第69話 襲撃者
簡単な仕事のはずだった。
屈強な部下を二人連れ、ブレイデン自身も荒事には慣れている。
ウィットフィールド村を抜ける途中、通りは思いのほか賑わっていた。
「飯でも食っていきませんか?」
部下が呑気に食堂を指さす。
「馬鹿野郎、遊びに来たんじゃねえ」
ブレイデンは睨みつけた。目立つことは禁物だった。
やがて田園の景色が途切れ、ハムステッド村の外れにナンシーの小屋が見えてきた──その時。
部下の一人が、突然白目を剥いて崩れ落ちた。
「襲撃だ!」
叫んだ瞬間、もう一人の背後に「それ」が立っていた。
般若の面。
ボロ布のような黒マント。
幽霊めいた影が肩に軽く触れる。
ドサリ──。
巨漢が意識を失って馬車から転げ落ちた。
「てめぇ、な……」
ブレイデンが声を上げかけた時、顎に蹴りが突き刺さる。
視界が白く弾け、血反吐を吐きながら地面に這いつくばる。
立ち上がると、面の男が低く言った。
「ここは立ち入り禁止だ。死にたくなければ立ち去れ」
「ふざけるな! お前は一体──」
言葉を遮るように、鋭い貫手が耳をかすめた。
頬なら死んでいた。背筋が凍りつく。
般若の面の奥から響いた声は氷のように冷たかった。
「俺は雇われた用心棒だ。二度と来るな。次に来たら──命はない」
呻きながら起き上がる部下たちが、血まみれの主を見て目を見開いた。
力が全ての世界だ。だが、力を失えば統率も崩れる。
だが、ここは一旦逃げるしかなかった。
「……引き上げるぞ。いいか、今日のことは誰にも言うな」
「は、はい……」
…場合によっては、こいつらも口封じが要るかもしれん。…
だが先に、あの面の男を叩き潰す。
それができなければ、俺は終わりだ。
馬車を走らせるブレイデンの背を、般若の面の奥の鋭い眼光が射抜いていた。
それに気づけなかったことが、彼の破滅の始まりだった。
セント・ジャイルズに戻ったブレイデンの動きは素早かった。
いくら強いとはいえ、相手は一人。
強力な火器と武器をかき集め、百人を超える部下全員に号令をかける。
妙な噂が立つ前に、一気に片をつける。
あの奇妙な面を被った男さえ葬ってしまえば、これからもブレイデンの地位は盤石のはずだ。
そうでなければ、たった一人の用心棒にブレイデンが敗北したことは直ぐに噂となり、広まるだろう。
暴力で人を従わせている者にとって、それは致命的な結果を招きかねない。
それにしても──あんな用心棒がいることをアンセルは一言も言っていなかった。
また、あの詐欺師に騙されたのか。歯ぎしりをして悔しがるが、もう遅い。
「こんなことで今まで築き上げてきたものを失ってたまるか」
その一念が、ブレイデンを異様な勤勉さで動かしていた。
いぶかしがる部下たちを怒鳴りつけ、戦闘の準備を整えさせる。
だが、この時点で彼の命運は尽きていた。
「ひゅ、ひゅ、ひゅ~~ん」
空気を切り裂く音。次の瞬間、三人の男が床に倒れ伏す。
「しゅ、襲撃だ!」
誰かが叫ぶ。全員が緊張に青ざめた。
オリバーは逃げ帰った男たちを追っていた。
ロンドンのセント・ジャイルズに着いた彼らは、物々しい武器を持ち出し戦支度を始めていた。
今度は大人数で押しかけるつもりなのは明白だった。
【敵の人数はちょうど百人のようですね。多少の経験値にはなりますが、レベルアップは無理でしょう】
…そんなことはどうでもいい。それより、あいつらが二度と攻めて来られないように徹底的に叩き潰す必要がある。…
【その通りです。用心棒は一人じゃない──そう思わせるべきです】
…まずは小手調べだ。…
オリバーは腰袋から三つの小石を取り出し、連続で投げた。
正確に肩口を貫き、神経を切り裂く。三人の男が激痛にもがきながら倒れる。
…3。…
オリバーは心の中で戦闘不能者の人数をカウントし始めた。
「な、なんだ!? 屋根だ、屋根の上だ!」
誰かが叫んだ瞬間、闇に閃光が走った。
スリングショットから放たれた鉄球がランプを粉砕する。
火の粉が飛び散り、暗闇に混乱が広がった。
暗視スキルを発動し、敵の背後へと滑り込む。
スリングショットを連射──。
…4、5、6、7、8、9、10。…
七人の敵がばらばらと倒れるのを確認する。
「ひっ、ひいぃぃ!」
「相手は一人だ、怯むな!」
ブレイデンの怒号が飛ぶ。だが声は震えていた。
隠形スキルを発動し、屋根へ跳び上がる。
路地を俯瞰し、ランプを灯そうとする男につぶてを投げる。
男は呻き声を上げ、ランプを落とした。
般若面の男は屋根から屋根へ、影のように移動する。
その姿は見えず、ただ「石が飛び、男が倒れる」という結果だけが残る。
…21、22、23、24、25。…
「怪物だ……人間じゃねえ!」
部下の一人が叫んだ瞬間、黒マントが翻り、オリバーの姿が闇の中に浮かんだ。
「バカ野郎! 怪物なんかじゃねぇ!」
ブレイデンが必死に叫ぶが、混乱は深まるばかりだった。
【頃合いですよ】
…そうだな。…
オリバーはニヤリとほくそ笑む。
誰かが叫んだ。
「ソロモンズの奴らの襲撃だ!」
実際にはオリバーが腹話術で叫んだふりをしただけだった。
ブレイデンと敵対する勢力の名が混乱をさらに煽り、もはや収拾はつかない。
次の瞬間、オリバーは煙玉を投げ込む。
白煙が路地を覆い、男たちの視界を奪った。
呻き声と悲鳴が暗闇に響く。
「ぎゃああっ!」
「どこだ!? どこにいる!?」
「背後だ!」
だが振り返った時にはもう遅い。
ダガーの柄で急所を叩かれ、男たちは次々と沈んでいく。
暗闇の中、疑心暗鬼に陥った敵同士の同士討ちが始まった。
オリバーは黒マントを翻し、まるで複数人がいるかのような幻想を演出して混乱を拡大させる。
…76。終わったな。…
【ええ。残りは敗走するでしょう】
「構うな! 数で押せ! 敵は一人だ、潰せぇぇ!」
だがその叫びに応える声は、どんどん少なくなっていった。
煙が晴れたとき、路地には呻く部下と、立ち尽くす般若面の影があった。
百人を誇ったブレイデンの軍勢は、蜘蛛の子を散らすように崩れた。
武器を捨て、叫びながら路地を駆け去っていく。
残されたのは、膝をつくブレイデンただ一人。
全身から冷や汗を流し、震えながら般若を見上げる。
「お、俺を殺す気か……?」
「……命は取らん。だが覚えておけ。二度とナンシーに手を出すな」
声は氷のように冷たかった。
ブレイデンは歯を食いしばり、震える唇で答えられなかった。
だが、内心でほくそ笑んでいた。
…この男は甘い…
いずれこの落とし前は付けさせてもらう。
だが次の瞬間、その考えがもろくも崩れ去る。
面の下から覗く眼光に射すくめられた途端、ブレイデンは人間の根源的な恐怖に呑まれた。
「あ、あぁぁぁぁ……」
涎を垂らし、目を見開いたまま、その場にどさっと倒れる。
オリバーが初めて使った『威圧』の派生スキル──《恫喝Lv10》。
その効果の高さに、オリバー自身も仰け反った。
──この夜。
ブレイデン一家襲撃の報はセント・ジャイルズに広がった。
「五十人の武装集団が襲ってきた」
「いや、二百人のアイルランド兵が化け物に化けて襲ったんだ」
根拠のない噂でもちきりとなる。
ブレイデンは密かにロンドンを離れ、その後の動向を知る者はない。
一大勢力を誇ったブレイデン一家は、その日崩壊した。
襲撃者の中に、東洋の面を被り、ボロボロの黒マントを羽織った悪魔が一人いた。
セント・ジャイルズでは、その悪魔を『泣き般若』と呼び、恐れ、やがて敬うようになる。
オリバーの目論見は見事に当たったが、後味の悪い結末でもあった。




