第41話 タスクフォース
オリバーは、蚕の売り込みに先立ち、チャドウィック家の紡績工場の生産効率を最大化する方法を検討していた。
成果を出せば、自分の桑畑で生産した蚕繭を取り扱ってもらえる可能性が高まるからだ。
ブライアン、エリザベス、ウィリアムの3人は、オリバーのプランに好意的だった。
オリバーは前世の常識から、長時間労働や危険な作業、不衛生な環境、不公正な人事評価制度といった、当時の工場労働環境が生産性を著しく下げていると確信していた。
しかし、この時代ではそれが「合理的」と信じられている。
一つ一つ解決していくしかない。
中でも最も重要度が高いのは、工員の健康を損なっている工場内の衛生管理だった。
オリバーは、木綿布に麻のフィルターを挟んだ手製マスクのサンプルを手に、衛生管理を担うアミラに相談した。
チャドウィック家の繊維工場では、咳や肺病で悩む工員が後を絶たず、熟練工が辞めていくのは大きな損失だったからだ。
幸い、アミラも解決策を模索しており、オリバーが「説得力」スキルを使うまでもなく、即座に提案に乗ってくれた。
「マスクの効果は限定的です。根本的には、ダストを工場外に排出する方法が必要となります」
「そうなると経費がかかるわね。エドゥインさんに相談しないと」
チャドウィック氏の本宅はロンドン郊外にあり、ウィットフィールド村には別宅がある。
アミラの医療技術を学ぶため、エリザベスはその別宅に住んでいた。
「オリバー、私にも手伝わせてよ!」
アミラとオリバーの話を聞いていたエリザベスが、目を輝かせて申し出た。
材料はブライアンがどこからか大量の古い木綿布を調達。
ナンシーにも手伝ってもらい、3日間で予備を含めて500枚のマスクが完成した。
しかし、工員たちはマスクを面倒がり、なかなか使おうとしなかった。
...確かに、慣れないと煩わしいよな。...
マスク配布は工員の健康のためだけでなく、ヨーダが提案した「説得力」スキルのパワーレベリングも兼ねていた。
最終的には『説得力』をレベル10まで上げてごり押しするしかなかった。
工員へのマスク配布は、オリバー、エリザベス、アミラの3人で手分けして進めた。
工場の主力は、オリバーより少し年上の十代の青少年だ。
彼らは露骨に面倒くさそうな顔をする者が多く、説得は難航した。
だが、意外にも年配の工員たちは積極的にマスクを使ってくれた。
「昔、一時期マスクを使ってたことがあってな。肺病がかなり減ったんだ。」
年配の女子工員が、懐かしそうに語る。
「へえ、ほんとですか? なんでやめたんですか?」
オリバーが尋ねると、彼女は少し目を伏せた。
「マスクを作ってくれてた女子工員がいたんだが、急に辞めちまってな。」
その工員が作ったマスクは効果を上げていたが、他の工員が形だけ真似ても効果がなく、やめてしまったという。
...フィルターがなかったのが原因かな?...
オリバーは推測した。この工場以外で、そんな自助努力の形跡は聞いたことがなかった。
チャドウィック家の繊維工場は、労働環境の改善に先進的だと改めて感じた。
若い工員たちも、『説得力』がレベル6になった辺りからは、興味を持ち次第に話を聞くようになる。
毎日工員と会話するうちに、【話術レベル1】が発現し、あっという間にレベル5に到達。
『説得力』と『話術』のコンボは強力で、マスクの普及は一気に進んだ。
だが、この「話術」は曲者だった。『説得力』と『話術』のコンボを発動すると、女工員たちの間で噂が立った。
「オリバーには気をつけなよ。子供のくせに、将来ナンパ師確定よ!」
「わかる~、最低よね!」
『話術』を使うと心地よい言葉が次々と溢れ、女工員たちを喜ばせてしまう。
しかし、複数の相手に同じように振る舞うのは禁じ手だった。
オリバーは女工員たちの間で「浮気性のナンパ師」と断定され、噂は工場中に広まってしまう。
...話術って…やめた方がよくね?...
【そうですね...】
それでも、『説得力』と『話術』のコンボのおかげで、多くの工員がマスクを着用し始め、計画の第一段階は成功だと言えた。
仕事の後は、トムの小屋に寄った。
最近始めたのは青カビの増殖だ。
毎日、「情報スキャニング」の「三連コンボ」で増殖状態をチェック。
有害な黒カビを除き、青カビだけを残す作業を繰り返すと、【超器用レベル1】が発現し、レベルアップで作業効率が飛躍的に向上した。
トムに頼んで温度と湿度を一定に保ち、青カビの増殖は順調だった。
すり潰してペースト状にすれば、抗生物質として使える。
精製ペニシリンには劣るが、怪我や簡単な手術には十分だ。
また、カビを生きたまま保管し、使う時だけペースト状にした方が良い状態で使えることも分かった。
ヨーダの勧めで、裁縫道具を改造した簡易手術キットも準備済みだ。
これは将来、ブラックジャックなみの外科手術が必要になった時のための備えだ。
この時代の医師の資格は極めて曖昧で、明確な資格らしいものはなかった。
上流階級ではケンブリッジやオックスフォードの医学部卒業がそのまま資格として通用する場合すらあった。
下層階級での外科治療であれば実績さえあれば特段の資格は必要なかったのが現実だ。
つまり、ペニシリンペーストとオリバーのスキルがあれば、医師として生きていく道も開ける。
すぐには必要になるとは思えなかったが、ペニシリンペーストとこの手術道具があれば、オリバーのスキルを応用してかなり難しい手術も可能になるとヨーダは断言した。
マスク配布が一段落し、次はダストファンの設計を開始する。
「スターリングエンジン」を利用し、工場内の蒸気で温まった空気と外気の温度差で換気扇を駆動する。
窓枠に嵌め込むだけの簡単な構造で、特別な工事は不要だ。
前世では実用化されなかったスターリングエンジンだが、ヴィクトリア時代の科学者の間では、蒸気機関の代替として注目された時期があった。
そんな折、思いがけない助っ人が現れた。
工場の外で軽いストレッチをしていると、ウィットフィールド村からロンドンへ続く街道を、奇妙な木造車がカタカタと近づいてきた。
馬や牛が引いているわけではないのに、ともかく動いていた。
その速度は歩く人より遅い。
見る者は皆、怪訝な顔になる。
...おい、あれは何だ!?...
【カテゴリーで言えば、四輪自動車です。】
とても自動車と呼べる代物ではなかった。
木造車がカタカタと止まり、上部の蓋のような扉が開く。
ゴーグルを頭に被った若い男が、汗だくでゼイゼイと息を切らして飛び出してきた。
一息ついたのか、息を整えてから呆然と立っているオリバーに尋ねる。
「君、ここはチャドウィック氏の繊維工場で間違いないか?」
「はぁ、確かにここはその工場ですが...」
「ウィリアム・フォークって男がここで働いてると聞いたんだが」
「ああ、ウィリアムさんなら――」
「アラン、お前か!」
ウィリアムの声が響き、二人は懐かしそうに肩を叩き合った。
聞けば、ロンドンの寄宿学校時代の友人だという。
事務所の応接セットで話が始まり、オリバーは紅茶を淹れて出した。
「アラン、今何やってるんだ?」
「実は…失業中だ!」
アランがハハハと悪びれずに笑う。
「大丈夫なのか? おまえ、アビーと婚約してなかったか?」
「あれは親が決めた話だ。俺には結婚よりやりたいことがある」
「お前らしいが…親は?」
「大丈夫だ。すでに勘当されたからな!」
「全然大丈夫じゃないだろ!」
「で、悪いが仕事を紹介してくれ。機械の修理なら任せろ」
ウィリアムとオリバーは顔を見合わせた。
アミラがエドウィンに提出したダストファンの予算申請が承認され、機械工の人件費も含まれていた。
しかし、この時代、熟練の機械工はそう簡単に見つからない。
そこにアランが現れたのだ。
ちょっとマニアックなところはあるが、アランの技術力はウィリアムのお墨付き。
飯と宿を提供すれば何でもするという申し出に、即採用が決まった。
だが、アランには驚くべきおまけがついていた。
「アラン、まさかあの妙な木造車でロンドンから来たのか?」
「ああ、5時間かかったぞ!」
「5時間!? 歩いたほうが速くないか?」
「それを言うか!?」
アランが情けない顔で笑う。その憎めない人柄に、事務所が笑いに包まれた。
【アランの木造車の分析完了。動力はスターリングエンジンです。】
...ダストファンに使うあのスターリングエンジン!?...
【はい。簡単な改造でダストファンとして機能します。検討の価値ありですよ。】
….嘘だろ!?...
カモがネギを背負ってやってきた。
まさにその通りだった。
思いがけず技術者と機材が揃い、オリバーの強運は神がかっていた。
その夜、ウィリアムの提案で、宿屋の食堂でアランの歓迎会が開かれた。
そして、このメンバーで工場の労働環境の改善と生産性向上のためのチームを結成した。
「リーダーはベスにやってもらうってのはどうだ?」
ブライアンが提案する。
エリザベスはこの計画に最も熱心で、唯一担当業務がないフリーハンドだったので適任と思えた。全員に異議はなかった。
「かんぱーい!」
エリザベスの音頭で全員が乾杯した。
オリバーには果実水が出されたが、元40歳のオヤジ魂が「ビールくらい…」とうずいた。
来月、チャドウィック夫妻がウィットフィールド村の別宅を訪れ、工場を視察する。
それまでに成果を上げたい。
目標は工員の咳と肺病を90%削減することだ。
ダストファンを設置すれば実現可能な計画だった。
ここまでは比較的簡単に受け入れられた。
しかし、8時間労働3交代制などは生産効率に直結するため、簡単に受け入れてもらえるとは思えなかった。
また、工員の教育制度の導入はさらに難易度が高い。
そもそもこの時代では工員は機械と同じ消耗品なのだ。
育てて効率よく長期間働いてもらうという発想がなかった。
皮肉なことに、救貧院で育ったエリザベスだけがその重要性を理解していた。
エリザベスはチャドウィック氏の娘だ。
しかし、娘の話だからといって簡単に聞くような人柄ではないとウィリアムは言う。
チャドウィック氏の心を動かすには、彼が納得するだけの経営計画を策定する必要があった。
果実水を舐めながら、オリバーはほのぼのとした気持ちに浸っていた。
毎日が充実している。
こんな楽しい日々が、いつまでも続くことを、オリバーは心から願った。




