第59話 幸せな誕生日
大きな宿題を背負うことになった。
だが、安全装置の導入、基礎教育制度の整備、マニュアルの配布など、当面の計画については了承が得られた。
これはエリザベス率いるチームにとって大きな金星であった。
なかでも画期的だったのは、昇給制度とその評価基準の制定である。
この時代の工場には人事部のような機能などなく、公平な評価制度など存在しなかった。
そこで人事と評価はタイラーとブライアンが担い、基礎教育はエリザベスとウィリアムが担当することになった。
ところが、彼らが持ってきた寄宿舎学校時代に使っていた教科書は役に立たない代物だった。
「ウィリアムさん、これラテン語じゃないですか? マジで使えませんよ」
「そ、そうか……」
エリザベスが持ってきた教材も似たり寄ったりで、工員たちには到底不向きだった。
【イソップ物語を使うのはどうでしょう? ほとんどの子供が口伝で聞いたことがあります】
結局、オリバーの提案でイソップ物語をモチーフにしたアルファベットかるたを作ることになった。
遊んでいるうちに文字と物語が結びつき、やがてはイソップの物語を自分で読めるようになる。
だが、ここでまた一つ問題が...
メンバーの中に絵が描ける人材が一人もいなかったのだ。
オリバーが『感覚強化』を使って描くとそれなりの絵になるが、なにか温かみがないとのことで却下される。
ウイリアムやエリザベスに至っては幼稚園児並みの絶望的な絵で周囲を引き攣らせる。
そこに神の使いのごとく救世主が現れた。
ウインザー家の葬儀の時に知り合ったミリアムが突然、ウィットフィールド村にやって来たのだ。
オリバー達のやっていることの興味を示し協力をしてくれたのだ。
彼女はエリザベスやウイリアムとも歳が近いこともありすぐに打ち解けた。
それよりも彼女は絵の天才だった。
さらさらとデザインしていく様はまるで魔法を見ているようであった。
カルタは完成し、ミリアムは協力者になってくれる約束をして帰っていった。
その後、ミリアムはちょくちょくウィットフィールド村を訪れるようになる。
一度「文字」という概念が腹に落ちてしまえば、マニュアルの読解も進み、実地訓練と熟練工による評価・フィードバック・報酬の循環によって技能は飛躍的に向上する――それがオリバーの目論見であった。
この時期、オリバーは最も充実し、幸福に満たされていた。
全てが美しく見えた。
夏の終わり、イングランドの田舎は濃い緑に覆われ、刈り取られた牧草の香りが湿り気を帯びた風に運ばれてきた。
羊たちは低い石垣に囲まれた草地で群れをなし、夕暮れの光がその背を金色に染めていた。
子供たちは村外れの小道でブラックベリーを摘み、口の周りを赤紫にして笑い合っている。
村を歩くオリバーに、畑仕事の合間の若い娘たちが笑顔で手を振ってくれる。
中身がおじさんの彼にとって、それは何にも代えがたい目の保養であり、思わず頬が緩むのだった。
――この村の空気にも、ようやく自分は馴染んできたのだと、オリバーは感じていた。
やがて秋が近づくと、朝の冷気は肌を刺し、白い霧が谷間を覆った。
林のブナや楓の葉は赤や黄金に色づき、風が吹くたびに石畳の上にひらひらと舞い落ちる。
馬車の車輪はぬかるんだ道に深い轍を刻み、積み上げられた小麦の束からは穀物の匂いが漂った。村人たちはそれを秋の訪れのしるしと心得ていた。
やがて季節は移ろい、夏は過ぎ去り、秋も深まっていった。
工場での生産性は予想をはるかに超える成果を上げ、ここ数か月の事故率はゼロを記録。
仕上がった麻布や羊毛の九割が一等級品として評価された。
当時としては生産効率の限界に迫る成果だった。
エドウィン氏は理解ある経営者であり、増収分のほとんどを工員の昇給に充てた。
さらに独身寮、託児所、従業員食堂の設置も実現した。
ハムステッド村には酒場が三軒になり、雑貨屋も増えた。
村は賑わい夜遅くまで街頭に灯がともるようになった。
雪がちらほらと降り始めた頃、ナンシーのコテージでオリバーの誕生会が開かれた。
信頼できる仲間たちに囲まれ、オリバーの人生は光に満ちていた。
その日、エリザベスはエドウィン氏とメラニー夫人を伴ってやって来た。
アリシアの件もあり訪問を控えていたが、この日はもうわだかまりはなかった。
ナンシーは幼い頃に別れた孫娘を抱きしめて泣き、「神様、感謝します」と声を震わせた。
メラニー夫人とも固く抱き合い、互いの幸福を祝福する。
涙を流すエリザベスの肩に、ウィリアムがそっと手を添えた。
…あれ? ウィリアムさん?…
【どうやら、やっとなけなしの勇気をふり絞って告白したようですね】
…なんですと! 大事件じゃないか。さてさて、これはどうしてくれるかな?…
【なんでそんなに性格悪いんですかねぇ、ほどほどに】
…ほっとけ。…
気がつけば、エドウィンがすごい形相でウィリアムを睨んでいた。
オリバーは思わず首を竦める。
そこへ、ウインザー家の夫人とミリアム、そしてアシュベルン伯爵家の当主エドワードも訪れた。
「しばらくお会いできません。ビルマへ赴任することになりました」
エドワードは静かにそう告げた。紛争が絶えぬ地であり、長期にわたる任務になるという。
ナンシーは一瞬言葉を失い、やがて「どうか無事で」とだけ絞り出した。
工場の話題になると、またもや幸運が舞い降りた。
エドワードが「絹事業が本当に実現するなら、10%の出資と所有する桑林の提供を約束しよう」と言ったのだ。
ウインザー家も興味を示し、ロンドンで相談することになった。
エドウィンの50%、アシュベルン伯爵家の10%、ウインザー家の5%、ウィリアムの実家の5%――合わせて70%。あと30%をどう埋めるか……だが、名門が顔を揃えた今、雪崩のように出資者は集まるはずだ。
思いがけぬ朗報明るい未来に、皆で乾杯した。
…ああ、俺も飲みてぇ。…
こっそりエリザベスのワイングラスに手を伸ばすと、頭を軽く叩かれた。
…暴力女め!…
でも、なぜか嬉しかった。
外では樫の巨木が、まるで彼らを祝福するかのように枝を心地よく軋ませていた。
オリバーはその音を聞きながら思った――「この日を俺は一生忘れないだろう」と。
そしてオリバーは13歳となる。




