第5話 オリバー怒る!
オレが次に送られた救貧院の分院――通称「飼育農場」。
そこは、本院より一段階深い地獄だった。
オレと同じく、救貧法“違反者”の少年たちが、青白い顔で壁にもたれ、ぼんやりと虚空を見つめていた。
違反者?
なにか悪いことをしたわけじゃない。ただ――「生きているだけで迷惑」と、教区の役人が判断した子供たち。
つまり、この国の“信用スコアゼロ”の人間に与えられる場所が、ここだった。
そこで9歳まで生き延びたのは、今思えば奇跡に近い。
風呂など一度も入ったことがない。
冬には、凍るような水で体を叩き、不潔なタオルでぬぐうのが唯一の“清潔習慣”。
痒みと膿にまみれた肌に、衛生の概念など存在しなかった。
そして食事。
一日二回の粥――というより、水に沈んだオートミールの幻影。
玉ねぎの皮らしきものが浮いていれば“当たりの日”だった。
なぜそんな食事か?
支給される週七ペンス半のうち、四ペンスをネコババしていた女がいたからだ。
マン夫人。
教区が“子供の守り手”として雇った女は、慈悲深いふりをしたサディストだった。
育ち盛りの子どもたちには到底足りない栄養で、僕らは毎日ゆっくりと痩せていった。
でも、そこでだされるポリッジそのものは優れた食材だ。
良いものを出してくれたという意味ではない。
当時、栄えある大英帝国では、それ以上ないほど最底辺の食事がオートミールで作ったポリッジだったからだ。
だが、オートミールの栄養価自体は格段に良かったと言うに過ぎない。
それでも、腸内で再発酵させて栄養素を再生成する《再発酵スキル》がなければ、オレもとうに終わっていた。
大英帝国の誇り高き紳士たちは、こんな場所を「慈善の成果」だと言う。
「貧しい子供に施しを与えるのは道徳的義務だ」
「だが、甘やかすのは子供のためにならない」そうだな。
だから、ぼくらは“感謝しながら死ね”ってわけだ。
5歳を過ぎた頃から、地獄はさらに加速した。
法律では幼児労働は禁止されていたはず。
だが、誰かが危険な作業をやらなければならない。
それを担うのは――命の値段が最も安い、オレたちだった。
工場でオレは何度も死にかけた。
回転する歯車に巻き込まれかけ、粉塵を吸い込み、発熱し、下痢が止まらなくなった。
スキルのない子どもたちは、ただ衰弱し、順番に“処分”されていった。
静かに、でも確実に、命が減っていく。
あれは命の選別だった。強いか、スキルがあるか。
なければ、次は自分の番だった。
ジョーイは、優しい子だった。
血を吐いていたのに、それでも笑おうとしていた。
「オリバー、ぼくね……いつか大きくなったら、ちゃんとした親方のもとで腕を磨いて、立派な職人になりたいんだ。そしたらさ、ぼくたちみたいな子供たちを雇って、ちゃんとあったかいご飯と、やわらかい寝床を用意してあげたい。それを、もしみんながやれば……きっとこの国は、もっと優しくて、ちゃんとした国になると思うんだ。
……ねぇ、オリバーも、そう思わない?」
それが彼の口癖だった。
……昨日、彼は死んだ。
オレにはどうすることもできなかった。
「ブラックジャック並みの医術スキルも夢じゃない」
脳内のAIヘルパー――ヨーダがそう言っていた。
オレは謎の助言者をヨーダと呼ぶようになっていた。
時々哲学的な話をするこの謎の知性がなんとなくスターウォーズの老師に似た雰囲気を感じたからだ
この頃のオレは医術スキルも一部習得していたようだが、それが発動することはなかった。
一種のマナ不足!ゲームでよくあるMPの最大値不足でスキルの発動が出来ないのだ。この場合では、それを発動するにはカロリーがいる。
自分の命すら支えられない身体で、どうして他人を救える?
オレは決めた。チーズを盗む。
マン夫人が隠している高カロリーな貴族のつまみ――あれがあれば、ジョーイを救えるかもしれない。
夜、忍び込んだ。
完璧な計画だった。はずだった。
でも――チーズはなかった。
たまたま来ていた教区の小役人、バンブルが、ジンのつまみに食ってしまっていたのだ。
マン夫人は、あのクソジジイにだけは頭を下げる。
理由は明白。
――補助金を着服していることが、バンブルにバレたら困るからだ。
オレたちには腐ったポリッジを与えながら、バンブルにはチーズとジン。
それが、この世界の“正義”だった。
「たった、一欠片のチーズがあれば人一人救えたんだぞ!」
大声で怒鳴りたかった。
翌朝、オレはマン夫人の前に土下座した。
「……お願いです。なにか、食べさせてください。ほんの少しで……」
声が震えた。
体も震えていた。
空腹と、怒りと、悔しさと、どうしようもない悲しみで。
彼女は最初、驚いたような顔をした。
だが、その驚きは一瞬で終わり、次には深く根を張った憎悪の表情が浮かんだ。
「……なんだって?」
目が細くなり、唇が釣り上がる。
そして次の瞬間、怒声が炸裂した。
「乞食のくせに、私に“頼む”ですって!? あんた、頭がどうかしてるんじゃないのかい!?」
彼女の顔は、まるで毒蛇のように醜く歪んでいた。
「どうやら、誰の“慈悲”で生き延びてるか、まるで理解してないらしいねぇ。
感謝も知らないガキが、“食べ物をください”?――いい度胸じゃないか、クソガキが!!」
乾いた音が、部屋に鳴り響く。
彼女の手のひらが、オレの頬を真横から叩き飛ばした。
頭がブレて、視界がぶれた。
だが、それはまだ始まりにすぎなかった。
彼女は振り返り、戸棚の奥から革のムチを取り出した。
それは本来、馬や家畜を扱うためのものだったはずだ。
「いいかい、私はね――あんたたちみたいな“社会のクズ”に“人間らしさ”を教えてやってるんだよ!服を着せて、寝る場所を与えて、食べ物まで出してやってる!なのに、その恩を忘れて分不相応は施しを求めるって。どういう了簡だい!? 」
バシィッ!!
背中に、激痛が走った。
ムチがオレの肩から腰にかけて、皮膚を裂くように打ち下ろされた。
「“お願い”だって?ふざけるんじゃないよ!!」
バシィッ!!
二発目。血が滲んだ。
温かい感触が、服の下を伝って流れていく。
「立場をわきまえな!このゴミが!」
バシィッ!!!
三発目は足。
ヒザをついたまま、体が大きくぐらついた。
彼女はヒステリックに叫び続けながら、自分の“善行”を力説する。
「私はね! 誰よりもこの子たちに“愛”を与えてるんだよ!この施設は、私の“無償の奉仕”で成り立ってるの!あんたらのような穢れた小動物が“人間”になれるのは、私みたいな者のおかげなんだよ!!」
バシィッ!!
もはや身体のどこが痛いのか、分からなかった。
ただ、声だけが、記憶に焼きついて離れなかった。
“生かしてやってる”。
“感謝しろ”。
“立場をわきまえろ”。
それが――オレたちに与えられた“教育”だった。
オレは、9歳の誕生日を、唯一の仲間――ジョーイとともに石炭貯蔵庫で迎えた。
それは祝福とは程遠い“罰”だった。
凍てつく石の壁に囲まれたこの場所に、ジョーイとオレは閉じ込められていた。
ジョーイの容態は、その前日から急激に悪化していた。
すでに意識も朦朧としていて、自力で立つことさえできなかった。
だが、あのマン夫人は、そんな彼の看病を「慈善活動の実績」として記録するために、オレに名目だけの任務を与えた。
本当は、ジョーイを運ぶ手間すら惜しいだけだったのだ。
だから一緒に、冷えきったこの地下に放り込まれた。
この場合、マン夫人にとって重要なのは「慈善の記録」であってジョーイの命ではない。
…オレは笑った。
乾いた、皮肉混じりの笑いだった。
目の前で、静かに命が消えていく友を見ながら、ただ見ていることしかできない。
悔しさと無力さで、胸が押しつぶされそうだった。
「ヨーダ、頼む。なんでもいい。打開策を出してくれ」
【待機が最も適切な行動です】
「なんだと……!ジョーイの命を見捨てろって言うのか!」
【ジョーイの健康状態は、もはや臨界です。あなたの生命力を70%消費すれば一時的に延命可能ですが、あなた自身の生存確率が大きく低下します】
「ふざけるな……そんな結末、許されるわけないだろ」
怒りがこみ上げ、歯を食いしばり、駄々っ子のように喚いた。
【次善の策を提示しますか?】
「……あるなら早く言え」
オレは眦を上げる。
【ジョーイを安楽死させてください】
喉が詰まり、呼吸が止まりそうになった。
「なに……を……言ってやがる……」
【残された時間を、“幸せな夢”に変えることができます。あなたの生命力の20%とジョーイの残存生命力全てをリンクし、最期の願いを叶える空間を構築します。…彼の人生には、幸福な記憶があまりにも不足しています。あなたの過去を、分けてあげてください】
オレは震える手で、ジョーイの手を握った。
冷たく、細く、そして軽い。だが暖かかった。
スキルを発動すると世界が、光に包まれた。
「イギリスから転校してきたジョーイ君です。みなさん、仲良くしてくださいね」
…気がつけば、オレは高校時代の教室にいた。
教室の窓からは午後の光が差し込んでいた。まだ、時代は昭和で古びた木造校舎が懐かしい。
彼は制服に身を包み、緊張気味に頭を下げていた。
ジョーイとオレは直ぐに親友となった。
「ビックマック、行こうぜ!今日、半額だってさ」
「マジか!2個食ってやる!」
ただの放課後が、まるで宝石のように輝いていた。
くだらない話をして、笑って、ただ“生きてる”ことを楽しんだ。
そしてある夜、夏の花火大会。
浴衣姿のクラスメートの女子たち、はしゃぐ声、恋の予感――
星空の下、土手に並んで腰を下ろし、静かに空を見上げた。
「お前さ、薫とはどうなんだよ?」
オレがニヤつくと、ジョーイは頬を赤らめた。
「……好きだよ。優しいし」
「じゃあ行けよ!彼女にしちゃえよ。」
彼は、少し照れながらも、まっすぐ頷いた。
その顔は、人生でいちばん輝いていた。
【スキル残存時間、残り10秒】
空間がゆっくりと崩れていく。
ああ、終わりなんだな……
「オリバー、ありがとう」
ジョーイは振り返り、柔らかく笑った。
「楽しかったよ。本当に……楽しかった。
それに、誕生日、おめでとう。君はきっと……ちゃんとした親方になって,
ちゃんとした国になれば良いな....」
言葉が胸に突き刺さる。
「ジョーイ!」
オレの叫びとともに、現実が戻ってきた。
そこは冷たい石炭貯蔵庫。
ジョーイは、微笑を浮かべたまま、静かに息を引き取っていた。
…そのハシバミ色の瞳は、もう何も映していなかった。
オレは、そっと彼の目を閉じた。
そして、その場に崩れ落ち、声を殺して泣いた。
嗚咽が止まらなかった。
誕生日に贈られたのは、たったひとつの“別れ”だった。