第50話 喝采
その日、エドウィンは妻のメラニーと、アミラの夫で医師のトーマスを伴って工場へやって来た。
馬車の扉が開くと、エリザベスが小走りに駆け寄ってくる。
「お父さま! お母さま!」
エドウィンは久しぶりに見た娘の姿に目を見張った。
それは、まるで母アリシアの生き写しだったからだ。
「ますます似てきましたね」
小声でトーマスが囁く。
「まぁ、ベス!」
メラニーが娘を抱きしめる。しっとりとした香水の香りが、エリザベスの鼻をくすぐった。
「少し見ない間に、また背が伸びたんじゃないか?」
エドウィンが目を細めると、エリザベスは笑って首を振る。
「背じゃなくて、きっと仕事で背筋が伸びたんです」
「おや、それは頼もしいことだな」
後ろから白衣姿のトーマスが歩み寄る。
「ベス、元気そうで安心したよ。前に会った時よりも顔色がいい」
すっかり日焼けしたエリザベスの健康的な姿に感心する。
「ありがとうございます、トーマス先生。おかげさまで忙しくしています」
「忙しいのはいいが、ちゃんと食べているか?」
「ええ、アミラさんが差し入れをくださるので」
「ふふ、あの人らしい」
少し離れた場所からアミラが姿を現す。
「トーマス、あなたも久しぶりね」
「まったく……美しい妻が長く家を空けるのは、夫にとって酷なことだと分かってる?」
わざとらしく肩を落とすトーマスに、アミラは苦笑を浮かべた。
「医者のくせに、そんな子どもみたいなことを言って」
「子どもみたいになるくらい、会いたかったんだよ」
「……もう。本当にあなたは」
アミラの頬がわずかに赤らむ。その様子にエリザベスがくすっと笑う。
エドウィンが軽く咳払いをする。
「さて、今日は安全装置の試作機を見せてもらう約束だったな」
「はい。準備は整っています。ぜひ見てください」
エリザベスは胸を張り、家族と友人たちは連れ立って工場へと入っていった。
「タイラーさん、案内をお願いします」
「お待ちしておりました。ではご案内します」
歩きながらアミラがマスクとダストファンの効果を説明する。
粉塵被害は激減し、患者の数も大幅に減った。
作業する工員たちの表情は明るく、以前よりも活気に満ちている。
エドウィンは「新救貧法」制定時、委員会の首席として立案に関わった経験がある。
法律は貧者救済と同時に労働モラルの向上を目的とし、功利主義の「最大多数の最大幸福」を理念に掲げていた。
労働可能な者には単なる救済ではなく、ワークハウスでの労働を条件とした。
だが現実には、衛生や安全管理の欠如という致命的な欠点があった。
今、その欠落を自分の娘が埋めようとしている――エドウィンは運命めいたものを感じずにいられなかった。
「これは驚いた。エドウィン、あなたはどう思います?」
トーマスが興奮気味に問う。
「ああ、完全に同意だ。タイラー、よくやってくれた」
「私は何もしちゃいません。頑張ったのはお嬢さんとオリバー、ウイリアムと、その友人のアランです。それにもちろんアミラさんも」
「へへ〜、すごいでしょ」
エリザベスがエドウィンの腕にすがりつき、笑顔を向ける。
ウイリアムのことはよく知っている。アランも名前だけは聞いたことがある。
だが、オリバーとは誰だ……?
エリザベスの救貧院時代の話によく出てくる赤ん坊――その名はオリバー・ツイスト。
エドウィンは救貧院委員長の立場を利用して調べさせた。
10歳まで「分院」で育ち、その後年季奉公へ出された記録が残っていた。
ふと思い出すが、今更意味のあることではない。
「実はエリザベスお嬢さんをリーダーとして、兄のブライアンも含めた6人がこの計画を立案し、実行したんですよ」
タイラーが言い添える。
「ほぉ」
エドウィンは感心して娘を見た。
10年前にも同じような計画があったが、その時は機械の故障で立案者には会えなかった。
「そのメンバー全員に会えるか?」
「もちろんです。試作機の前でお待ちしてますよ」
今、衛生管理に成功し、次は完全管理にも成功すれば、工場における「新救貧法」の欠落部分をひとつ埋めることになる。
「もうすぐエドウィンさんが着きますよ。アランさん、もうチェックは万全ですよね」
「ああ、完璧に終わった」
オリバーも『状態スキャニング』で念入りに確認した。今度こそ問題はない。
周囲に危険物もない。
やはり犯人はイザベラで、彼女は監禁されている。もう企むことは不可能だ。
オリバーは計画の成功を確信した。
この計画が成功すれば、更なる効率化を提案し、次は絹の生産だ。
8時間3交代制と独身寮、託児所、食堂を設置すれば、有能な工員が自然と集まり、生産効率は時代平均の2倍を超える――ヨーダのシミュレーションで確認済みだった。
さらに絹の上質下着や庶民向けの丈夫な服を製造し、ロンドンでファッションショーを開く計画まで立案済み。
成功すれば超巨大企業が誕生し、労働需要増大と中間層の形成につながる。
メラニーは結婚から5年後、医師から子どもを授かる望みがないと告げられた。
エドウィンは気にするなと笑ったが、ある日、天使が舞い降りる。
エリザベスが突然現れたのだ。
彼女は結婚前にエドウィンが愛した女性の子どもだった。
母の事情は複雑で、幼いエリザベスは何も理解していなかった。
わかっているのは、母がウィットフィールド村のチャドウィック家工場で働いていたことだけ。
エドウィンは真相を確かめに村へ行き、母の死を知らされて戻ってきた。
憔悴する彼を見て、メラニーはこの子の本当の母親になると決意した。
エリザベスはすくすく育ち、家に幸福をもたらしてくれた。
その娘が、冷静な夫を興奮させるほどの仕事を成し遂げたのだ。
メラニーは強い誇りを感じた。
「ベス、うまくいったらお祝いしましょうね。あなたのおばあさんにも会いに行きましょう」
エリザベスは最初きょとんとし、それから驚き、最後に喜びの笑顔を浮かべた。
「うん! 一緒に行きましょ」
「私から安全装置の仕様説明をさせてもらいますね」
アランが話し始める。
安全装置は回転歯を3本の鋼鉄ポールで覆い、作業中は手や足が入らない構造になっていた。
さらに動力の蒸気機関から完全に切り離せる仕組みを導入し、機械を止めずに安全な修理が可能になった。
コストは導入後3年で回収見込みとウイリアムが補足する。
機械は安定して動き、あとはエドウィンの返答を待つばかりだった。
一瞬の沈黙の後、エドウィンは口を開く。
「みんな、よくやってくれた。是非導入させてもらおう!」
「やった!」
エリザベスが歓声を上げ、父にキスをする。
ウイリアムとアランは抱き合い、ブライアンは感極まって誰彼かまわず握手をしていた。
…やった! 成功だ!…
オリバーはガッツポーズを取る。
【成功しましたね。おめでとうございます】
いつのまにか周囲に工員が集まってきていた。
誰かが手を叩いた。その音がぽつんと響き、すぐに二つ、三つと重なり、あっという間に波のように広がっていった。
金属を打ち合わせるような乾いた拍手の音が、壁や天井に反射して工場中を満たす。
足踏みの振動が床を震わせ、歓声が熱気となって押し寄せる。
笑顔が弾け、肩を叩き合う音、抱き合う腕の温もり、汗と油の混じった匂い。
その全てがひとつになり、工場はひとつの生き物のように脈打っていた。
誰かがエドウィンを肩車し、エリザベスはメラニーの手を取って高く掲げる。
「お嬢さん万歳!」
「チャドウィック家万歳!」
歓声の渦がさらに膨れ上がり、天井が落ちてくるかと思うほどの熱狂が渦巻く。
「よし、今日は終業後、一杯やるぞ」
ブライアンと肩を組んだタイラーが叫ぶと喝采が一層大ききなる。
「うぉ~!」
歓声が更に大きくなる。
オリバーはその中心でガッツポーズを取る。
【やりましたね。おめでとうございます】
ヨーダの声がやけに静かに聞こえるほど、周囲は歓喜の轟きに包まれていた。
一つやり遂げた。
その充実感で胸の奥まで熱くなるのを感じていた。
それにこの大歓声。
思った以上に自分たちの計画が期待されていたことに驚きと喜びで満たされる。
これはまだ始まりに過ぎない。
だが、救貧院で毎日死にかけていたあの頃からすると何という喜びだろう。
ジョーイが生きていたらどれほど喜んでくれたことか。
オリバーを見つけたエリザベスがこちらを見て手を振る。
そして小走り向かった瞬間…
目の端に青白い顔の痩せた男がふらふらと機械へ近づくのが見えた。
それは阿片中毒を疑ったその男だった。
「ん?」
異様な違和感に突然襲われる。
男は苦し気に息を吐きながら、無造作に手に持った鉄パイプを試作機に差し込む。
「バキッ!」という音とともに男は吹き飛び、回転歯が破損。
鉄パイプは無残に引きちぎれ「カラン...」と音を立てて床に落ちた。
飛び散った破片の一つが安全棒の間をすり抜ける。
【エリザベスに当たります。致命傷の可能性大】
ヨーダの描く予測映像が破片がまっ直ぐにエリザベスを貫くことを示していた。
オリバーは跳び出すが、破片の方が速い。
「ベス!」
ゆっくりと光景が動く中、メラニーが悲鳴にも似た声を上げて娘の前に身を投げ出した。
時が止まったように見えた。
次の瞬間、メラニーの身体からパッ真っ赤な血飛沫が噴き出した。




