第56話 別邸にて
ウィットフィールド村のエドウィンの別邸、応接室の重厚なオークのテーブルを囲む空気は張り詰めていた。
窓の外では、風にそよぐ梢の囁きでガス灯の光がかすかに揺れていた。
エドウィンはこの少年、オリバーに初めて会った。
だが、娘のエリザベス、親しいウイリアム、そしてアミラから、この少年の活躍を何度も耳にしていた。
まだ12歳の少年の仕事ぶりは、熟練の職人に引けを取らないとさえ言えるだろう。
若いエリザベスやウイリアムが、親しい友人を過剰に評価している可能性はある。
だが、経験豊富なアミラまでもが彼を高く評価していた。
そして先日、エドウィンは信じられないものを見せられた。村の工場で妻メラニーが事故に遭い、瀕死の状態からオリバーの手術で命を救われたのだ。
「君には娘が大変お世話になっているようだね。」
エドウィンは少年の顔を観察しながら言った。
オリバーは穏やかな表情で、まっすぐにエドウィンを見つめ返した。
澄んだ瞳に、12歳とは思えない落ち着きが宿っていた。
「いえ、俺のほうこそ、お嬢様にはいつもお世話になっています。」
…おや?...
エドウィンは内心で首を傾げた。
信用できそうな雰囲気だ。
だが、この堂々とした振る舞いは何だ?
12歳の少年とは思えない。
「ねっ! お父様、こいつオッサン臭いでしょ!」
エリザベスが弾けるように笑うと、エドウィンは軽くたしなめた。
「こら! 『オッサン』はないだろう。それに『こいつ』とはなんだ。」
「へへっ!」
エリザベスは肩をすくめたが、怒られても悪びれる様子はなかった。
「あの、エドウィンさん。少しお話しさせていただけますか?」
オリバーは一瞬、緊張を隠すように手を握りしめたが、すぐに落ち着きを取り戻した。
「ほぉ!」
エドウィンは目を細め、口元にわずかな笑みを浮かべた。
聞きたいことは山ほどあったが、少年が自ら話を持ち出すとは。
先手を取られたかと内心で笑いつつ、久しぶりにワクワクする自分をおかしく思った。
オリバーは小さく息を吐き、ゆっくり吸って心を落ち着けた。
「まず、トーマスさん。例の緑のペーストについて説明させてください。」
トーマス、医師としてメラニーの手術に立ち会った男の目に力がこもった。
「そうだ! あれは何だ? なぜ傷口の化膿を防げたんだ?」
「昔、救貧院にいた頃、薬師のばあさんから聞いたんです。青カビを煮詰めて不純物を取り除くと、傷が化膿しにくくなると。」
これは嘘だ。だが、ここは方便だ。
「なんだと? そんな民間の知恵で…?」
「はい。理屈はわかりません。でも、実際に効いたんです。だからメラニーさんの手術でも試してみました。」
【より具体的に説明してください。煮詰めるだけでなく、麻布で濾して純粋なペーストにする方法を強調すると、信憑性が増します。】
…そんな細かいこと、俺は知らないぞ…
【1840年代でも、カビや薬草を用いた民間療法は存在しました。濾過の工夫を説明すれば、説得力が高まります。】
オリバーは一瞬戸惑ったが、ヨーダの助言に従った。
「ばあさんが教えてくれたのは、青カビを煮詰めた後、細かい麻布で何度も濾して不純物を取り除く方法です。そうすると、傷に塗っても安全で、化膿を防げるんです。」
トーマスは信じられないと言わんばかりに首を振った。
「その話だけで、あのペーストを自力で作ったのか? メラニーの手術で使ったあの精巧なものは?」
「単純な話です。確かに、なぜ効くのかは俺にはさっぱりですが、純粋な青カビのペーストには傷を癒す力があるんです。難しい知識がなくても作れます。」
「トーマス、彼の話に矛盾はないわ。だけど、オリバー。どうやってあれほど純度の高いペーストを作れたの?」
アミラが鋭い視線で尋ねた。
彼女の声には、好奇心と尊敬が混じっていた。
「それは、俺に他の人にはない能力があるからです。子どもの頃から備わっていた能力です。」
オリバーは一瞬、視線を落としたが、すぐに顔を上げた。
「メラニーの手術で見せた、神業のような手先の感覚のことか?」
トーマスが身を乗り出した。医師として、あの少年の技術に驚愕していた。
「はい、それだけじゃありません。微妙なずれや、極小の埃のようなものまで識別できるんです。」
「何! もしそれが本当なら、君は天才外科医になれるぞ。多くの命を救える逸材だ!」
「そうですね。俺も孤児でした。救貧院の不衛生な部屋で、飢えと病気で明日も知れない日々を送っていました。その境遇から抜け出すために、医学を独学で勉強した時期があるんです。」
「それで動脈の位置を正確に知れたのか? 」
「そうです。」
【手術の件は、なし崩しにお咎めなしになりそうですね。次の話題に移ってください。】
…良い感じだな…
「でも、危険だったわ。もし何か起こったら、どうするつもりだったの?」
アミラが静かに切り込んだ。
…やっぱり、そう来るか…
【彼女の表情からは批判的な感情は読み取れません。これは形式的な問いかけです。謙虚に答えてください。】
…謙虚ねぇ…
「その時は、俺には何もできませんでした。正直に言います。メラニーさんが助かるかどうかは、四分六の賭けでした。」
エドウィンは天を仰いだ。
「何! 私はそんな賭けに妻の命を委ねてしまったのか?」
「医者でもない君に、人の命を弄ぶ権利はない。それはわかっているのか?」
トーマスの声には、医師としての厳しさが滲んでいた。
医者にだってそんな権利はない、そう突っ込みたかったが、ここは謙虚に。
「その通りです。俺はその罰を受けるためにここに来ました。」
オリバーはしおらしくうなだれて見せた。
「待ってよ! オリバーは全力でお母様を助けてくれたのよ。どうして罰を受けなきゃいけないの?」
エリザベスが声を上げた。
「そうですよ、トーマスさん。確かにオリバーは医者じゃない。でも、人間として決断しなきゃいけない時ってあるでしょう? 彼は間違った決断をしましたか?」
ウイリアムも熱っぽく援護した。
「しかし…」
トーマスが反論しかけたが、アミラが割って入った。
「トーマス、あなたならどうした? あの場で果敢に挑んだのは誰?」
アミラの言葉に、トーマスは渋い顔をした。
医師としてのプライドを刺激されたのかもしれなかった。
【トーマス氏も納得したようです。次の話題に進んでください。】
…納得したか。よし、次だ!…
「あの、一つだけいいですか?」
「なんだね?」
エドウィンが興味深げに尋ねた。
「外科手術でどんなに神業を尽くしても、救える命は一つです。もちろん、救える命なら全力で救うべきです。でも…」
オリバーは一瞬ためらい、言葉を切った。
「ん?」
「救貧院の分院にいた頃、多くの孤児たちが5歳から工場で働きました。病気で働けなくなり、死んでいった仲間もいました。でも、この村の工場では、ベスやアミラさん、みんなが協力してくれて、肺病の原因だった粉塵の排出とマスクの使用で大きく改善されました。それも、エドウィンさんがこの計画を支持してくれたおかげです。」
【その賞賛は効果が薄いようです。】
…む、簡単には乗らないか…
エドウィンは口元に笑みを浮かべたが、すぐに真顔に戻った。
「その点は私も高く評価している。だが、他に何か?」
「こんなことを言うのは出過ぎた真似だとわかっていますが、裁断機の安全装置の件も、ぜひお願いできませんか? 試作機は壊れましたが、あれは事故でした。」
「大丈夫だ。私は決定を撤回するつもりはない。安心しなさい。」
「よかった!」
エリザベスが弾んだ声で言った。
…最低限の目標は確保だ…
「しかし、君は変わった子供だな。だが、君の外科医としての才能は大変なものだ。トーマスの下で勉強する気はないか?」
「すみません。さっきも言いましたが、俺は工場でみんなが安心して働ける環境を作りたいんです。」
「それは君にとってそれほど価値のあることなのか? 正式な医師になれば、社会的地位も確実に上がるぞ。若い君には重要なことだ。」
「はい。でも、やりたいことがあるんです。工場の生産性を上げる計画があるんですが、聞いてもらえませんか?」
エドウィンは目を細め、明らかに興味をそそられた様子だった。
「うむ…いいだろう。話してみなさい。」
オリバーは一瞬、緊張で喉が締まるのを感じたが、すぐに気を取り直した。
「俺たちはブライアンさんも含めて5人のチームを作りました。概略は俺から説明しますが、ベスとウイリアムさん、アミラさんからも補足してもらえますか?」
エドウィンが三人を見ると、それぞれが力強く頷いた。
「なるほど、ただの思いつきじゃないようだな。」
オリバーは8時間交代のシフト制、作業効率による評価制度と昇給、基礎教育制度、託児所と独身寮の設置について説明した。
続いて、ベス、ウイリアム、アミラが予測される効果と具体的な導入手順を補足した。
「なるほど! 面白いな。君らの話だと、リスクも少なく費用対効果が高いように思える。だが、託児所と独身寮は多少の出費が必要じゃないか?」
「はい。でも、独身寮は家賃と食費を徴収します。工場の購買所で買い物をするようになれば、その分の収入も見込めます。」
ここが肝だ。労働者が豊かで安定した収入を得ていると感じれば、工場だけでなくウィットフィールド村全体が繁栄する。
「だが、基礎教育制度は何のためだ? 工場の労働に関係ないだろう?」
エドウィンが眉を寄せた。
「そんなことありません!」
ウイリアムが熱く反論した。
「読み書きや計算ができれば、仕事の幅が広がり、説明を受けた時の理解度も格段に上がります。それに、工員に自信を持たせることで、効率が大きく上がるんです!」
「トーマス、君はどう思う?」
「私には判断が難しいですが、衛生管理と安全管理に加えて教育制度を設ければ、工員の能力は確実に他工場より高くなります。能力評価制度で昇給があれば、モチベーションも上がりますね。」
「アミラ、君もか?」
「私もこのチームのメンバーですよ、お忘れなく。」
アミラがにっこりと魅力的な笑顔を見せた。
「チームリーダーは私!」
エリザベスが得意げに言うと、エドウィンは相好を崩したが、すぐに咳払いで取り繕った。
「わかった。1日考えさせてくれ。」
オリバーはエドウィンの表情をじっと見つめた。
【彼の表情から、提案に乗り気であることが読み取れます。良い流れです。】
…ああ、落ちたな…
外堀は埋められていたわけだ。
エドウィンは苦笑した。
エリザベスをはじめ、周囲は皆この案に賛同し、推進者の一員となっていた。
娘のエリザベスには良い経験になるだろうし、若いウイリアムにとっても同様だ。
彼らの制度設計にそつはない。
だが、このオリバーという少年はどこまで実益を計算しているのだろう?
エドウィンは強い興味を覚えた。
「ところで、オリバー。君はこの計画が成功したら、収益率はどの程度上がると踏んでいる?」
オリバーはニヤリと笑った。
「3倍です。」
「なんだと!」
二の句が継げなかった。
はったりにしても大きく出たなと、内心で舌を巻く。
だが、この驚くべき少年とはもっとじっくり話す必要がある。
そう思いながらエドウィンは自然と頬が緩むのを止めることが出来なかった。




