがない。証拠も根拠もないまま訴えを起こしても、自分が負ける道理はない。

そう確信していた。

だが、この時のダンカンは自らの置かれた状況をまるで理解していなかった。

「執事のアンセルに任せればいい。奴はそのためにいるのだ。」

裁判所からの通知を受け取ると、ダンカンは当然のようにアンセルを呼びにやった。

ところが。

「旦那様、さっきまで屋敷にいたはずのアンセルが見当たりません。」

報告を聞いた直後、滅多に姿を見せない妻が珍しく現れた。

「あなた!私の部屋に勝手に入ったんじゃないでしょうね!」

ヒステリックな叫び声が廊下に響く。

「なんだと!」

妻はその日、お茶会に呼ばれていた。

だが出かけようとした矢先、指輪やネックレスが忽然と消えていたのだという。

「どこかに置き忘れただけだろう。俺は知らん!」

「あなた、盗んだんじゃないでしょうね?」

「ふざけるな!もともと俺が買ってやったものだ!」

好き勝手に贅沢をしながら不満ばかりを口にし、家柄だけを鼻にかける女。

小皺の増えたその顔を見るだけで不愉快だった。

「どうなっているんだ!」

傍らにいた女中を怒鳴りつける。

「いえ……私は何も存じません……」

青ざめた女中の声は震えていた。

「アンセルはどこへ行った!すぐ探して来い!」

「アンセルがいないですって?」

妻が鼻をひくつかせ、妙な顔をした。

「あなた、金庫の鍵は?」

「それならアンセルに預けてある。」

「なんですって!あなたって人は、どこまで愚かなの!」

「な、なんだと! お前こそ!」

「いいから、合鍵を出しなさい!」

「はぁ?」

そこでようやくダンカンは妻の言わんとすることを悟った。

妻を伴い、金庫のある部屋へ駆け込む。

だが、金庫に保管してあったはずの現金も証券も、跡形もなく消えていた。

「うぉぉぉぉぉ~~!」

ダンカンは絶叫した。


直ちにゴロツキどもを集め、アンセルの行方を追わせる。

もしアンセルが金品を持ち逃げすれば、全てを失う。

牧場はすでに赤字補填のための借金を担保に差し出している。

未払いの牧童への給与も、飼料代も支払えなくなる。

契約不履行で逆に訴えられる可能性すらあった。

「なにがなんでもアンセルを捕まえろ!いいか絶対に奴を逃すんじゃないぞ!」


オリバーは結跏趺坐してその一部始終を見ていた。

正直に言えば「ざまぁ見ろ」だった。

数人のダンカンの部下たちが騎乗して駆けて行った。

だが、アンセルは既にロンドンまでの道半ばに達していた。

近郊まで逃れられれば、もはや見つけ出すのは難しいだろう。

抜け目のない男であった。全ては計算づく、そのはずであった。

だが、その時アンセルにとって不幸な事故が起こる。

オリバーは心眼智を通して馬車の様子を見つめていた。

ガガンッ!

車輪が大きな石にぶつかり、木の輪が割れて軸から外れる。

「しまった!」

馬車は大きく傾き、修理をしない限り動きそうにない。

…ざまぁみろ。…

オリバーの口元が歪む。

心眼智を使いアンセルの狼狽を鮮明に映しだして笑った。

【おや、アンセルさん捕まってしまいそうですよ。】

…良いんじゃね?少し痛い目にあった方があいつのためだろ…

【いえ、ここはアンセルに逃げてもらわないと困りますね。】

…そうなんだよなあ…

アンセルがダンカンの資金を奪って逃げてくれた方が、確かに助かる。

【まぁ、悪が永遠に栄えることはありませんよ。どこかで罰を受けることを信じましょう。】

…本当かよそれ?…

納得は出来なかったが、ここはヨーダが正しい。

アンセルにダンカンの資金を持ち逃げしてもらえれば、裁判はさらに有利になる。

それどころか弁護士費用を払えずに被告代理人不在のまま、自動的に勝訴するかもしれない。

ビクトリア時代の裁判は資金力が尽きた方が負けるシステムだ。

つまり、必ず金持ちが勝つわけで、貧乏人は訴訟を起こすだけ時間と金の無駄だった。

そのせいでダンカンのようなアホがのさばってしまうのだから呆れるしかない。


ダンカンの部下たちは騎乗してロンドンに向けて駆け出した。

オリバーは隠形状態になって、般若面と黒マントをまとって走り出す。

馬とほぼ同じ速さで部下たちを追尾し始めた。

同時に心眼智でアンセルを見ると、大きなバッグに現金や証券など金目の物を詰め込み、馬を馬車から引き離して積み替え、走り始めていた。

このままなら何もしなくても逃げ切れるかもしれない。

だが、念のため追いかける。

アンセルはここで思い切った手段に出る。

街道をそれて廃村に入り、一軒の小屋に入り込む。

出てきたときには別人に変装していた。

持っていたはずのバッグもない。

まるで近隣の農夫そのものの格好だった。

あらかじめ用意していたのか、荷車に馬をつないでノロノロと動き始める。

街道に戻ると、ちょうどダンカンの部下たちが走って来た。

「邪魔だ!どけ!」

ノロノロ進む荷馬車を怒鳴りつけ、彼らはそのまま通り過ぎて行った。

見事としか言いようがなかった。

…うむぅ、どうしたものか。…

【いっそ小屋を燃やしてしまいますか?】

…けっこうな大金だぞ?…

【ですが、証券を換金するのは難しいですよ。アンセルには何か伝手があるのでしょう。この際、現金だけいただいて、それ以外は燃やしてしまうのが良いのでは?】

…ダンカンの金だぞ。どうせ汚い金なんじゃないのか?…

【金にキレイも汚いもありませんよ。】

…まぁ、そうか…

アンセルが戻ってくる前に、オリバーは金の一部だけを別の場所に移し、小屋は燃やしてやった。


現金は五百ポンドほどしかなく、驚くほど少なかった。

アンセルは既にかなりの額を自分の口座へ移しているらしい。

被害が大きいのはむしろ証券の方だろう。

アンセルは小屋へ戻らず、そのままロンドンへ向かった。

証券は燃やし、現金五百ポンドは隠した。

アンセルは抜け目のない男である。

放っておいてもダンカンに資金が戻ることはもはやないだろう。

彼の行き先はダンカンの手の届かない外国に違いない。


アンセルに逃げられた。

部下たちからその報告を受けたダンカンは、凍りついたように動かなくなった。

手持ちの資金はすべて消えた。

牧童たちへの給与、飼料代、さらにはゴロツキどもへの報酬も支払えないと知れば、彼らが何をやらかすか分かったものではない。

必死に打開策を考えるが、結局何も思いつかない。

金を借りようにも、今のダンカンには信用がなかった。

二人の兄が金を貸すはずもない。

結局、せっかく囲い込んだハムステッド村の牧場を売るしか方法はなかった。

だが、それをしたとしても支払いが滞っている全てを清算した後に、ダンカンに残る資金などたかが知れている。

残るのは借金だけかもしれなかった。

残された道はただ一つ。

養蚕事業をオリバーから奪い取ることであった。

そのためには、裁判に勝つか、あるいは裁判が結審する前にナンシーに死んでもらうしかない。

家財道具を売り払ったところで、裁判をいつまで続けられるか分からない。

弁護士費用が払えなくなれば、法廷代理人が不在のまま欠席裁判となり、ナンシーの勝訴が決定してしまう。

それが当時の慣例であった。

しかもオリバー側には、無償で弁護を引き受けるという物好きな弁護士が現れた。

その上、ブラウンロウという、資金を無限に供給できる資産家の後ろ盾まであるという。

考えてみれば、ナンシーの孫のオリバーが繊維工場で働き始めてから、何もかもが狂い始めた気がする。

そもそも、ジャックはなぜオリバーを逃したのか?

奴は確かに「殺した」と報告してきたはずだ。

それだけではない。

ナンシーを追い出そうと部下を差し向けたが、それすら失敗した。

送り込んだ三人の部下が、逆に逃亡したのも解せない。

オリバーの変容にダンカンは首を傾げる。

養蚕事業を企画し、あのブラウンロウが後ろ盾になるほどの存在だったのか?

いや、そんなはずはない。

確かに利発な子供ではあったが、それ以上でもそれ以下でもなかったはずだ。

だが現実はどうだ。

ブラウンロウ、エドウィン・チャドウィック、さらに自分の兄エドワードまでが、次々と奴の後ろ盾になっている。

そして今度は、どこぞの弁護士をたぶらかして裁判まで挑んできている。

自分の養蚕事業は破産状態。

対するオリバーの養蚕事業は破竹の勢い。

こんな馬鹿げた話があってたまるものか。

なぜこんなことになってしまった...?

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