第55話 前夜
昨日の夜、ブライアンがエリザベスを訪ねてきた。
「まぁ、ブライアンさん、どうしたんですか?」
思いがけない人物の来訪に、エリザベスは目を見開いた。
「お母上は元気かい?」
「ええ、順調に回復しているわ。心配しないで。それで来たの?」
「それもあるが……あんたには話しておいたほうがいいことが一つある」
「え?なにか心配事?」
「そうじゃねぇ。あんたの母親、アリシアのことだ。このことはエドウィンさんにも伝えるつもりだが、あんたには先に話しておきたいと思ったんだ」
母のこと。その言葉に、エリザベスは胸を締めつけられる。
突然、工場で命を落とした母。
なぜ自分が長い間、救貧院で暮らさなければならなかったのか、未だにわからない。
ただ、記憶に残るのは——温かく、懐かしい日々だった。
「その前に、ベス。あんた、今回よく頑張った。このことが工場のためになるかどうかは言うまでもない。ありがとう」
「なによ。私一人の力じゃないわ。それに、私よりオリバーがすごく頑張ってくれたから、私も頑張れたのよ」
「そうだな。あいつも頑張った。だが、あんたもだ。……俺は今のあんたを、アリシアに見せてやりてぇ」
ブライアンの目に涙が浮かぶのを見て、エリザベスは慌てた。
「どうしたのよ、おじさん!おじさんらしくないわよ」
「すまねぇ。だが、あんたは十五年前、アリシアがやりたかったことを見事にやってくれた。やっぱり……あいつの娘なんだなぁ」
「なに……なにを言っているの?」
ブライアンは十五年前に起こった事件を訥々と語り始めた。
そして、アリシアが作ったという計画書を差し出した。
「お母さんが……これを?」
エリザベスの声は震えていた。
そこには、彼女たちが今回実行したことと同じ理念が記されていた。
だが、その計画はアリシアの死によって途絶えたのだ。
「ああ。アリシアはこれを一人でやった。この工場が他所より少しはマシなのは、俺のせいじゃねぇ。あいつだ。アリシアがいたからなんだ」
「でも、どうして……」
なぜ母は、そんなことを?
「俺にもわからねぇ。ただ、あいつの口癖は『エドウィンの奴に一発お見舞いしてやる』だった。……あいつはエドウィンさんのために、何かをしたかったんだと思う」
「……あの……」
エリザベスはためらいを帯びた表情を見せた。
「なんだ?」
「お母さんとお父様は……愛し合っていたの?」
「ああ。心の底からな」
その答えに、堰を切ったように涙があふれ、止まらなくなった。
いつも強く、逞しく陽気な母だった。
だが、一度だけ夜更けの台所で、こっそり泣いている姿を見たことがあった。
母はどれだけの切なさを胸に秘めていたのであろうか。
ブライアンが帰った後、エリザベスは誰もいない暗い林の中で声を上げて泣いた。
翌朝——
朝食を終えると、メイドがオリバーの来訪を告げた。
「オリバー、よく来たわね」
「ベス。メラニーさんの具合はどう?」
「大丈夫よ。もうポリッジを食べられるくらいに元気になってるわ。痛みはあるけど、トーマスさんの話だと一週間もすれば治るだろうって」
「……良かった」
オリバーは胸をなで下ろした。
正直、経過は五分五分だと思っていたが、思いのほか良好な結果だった。
「さあ、来なさい。お父様が待っているわ」
いよいよ、その時が来た。
エドウィン・チャドウィック。
工場のオーナーであり、エリザベスの父。
だが、それだけではない。
——新救貧法の制定の中心人物。
応接室に入ると、意外な人物が紅茶を飲んでいた。
ウイリアムだ。
「よう!オリバー、来たか」
気心の知れたウィリアムの存在にちょっとホッとする。
「よく来たな。まずは礼を言わせてくれ。妻の命を救ってくれたこと、感謝してもしきれん。……まあ、座りなさい」
オリバーが腰を下ろすと、アミラとトーマスも入ってきた。
【さて、本番ですね。準備は万端ですか?】
……お前はいいよな。他人事だから。
だが、オリバーの心は決まっていた。




