第44話 凶行
ブライアンとナンシーは、幼い頃を同じ村で過ごした旧知の仲だった。
今ではブライアンは繊維工場の工場長、ナンシーは伯爵家の女中頭を務めている。
「お互い出世したもんだな」
顔を合わせれば、いまだにそんな言葉が交わされる。
そんなある日、ナンシーの娘・アリシアが工場を訪ねてきた。
「ここで雇ってもらえない?」
彼女は以前、チャドウィック家の屋敷でメイドとして働いていた。
聡明で闊達なアリシアは、すぐにチャドウィック家の長男・エドウィンと親しくなり、やがて恋仲になった。
その頃、エドウィンとアリシアともう一人、いつも金魚の糞のようにくっついている少年がいた。
少年の名はトーマス。この三人は毎日、何を話すことがあるのかというほど一緒にいた。
その時、アリシアはエドウィンの子を身ごもっていた。
もしエドウィンの父チャドウィック卿がそれを知れば、間違いなく「堕ろせ」と言われる。
そのことを恐れたアリシアは、屋敷を去り、この工場に身を寄せたのだという。
アリシアは、ナンシーの娘。
幼いころからブライアンもよく知っており、まるで自分の娘のような存在だった。
だからこそ、頼まれた以上は力になってやりたかった。
だが、チャドウィック家のメイドが突然辞め、その家の工場で働くというのは、あまりにも体裁が悪い。
「長くはいないよ。目的を果たしたらすぐ出ていくから」
強引に頼み込まれ、結局ブライアンは折れた。
「工場では“エミリア”って名乗るからね」
「おまえ、いったい何をやるつもりだ?」
「見てなって。エドウィンの野郎、肝を潰してやるんだから」
「おい、ほどほどにな」
昔からこの娘の向こうっ気の強さはナンシー譲りだった。
けれど、ブライアンは彼女の中に、決して間違ったことはしないという信頼感を持っていた。
「ナンシーには話したのか?」
「ああ。“好きにしな”ってさ。あの人らしいでしょ」
アリシアは楽しげに笑った。
ブライアンは不安を抱きながらも、「こいつなら大丈夫かもしれない」と思ってしまった。
だが――本当は、もっと心配すべきだったのかもしれない。
数年がたちアリシアは、工場の仕事にも馴染んできた頃、布とフィルターを使った手製のマスクを持ち込んできた。
「これを、工員の人数分作ってほしい」
「これは……なんだ?」
これを読め、と差し出されたのは数枚の取扱説明書だった。
マスクの効果、使い方、実例、実績――どれもが簡潔かつ明瞭にまとめられていた。
正直、驚くほど完成度が高かった。
マスクが防ぐとされた“肺病”は、繊維工員の職業病として知られていた。
そしてこのマスクが、それを最大70%削減する可能性を示していた。
ブライアンはすぐに、ロンドンの本宅にいるエドウィンへ予算申請と説明書を送った。
当時、工場の経営判断はエドウィンに委ねられていた。
返答は早かった。
「素晴らしい発想だ! マスクの導入は即座に進めるべきだ」
ブライアンは手紙を読みながら、ニヤリと笑った。
「これをアリシアが書いたと知ったら、坊ちゃんさぞ驚くだろうな……」
そして次にアリシアが持ち込んだのは、さらに厄介な代物だった。
なんと、工場で働く機械工ふたりを引き連れてやって来たのだ。
しかも手には、精密に描かれた改良設計図が握られていた。
「お前らが描いたのか?」
「はい。エミリアに頼まれまして……」
ふたりは顔を見合わせ、苦笑した。
「かなり大変だったろ」
「ええ、三日間、徹夜でした」
「な? すごいでしょ?」
エミリアことアリシアが胸を張る。
正直に告白すれば大したもんだと思った。
この子はただ気が強いだけの娘ではない。
「実は前から気になってたんです。機械の安全性があまりにも低くて……」
「そうだ。死んだ奴もいるし、怪我で辞めたやつは数えきれない」
設計変更案には、安全性の向上だけでなく、生産効率の改善事例も添えられていた。
しかもそれは、まるで大学教授が書いたような完成度だった。
しかし、今度の話は予算も大きく、一時的に工場を停止する必要すらあった。
ブライアンは再度、エドウィンへ申請書を送る。
返事にはこうあった。
「申請者本人と話がしたい。そのうえで決断する」
「アリシア、エドウィン坊ちゃんが来るってよ。どうするんだ?」
「あいつが来たら、私が話す。これはあいつと私の夢なんだ」
「夢、ねぇ……」
「ああ。夢なら叶うって決まってるだろ?」
「いや、それ違うだろ……」
だが、ブライアンは知っていた。
エドウィンは、アリシアをずっと探していたのだ。
それを知りながら知らせなかった自分は、責められるかもしれない。
だがそれでも――いま、二人が向き合うのが何よりも大切だと思えた。
アリシア自身が会うというならなにか心の整理が出来たに違いない。
それは恐らく歓迎すべきことであろう。
イザベラは最近、苛立ちを募らせていた。
エミリアが工場長室に入り浸っているという噂。
昼食も以前のように一緒ではなく、機械工たちと過ごすことが多くなっていた。
ある日、イザベラは、工場長室の扉がわずかに開いているのを見つけた。
周囲を確認し、そっと覗き込む。
中では、ブライアンとエミリアが紅茶を飲みながら談笑していた。
...何を話してるんだ?...
イザベラは耳をそばだてた。
「エドウィン坊ちゃんは、明後日には来るそうだ。試作機の準備は大丈夫か?」
「ああ、バッチリよ。ジムとラルフが頑張ってくれた。あとはエドウィンを説得するだけ」
...エドウィン? エドウィン・チャドウィック?...
イザベラの頭の中で、工場のオーナーの名が浮かぶ。
「なあ、アリシア。ベスはお前と坊ちゃんの子なんだろ? 一度、ちゃんと話し合ってみたらどうだ?」
...アリシア?...
エミリアのことか?
ベスが……エドウィンの子供?
衝撃が、イザベラの頭を真っ白に染めた。
...あの女の目的は、チャドウィックの御曹司だったのか。...
同情を引いて、周囲を欺いて、まんまと“狙い”を果たそうとしている。
そう考えると全てが合点がいく。
許せるはずがない。
怒りで頭が真っ赤になり、思わず部屋の前から離れた。
冷たい夜風に当たると、少しだけ冷静さが戻った。
だが、怒りの衝動は消えなかった。
...確か、ジムとラルフがいじっていたのは、3号機だったはず。...
その夜。
終業後の人気のない工場で、イザベラはそっと3号機に近づいた。
工具箱からスパナを取り出し、ボルトをいくつか外す。
...恥をかけばいい。...
エドウィンの前で狼狽する、あの女の姿を見られたら、それでいい。
イザベラは、自然と笑みがこぼれていることに気づかなかった。
その笑いは、陰鬱で、歪んで、醜悪だった。




