第67話 暗黒街にて
「私に一つ考えがあります」
執事は苛立つダンカンに、へりくだった声で切り出した。
「なんだ、言ってみろ」
「ロンドンのセント・ジャイルズやイーストエンドで噂を流すのです。あのスラム街には人殺しなど数えきれないほどおります。そこへ──“ハムステッド村のナンシーは大金を貯めこんでいる”と吹き込むのです」
「馬鹿な!田舎の婆が大金を隠しているなどと、誰が信じるものか。ロンドンからここまで歩いて何時間かかると思っている」
「そうとも限りません。今ロンドンで話題になっている件をご存じですか?」
「だから、なんだ!」
ダンカンは怒りと苛立ちにまかせて声を荒げる。
「あのブラウンロウがチャドウィック家の新しい絹事業に投資するという話です。そして、その絹の供給を担っているのがナンシーの孫オリバーだと噂されている。オリバーは繭畑の運用資金をブラウンロウから預かっている──そう信じる者は少なくないでしょう」
執事は小賢しい笑みを浮かべた。
「言われてみれば……そうかもしれんな。だが、本当にうまくいくのか?」
「ご安心を。ロンドンには様々な商売を生業にする者がいます。その中には、人を煽り立て、噂を広めることを飯の種にしている連中もいるのです」
「なるほど……それなら、うまくいくかもしれんな。やってみろ」
「多少の謝礼金が必要となりますが、よろしいでしょうか?」
ダンカンは渋い顔をしたが、結局は執事の提案を受け入れた。
セント・ジャイルズの裏路地は、昼なお薄暗く、腐臭と酒の匂いが入り混じっていた。
ダンカンの執事、アンセルは外套の襟を立て、その奥へと足を進める。
薄汚れた扉を叩くと、中から低い笑い声と喧騒が漏れてきた。
「誰だ」
怒鳴る声に、アンセルはわざと卑屈な声を作る。
「古い友人ですよ、親方。良い話を持ってまいりました」
扉が開くと、油じみた顔の大男が二人。
奥には、小柄だが筋肉質の男が椅子にふんぞり返り、煙管をくゆらせていた。
「ほう、ダンカン様のお犬が、わざわざこの穴倉に顔を出すとはな」
嘲るような声。
アンセルは平然としながら、懐から小袋を取り出して卓に置いた。
じゃらり──小粒の銀貨が響く。
「これは手付けにすぎません。本題は──ハムステッド村のナンシーという老女のことです」
「ほう?」
親方ブレイデンの目が細く光る。周囲の子分たちが手を止め、耳を傾けた。
アンセルは声を潜め、しかしわざと芝居がかった調子で囁く。
「ご存じでしょう? チャドウィック家の新しい絹事業。その裏で資金を動かしているのは、老女ナンシーが預かる莫大な金。ブラウンロウの投資も、あの小屋を経由していると申します」
「ははっ! 馬鹿馬鹿しい。田舎の婆が大金を握ってるだと?」
一同がどっと笑う。
だがブレイデンだけは煙を吐きながら、笑い声を制した。
「おめえ、一体何を企んでいやがる?」
眼光が鋭くなる。暴力を生業とする男特有の威圧感だ。
アンセルは肩をすくめ、平然と答える。
「なにも……」
「はは!それを信じろとでも言うのか? 伝説の詐欺師とまで言われたアンセルさんよ?」
「随分と昔の話を持ち出しますね。でも──儲かればそれでいいんじゃありませんか、親方?」
アンセルは口元を覆って笑う。
そのいやらしい仕草に、ブレイデンはげんなりした表情を浮かべる。
「駆け引きはなしだ。どうすれば、その金が俺の懐に入る?」
「簡単です。ナンシーの小屋には養蚕事業の軍資金がたんまり貯め込まれている。金貨と宝飾品が山のように積まれている、と。殺そうが焼こうが、誰も気にしない田舎の婆です」
「……もしそれが本当なら?」
「親方のお手の者であれば、たやすいでしょう。その代わり──手に入れた金品はすべてご自由に」
「それでおめえには何の利がある?」
「羊毛事業はもう先が見えています。ダンカン様もお困りです。そのうえ絹事業に成功されてしまったら、牧場に未来はありません。そこのところお察しを」
アンセルは芝居がかった声で言い切った。
ブレイデンは煙管をカチリと灰皿に叩きつけると、じろりとアンセルを睨む。
「ふざけんじゃねえ。ダンカンの牧場が傾いてるのは、おめえが横領してるからだろうが。知らねえとでも思ったか?」
場が一瞬凍る。
子分たちがざわめき、アンセルを嘲る笑みを浮かべて見た。
だが当の本人は涼しい顔を崩さない。
「おや、やはり耳が早い。──ええ、確かに私は多少“取り分”をいただきましたとも。ですが、それは長年の働きへの退職金の前借りみたいなものでしてね」
アンセルはわざと肩をすくめて笑った。
「真面目に仕えてきた者が一文無しで放り出される。不条理でしょう?ですから私は、牧場の最後の在庫を処分して、静かに身を引こうと思っていたんです。……ただ、タイミング悪く、資金が絹事業に流れ始めてしまった。私の退職金は、宙に浮いたままです」
「……なるほどな」
ブレイデンは鼻で笑った。
「つまり婆の小屋を狙わせて、俺たちに手を汚させ、その混乱に紛れて退職金をせしめるつもりってわけだ」
「ご明察」
アンセルは一礼し、にやりと口の端を吊り上げた。
ブレイデンは煙管を灰皿に叩きつけた。
「いいだろう。婆一人で、俺の連中に腹いっぱい食わせられるなら安いもんだ」
「ありがとうございます。感謝に耐えません」
アンセルは頭を下げながら、心の中でせせら笑った。
横領した資金はすでに安全な口座に移した。逃亡用の船も手配済み。
あとは頃合いを見て姿を消すだけだ。
コルシカかマジョルカ……海風を浴びながら余生を送るのも悪くない。
あの愚かな領主と暴力屋どもが血みどろになっている間に、自分だけが笑って去る。
それが賢い生き方と言うものだ。




