第54話 心眼智
メラニーは二日後の朝、意識を取り戻し、経過は順調との報告が入った。
緊急事態だったとはいえ、オリバーはこれまで人に見せたことのない特別な能力を行使して彼女を救った。
感謝はされるだろう。
だが、それは同時にごまかしの効かない状況でもあった。
——なぜそんな技が使えるのか。
明確な説明ができなければ、下手をすれば敵意すら向けられる。
【一旦、この場を離れて一からやり直すのが、もっとも単純かつ効率的な方法と言えます】
ヨーダの判断は予想以上に厳しい。
繊維工場の近代化という成果を捨てるのは惜しい。
しかし、もともとサワベリーを離れた後は行商を始めて資金を稼ぐ予定だった。
スキルを使えば、各都市の物価相場を遠隔で推測できる。
ロンドンで商売を始められるだけの資金はすぐに作れるだろう。
楽なのは間違いない。
だが、今はナンシーの元を離れるつもりはなかった。
それにエリザベスのことも気にかかる。
【では、どうするのですか?】
…わからない…
【今は誰もあの日のことを口にしません。ですが、それは一時的に混乱が幸いしているだけです。事態が落ち着けば、必ず説明を求められると考えるべきです】
…トーマスさんやアミラさんは絶対聞いてくるよな…
【その通りです。医師なら、未知の技術ならなおさら——どこで学んだのか、どういう仕組みなのかを知りたがるでしょう】
恐れていた連絡が入った。
「都合がついたらでいいので、チャドウィック家別邸まで行って来てくれ」
ブライアンの声に、オリバーはため息をつくしかなかった。
エドウィンたちが聞きたがっていることはオリバーの見せた医療技術についてに違いない。
幸い監視中のイザベラには特段の動きはない。
決まった時間に出勤し、帰宅するだけの単調な生活だ。
夜。
オリバーは結跏趺坐し、静かに目を閉じた。
月光は森を銀色に染め、夜風は葉のささやきを運ぶ。
呼吸が深く、深く沈み——意識が静寂に溶けていく。
【感覚強化、レベル10到達。思考強化、レベル10到達】
ヨーダの声が、真空の中から響くように聞こえた。
次の瞬間、空間そのものが裂けるような感覚が脳を突き抜けた。
こんな感覚に襲われたのは初めての経験だった。
【『状態スキャニング』『感覚強化』『感覚速度10倍速』『思考強化』『思考速度10倍速』——統合開始】
——光。
瞼の裏に、昼間の太陽の何百倍もの白光が押し寄せた。
呼吸が一瞬止まり、体の境界が消えていく。
重力が消え、肉体が霧のようにほどけ、世界と混ざり合っていく。
【メタ認知モードが発動中】
そして——
オリバーは空にいた。
見下ろせば、森も川も村も、ひと筆の名画を見ているような美しさだった。
ナンシーのコテージの屋根、工場の煙突からたなびく蒸気、チャドウィック家の壮麗な屋敷。
それら全てが圧倒的な美しさでオリバーの心を満たしていく。
この世界は尽きることのない興味を与えてくれる宝珠だ。
全てが一瞬で視界に収まる。
「俺が飛んでいるのか……?」
まるで鳥になったように風よりも速く、意識だけが空を駆ける。
やがて理解する——ここに在るものは、すべてが変化する。
色は色にあらず、形は形にあらず。
それらはただ、自分という認識者の在り方に応じて波立ち、形作られ、崩れ、また生まれる。
美しいと思えば、世界は宝珠のように輝き、尽きることのない魅力を放ち。
醜いと思えば、同じ景色は無惨な灰色に変わり、何の価値もない塵と化す。
世界を美しいと思う自分に満足した.....
圧倒的な幸福感と尽きない興味で満たされていく。
別邸へ意識を向ける。
抵抗も障壁もなく、まるで水面を割るように屋敷の中へと入り込む。
そこでは、エリザベスがメラニーに蜂蜜を一匙ずつ飲ませていた。
笑顔、息遣い、声の震え——全てが、肉眼よりも鮮明に伝わる。
『状態スキャニング』を発動すると、以前とは比べ物にならない情報が押し寄せた。
彼女の血流、体温、回復の進行速度。——すべてが数字と映像で脳裏に浮かび上がる。
診断結果は「一週間でほぼ回復」。その確信は揺るぎない。
次にウイリアムの宿へ意識を向けると、男は机に飾られたエリザベスの写真を見つめていた。
普段は堂々とした彼が、そこではただの恋に不器用な男に見え、思わず苦笑が漏れた。
あれほどハイスペックなのに彼女の前ではただの残念な男だ。
しかし——
再び別邸へ戻ると、空気は一変していた。
エドウィンとトーマスが向かい合い、重い沈黙の中で言葉を交わしている。
「……あの時のオリバーの手術は何だったのだ?」
「私にもわかりません。少なくとも私の知る限りでは、あのような技術は存在しない」
その瞬間...
【覚醒が第一段階へ、統合スキルが『心眼智』へ進化しました。】
【心眼智修得おめでとうございます】
…ヨーダ?…
【結論が出ました。彼らが求めるのはあなたの誠意です。真実は必要ありません。あなたは特殊な能力を持っています。なんに由来するのか知っていますか?】
…いや、知るわけないだろ?これがスキルってぐらいしか知らない…
【それで良いのです。子供のころから備わった能力それを使っただけである。それが彼らの疑問に対する答えです。】
…そんなんで納得してくれるのか?…
【納得してもらう必要はありません。信じてもらえればいいのです。】
なんとなくピンとくるものが閃く。
明日の朝、別邸を訪れることが怖くなくなっていた。
イザベラの部屋へ意識を向けた瞬間、今までの幸福感は霧散する。
津波のような感情の奔流が襲いかかった。
不運の底に沈む彼女の心は、ひとつの幻影に縛られていた。
アリシア——幼い娘とナンシーに囲まれ、幸せそうに笑い合う姿。
その光景が何度も、何度も、反芻のように浮かび上がり、彼女を苛み続けている。
「アリシア……」
歯ぎしりをしながら、イザベラの濁った瞳は虚空を睨んでいた。
【『心眼智』の効果により、新アビリティ『超共感』が発現しました】
——刹那。
オリバーは彼女の絶望に飲み込まれた。
オリバーの心はイザベラと重なる。
そこは希望なき世界。愛も望みもなく、ひと時の安らぎすら許されない闇。
苦しみにオリバーの心が締め付けられる。
その中で唯一光を放つのが、笑うアリシアだった。
…ああ、アリシアだ。…
たわいもない会話に心が軽くなる。
サンドイッチを頬張り、楽しそうに私に笑ういかけるアリシアが好きだ。
それはオリバー自身の記憶ではない——イザベラが唯一救われた幻の幸福だった。
だが、その光が唐突に掻き消える。
奪われた瞬間、癒やしの分を何倍にもして請求するかのような苦痛がオリバーの胸を裂いた。
黒い泥が心を覆い尽くし、恐ろしいほどの喪失感に吐き気が込み上げる。
【アビリティを緊急解除します。一時的に封印状態となりました】
「……げぇっ」
思わず胃液をこみ上げそうになりながら、オリバーは荒い呼吸を繰り返した。
冷や汗が頬を伝い、ようやく感情の奔流が収まっていく。
イザベラ……。
一体どんな人生を歩めば、心がここまで歪み、汚染されるのか。
【ランダムアビリティの中でも最も危険な類が、最悪のタイミングで発現しましたね】
…今のは何だ?…
【他人の心と強制的に共感する能力、『超共感』です。十分な修練と覚悟がなければ、己が呑み込まれ破滅します】
…こんなの、初めてだぞ?…
【はい、『心眼智』はいくつかの派生アビリティを生みます。これもそのひとつ】
…使う必要なんてあるのか?…
【必ずあります。その時には覚悟を決めてください。】
ヨーダは静かに語り、例として釈尊——ゴータマ・シッダールタを挙げた。
「四門出遊」の伝説の裏には、この『超共感』の発現があったという。
彼はその後の人生でどれだけのものを背負ったか?歴史に刻まれている。
オリバーは震える拳を握りしめた。
イザベラを甘く見ていた。彼女の心は、もはや人を喰らう呪詛そのものだ。
だが、『心眼智』を得たいま、以前よりはるかに効率的に監視できる。
イザベラはいずれ行動を起こす——その確信だけは、強く胸に刻まれた。




