第64話 新ハムステッド村
思いがけない事態が進行していた。
トムが声をかけたハムステッド村の元住民の間で、ナンシーの林地に行けば住む土地と、将来的には養蚕業の仕事を得られるという噂が瞬く間に広まった。
その結果、当初8世帯40人程度を予測していたところ、20世帯100人が戻ってきた。
トムの小屋を中心に20戸の小屋が立ち並び、小さな村の様相を呈し始めた。
オリバーは当初焦ったが、トムの「土さえあればなんとかなる」という言葉は本当だったようだ。
彼らは家を建て、井戸を掘り、与えられたわずかな土地に自給用の畑を作った。
しかし、問題は当面の食料をどうするかだった。
森で多少の食料は採取できたが、十分とは言えなかった。
ブライアンに相談すると、工場の生産規模拡大により人手が足りていないことがわかった。
従来、工員が担っていた工場内の清掃業務なら提供できるという。
臨時雇用でも、従業員食堂は利用可能だった。
さらに、新設された従業員食堂の厨房や清掃も人手不足だった。
当面、厨房で働けば、余った食料の持ち帰りは黙認してくれるとのことだった。
新しくできた集落では、トムが八面六臂の活躍を見せ、養蚕の準備を進めていた。
蚕はイギリスの桑畑に完全に適応したようで、繭の出荷まであと一歩に迫っていた。
関係者の期待は自然と高まっていた。
しかし、エドウィンが提示した絹工場新設の事業費のうち、残り30%の出資がまだ決まらない。
孤児だったオリバーには、投資家になり得る富裕層とのつながりが皆無で、ここにきてその影響が響いていた。
ウィリアムのフォーク家やアランの家は貴族ではあったが、裕福とは言い難かった。
ブラウンロウの誕生日から数日後、ローズとロレンソがオリバーの勤める工場を訪れた。
母と瓜二つの容姿を持つローズを見るのは、オリバーにとって気恥ずかしいことだった。
母が愛したという歌をオリバーが歌ったとき、心眼に浮かんだのは、仲の良い双子の兄弟が楽しそうに同じ歌を歌い、それを愛おしそうに見つめるブラウンロウの姿だった。
皆、楽しそうだった。
母は愛されていた。
何があったのかを知ることはできない。
だが、母を失った悲しみと喪失感は、オリバーも同じように感じていた。
それは自分がこの世に生まれたときに失ったものと同じなのだろう。
この人たちは自分にとって家族だ。
たとえ彼らがそう認めていなくても、それでいい。
そう思えるだけで、オリバーの心は幸福感で満たされた。
「ローズさん、事業の見学と言われても、絹事業はまだ計画段階で、実質的には何も進んでいないんですよ。工場長のタイラーさんと話してみますか?」
ローズは父から「見学してこい」と言われたものの、その意図を今ひとつ理解できていなかった。
「うむ、そうだな。」
そう答えたとき、背後から声がした。
「ローズじゃないか?」
振り返ると、そこには見知った顔があった。
「アミラ! アカデミーに来なくなったと思ったら、こんなところにいたのか?」
「私はどうも臨床の方が向いているらしい。もともと公衆衛生に興味があったしな。」
「いいのか?イケメンの旦那を放っておいて、誰かに取られちゃうぞ。」
ローズがそう揶揄うと、アミラは笑った。
「ははは! 無理無理、あいつはかなりのヘタレだから。女を口説けるわけないよ。」
「手綱をしっかり握ってるってことか?締め付けすぎると窒息するぞ。」
「せっかくだから、工場の衛生管理を見て行ってよ。イギリスでも有数と言えるほど優れてるんだから。」
アミラは機械の安全設計、埃のない清潔な空気、よく掃除されたフロアなどを説明しながら案内した。
ローズは驚いた。
確かにこれほどの環境はイギリスでも稀だろう。
「でも、こんな設備投資をして、採算は取れるのか?」
「ふふん! ここの製品の歩留まりを教えてやろうか?」
アミラが珍しく得意げな表情を見せた。
「ふむふむ。」
「1級品が90%だ。」
「なんだって? どんな魔法を使ったんだ?」
「魔法使いならそこにいるだろ。」
アミラがオリバーの方を指した。
「君が…?」
アミラはこれまでの経緯を簡単に説明した。
マスクの配布から始まり、能力給による昇給制度の導入に至る取り組みに、ローズも強い興味を示した。
「この工場の管理システムは、新設の絹工場でもそのまま採用される予定だ。絹工場では能力給のシステムがさらに活かされるだろうね。」
アミラはそう締めくくった。
タイラーとの面会でも同じ意見が確認できた。
しかし、イギリスに養蚕の産地があるなどという話は、ローズにとって初耳だった。
ウィットフィールド村からハムステッド村へ移動する途中、繁栄するウィットフィールド村のメインストリートを見て、ローズの驚きはさらに増した。
ブラウンロウが「いいから見てこい」とほくそ笑んだ意味がようやく腑に落ちた。
彼はイギリスでも有数の投資家で、有望な事業を見抜く嗅覚に優れていた。
エドウィン・チャドウィックの進める絹事業が成功する有望株だと見抜いたに違いない。
ウィットフィールド村からハムステッド村までは、馬車の並足で30分ほどだ。
馬車の中では、オリバーがローズの正面に座った。
外の風景を眺めていると、オリバーがじっと自分の顔を見つめていることにローズは気づいた。
よく見ると、確かに似ている。
髪の色は違うが、目の色や鼻の形、細い眉は死んだ姉アグネスとそっくりだ。
つまり、自分ともよく似た特徴を持っている。
先日の父の誕生日会でオリバーが歌い始めたあの曲。
目を閉じると、まるで昔のようにアグネスがすぐそばで歌っている気がした。
あの瞬間、ローズも父も、おそらく女中のドリスでさえ、時を遡ったような感覚に陥った。
二度と会えないと思っていた姉と、昔のように歌えた。
そのことへの感謝は言葉に尽くせなかった。
少年がじっと自分の顔を見つめている。
「ん? 私の顔に何か付いてる?」
「あ、いえ、すみませんでした。」
オリバーは顔を赤らめた。
「あの、失礼だったら申し訳ありません。…お姉さんがいたんですか?」
「ああ、私は双子だったんだ。姉がいたけど、ずいぶん前にいなくなった。今はどうしているやら。」
「そうだったんですか。ご心配ですね。」
「今さらだな。もう13年も前のことだ。」
「どんな方だったんですか?」
「ん? なぜそんなことを知りたい?」
「あ、すみませんでした。不躾な質問をしてしまって、忘れてください。」
オリバーは下を向いた。
表情は見えなかったが、どこか悲しそうだった。
「優しい姉だった。いつも私や父のことを気遣ってくれて、一緒にいると心が休まる人だった。料理が好きで、特にエスニック系の料理に目がなかったな。米を油で揚げた中華風の料理は絶品だった。レシピを聞いておかなかったのは残念だよ。」
「女らしい方だったんですね。」
「そうでもないぞ。木登りが大好きで、高い木に登ってはよく父に怒られていた。縄を木に縛って、奇声を上げながら隣の木に飛び移ったりしてたんだ。『モンキーアグネス』ってあだ名がついてたくらいだ。呆れるだろ?」
「へえ、お転婆だったんですね。」
「ああ、お転婆だった。」
オリバーは楽しそうにくすっと笑った。
ハムステッド村に着くと、急に寂れた雰囲気が漂っていた。
牧場の柵はところどころ壊れたまま放置され、管理が行き届いていないことが一目瞭然だった。
地主ダンカンの屋敷を中心に粗末な小屋がいくつか建っていたが、遠目にも質の悪そうな男たちがたむろしているのがわかった。
一方、ナンシーのコテージはよく整備され、清潔で居心地が良かった。
桑林に着くと、蚕の養蚕の様子を見ることができた。
順調に見えたが、ローズには実際のところは判断がつかなかった。
オリバーたちは簡易的な絹糸紡ぎ機で作った糸のサンプルを見せてくれた。
素人目にも上質な出来に見えた。
「良かったら、事業計画書と絹糸のサンプルを何セットか持ち帰ってください。俺たちはこの事業に投資してくれる人を探しています。あと30%の投資が足りません。興味がありそうな人がいたら、見学はいつでも歓迎するので、これを渡してもらえると助かります。」
「そんなものもあるのか?」
事業計画書はわかりやすく、よくまとまっていた。
なんともそつがない。
これを父に見せたら、どんな反応をするだろう?
そう思うと、ローズは笑いがこぼれそうになった。
研究費の支援もこれで確定だな。
ローズはそんな直感にほくそ笑んだ。




