第6話 トーマスの帰還
ロンドン北西部の高台に位置するチャドウィック邸の庭には、手狭だがよく手入れの行き届いたイングリッシュ・ガーデンが広がっていた。
紫のラベンダーが優しく風に揺れ、奥では白薔薇のアーチが夏の光を受けてまばゆく輝いている。
中央の噴水の縁には数羽のスズメが水をついばみに来ており、そのさえずりは、遠ざかるロンドンの雑踏を忘れさせるには十分だった。
午後の紅茶の時間。
銀のティーポットから立ちのぼるアールグレイの香りに包まれながら、エドウィンは革張りの椅子に背を預け、新聞を脇に置いて、ひと息ついていた。
「ようやく、静かになったな……」
書類と議会答弁に追われる日常の束の間の休息。ロンドンの政治の中心に身を置く男の数少ない贅沢のひとつが、この午後のひとときだった。
ところが、ちょうどその時――
遠く、門のあたりから馬車の車輪が小さく軋む音が聞こえた。
庭の入り口に現れたのは、見覚えのある人影だった。
3年ほど前、イギリスを後にしてインドへ渡った、あの自由奔放な友人が、ある日ふらりと帰ってきた。
「ただいま、エドウィン。相変わらずロンドンは湿っぽいですねぇ」
そして驚くべきことに、彼の隣には、気品と知性をたたえた美しいインド人の若い女性がいた。
「紹介します。こちら、私の妻のアミラです。」
「えっ…君、結婚したのか?」
エドウィンは言葉を失った。トーマスが何をしでかすかは予想がつかない男だが、まさかインド人の妻を連れて帰ってくるとは思いもよらなかった。いや、こいつならやりかねないか...
「すみませんが、少しの間、泊めてくれませんか?オヤジに見せたら発作起こしそうなんで。案の定、ドアを閉められました」
トーマスは苦い笑いを浮かべた。
「……だろうな」
エドウィンはため息まじりに笑う。トーマスの父は由緒ある貴族で、大英帝国に仕えた男だ。インド行きを許さなかった時点で既に大喧嘩、ましてや現地の女性と結婚となれば、門前払いも無理はない。
「まぁ、部屋ならいくらでもある。勝手にしてくれ」
「ありがたい!オジサマは相変わらずお優しい」
「おい、勝手に“オジサマ”呼ばわりするな」
明るく笑うトーマスに続いて、エドウィンの娘エリザベスが勢いよく現れた。
「まぁ!インドの奥様なのね!」
目を輝かせてアミラに駆け寄る。
「こらベス、失礼だろ。まずはきちんとご挨拶を——」
「いいえ、わたしこそ。アミラと申します。あなたがエリザベスね?」
「はい!ベスと呼んでください!あら、ごめんなさいトーマスオジサマ。ベスと申します。私、オジサマが帰ってこられるの今か今かと待っていたんですのよ」
「オジサマかよ」
「はは、トーマス、ずいぶん懐かれてるな」
「だってお父様、いつもトーマスさんの話ばかりするんですもの。まるで伝説の生き物のように!」
「伝説ねぇ…ありがたいけど、実物はこんなだよ」
そう言っておどけてみせるトーマスに、ベスは無邪気に笑った。
「ところで、おふたりともロンドンにはどれくらいいらっしゃるの?」
「しばらく腰を据えるよ。ベス、君は医療に興味あるんだって、うちのアミラは西洋医術はもちろん、アーユルヴェーダにも詳しいからね」
「アーユルヴェーダ!ほんと⁉ うれしい!ずっと興味があったの!だって…子供の頃、一緒にいた不思議な赤ちゃんがいて、その子が…なんていうか、“癒す力”を持ってたの。私、それが何なのか、ずっと考えてたの。きっとアーユルヴェーダの何かだって、そう思って…」
「えっ……?」
アミラは思わずエドウィンの方を振り返る。彼もまた表情を曇らせた。
「またその話か」
エドウィンは苦笑しながら、しかしどこか真剣な眼差しで娘を見つめた。
「アーユルヴェーダはあなたの思うような不思議な力ではないのよ。残念だけど」
ベスはアミラの知的なその瞳を憧れるように見つめていた。
にぎやかな夕食の後、エドウィンがトーマスと話があると書斎に招き入れた。女達は夕食後のケーキと紅茶と楽しんでいた。
「..で、どうだったんだ。インドの方は」
「良いとは言いかねますね。」
「どうしてだ。年間、莫大な利益がインドからの貿易で入ってきているぞ。」
「ほんとうにそう思いますか?」
「今、大英帝国では世界に先駆けて素晴らしい勢いで技術の革新が起こっている。それについては悪いとは言いかねるな。だが...」
「はい、この経済システムには重大な欠陥があります。」
「放っておけば、革命主義が蔓延するか?」
「そればかりではありません。植民地での文化や習慣、宗教の尊重がまるで無視されています。これは一種の暴力です。私たちは本当に文明国なのでしょうか?インドで暴力を奮っているのはイギリス人です。野蛮人と蔑むインド人ではありません。だが、きれいごとは止めましょう。この経済システムには持続性はありません。一見、莫大な利益になっていますが、インドはイギリスの植民地政策で確実に衰退しています。その結果、貧困が蔓延し、購買力はここ数年で半分以下に落ち込んでいます。イギリス人をターゲットとした犯罪も増加し、治安は最悪です。いつ暴動になっても不思議ではありません。そして死人が出ればインドの国力は更に衰退し、大英帝国の軍事支出は増大します。」
「おいおい!政治家にでもなるつもりか?」
「そんなつもりはありません。ただ、私たちの豊かさは確固たる地盤の上にあるわけでなないということが言いたいわけです。イギリスは今、軍事力でこの富裕を維持しています。ですが、イギリス以上の軍事力が現れたらどうでしょう?簡単に崩れ去るそんな類のものの上に立っているということを言っているだけですよ」
「だが、今のイギリス以上の力は簡単には現れない。」
「そのとおりでです。不幸なことにイギリスは世界中に不幸を蔓延させながら数十年は生き延びるでしょうね。そして、いずれ大きな戦争になります。持てる国と持たざる国のな間でね。それはあのエリザベスが大人になった時代のことかもしれません」
「おい、頼むよ。不吉なことを言わんでくれ。だが、歪みがあるのはインドばかりではないぞ」
「どういうことです?」
「知らんのか?このロンドンでも貧民は急増している。例の囲い込みのせいで失業者で溢れかえっている。そのしわ寄せは全て貧困層にいっている。救貧院の話を知っているか?」
囲い込とは、伝統的に農民が共有していた農地や放牧地を、貴族や金持ちが所有権を主張し塀で囲って私有地することだ。中世に始まりこの時代でも盛んにこの略奪に近い行為が正当化された。そして食料生産よりも利益率の高い牧羊が優先的に行われるようになる。村で行き場を失った農民は都市部の流れ込んできた。
「救貧院ですか?あなたが強く支持していたあの貧困者の新救済法で決まったワークハウスのことでしょうか?」
「そうだ。残念だが、問題だらけだ。貧困者の救済どころではない。実はな...」
「はい?しかし、あなたは....」
ジャーナリストとしてエドウィンはこの新救貧法を強く支持していたはずだ。
実際、この法律の制定には彼の意見が大きく影響していた。トーマスは首をかしげる。
エドウィンは少し口ごもってから続ける。
「ベスのことだ。あの子は8歳までその救貧院で育った。見つけだした時には酷い栄養状態だった。実際、危ないところだったのだ。9歳から工場労働に出される。そしたら彼女の命はそこで終わっていただろうな。」
「まさか!」
「信じがたいことだが、乳児が救貧院で生き延びる確率は、ほとんどゼロに等しい。それが現実なんだ。ただでさえ子供は死にやすい。救貧員は1歳に満たない赤ん坊が生き残れるようなところではないのだ。さっき、ベスの話を聞いただろ?そんななかで、まだ、生まれたばかりの赤ん坊が救貧員に置き去りにされた。すぐに死ぬだろうと思われて、ろくな食事も与えられなかったにも関わらずその子を8ヶ月も生き残ったのだと言うのだ。」
「本当の話ですか?しかし、救貧員には国庫から支援金が出ているはずです。」
「わからん!だが、その予算が正常に執行されているとは思えんことが起こっているのが現実だ。これはベスの想像の産物かもしれん。9ヶ月目に救貧院の配膳係の女が腐ったミルクをその子供に飲ませたそうだ。」
「なんですって!」
トーマスは顔を歪ませる。
「社会的な負担。生きる価値がないものと言うのが救貧院の判断だったのかもしれんな。人の命まで貨幣価値に換算する合理主義。労働を提供できない子供には生きる価値は救貧法では認められておらんのだ。」
「ですが、まさか....」
「そうだ!その子供は生き残ったのだ。一晩うなされて静かになったので、誰もが死んだのだと、そう思った。だが、その子は回復していた。衰弱したはずの体で、じっと配膳係の女を見つめ返していたという。燃えるような目で——まるで、生きたいと叫んでいるようだった、と。その事件がベスに力を与えた。」
「なにが起こったのですか?」
「わからん、だが、その子供が分院へ移動させられたあとで彼女は救貧院の脱出を敢行したのだ。そしてある日、うちの玄関先で倒れていたんだ。腕に握りしめていたのは、アリシア——彼女の母親が生前に書いた、ただひとつの手紙だった。」
「……アリシア」
その名を聞いた瞬間、トーマスはそっと目を閉じた。
胸の奥に、忘れていたはずの痛みが差し込んでくる。
暖炉の火がゆらめき、書斎の壁にほの赤い影を踊らせる。
その炎の奥に、陽気で、無邪気で、そして誰よりも美しかった少女の横顔がふと浮かんだ。
チャドウィック家のメイド、アリシア。
彼が少年だった頃、些細なことで思い悩むと、彼女は肩をすくめてこう言った——
『考えすぎると皺が増えるよ。人生は“いま”楽しむものだろ?』
その声と笑顔は、あの時の自分には眩しすぎた。
彼女がエドウィンの子を身ごもって家を出たと聞いたとき、驚きよりも胸の奥で何かが静かに崩れる音がした。
徹底した合理主義者のエドウィンの態度が彼女を傷つけたに違いない。そう思ってトーマスは激しく彼を攻めた。
だが、狂ったように彼女を捜すエドウィンの姿が、逆に痛々しかった。後にも先にもあれほど心を乱すエドウィンの姿を見たことはなかった。
——だが、どこかで信じてもいた。
あのアリシアなら、どんな苦難も笑い飛ばして、生き抜いていくだろうと。
……しかし、そうではなかった。
思春期の曖昧な感情。苦い思いが伴う憧れ。
あの真夏の太陽のような明るい笑い声を聴くことはもうない。
遠い目となったトーマスにエドウィンが言う。
「アリシアは....」
エドウィンが低く切り出した。
「アリシアは、うちの繊維工場で働いていたらしい」
「まさか!」
トーマスが顔を上げる。
「名前を変えていたようで確証はない。だが、当時の工場長が“野性的な瞳をした女工”の話をしてね……私はどうしてもアリシアを思い出した」
「彼女ならメイドの職はいくらでもあったはずだ。なぜ工場へ?」
トーマスの声は震えていた。
エドウィンは暖炉の火箸を握りしめ、灰を崩す。
「分からん。だが昔、彼女はオレに食ってかかったことがある——
『あんたの家の工場は地獄だ!』とね。当時のオレには意味が分からなかった」
「だったら、なぜ?」
彼はそれには答えずふっと息を吐き、言葉を継いだ。
「知っているか?この国の工場では四人に一人が事故や病で職を去る。多くは、栄養失調の十歳未満の子どもだ」
トーマスの背筋がこわばる。
「……チャドウィック家の工場も例外じゃない」
火の粉がぱちりと弾けた。エドウィンの影が壁に揺れる。
工場長の話ではその女はともかく果敢であったとのことだ。彼自身も彼女には何度も勇気づけられた。そんなことを話していた。
「アリシアが守りたかったのは——“あの子たち”だったのかもしれん」
書斎の外では、ベスとアミラの笑い声が遠く澄んでいた。
トーマスは拳を握り、静かに瞳を閉じた。
「先に寝るぞ!」
夜も深けていた。エドウィンは寝室へと向かった。
だが、トーマスはなかなか寝られそうな気分ではなかった。
彼は書斎のソファに身を沈めたまま、しばらく動けずにいた。
火の消えかけた暖炉の前で、静寂だけが時を刻んでいた。
「アリシア……」
彼女の名を、唇がごく自然に紡いだ。思い出すのは、チャドウィック家の庭先で陽気に笑いながら洗濯物を干す、あの姿。
だが、それはいつしか別の像へと変わっていった。
炎を背に立ち尽くす影。逆巻く黒髪。銅の肌に宿る祈りの印。
一歩、また一歩と火の海に向かって進むその姿は、もはや“あのアリシア”ではなかった。
——それはまるで、インドの戦女神ドゥルガー。
帝国の業火に、ただ一人で抗い続ける神聖な怒りの化身。
トーマスの脳裏には、工場で亡くなった数千の子供たちの声がこだまする。
その一つひとつが、アリシアの中で燃えていたのだろうか。
「……君は、なぜそんなものを……ひとりで……」
彼女はいったい何と戦っていたのだろうか?そしてなぜ死ななければならなかったのか?
頬を伝う熱い滴に、彼は初めて自分が泣いていることを知った。
なぜこれほどまで世界は過酷なのだろうか?