第43話 黒い炎
イザベラがこの工場で働き始めて、すでに十二年が過ぎていた。
以前の職場では、一度だけ同じ工員の男と結婚したことがある。
だが、長くは続かなかった。
その男はろくでなしで、しかも暴力を振るった。
自分はつくづく男運のない女だ。そう思い知らされた。
いや、正確には、人生そのものに運がなかったのかもしれない。
酒浸りの父、ヒステリックな母。二人は毎晩のように罵り合っていた。
母はイザベラが十歳のとき、別の男と駆け落ちした。
それっきり、二度と顔を見せなかった。
十六歳での結婚までは、ひたすら父の暴力に耐えるだけの毎日だった。
結婚相手は十も年上で、ひいき目に見ても魅力的とは言い難い男だったが、「真面目そう」には見えた。
だが、それも仮面だった。
大人しそうな外面とは裏腹に、彼の怒りは些細なことで爆発した。
一度スイッチが入ると、手がつけられない。
そしてその矛先は、いつもイザベラに向かってきた。
そこもまた、父と同じ地獄だった。
そして十二年前、イザベラはその男と別れてこの工場に流れ着いた。
最近、アミラというインド出身の医師が工場付属の診療所で働き始めた。
浅黒い肌の女。
...冗談じゃない。...
そんな女に治療される気はなかった。
半年ほど前から、エリザベスという若い女がアミラの助手として働いている。
どこか見覚えのある顔。
だから何だというんだ。
ざらついた気持ちを抑え、イザベラは努めて気にしないようにした。
だが、エリザベスとオリバーという少年がマスク配布を始めると、思い出したくない記憶が鮮明に蘇った。
十年以上前、この工場にエミリアという女がやってきた。
恐ろしくよく働き、明るく闊達で、すぐに人気者になった。
だが、時折、寂しげな表情を浮かべるのに、イザベラは気づいた。
「エミリア、どうしたの?なんか寂しそうだよ」
「そう見えるかな?」
「うん。私でよかったら相談に乗るよ」
意外なほど素直に話し出したエミリアには、父親のいない二歳の娘がいた。
...なんだい、幸せそうな顔は見せかけだったかい?...
イザベラは内心でにんまりと笑った。
「大変だったね。でも、良いこともあるよ。エミリア、とってもきれいだし。きっと、また素敵な人が現れるって」
「そうだな! ありがとう。今日も頑張るか!」
...ハハ、精々頑張りな。あんたが頑張れば頑張るほど、私は楽できるってもんさ。...
イザベラには分かっていた。
この工場では、どれだけ必死に働いても報われない。
働いた分だけ、お偉方の懐が潤うだけだ。
ここでは、働けば働くほど損をする。それが、この世界のルールだった。
エミリアとはよく昼食を一緒に取った。
「私ね、実は彼氏がいるの」
「やっぱり?イザベラ、あんた美人だから男が放っておくわけないと思ってたよ。で、どんな人なの?」
「海軍の中尉さん。今は上海あたりかしら。ときどき手紙をくれるの」
「そうかぁ、愛されてるんだな。結婚するのか?」
「彼はそう言ってくれてるわ。でも、どうなるかはまだ分からない」
...偽善者が。何を嬉しそうな顔してんだ。もっと悔しがって私を喜ばせてみろよ。...
エミリアの善人ぶったその態度。イライラさせられる。
「ところでエミリアは? 子供の父親って、どんな人だったの?」
「……それは、ちょっといろいろあって……」
エミリアの表情が苦悩に染まる。
そのときイザベラは、自分の心がどす黒い快感で満たされていくのを感じていた。
「そう……。でも、私、あなたのこと心配してるのよ。だって、私たち親友でしょ?」
「親友……?」
エミリアは一瞬、不思議そうにこちらを見たが、すぐに笑って答えた。
「ああ、そうだよな。親友だ。楽しくやろうぜ!」
いつものエミリアに戻る。
...何が“楽しく”だよ。このクソみたいな工場で、楽しいことなんてあるわけがないだろうが。...
やがて、エミリアは妙なことを始めた。
マスクの着用を工員に勧め始めたのだ。
工場長のブライアンから、全員に「エミリアからマスクを受け取るように」と通達があった。
そのため、マスクは一気に普及した。
工員たちの間で長く問題だった咳や肺病が減り始め、皆が喜びの声を上げるようになっていた。
...エミリアは、工場長と知り合いなのか?...
イザベラの心に、針のような疑念が刺さる。
ある日の終業後。
エミリアが、初老の女と幼い女の子と話しているのを見かけた。
「ベス、元気だった?」
エミリアは愛おしそうに女の子を抱きしめた。
「今日は何を食べるのかな〜?」
「えっとね、アップルパイ!」
「いいね〜。ママももうすぐ行くからね。楽しみだね〜」
幸福に満ちた笑い声が、イザベラの耳をざらつかせる。
「アンタ、いつまで工場で働くつもりなんだい?」
「もうすぐだよ。エドウィンの奴に一発お見舞いしたら、辞めてやるさ」
「エドウィン様のことは、もういいのかい?」
...エドウィン? 誰だ、それは?...
イザベラの中で、疑念が濁流のように広がっていく。
「忘れたよ。ところで、メイドの空きはまだあるの?」
「伯爵様も気にかけてくださってたよ。あんたが働くなら大歓迎だって」
「ありがたい。やっぱり、私には工場よりメイドのほうが向いてるからね」
「仕事、もう終わったの?」
「ううん、もうちょっと。でも、先にベスを連れて行ってて」
「今日はベスの誕生日だよ? ごちそうなんだから、早く帰っておいでよ」
「うほ〜、楽しみ!」
「たのしみ!」
幼い声が重なって、あたりが幸福の色に染まる。
...そんなはずがない。...
イザベラの心に、怒りの炎が音もなく広がっていく。
あの女が幸福であっていいはずがないのだ。
子持ちで、男に捨てられて、貧困に喘いで、孤独に泣く。
それが、あの女に与えられるべき運命でなければならない。
「クソが……」
思わず漏れた声に、近くで煙草を吸っていた工員がぎょっとしてこちらを見るが、すぐに視線を逸らして立ち去った。
どうすれば、この苛立ちを消せるのか?
イザベラは、その方法を必死に探していた。
心の奥底から湧き上がる衝動が、彼女を支配しようとしていた。




