第51話 一か八かの賭け
オリバーは走り出すと同時に、『感覚速度10倍速』を起動。視界の中で飛び散る血液の一粒一粒が、ゆっくりと宙を舞う。
続けて『状態スキャニング』でメラニーの全身を透視するように走査し、最後に『感覚強化』で指先の感覚を極限まで研ぎ澄ます。
得られたデータを『思考強化』で瞬時に分析し、ヨーダへ送信する。
【外傷性鎖骨下動脈断裂です。出血の制止を最優先してください。併せて首筋の腕神経叢を強く圧迫すれば、痛覚を一時的に麻痺させ、意識も落とせます】
…それって、スタートレックでミスタースポックがやってた、あれか?…
【はい。その通りです。正確にポイントを押さえる必要があります。今、ガイド映像を重ねます。筋肉強化を発動してください。通常の人間の握力では貫通できません】
…止血はどうする?…
【動脈裂傷部を指で直接抑えてください。血流は一時的に遮断できます。輸血の必要が出るかもしれませんが、できれば輸血なしで持たせてください】
…わかった。やる…
一か八かの賭けだった。だが、やるしかない。
【ガイド映像を表示します。肉眼では見えませんので、赤いラインに沿って傷口から指を差し込み、血管壁を押さえてください。この操作で体内の約三割の血流が一時的に停止します。生存可能時間は約二十五分。その間に動脈接合手術を終わらせなければ、失血と虚血で致命的になります。……これは時間との勝負です】
『感覚強化』スキルでまるでマイクロスコープで見たように患部が拡大されて見える。
周囲から見れば、ほとんど目では追えない速さでオリバーがメラニーに飛びついた。
「きゃ──っ!」
エリザベスの悲鳴を押しのけ、痙攣するメラニーの肩を押さえ込む。
首筋と傷口に、指が深く差し込まれた。
「ごめんなさい!」
短く叫んだ瞬間、メラニーの身体から力が抜け、糸が切れた人形のようにぐったりと沈む。
【『威圧』と『精神強化』、『説得』を全方向へ放出してください。この場の主導権を奪う必要があります】
…この人たちを威圧するのか?…
【大丈夫です。対象が多いほど効果は分散します。精神的ダメージは軽微。この場を掌握しなければ次へ進めません】
「何をしている! そこをどけ!」
トーマスが鋭い声で迫る。
その瞬間、オリバーは内心で気合を叩きつけた。
…はっ!…
空気が一変した。ざわめきが切り裂かれ、工場の喧騒が嘘のように消える。
トーマスは立ち止まり、目を大きく見開いてこちらを凝視していた。
「トーマスさん、見てください」
オリバーの声は低く、しかし揺るぎなく響いた。
「今、動脈圧迫術と腕神経叢の圧迫で、一時的に出血と痛みを止めています。お願いです、よく見てください」
もし、一瞬でも手を緩めれば、メラニーの命はそこで尽きる――オリバーの全身から、その切迫感がにじみ出ていた。
「トーマスさん、見てください。ここが動脈です。俺が今、手を離したらどうなるか——医師のあなたならわかるはずです」
オリバーの声は低く、しかし刃物のように鋭く響いた。
トーマスはその手元を凝視し、額にじわりと汗を浮かべる。
指の下で脈がかすかに震えながらも確かに続いているのを感じていた。
「アランさん、俺のポーチを事務室から持ってきてください」
「ウイリアムさんはハムステッド村へ。トムに“緊急手術キット”を、と言えばすぐにわかります。二十分以内に必ず戻ってください」
「アミラさん、アルコール度数の高いウイスキーと熱湯、それと煮沸消毒した清潔な布と包帯を、できるだけ多くお願いします」
矢継ぎ早に飛ぶ指示。それぞれが即座に頷き、駆け出していく。
「トーマス! 何をしている、早くその子どもをどかせろ!」
エドウィンの声が怒気を帯びるが、トーマスは振り返らない。
「待ってください、エドウィン。今この子が手を離したら……メラニーは確実に死にます」
エドウィンは一瞬絶句し、そして息を呑んだ。場の空気が固まり、全員の視線がオリバーの手元へと集まった。
【場の掌握に成功しました】
エドウィンの顔色が見る間に蒼白になる。
「……お前に任せて……大丈夫か?」
その声には、狼狽と不安、そしてわずかな猜疑の念が入り混じっていた。
「エドウィン、他に方法はありません」
トーマスが短く言い切り、その目を真っ直ぐに見つめる。
「……わかった。頼む、妻を助けてくれ」
オリバーは一度大きく息を吐き、トーマスへ向き直る。
「この位置、脈を感じますね。今は俺が指先で圧迫して血流を止めています。ですが、このままでは手術ができません。トーマスさん、あなたと交代します。それと——誰か、俺とトーマスさんの汗を拭いてください。汗一滴が命取りになります」
「私がやるわ!」
エリザベスが我に返ったように立ち上がる。
「お願い、お母さまを助けて」
その瞳には涙が滲んでいた。
その時、アミラとアランが息を切らして戻ってきた。
「それでは、動脈裂傷部の仮縫合を行います。トーマスさん、1、2、3で俺が指を離しますので、その瞬間に交代して血流を止めてください。指先で軽くつまむように、絶対に力を緩めないで」
「分かった!」
「では、行きます……1、2、3!」
トーマスの指が差し込まれてくる。しかし——
「ダメです。わずかにずれました。もう一度。1、2、3!」
二度目、ガイドライン通りに正確に指が滑り込み、オリバーはその直前で指を離す。
『感覚速度10倍速』と『感覚強化』が、これほど頼もしいと思ったことはなかった。
「よし、上手くいきました。それを維持してください。たった一秒でも離せば、終わりです」
「わかった!」
オリバーはポーチから細い絹糸を取り出し、傷口の形と断面の色を瞬時に確認する。
【裂傷部、損傷範囲三センチ。動脈壁は部分的に残存。——接合は可能です】
ヨーダの声が耳の奥で響き、オリバーの呼吸がひとつ深くなる。
「では、仮縫合を開始します」
まず、トーマスが押さえる指の間へ針を差し込み、素早く結び合わせる。
——わずか十秒で完了。
「なんだと!」
トーマスは驚愕の声を上げた。
驚くべき外科手術技能であった。
「トーマスさん、残りを縫合します。指を動脈に沿ってゆっくり回してください」
トーマスの指に自分の指を添え、慎重に動かす。
「……これでいいか?」
「はい、大丈夫です。では残りを——」
トーマスの額を伝う汗を、エリザベスがそっと拭う。
残りの縫合も問題なく終わり、動脈の出血は一時的に止まった。
「アミラさん、煮沸した布をこのくらいの大きさに切ってください」
オリバーは片手を広げて、大きさを示す。
「傷口から再び血が噴き出さないように、それでしっかり覆ってください。縫合部に負担がかからない程度の圧で、丁寧に」
「わかったわ」
「俺がこちら側を押さえます。アミラさんは反対側から」
二人で呼吸を合わせ、熱気の残る布をそっと傷口に当てる。
じわりと布が赤く染まるが、溢れ出ることはない。
これで、少なくとも本手術までの間は出血を最小限に抑えられる——そう、オリバーは判断した。
「トーマスさん、もう指を離して大丈夫です。——ブライアンさん、タンカーをお願いします。本手術は会議室の机で行います」
「わかった!」
…ヨーダ、出血量は?…
【推定範囲内です。顔色から見ても、まだ余裕があります】
…残り時間は?…
【あと十六分です】
ヨーダの冷静な声に、オリバーは静かに深呼吸した。
あとはウイリアムが戻るまで、この状態を維持するだけ。
タンカーでメラニーを会議室へ運び込みジリジリとした気分でウイリアムの到着を待った。
工員達に乱暴に引きずられていく、鉄棒を試作機に差し込んだ男の姿が目の端に入る。
悔やんでも悔やみきれない。
あの男が阿片中毒であることは明らかであった。
もっと早くアミラに報告して手を打っておくべきだった。
自分の詰めの甘さを嘆く。
十数分——それは、果てしなく長く、同時に一瞬にも感じられる時間になるだろう。




